眩しい朝はきみのせい
目が覚めてまず最初に気付いたのは、目の前の人ひとりぶんのスペースがぽっかり空いていたことだった。迅が眠るときにはここにはもう一人――太刀川も一緒に眠っていたはずだったのに。考えるよりも早く、そこにいないということに胸がわずかにきゅっと音を立てた。
頭が段々と覚醒してきて迅はぱちぱちと目を瞬かせる。しかし何度瞬きしても太刀川はいなくて、先に起きたのだろうかと思ったけれど家の中は物音ひとつしない。夏の盛りの部屋の中は朝だろうがもううっすらと汗をかいてしまうほど蒸し暑かった。この気温でシングルベッドの隣にガタイの大して変わらない男がいれば暑くて仕方ないはずなのに、その温度がないことがどうにも物足りなさを感じさせた。
確か昨夜の彼は、午前中は予定は無いと言っていたはずだが――。
そう考えたところに、ガチャリと玄関から鍵が開く音が耳に届く。あ、と思って迅が体を起こすのとほとんど同時にドアが開く音がして、ごく一般的な一人暮らしの1Kのアパートだ、すぐに居室のドアが開かれて太刀川が顔を出した。
「おー迅起きたか。おはよう」
「……お、はよう。おかえり?」
「ん、ただいま」
言いながら太刀川が部屋の中に入ってきて、手に持っていたビニール袋をがさりと音を立てながらローテーブルの上に置く。ビニール袋には近所のコンビニのロゴが印字されていて、中にはパンやおにぎりがいくつか入っているのが見えた。朝食を買ってきてくれていたのだろうか。そう思って、どこかほっとした心地になる自分がいた。
「つーか部屋の中もう暑いな、俺が起きたときそうでもなかったのに。エアコン入れるか」
太刀川がベッドに手をついて、ヘッドボードに置いてあったエアコンのリモコンを手に取る。まだベッドの上に座ったままだった迅との距離は急に詰まって、思わずドキリとしてしまった。ラフなTシャツを着た太刀川の首元にうっすらと汗が滲んでいるのを見て取ってしまう。外を歩いてきたからだろうが、それに一瞬目を奪われた自分に朝からどうなんだと呆れた。そんな迅のわずかな動揺に構わず太刀川が冷房のボタンを押す。信号を受け取った備え付けの古そうなエアコンは、最新型のそれよりも大仰な音をたててゆっくりと稼働し始めた。
リモコンを元の場所に置いた太刀川がこちらに視線を向けて、そしてなにやら訳知り顔になったかと思えば迅の隣にすとんと腰を下ろした。距離が近い。手と手がすぐに触れそうな距離だ。
「おまえさー」
「……なに?」
「起きたとき、俺いなくて寂しかった?」
言葉に詰まった。そんな迅を見て太刀川はにやにやとした笑みを深くする。
寂しかったか、と聞かれればそうだとしか言えない。
目が覚めて太刀川がいなくて、まず少しだけ動揺したのと同時に感じたものは誤魔化しようもなく寂しいという感情だった。太刀川が部屋に帰ってきたときわずかに揺れてしまった返事の声を、すぐにからかいはしなかったくせにちゃんと気付いていたのだろう。この人のこういうところが本当に油断ならないと思う。ライバルとしてトリガーを持って対峙するときには、それすらこの人との駆け引きの楽しさでもあるのだけれど。
何も言わない迅を見て、太刀川は迅の頭をぽんと撫でる。まるで小さい子どもや、あるいは飼い犬にでもするかのような甘やかしの仕草だ。それに恥ずかしさもあるくせに、触れる大きな手のあたたかさをうっかり愛しくなんて感じてしまうからいけない。
迅が黙ったままでいると、太刀川が迅の顔を覗き込んできた。この至近距離で逃げようもなく、繕いきれない表情を見られてしまう。太刀川は機嫌良さそうな表情のまま、ふっとわずかに目を細めて言葉を続ける。
「おまえも俺の気持ち分かったか?」
言われて、迅は思わず目を瞬かせてしまった。
「俺の気持ち、って……」
なんのことだろうと一瞬考えた後に、そういえばと思い至る。
たまにではあるのだが、朝には玉狛に帰らなければいけない時とかあまり朝帰りを悟られたくない時なんかに、太刀川が起きるより早い時間に迅がこの部屋から一人黙って帰ることはあった。
つまり太刀川が起きたときにはもう迅がいないという状態になるわけだが、特に太刀川はそういうことを気にする性質でもないと思っていたし、事実その後会っても何も咎められたりなんてすることはなかったから、やっぱり気にしていないのだと思っていたが。
(……いや、それって)
つまりそういう朝、太刀川さんも起きた時に、さっきのおれみたいに――。
かっと耳が熱くなる。太刀川さんが、そんなふうに? いや、彼から向けられている好意を疑っているわけでは決してないのだが、しかしそういう繊細だったり感傷的だったりする感情の機微に対しては、つい無縁な人のように思ってしまうのだ。
「……、ごめん」
「まー別に正直、そこまで気にはしてないけどな。でも俺だって起きたときそこにいたやつ……好きなやつがいなくなってたら、多少は寂しいとか思ったりするぞ」
耳の熱さが、頬にまで浸食してくる。申し訳なさと、恥ずかしさと、嬉しさで朝っぱらから感情がぐちゃぐちゃだ。
迅をじっと見ていた太刀川が、両手を伸ばして頬を挟むように触れる。キスをされるのかと一瞬身構えたけれど、その手は柔く迅の頬の肉をつまんで引っ張ってきたから不意打ちで驚いてしまった。
「たちかわさん?!」
軽くつままれる程度だったので、痛いというほどではない。が、脈絡のないそれになんなんだという抗議の目を向けると、そんな迅を見て太刀川は肩を揺らして笑っていた。
「悪い悪い、つい。おもしれー顔してたから」
ぱっと手が離されたので、「おもしれー顔って何……」とまともに喋れるようになった口で反論する。しかし太刀川には「おもしれー顔はおもしれー顔だよ」なんてあっさりと返事になっていない返事をされてしまった。
「とりあえず朝メシ食おうぜ。コンビニ行きがてら散歩してきたら腹減った」
そう言ってぱっと気持ちを朝食に切り替えたらしい太刀川がテーブルに置いたコンビニの袋に手を伸ばしかけるので、「太刀川さん」と名前を呼ぶ。素直にこちらを向いた太刀川の頬を挟むように手を添えて、先程されそびれたキスを奪ってやった。
触れた頬や、唇から伝わる温度に彼が今目の前にいるという実感を連れてきて、起きた瞬間に感じた寂しさがあっさりと埋まる感覚がして自分がとかく単純にできていることを知る。
触れただけで離れると、太刀川も満足げな表情をしていて、それをかわいいと思ってしまった。髭を生やした二十歳の男なのに、この人のことが自分でもびっくりするくらいかわいく思える瞬間がある。
「……朝メシの前に俺、ってか?」
なんてにやにやと笑って迅に言ってくる恋人に、「……もー、朝ごはんにするよ! お腹空いたし!」と迅はわざとらしくがさがさと音を立てて太刀川が買ってきてくれたコンビニの袋からパンを取り出すのだった。