Every man is the architect of his own fortune.



 まだ照明を絞ったままの部屋の中、不意に見つけたそれに目を奪われてしまった。それを思わずじっと見つめてしまえば、その視線に気付いた迅が顔だけをこちらに向ける。
「あー……」
 迅はベッドの縁に座ったまま少しだけばつが悪そうな、しかしまあ仕方ないとでも言いたげな表情で太刀川を見る。
 太刀川の視界に入ったのは、迅の背中についた大きな傷痕だ――昨日今日のものではなく、もうすっかり塞がって痕だけが残っているから、ある程度年月が経っているものだろう。例えば何か動物に引っかかれたとかいうような可愛らしいものではなく、鋭い刃か爪のようなもので切り裂かれたような細長い痕が、迅の肩甲骨のあたりに横に二本、さらに縦にも一本走っている。
 玄界で、"普通"に生活をしていたら、なかなかつくことなんてないだろう痕だ。
「相当昔のだよ」
 普段と変わらない、何でもないような声色で言う迅に「だろうな」太刀川はと返す。
 傷痕の様子からもそうだし、これが戦闘の中でついた傷であるとしても今のボーダーの戦闘システムでは戦闘体が限界を迎えたら自動的に基地なり安全な場所に生身の身体は転送される仕組みになっている。だから前線に出たとしても緊急脱出ベイルアウトシステムのついていない黒トリガーで戦闘体が活動限界を迎えるか、少し前の進行の折の迅の後輩のように自分でトリガー解除オフでもしない限り、生身に傷がつくことはまずないと言っていい。
 今のボーダーのシステムであれば、だ。
 緊急脱出システムは今のボーダー本部ができてから――つまり太刀川が入隊したのと同時に運用が開始されたものだ。つまりそれ以前には緊急脱出システムはなかったのだと太刀川は聞いている。
 だから、かつてあった大きな戦いの時に、当時の仲間たちに大きな被害が出たのだと。
 太刀川は詳しいことまでは知らないが、忍田が以前そう零すように話していたことを覚えている。
 先程までの行為の余韻でまだ少し気怠さの残る体を起こして、ベッドの上に座る。そうして迅の背中に手を伸ばして、その傷痕に指で触れた。迅の言う通り年月が経ったその痕はただの痕でしかなく、指先が伝えてくるのは少し乾いた肌の感触だけだ。
 つ、とそれをなぞると、迅が小さくくすぐったそうに笑う。しかし太刀川の表情を見て、その表情がふっと真面目なものに変わった。迅の表情が変わったのを見て初めて、自分がわずかに眉根を寄せていたことに気が付いた。
 自分の内側に生まれた感情を自覚して、しかしそれがうまく言葉にまとまらなくて困った。
 言葉になりきらない感情が、身体の中をただじっと巡っていく。太刀川が何かを言うよりも先に、迅が静かに口を開いた。
「もう、痛くないよ」
 そう言った迅の青い目が太刀川をまっすぐに見つめる。その目が薄明かりに照らされて淡く光っていて、その唇がやわらかく弧を描いたのが太刀川には不思議に思えて、しかしその表情がいやに綺麗なように見えたのだ。
 迅が体ごとこちらに向き直って、伸ばした両手で太刀川の頬から耳の後ろのあたりに触れる。背中が見えなくなったな、なんて思っているうちにその手で頭を固定するように包まれてから、迅がキスをしてきた。触れた唇は普段の飄々とした迅の姿からはちょっと想像がつかないんじゃないかってくらいに熱くて、その温度に生身のこの男の生を知る。
 強く押しつけられた割には深く探られることはなくて、どこか恭しさすら感じるような唇がゆっくりとした仕草で離れていく。まだ近い距離のまま、迅の手が太刀川の頬に触れたまま、正面で視線が絡む。迅の瞳の中に太刀川が映っている。
「前にも言ったかもしんないけどさ」
 迅がそう前置きをする。その表情には、痛みとか、後悔とか、そういう色は感じられなかった。
 ただ透明な青が、目の前の太刀川をじっと見つめている。
「おれ、太刀川さん以外に殺されるつもりないからね。もう」
 迅の言葉に、ふとかつての日のことを思い出す。
 ――高校の卒業式の日。おまえが一番うまく俺を殺すだろ、と言って第二ボタンを渡したら、迅に「ならこれから先おれ以外に負けないで」という言葉と共に受け取られたこと。その一年後に、迅がわざわざ本部に来て太刀川に第二ボタンを渡していったこと。
 迅の手が触れた場所から、互いの熱がじわりと混ざっていく。迅の温度を感じたまま「そうか」と太刀川が言うと、「うん」と迅が小さく頷いた。
 そうした後、ぱっと調子を変えて迅が言葉を続ける。
「ま、太刀川さんにも殺されるつもりないけど」
 煽るみたいにして目を細めた迅に、太刀川も思わず口の端を上げてしまった。この男に挑まれれば、どうしたってスイッチが入ってしまうのが自分なのだ。
「言ったな? じゃあ明日はランク戦な」
 太刀川が言うと、迅がうわあとわざとらしく眉を顰めた。
「そういう顔してるときの太刀川さん、マジで何十本でもろうとするからな……」
 迅がそんなことを言ってくるので、太刀川はわざとらしく「怖じ気づいたか?」なんて言ってその目の奥を覗き込んでやる。
 俺が分からないはずがないのだ。この男の目の奥に、同じ色の炎が灯っていることを。
「太刀川さんってほんとおれを煽るの上手いよね。――昼過ぎから防衛任務だから、午前中ならお好きなだけ」
 そう言って迅がにっと口角を上げる。
 もうひとつ思い出したこと。出会ったばかりの頃のこいつはこんなふうに笑うのって見なかったな、なんて思って――いつからだろうか、こいつがこんなふうに笑うようになったのは。そんなことを頭の隅で思った。
(好きなんだよな、この顔)
 そう思った気持ちのまま、まだすぐそばにあった迅の顔に唇を寄せる。触れる直前迅がひとつ瞬きをしたけれど、迅は動くこともなく、そのままそれは迅の唇に重なった。
 触れたまま舌先でつついてやると迅の唇の隙間が小さく開かれたので、そこから舌を滑り込ませれば、負けず嫌いの迅の舌が応戦してきてすぐにキスは深いものになった。
 唇を離すと、は、と息を吐いた迅が、わずかに目を細めた。何かを視たのか、少しだけ困ったような表情で視線を揺らす。
「……明日、起きられるかなあ」
「俺が無理やり起こして本部連れてくから安心しろ」
 苦笑しながら言う迅に対してそう言い切れば、迅は「わー、太刀川さんおっとこまえ……」なんて言ってわざとらしく肩をすくめてみせる。しかし太刀川が手を伸ばしてみせれば迅は避けようとする素振りもみせず、太刀川の手が頬に触れるのを素直に受け止めたのだった。




(2022年6月23日初出)

すじおさんが描かれた背中に傷のある迅さんのイラストから妄想が膨らんで書かせて頂きました。
すじおさん、快く受け止めてくださって本当にありがとうございました!




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