うつくしきもの
はー、と息を吐きながら自室のベッドに沈むと、ぱりっとしたシーツがそれを受け止めてくれた。今日は天気が良かったからシーツも洗濯してくれたらしい。ありがとーレイジさん、と今日の洗濯当番だった木崎に迅は心の中でお礼を言う。
風呂から上がったばかりのぽかぽかとした体を大の字にしたまま、しばらくそのままぼんやりと天井を見つめた。
疲れたわけじゃない。何か心配な未来視があるわけでもない。今日も暗躍と称して三門市内をぶらぶらと散歩していたが、現在も直近の未来視の景色も至って普段通りの平和なものだった。
何か、心に燻るものがあるとするならば。
カーテンを開けたままの窓の外は月の明かりで淡く光っている。その回りでちらちらと瞬く星を少しの間眺めた後、迅はゆっくりと目を閉じた。今頃だろうか。そう思いを馳せるのは、この空の下で繋がってすらいない異世界に旅立った
現ボーダー本部としては二回目の
今回の遠征で、ボーダー側に何か被害が出るわけでもない。近界に行く以上一定程度のリスクは避けられないがボーダーとしては可能な限り慎重に議論と調整がなされてきたし、迅の未来視でも今回の遠征において危険な未来は視えなかった。今回も全員無事に帰還できるだろう。
あくまでボーダー側は、だ。
前回の遠征では最初から最後まで戦闘になることもなく終わったが、今回向かった先は紛争中の国である。独自のトリガー技術が発達している国と名高いためここで得られる情報の意義は大きいが、行く以上紛争にある程度巻き込まれることは避けられない。とはいっても彼らの強さを持ってすれば自分の身を守ることくらい何の問題もないだろう。
だが、人死には出る。
その国の民たちが戦乱に巻き込まれ、命を落としていく様を。場合によってはひどく無残な光景も目にすることになるかもしれない。この三門で起きたいわゆる第一次近界民侵攻の時に似たような光景を見た奴もこの街には、そしてボーダーには沢山いるだろうが、それでも。
次に迅の脳裏に浮かんだのはまた別の景色だ。あの日よりもっと前、崩壊寸前のアリステラの――。
迅はゆっくりと目を開ける。そこにあるのは、電気を消した見慣れた自室の暗い天井だけだ。一人の部屋はいつもと何も変わらないしんとした静けさに包まれている。
何度か瞬きをした後にもう一度目を閉じて、思い浮かべたのはあの人の姿だ。
心配を、してるわけじゃない。これはただの自分のエゴだ。
遠征艇が出発する前にふらりとたまたま来たという体で見送りに顔を出したのも、旅立った後こうして勝手に思いを馳せるのも。全部おれの勝手である。
現に彼は紛争中の国だと聞いていても出発の際何も気負うような様子はなかったし、帰ってきてからも今まで通り剣を握る表情に陰りなど欠片も見当たらない。今までの彼と同じ、黒のロングコートの隊服を翻し、ただ純粋に戦うことを楽しんでいる顔。
だいたい遠征に行くと決めた人間はそういう光景に飛び込む覚悟を持っている人間だ。あらゆる研修もしっかり受けている。それでも行くと決めたやつらだけが行くことを命じられる。それにあの人の心がそれで折れるだなんて思ってるわけじゃない。過保護になんて考えるだけでも笑えてしまう。だけど。
(ほんとに、ただのおれのエゴ)
迅はそう、心の中で小さく呟く。
できるだけああいう景色を見てほしくなかったなんて、他でもないボーダーに身を置いておいて言えるだろうか。おれが。あの人に。
ここはそういう場所で、これからもそういう覚悟を決めなきゃいけない場所なんだって何よりおれが一番よく知っているつもりだ。
だけど。
戦っているときにあんなにただ純粋に楽しいと輝く瞳を、戦場であんなにもうつくしく伸びやかに駆ける姿を、おれはあの人に出会うまで見たことがなかった。戦うことを、あのひりつく刹那の瞬間を楽しんでいいんだって、心から楽しいって言っていいことなんだっておれはあの人に出会うまで知らなかったから。
(だから戦いが苦しいことだなんて、知らないままでいてほしかった――なんて)
「あーあ、勝手だなあ、おれ」
自分だけに聞こえる小さな声でそう呟いて、小さく苦笑する。
彼の人生は彼の人生だ。そんなこと重々分かっているし、S級になった自分はもうとんと彼と刃を交えてすらいない。あの顔を、瞳をいちばん近くで見る権利さえ手放したっていうのに願ってしまう。
憧れた。
おれがあの日焦がれた姿が、これからもずっとうつくしいままでいてほしいだなんてこと。