つめきり
あ、と不意に迅が声を上げたので、風呂に行きかけた足を止めて振り返る。ほとんど同時に迅もこちらに視線を向けたから、ぱちりと目が合った。
「あー……太刀川さん、爪切りある?」
「爪切り? あるぞ。多分この辺に」
急に言い出す迅に何か未来でも視えたのかと思ったから、なんだそんなことかと少し拍子抜けするような気持ちだった。確かこの辺に置いたはず、と思って棚を探す。部屋の中の物の置き場所はなんとなくは決まってはいるが、使ったまま適当に放っておいていざ使おうとした時に大捜索になるというのもよくあることなのだ。
多分ここだろう、と思った引き出しを開けるとラッキーなことに予想通りの場所にあったので、ちゃんと戻していた過去の自分に内心で軽く感謝しながらそれを手に取って迅に渡す。
「ほら」
「ん。ありがと」
そう言って受け取る為に手を差し出してきた迅の、その指先がふと目に入った。そしてそれに、あれ、と思う。わざわざ人の家で爪切りを借りたがるということはよっぽど爪が伸びているのが気になったのだろうと思ったのだが、迅の爪はたいして伸びてもいない。確かに白い部分は多少見えてきてはいるが、大抵の人にとっては許容範囲だろう。
「別にそんな爪伸びてなくないか?」
爪切りを迅に手渡しながらつい素直な感想を言ってしまうと、迅がひとつ目を瞬かせた後に、なんとも微妙な表情をした。眉根を軽く寄せて唇をきゅっと引き結んで、まるで困っているような、あるいは呆れているのか、照れてでもいるのか――
(……あ、そうか)
そこまで思ったところで気が付いて、一気に腑に落ちる。夜も深くなってきたこのタイミングでわざわざそこまで伸びてもいないように思う爪を気にしだしたのも、迅の表情も全部含めて。そう思えばつい口角が緩んでしまって、そんな太刀川の表情を見た迅が眉間の皺を深くした。拗ねたときの迅の表情だ。
「……なに」
「いや? ヤボなこと聞いちまって悪いっつーか……なんだ、ありがとな?」
咄嗟に察して黙っていられなかったことに悪いという気持ちや、もうそういう歳の男としてそこは気付くべきだったなとは思うが、そこは勘弁してほしい。だって俺だってそういうことをするのはおまえとが初めてだったから、そっち側の経験が無いのだ。
いやあ、それにしても。確かに考えてみればそういう行為の時、迅に触られて圧迫感とかできついとかはあっても痛いということはなかったなと思い出す。こいつなりに色々気を遣ってくれていたんだなと思って、そう思えばこの男のいじらしさにうっかり表情を緩ませてしまうのも仕方がないと思う。
だってあの迅が。
なんでもそつなくこなしている風に見せたがって、そのくせ私生活ではやたら雑なところもある迅が、裏でそうやって太刀川を傷つけないように気を配っていたのだと気付かされれば、目の前の恋人を可愛く思わずになんていられないだろう。
「そうやってお礼言われると余計居たたまれないんだけど!」
ほんのりと耳を赤くして言う迅の、その唇を触れるだけのキスで塞いでやる。愛しさみたいなものが自分の中にじわりとわき上がって、触れたくなったから触れた。唇を離して、手で迅の後頭部の髪を軽くわしゃりとひと撫でしてやる。
「からかってるわけじゃねーって」
そう言ってからくっと笑うと、「……そんな顔で言われても説得力ない」なんて返されてしまった。しかし笑ってしまうのは仕方ないだろう。楽しいときとか、嬉しいときとかに笑ってしまうのは人間の摂理だ。
「じゃー迅、また後で、な」
するりと手と体を離して、先程まで向かいかけていた風呂場に再び足を向ける。と、後ろから迅の返事が聞こえた。
「……、うん」
そう言う声がやたら甘くってかわいらしかったので、少し先の未来がこっちだって待ちきれなくなりそうな心地になった。別にこのまましたって俺は構わないのだけれど――まあ、迅の『準備』の時間も必要だろうと思うので。
迅がそうやって準備してくれてるなら、俺も『準備』しておくかな、いやそれはそれでこいつちょっと拗ねるかなんて想像をしてしまえば、太刀川はまた少し口角が緩みそうになったのだった。