雨宿りふたり
ぽつ、と最初の一滴が落ちてきて、ああ今日雨降るんだったっけとそこでようやく思い出したのがほんの少し前のこと。雨はあっという間にどしゃ降りになって、ざあざあとひっきりなしの雨音と自分が水たまりを踏みつけるばしゃりという音が太刀川の耳に大きく響いた。
(どっか、雨宿りできそうなとこか傘買えるとこ……)
雨に濡れること自体は正直そこまで嫌いではないから多少の雨であれば構わず走って帰るところだが、流石にこの大雨ではなかなかだ。その上自宅まではまだ結構距離があるので、この雨の中傘もなしに自宅まで歩いて帰るというのは厳しいものがあるだろう。
雨の中で滲む街灯に沿って歩きながらきょろきょろと辺りを見回してみるものの、タイミングの悪いことになかなかコンビニにも行き当たらない。夜なので歩いている人も少なく、時折通る車が大きく水たまりの水を跳ね上げるくらいだ。日頃後悔という感情とは縁遠いと思う自分でも、流石に今日ばかりはちゃんと天気予報を見てから家を出れば良かった、という後悔めいた感情がじわりと浮かんでくる。
雨に濡れた服が重い。前髪がぺったりと変な形で額に張り付いてしまって邪魔に思って、雑に手でかき分ける。と、雨で烟りがちの視界の端に見覚えのある建物が見えた気がして、太刀川は目を瞬かせた。
(あ)
川の真ん中に浮かぶ特徴的な造形をしたその建物は、窓からちらほらと明かりが漏れている。きっと今も誰かしら起きているのだろう。――そう思えば、考えるより早く太刀川の歩調は早くなった。
太刀川の所属は本部だから支部として直接的な深い関わり合いがあるわけではないが、古株のメンバーも多いため太刀川とも顔馴染みの面々が多い。まだ現本部が発足して間もない頃なんかはちょくちょく遊びにも行っていた場所だ。とりあえず雨宿りか、せめて傘だけでも貸してもらえれば。そう思いながら、脳裏にちらりとだけ一人の男の姿も過ぎる。
行き先が見つかれば、雨で重い服も張り付く前髪もすぐに気にならなくなった。まっすぐその建物へと向かう足取りは早歩きから、次第に駆け足に変わっていく。ばしゃりとまた足音で大きく水が跳ねる音がしたが、それを今度は不快には思わなかった。
軒下に辿り着くとそこだけ雨が止んだように思えて、ようやくどこかほっとしたような気持ちになる。チャイムを鳴らしてみるとさほどの間を置かず扉が開かれて、顔を覗かせたのは先ほど太刀川の脳裏に浮かんだまさにその人物だった。
「うわあ、びしょ濡れ」
室内の照明の柔らかい明かりに後ろから照らされて、逆光になった迅がぱちくりと目を瞬かせる。迅はいつもの青い隊服姿ではなく、長袖のTシャツに柔らかそうな地のズボンというラフな格好だった。もう部屋着に着替えていたのだろう。
「おー、迅」
「おー、迅、じゃないよ。そんな格好で」
とりあえずいつもの調子で声をかけると、迅がおかしいのと呆れたのが混ざったような声色で返す。その後すぐに続いた「とりあえず入りなよ」という言葉に従って室内に入ってみれば、自分の髪やら服やらからぼとぼとと大きな水滴が落ちてあっという間に玄関に水たまりを作ってしまった。
「タオル持ってくるからちょっと待ってて」
そう言った迅がくるりとこちらに背を向けかけたところで、廊下の奥からひょこりと細長い人影が出てくる。林藤支部長だ。誰だか気付くのが一瞬遅れたのは、こちらもいつも見ているスーツ姿ではなく、迅と同じようなラフな部屋着姿だったからだった。
「ああ、支部長。太刀川さんがこの通りだからさ」
支部長の姿に気付いた迅がそちらに向かって大股で歩きながら言う。その途中でふと迅が振り返って太刀川を見た。涼やかな色をした青い目がぱちりと瞬いて、その中に太刀川を映す。
「もう遅いし、この雨だし、泊まってく?」
「ああ、うん」
確かにもうこの時間からこのどしゃ降りの雨の中、玉狛から近くはない自宅に帰るのは正直億劫だ。泊まらせて貰えるならば願ったり叶ったりだが、と思いながら太刀川はそう返事をする。
「りょーかい」
