everblue
「おーす。お、小南だ」
ひょこりとリビングに顔を出すと見知った顔がいたので声をかけると、呼ばれた本人は、げ、と分かりやすく眉根を寄せてみせた。
「太刀川。なんで玉狛にいるのよ」
「遊びに来た。お、えーと……ヨータローか」
「む、たちかわ」
小南と一緒にソファに座ってどら焼きを食べている子どもは確かそんな名前だったはずだ。会うのは久しぶりだったがもっと小さかった頃に何度か遊んだこともあるし、今も迅がたまに話題に出すからなんとなく覚えている、というくらいの仲である。
どうやら今日の玉狛は人が少ないらしく、リビングにいるのはその二人だけのようだった。あとは、リビングの真ん中に陣取ってすやすや寝ているカピバラのような動物――確か名前は、らいじんまる、が一匹。きょろきょろと部屋を見回すと、小南の声が飛んでくる。
「迅ならいないわよ」
ぱちくりと目を瞬かせて小南を見る。こちらは何も言っていなかったのに、どうやら目的は察されていたようだ。
「そうなのか? またふらふら暗躍でもしてんのか」
まあそうか、あいついつもどっかふらふら動き回ってるもんな、と思い直す。特に約束をしていたわけでもなくただ気分で寄ってみただけだったが、やっぱあいつはそんな気まぐれではなかなか捕まってくれないらしい。そんなことを考えていると、小南がじっとこちらを見ていることに気が付いた。
「知らないの?」
突然聞かれて、話が全く見えず疑問系で返す。
「? 何がだよ」
太刀川の返事に、小南は「でもそっか、別にわざわざ言わないわよね。特にあいつのことだし」とぶつぶつと一人で喋っている。普段は人の事情に突っ込む主義ではないけれど、そんな思わせぶりな言い方をされると何のことなのかみょうに気になってしまって「なんだよ、気になるだろ」と小南をせっついた。小南は少しだけ迷うような間の後、「ま、本人も隠してる感じじゃないしね」と呟いてから太刀川に向けて口を開く。
「――今日、迅のお母さんの命日なのよ」
昼も近付いた八月の太陽は容赦なくて、緩やかな角度の丘を上がっていくだけでも汗が噴き出してくる。歩くにつれ緑が増えていって、比例して方々から聞こえる蝉の鳴き声が太刀川の鼓膜を揺らす。まるで夏の終わりを惜しむかのような盛大な声だ。あるいは、自分の命の最期を悟って振り絞っているのか――そうは感じさせないほどの元気な声たちだけれど。
日差しは暑いが、吹く風は存外涼やかなものだった。このあたりは緑が多いのもあるのかもしれない。分からんけど。噴き出した汗が、風によってほんのわずか冷やされていくのを感じる。来る途中で買った花の包みが、かさりと揺れて音を立ててはすぐに蝉の声にかき消されてしまった。
バスに揺られてここまで来る間に、ふと思い出したことがある。
迅と一番ランク戦でバチバチに競い合っていた高校二年の頃、夏休みともなれば防衛任務が無い時は毎日のように二人でランク戦ブースにこもって時間も忘れて戦り合っていた。
だけど一日だけ、迅が「この日は本部行けないから」と言ってきた日があった。
その時迅は特に理由も言っていなかったし、太刀川も聞かなかった。人間そりゃ用事がある日もあるだろう。迅とランク戦ができないのは残念だったが、その時はただそう思っただけだった。
思い返せばそれは確かちょうど今日くらいの時期、八月の下旬ごろのことではなかったか。
歩いていると、丘の上の方に墓のようなものが見えてくる。どうやらそろそろ到着らしい。小南に教えてもらった霊園は、三門の外れの丘の上にあった。
坂を上がりきって一息ついたところで、また風が吹いて太刀川の髪をさらさらと揺らした。なんとなくふと横に視線を向ける。と、そこには三門市を一望できる景色が広がっていた。真ん中に見慣れたボーダー本部があって、街の中心地のビル街、昔ながらの商店街に、太刀川も通った高校、子どもたちが遊ぶ緑豊かな公園。道路には小さな車たちが忙しなく行き交うのが見える。丘のすぐふもとには、ていねいに手入れされていそうな満開のヒマワリ畑が風に吹かれてさらさらと揺れていた。――今もなお変わらぬ人々の生活が息づく、三門の街の景色だ。
(きれーだな)
