Crescendo
増設棟を一歩出た瞬間、容赦ない日差しが頭上から襲ってくる。半袖の制服から伸びる生身の腕がじりじりと照らされて、暑さに迅は思わず顔をしかめてしまった。
「あ~っつ……」と言うと隣に居た嵐山が「暑いなー」ととてもそうは感じさせない爽やかな声で返事をしてくる。クラスの元気な女子たちが暑い! 焼ける! ときゃいきゃい言い合いながら足早に本校舎へと戻っていくのを眺めながら、迅は制服のシャツをぱたぱたと扇いでその場しのぎ程度でしかない風を体に送った。
こういう時、学校でもトリオン体になれればいいのに、なんて少しだけ思ってしまう。それはズルだろうか。トリオン体になれば暑さなんて関係ないのにな~、と思うが、そんなことをぼやきでもしたらレイジさんあたりに怒られそうだ。
増設棟はその名の通り後から増設されたのだという建物で、そのため自分たちの教室などがある本校舎からは若干遠い。他の棟同士は渡り廊下で繋がっているのだが、この校舎だけは渡り廊下といったものはなくグラウンドやプールの横を突っ切って移動する形だ。おかげさまで、移動教室の時に日差しを遮るものが何もない。
三限目終わりの休み時間、昼も近くなろうというこの時間の七月の太陽はまさに夏を絵に描いたような日差しだ。少し歩くだけでじわりと汗が滲んでくる。これで教室に戻ればクーラーでもあればいいのだが、古き良き公立校である三門第一高校にはクーラーなんていうハイテクなものは未だ設置されていないのだった。
――と、そんなことを考えながらのろのろと歩いているところに楽しそうな賑やかな声が耳に届く。
つられるように顔を上げてその声の方を見れば、プールだ。プールサイドに奥から続々と高校指定の水着姿の生徒たちが出てきて、これからプールの授業なのかと合点がいく。
(あー、いいな、この暑い中でプール)
水泳は特段好きでも嫌いでもないが、この暑さの中でプールに入るのはさぞ気持ちがいいことだろう。残念ながら今日自分たちはプールの授業はないし、本当は一昨日あるはずだったのだが雨で体育館でのバレーに変更になってしまった。
うっすらとした羨望と共になんとなくそちらを眺めながら歩いていると、ふと目に入ったよく見覚えのある顔に、一気にその人に自分のピントが合う感覚がした。
ドキリ、と大きく心臓が跳ねて、思わず「あ」と上げそうになった声を慌てて堪える。ぱっと目を逸らせばその男はすぐに視界から消えたのに、まだ心臓はドキドキと先程の余韻で脈打っていた。すぐに目を逸らしたのは自分の中の防衛本能のようなものだ。あれ以上見ていたら危ない、という。それは何か物理的な話ではなくて、ただただ自分の感情の話でしかない。
「迅? どうかしたか?」
わずかに歩調を緩めた迅に、半歩先から振り返って嵐山が聞く。迅は急いでいつものへらりとした表情を取り繕って、歩調を早めて嵐山の隣に並んだ。
「ううん、なんでもない」
わざとらしかっただろうか。でも嵐山はそれ以上は聞いてくることなく、「そうか」とだけ返してまた歩き出してくれた。
先程、ほんの一瞬だけ見た姿。一瞬だったのに、目に焼き付いてしまった。
(……太刀川さん、だ)
プールサイドで、水着姿でクラスメイトと談笑する姿。いつもののんびりと楽しそうな顔で、太陽の光に照らされた上半身はしっかりと過不足なく筋肉がついて、腹筋にもうっすらと陰影が落ちていた。それに太腿だって――そうひとつひとつ思い返してしまって墓穴だ。
一瞬で目を逸らしたはずなのに、鮮烈に覚えてしまった。その形を。そんな自分に呆れる。
ぱたぱたと先程と同じように制服のシャツで扇いでいるはずなのに、体は一向に熱いままだ。
あの人の裸の上半身を見るのは初めてだったと気付く。
あんな体をしているのかって、想像だけでいられたらよかったのに、本物を見てしまったらもう頭から離れてくれない。
口の中に溜まった唾をゆっくりと嚥下する。隣の嵐山に気付かれないように迅は細く息を吐き出した。
あの人の体をあんなふうに当たり前みたいに、すぐそばで見られるクラスメイトに対して羨望――いや、そんな可愛い感情じゃない。もっと後ろ暗い感情がうっすらと腹の中で渦巻く。でも、おれは、あんなふうに太刀川さんと笑い合ってるクラスメイトが絶対知らないようなあの人のことをもっと知ってる。斬り合う時にどんなに楽しそうでおっかない顔をするのかも、斬ったトリオン体の断面も、おれがスコーピオンを手に持ったときのまるで少年みたいなわくわくとした表情も。
(……あー)
頭の中で並べ立てたそれらはひどく子どもじみたマウントだと自分だって気付いている。それにつける感情の名前だって、もう。
あの人と遊んでいるのが楽しい。ランク戦で競い合うのが楽しい。
ただそれだけの気持ちのままで居られたらよかったのに。
誤魔化しきれなくなった感情ははち切れて、溢れて、こんなわずかなことでさえ心臓をひどく揺らす。あの人の特別に自分がいるというのは自惚れじゃないと知っているのに、それだけじゃ足りなくなってしまった。
きっと今日も放課後になれば太刀川さんが待ち伏せて、いつもの顔でにやりと笑って「本部行こーぜ」と言ってきて、いつものようにランク戦をして帰る。いつもの流れだ。いつも変わらないそれの中で、変わっていったのは自分の感情のほうだった。
あの肌に、あのきれいなものに触れたくて、そして――なんて思っていること、自分でも手に負えなくなりそうなそれをいっそぶつけてやりたくて、だけどそんなの今日もできやしないって。そんな勇気が自分にまだないことを、自分で分かっているのだ。