そう言った迅の目がほんのわずか、柔らかく細められたように見えた気がした。けれど迅はすぐに支部長の方に向き直って空き部屋を使って良いかの確認を取り始めたので、それをちゃんと確かめることは出来ずじまいになってしまったのだった。
窓の外ではまだ大粒の雨の音が鳴り響いている。風呂上がりで体がすっかり温まったのを感じながら、ぺたぺたとスリッパを鳴らして太刀川は階段を上がった。ここ使っていいって、と宛がわれた部屋は手前から三番目右手の部屋だったが、その前にと思ってさらにひとつ奥の部屋をノックする。するとすぐに「はーい」といつもの軽やかな調子で返事があったので、それを聞いてからドアを開ける。
殺風景と言えるほど必要最低限の家具しかない部屋の中、迅がベッドの上にリラックスした様子で座って太刀川を見ていた。ドアを閉めて、迅の方に近付きながら太刀川は口を開く。
「風呂、と部屋着。さんきゅーな」
とりあえずずぶ濡れだからまずお風呂入りなよ、と勧められ玉狛の風呂を借りたのだ。その時に、体格がほとんど同じだからと迅の部屋着を借りることになった――ついでに下着までずぶ濡れだと漏らせば、「これ新品だから」と迅の早口の注釈付きで押しつけるように下着を渡されたのがなんだかおかしかった。
太刀川の言葉に、迅は「どういたしまして」と口元に微笑みを浮かべる。太刀川がベッドの側までくると、自然な動きで迅が少し奥に詰めたのでありがたく空いたスペースに座らせてもらうことにする。太刀川が座ると、小さくベッドのスプリングが沈むのが分かった。太刀川の家のベッドよりも少しだけ固い印象だ。
「服、てきとーに洗濯機に放り込んじゃったけどいいんだよな?」
一応それも確認しておこうと聞けば、迅はなんてことない様子で頷く。
「うん、いーよ。明日の朝まとめて洗濯するから。どーせ明日の洗濯当番おれだし」
「洗濯当番もあるのか。ってか、まあそりゃそうか」
ここで生活してるんだもんな、と思う。そりゃ誰かがやらないと料理も洗濯も掃除も回らないものだし、当然当番制になっているのだろう。
「久々に来たけど、相変わらずぼんちの箱以外なんもないな」
そう言って太刀川は部屋の中を見回す。部屋の中にあるのはこのベッドと机、あとは壁際に異様に積み上げられたぼんち揚の段ボール、それだけだ。まだボーダーができたばかりの頃――迅とランク戦で戦り合っていた頃にこの部屋には何度か訪れたことがあって、迅の部屋に入るのはそれ以来である。しかしその時の記憶と今の部屋の様子はほとんど何も変わりないように見えた。机の上に高校の教科書が置いてあるかどうかくらいか。そんな太刀川の言葉に、迅は気にする風もなく「別にいいでしょ。特に物増やそうとも思えないしな~」と返す。
ふ、と会話が途切れて、部屋の中に雨の音が落ちる。迅の部屋の窓を叩く雨の勢いはまだおさまりそうにない。その雨の音を聞きながら、太刀川は少し前から思っていたことを迅に聞くべく口を開いた。
「おまえさ、視えてただろ」
迅が顔をわずかに傾けて太刀川を見る。迅の柔らかい茶色をした髪が静かに揺れた。
「なんで?」
「なんとなく。そんな気がしたから」
太刀川が返すと、迅はくっと表情を崩しておかしそうに笑った。
「なんとなくで当てられちゃうんだからほんとかなわないよな~」
かなわない、と言いながら迅はいやに楽しそうだった。その返事はつまり肯定で、別にいいといえばいいのだけれど、少しだけ文句を言いたい気持ちもあって太刀川はむっと唇を尖らせる。
「視えてたなら傘持ってけって言ってくれりゃよかったのに」
すげーびしょ濡れになったぞ、マジで雨やばかったからな、とぶつぶつ言えば、迅は「ごめんごめん」と大して申し訳なく思ってもいなさそうな声で返す。
「でもそれを言うのは野暮ってもんでしょ? 大丈夫、風邪引く未来は視えないから」
迅は後ろに手をついて、リラックスした様子で重心を後ろに傾ける。「今日は支部も人少ないしね」と言った迅が、少しだけ迷うような間の後、ゆっくりと再び口を開く。
「……おれの部屋にいる太刀川さんっていうのを視ちゃったら、さ」
らしくない歯切れの悪さでそんなことを言う迅の表情が妙にかわいらしくて、そう思った気持ちのまま距離を詰めた。顔を寄せると迅は身動きせず、素直に太刀川の唇を受け入れる。