素直にそう思う。見晴らしが良くて気持ちが良い。こういう見晴らしが良い場所は太刀川も好きだ。
(……さて、来たはいーけど)
改めて正面を見る。霊園は思っていた以上の広さで、視界いっぱいに沢山の墓石が整然と並んでいた。霊園の場所は小南から教えてもらったが、流石に迅の母親の墓の場所までは分からなかった。来てみたはいいが、考えてみれば迅がまだここにいるかすらも分からない。
(まあ、ぐるっと一周回ってみて、迅が見つからなかったら仕方ないか)
そう心の中で呟いて、霊園の中に入ってみることにした。お盆を過ぎた今の季節はピークは過ぎているのだろう、人影はさほど多くはないようだった。さらさらと吹く風が心地良い。周囲を見回しながら、ゆっくりと歩を進める。
そもそも自分がなぜここまで来たのかすら、明確な理由があるわけじゃなかった。ただ、自分の本能みたいなものがそうしたいと思ったから、それに従ったまでだ。
とりあえず墓参りということで花は買ってきたが、それ以降のことはとりあえず迅に会ってから考えればいいか、と思った。
道なりに歩いていると、少し向こうの墓の前に見慣れた姿を見つけて「あ」と声を上げそうになる。
墓の前で屈んで両手を合わせている男の、茶色の髪が風に静かに揺れる。出歩くときは大抵の場合換装体の隊服姿でいる男だが、今日は珍しく私服でいるようだった。といっても遠目には隊服とたいして色味は変わらない、五分丈くらいのスカイブルーのシャツの中にTシャツ、チノパンといったスタイルではあるが。
太刀川がそちらに近付いていく間も、ずっと迅は目を閉じて両手を合わせていた。その迅は普段の飄々とした様子とは違う、いやに静かな様子に見えた。
つられてこちらの足音も潜めてしまいそうになるが、ざり、と小石を踏んで小さな音を立ててしまう。しかしそれを合図にぱちんと世界が切り替わるみたいにして、迅が目を開けて立ち上がる。振り返ってこちらを見た迅は、いつもと変わらない食えない表情でにこりと笑った。
「迅」
名前を呼んでみると、迅は「や、太刀川さん」と軽い声音で返す。
「小南に聞いて来たの?」
「ああ。これも視えてたのか?」
驚いた様子がないので聞いてみれば、迅は素直に頷いてみせた。
「なんとなくね」
言いながら迅が伸びをした。風が吹いて迅のシャツをぱたぱたと揺らす。目の前の墓石は素人目にもきれいに掃除されていて、花や甘そうなお菓子が供えられていた。線香の香りが風に乗って太刀川の鼻にも届く。
「……今更だけど、俺来てよかったか?」
勢いで来てみたものの、いざ辿り着いてみるとそんな今更な思いが少しだけ頭をかすめる。迅の母親と太刀川は面識があるわけでもない。太刀川がボーダーに入るよりずっと前に、近界民に襲われて亡くなったと聞いていた。
太刀川の言葉に、迅はぷっと噴き出す。
「来てからそれ言う? わざわざお花まで買ってきてくれたのに」
迅はけらけらとひとしきり笑った後、目を細めたまま太刀川を見た。涼やかな青色が太刀川をまっすぐ見つめて言う。
「いいよ」
迅の髪が夏の太陽に照らされてちらちらと光る。
「賑やかなの好きな人だったから別に怒んないよ。むしろ歓迎されると思う。それに」
そこで迅は一度言葉を切って、ひとつ瞬きをしてから再び口を開く。
「太刀川さんはおれの大切な人じゃん」
だからべつに、部外者じゃないでしょ。
そうさらりとした声音で言ってのけた迅に、今度は太刀川がぱちりと瞬きをする番だった。
「――、そうか」
その言葉にこちらとしても異論はない。互いに互いを特別に思い合っているのは分かっているし、そういう関係だということも言葉でもそれ以外でも確かめ合った仲だからだ。
だけどそれを迅がこんなふうに、まるで当たり前のことを言うみたいに素直に言ってのけるのを意外に思った。冗談めかして言い合うことや、あるいは真剣にだったらベッドの上で――なんてことはあるのだが。
こんなふうに素面で、改まって言われると何だかこちらもどこか面映ゆいような気持ちになってしまう。そんな気持ちになる自分もまた意外だった。
「……太刀川さんに照れられると、こっちもどうしていいかわかんないんだけど」