触れるだけで離れて、近い距離のまま迅を見て言う。
「現実にしたくなった、と」
「そう」
こくりと頷く迅を見て、太刀川の口角が上がる。素直なこいつも悪くないな、と思っていると、今度は迅の方から唇を重ねてきた。
迅の温かい唇が触れて、それは自然な流れのように深くなった。ざらついた舌が触れて、絡んで、内側をなぞられて、それが気持ちが良くて体温をぐっと上げられる。
呼吸が苦しくなってきてようやくどちらともなく唇を離す。飲み込みきれなかった唾液で濡れた口元を軽く拭うと、視線の熱さに気付かされた。
こちらをじっと見つめる迅の目の奥に紛れもない欲の色をみて、期待がぞくりと肌の表面を撫で上げるように駆けていった。
そのままいつものようにこちらからも手を伸ばそうとして――ふと思い出す。
ここはいつもの自分の部屋じゃなく、玉狛だ。玉狛は迅以外にも何人か住み込みのやつがいるはずで、さっき迅も「今日は人が少ない」と言っていたが逆に言えばゼロなわけじゃない。
そう思い至って、流石にどうなんだろうかと一瞬躊躇した。伸ばしかけた手は空中で止まって、引こうかと思った瞬間、意外にも迅の方からその手を取ってきて握りこまれた。
恭しいくらいの仕草できゅっと指を絡められる。重ねた手のひらが、思っていたよりも熱くて驚いてしまった。
「大丈夫」
そう太刀川を見つめて言った迅の青い目に欲の色は炯々と灯ったままだ。もう一度口付けてきた迅に、おまえどこまで視えてたんだよ――と聞きたくなって、しかしすぐ再び深く重ねられた口付けに、結局聞けないままになってしまった。
迅が腰を引くと、窓の外の雨音だけが響く静かな部屋の中にぐちゅりと生々しいローションの水音が落ちた。迅のものが中を擦る感覚に吐息とも嬌声ともつかない甘ったるい声が喉から零れ落ちかけて、慌てて唇を引き結んだ。そのまま浅いところでゆるゆると腰を動かされる度、「……っ、く……、ぁ」とくぐもった声と共に四つん這いになった体をびくびくと小さく震わせてしまう。
「太刀川さん、声おさえてる?」
迅が体を寄せてきて、大丈夫、今日は誰も起きてこないからちょっとくらい声出しても平気だよ、と耳元で囁く。背中に迅の汗ばんだ体がぴったりとくっついて、その拍子に中が僅かに角度を変えて擦られてまた声が零れそうになる。
「大丈夫、ったって、さすがに……っぁ」
前戯で迅にしつこいくらい愛撫されどこもかしこも敏感にされた体は、ほんの少しの動きでも性感を拾ってしまう。堪えきれなかった声が静かな部屋にぽろぽろと転がるように零れ落ちてしまえば迅が、は、と恍惚めいた息を吐いた。
「……無理させたい趣味はないつもりなんだけど、やばいな。声我慢してる太刀川さんって新鮮すぎて、変に興奮する」
「おまえそれ変態くさいぞ……」
切れ切れの息で素直な感想を言うと、迅は「太刀川さんにだけだよ」と開き直ったような口調で返す。
確かに普段であれば、太刀川は勝手に零れてくる声を我慢することはほぼない。する時といったらこれまで専ら太刀川の一人暮らしのアパートの部屋だったので、同居している誰かに気兼ねするということもなかったし、体の自然な反応で出てくる声なら我慢しない方がいいだろうと思っているからだ。自分のものとは思えないような甘ったるい声に恥ずかしい気持ちも無いわけではないが、太刀川以上に迅の方がその声に照れたり興奮したりしているのを見るのが好きだったから、自分の声がどうこうなんて太刀川にとっては些末事だった。
しかし、流石に、皆寝静まっているとはいえ同じ屋根の下に見知った人間がいる中で声を出すのはどうだろう、という思いは芽生える。迅が言うならまあ大丈夫なのは本当なのだろうが――そうでなければあの迅が、玉狛でこんなふうに事に及ぶのをまず自分に許さないだろう――、しかし意識してしまえばどうにも心理的なブレーキがかかってしまう。
太刀川がそんな葛藤をしている間に、迅が再び腰を動かしてくる。
太刀川の弱いところをもう知り尽くしている迅が的確な動きで中を擦ってきて、そのたび声が零れそうになってしまって困った。抑えようとすると、逆に自分が普段いかに声を出していたかを意識させられる。
最初はここまでじゃなかった。
迅に何度も触れられて、体を拓かれていくうちに、どんどん体を敏感にさせられていったのだと自覚する。そう思えばわずかな羞恥と共になんだか妙に興奮を煽られて、自分だって人のこと言えないかもなと内心で苦笑してしまった。
快感を逃がす為にぎゅうとシーツを握りしめる。視界の端で白いシーツがくしゃくしゃの皺になるのが見えたが、そんなのに構っている余裕はなかった。そんな太刀川の内側を迅は時にゆっくり、時に強引めいた動きで何度も擦って着実に太刀川の性感を引き出してくる。
ぐんと迅のそれが届く一番奥まで埋められる。思わず大きな声を上げてしまいそうになって、咄嗟に太刀川は枕に強く顔を埋めた。
と――。
「~~ッ、……!」
ふっと鼻先に香ったにおいに、ぶわりと条件反射のように体の熱が上がる。思わず強く後ろを締め付けてしまえば、迅が驚いたように息を詰めたのがわかった。
「た、ちかわさん、急になに――」
「や、ばいな。……おまえ、のにおいがする」
意識してしまえば、息を吸うたび香るそれにたまらない気持ちにさせられる。
さらりと爽やかなくせに男っぽさもある、キスをしたり肌をこうして触れ合わせたりするほどに近くにいる時しか知ることのできない迅のにおい。
迅の部屋で、迅の熱を感じながら、迅のにおいに包まれている。そう思うだけで、は、と熱い息が自分の口から零れ落ちた。そんな自分が少し面白くさえ思えた。
(そういや迅が初めてうちに来たとき、『太刀川さんのにおいがする』とかなんとか言って恥ずかしそうにしてたっけな)
その時はいまいちピンとこなかったけれど、ようやく分かった気がした。確かにこれは、やばい。
太刀川の言葉を受け取った迅が、中で分かりやすく大きくなるのが分かる。それをからかって笑い飛ばしてやりたい気持ちもあったけれど、それ以上に興奮して、焦れて、早くもっと欲しいと心の深い部分が言っていた。
息を吸えばまた迅のにおいがして、それだけでまた後ろをきゅうと軽く締め付けてしまった。外のまだ止まない雨の音以外部屋に音を立てるものがないから、興奮で早くなった自分の鼓動の音がどくどくといやに大きく聞こえる。反り返った先端は、与えられた性感のおかげでさっきからたらたらと先走りを零し続けていた。
「な、迅、……じん、――ッあ、ぁ!」
強請るような甘ったるい声、その途中で急に始まった激しい律動に思わず上擦った声が零れた。零してから、まずい、とすぐに思ってまた枕に顔を押しつければまた迅のにおいをより強く感じて、さらに興奮が煽られてしまった。
「……そんな可愛いこと言わないでよ、我慢きかなくなる……っ」
耳元で、ごめん、むりだ、とやたら可愛らしい声で囁いた迅が太刀川を押さえつけるように、シーツを握る手に上から手を重ねてくる。触れた迅の手が、汗ばんで熱い。ぴったりと体をくっつけたまま一層強く腰を使ってきた迅は、太刀川の弱いところばかりを何度も攻めたててきた。
「……ッぅ、ぁ、っく……!」
抑えた声が枕に吸われていく。切れ切れの声を唇の隙間から零すたび首元にかかる迅の息が熱くなるのを感じて、その刺激すら敏感になった体は性感として受け取った。
がつがつと手加減なく後ろを突かれて、頂点が近いのが分かる。挿入してからは一切触られていないはずの前はもうすっかり張り詰めて震えて、迅にとどめを刺されるのを待っていた。
律動の合間に、迅が背中に口付けてくる。と思えば、強く吸われてぴりついた痛みが走った。それを迅は場所を変えて何度も繰り返してくる。
痕をつけるなんて、こいつにしては珍しい――とぼんやりとした頭でちらりと頭を掠めたが、その感慨に浸る余裕はもうこちらにはなかった。
いつもは自制している様子のそういうことをするくらい迅も今ひどく興奮しているのだということ、強い独占欲を普段は誤魔化してひた隠しにしたがるこの男にこうして痕をつけられたこと、そのどちらもが熱に浮かされた頭では興奮材料にしかなり得ない。