言われて迅の顔を見れば、耳がじわりと赤くなり始めている。そんな迅を見て、今度は太刀川が思わず笑ってしまった。先程までの面映ゆさは、嬉しさや高揚感に変わっていく。
「自分で言っておいて」
そう言ってやると、迅は「そうなんだけど」と恥ずかしそうにがりがりと頭の後ろを掻く。居たたまれないような表情になって、しかし迅は先程の自分の言葉を茶化すことも撤回することもしなかったのだった。
持ってきた花を供えて、先程の迅と同じように墓石の前にしゃがみ込む。ちりちりと静かに燃えている線香のにおいが先程よりもわずかに濃くなった。
手を合わせて目を閉じる。
(えーとまず、挨拶からか)
そう心の中で呟く。迅の母親。会ったことがないし、写真も見たことはないからどんな人だろうと想像するしかなかった。迅と似た顔をしているのだろうか。
何を話すか一瞬だけ考える。ひとりだけだったという迅の肉親。賑やかなことが好きで、甘そうなお菓子も好きだっただろう人。ぼんやりとした想像の彼女に向けて、声に出さず話し始めてみる。
(はじめまして、太刀川慶です、……)
しばらくしてから、目を開ける。視線を感じて顔を上げれば迅がこちらをじっと見ていた。
「随分長かったね」
迅はそう不思議そうに言った後、「あ」と何か思い至ったように眉をわずかにひそめた。
「……なんか変なこと話してないよね?」
思わぬ疑いをかけられて、太刀川はつい笑いそうになってしまった。じとりとこちらに視線を向ける迅の表情が妙にかわいく見えて、からかってみたいという悪戯心が芽生える。
「さあな」
そうにやりと笑いながら立ち上がると、迅が「えぇ、ほんとに何言ったの」と困ったような表情になる。「想像に任せる」とだけ返せば、太刀川がこれ以上言う気がないのを悟ったのだろう、迅は「も~」と肩をすくめたものの、それ以上追及してくることはなかった。
線香の火がちょうど燃え切って、ふわりと最後の煙が辺りにとけていった。迅が手桶や柄杓をまとめて、供えていたお菓子をカバンに仕舞う。その様子を見ながら、小さい頃家族で墓参りをした時にせっかく供えたものを自分たちで持って帰るのを不思議に思っていたら「お供え物は鳥や動物に荒らされないように、帰るときには持ち帰るんだよ」と母親に教わったことを太刀川は久しぶりに思い出した。
そうして慣れた手つきで帰り支度をした迅が、立ち上がって太刀川を振り返る。
「さて。おれ今日は一日オフにしてるからさ。ご飯食べて、その後ランク戦しようよ」
迅の提案に、太刀川の目は一気に輝いた。
「おっ、いいな。乗った」
迅とランク戦ができる、と思えばなにより気持ちが疼くのはもう昔からずっと変わらないことだ。声を弾ませた太刀川を見て、迅の目も楽しそうにきらりと輝く。
「今日はおれが勝つよ。おれのサイドエフェクトがそう言ってる」
「ふ~ん、なら覆してやるよ」
生意気ぶった顔で言う迅をそう言って小突くと、「やれるもんならね」と迅が言う。
その笑った顔が太刀川と同じくらい楽しそうだったから、太刀川も嬉しくなる。
歩き出そうとした迅が持っていた桶と柄杓を手に持つと、迅が太刀川を見た。
「おまえのが荷物多いだろ。俺今手ぶらだし」
桶と柄杓だけじゃなく墓参り用の荷物が入っていたのだろうカバンも肩にかけている迅に対し、持ってきた花も供え終わった太刀川は手ぶらだ。だったら荷物が多い方を手伝うほうがいいだろうと思って言うと、迅は「そっか、じゃあお願い」と言って目を細める。
「それ管理事務所から借りてるから、そこに返すやつね」
「太刀川了解」
太刀川が頷いた後、迅がお墓を振り返って「じゃ、また来るね」とひらりと手を振ったので、太刀川は少し迷った後ぺこりと一礼だけすることにした。
相変わらず日差しはじりじりと肌を灼くように照りつけてくる。首の後ろをつ、と汗が伝うのが分かった。
「あーっついね。お昼、なんか冷たいもん食べたいな」
「だなー。あ、じゃあ冷たいうどんとかどうだ」
こちらは至って真面目に提案したというのに、迅は太刀川の返事を受けて吹き出して笑った。
「なんだよ」
「いやあ、ブレないなと思って」
そう言ってけらけら笑う迅の横顔がなんだか楽しそうだったので、まあ楽しそうならいいか、とそれ以上文句は言わないでやることにしたのだった。