「じ、……ん、っ、も、イく……」
そう言うと、「うん」と欲に掠れた声で言った迅がぎりぎりまで腰を引く。このまま抜け出てしまうと体は勘違いしたのか、自分の後ろがきゅうきゅうと迅を離そうとしないように締め付けるのが分かった。
この先への期待に熱い息が零れる。思わずシーツを握りしめる手の力を強めると、それを宥めようとでもするように重なったままの迅の手が優しい手つきでその手を握りこんできた。
息を吐き出した一瞬の後に迅が一気に奥まで貫いてきて、その強い刺激に目の前がばちばちと弾けて白くなった。熱いものが精路を駆けていくのを感じながら、もう体を支えていられなくなって上半身が崩れる。ぐっと枕に頭を押しつける形になればまた鼻先に強く香る迅のにおいに、ぎゅうと後ろを締め付ける強さを増してしまう。後ろで迅も息を詰めたのが分かった。
「――ッ、ぁ、っ、……~~!」
「ったちかわさ、おれも、……っ」
そう張り詰めた声で言ったのとほとんど同時に迅も太刀川の中に精を吐き出す。どくりと熱いものが達したばかりでまだ敏感な自分の内側に注ぎ込まれる感覚に、体が小さくびくびくと跳ねてしまった。
吐精し終わった迅は力が抜けた様子で太刀川にゆっくりと再び覆い被さってくる。先程までの太刀川を御そうとするようなものとは違う柔らかさで、後ろから抱きしめるように太刀川の体に体重をかけてきた。背中や腕に触れた迅の肌がじっとりと汗ばんで熱くて、ふっと後ろからも迅の汗の混じったにおいが香る。
無防備な体と思考の中で、迅の熱とにおいに包まれているのをひどく幸福に思ってしまった。そんな自分を笑い飛ばす余裕もないままに、太刀川はしばらくその感覚に浸っていたのだった。
もう一度シャワーを浴びて迅の部屋のドアをノックする。さっきと同じように「はーい」と返事がきたので開けると、迅はすっかり何事もなかったかのように部屋着を着直してベッドの上に座っていた。
「おかえり」
部屋の外ではまだざあざあと雨が降る音が続いていて、未だ止みそうにない。やっぱり玉狛に泊めてもらうのは正解だったな、と思った。
「じゃあおれもシャワー浴びてくる」
迅がそう言って立ち上がる。迅に言われて、シャワーは太刀川の方が先に浴びてきたのだった。
どうせなら一緒に入るか、と聞いてみたけれどそれは断られた。「止まれなくなったら困る」なんて耳を赤くしてぼそぼそと言うのだから、かわいいやつだと思う。ほんの十数分前まであんなに遠慮のない様子で俺を抱いてきたやつとは思えないかわいげについ笑いそうになってしまった。
「ああ。ってか自分の部屋、戻った方がいいやつだよな?」
もしここが太刀川の部屋だったら暗黙の了解のように狭いシングルベッドの上でぎゅうぎゅうに二人で寝るのがいつもの流れなのだが、ここは他のやつらも住んでいる玉狛だ。もし朝になってその様子を誰かに見られたら流石にアレか、と思って迅に尋ねる。太刀川が今晩宛がわれた部屋はこの迅の部屋ではなく、そのひとつ隣の空き部屋だ。
「あー……そうだね」
流石に迅もこの場面では大丈夫とは言わない。だよなー、と思って素直に部屋を出ようと体を翻しかけると、太刀川の側まで歩いてきた迅がくんとこちらのTシャツの裾を引いた。
振り返ると、顔を寄せてきた迅がキスをしてきた。
数秒重ねて、そして離れる。
迅の顔を見れば、迅は少しだけ恥ずかしそうな顔をしながら太刀川を見つめ返した。
「おやすみ」
そう言い残して、迅は照れ隠しのように足早に部屋を出て行く。バタン、とドアが慌ただしい音を立てて閉まるのを背中に聞いた。
――熱を分け合った後にバラバラに寝るというのは別に嫌だとは思わない。が、いつもは一緒に寝ているものだからそりゃあ、なんとなく寂しいような物足りないような気持ちが全くないではない。
きっと迅もそんなふうに思っていたのだろう。そう思うとなんだかちょっと気分がふっと上向いて、口角が緩む。
太刀川が再び廊下に出ると、雨が降っているせいで触れた空気は少しだけ肌寒く感じる。なのにさっきのいやに熱くてやわらかい迅の感触は、しばらく唇に残り続けていたのだった。