Appassionato




 相打ちだ。
 刃を突き出した瞬間にそう分かった。欠けた肘の先から伸ばしたスコーピオンが太刀川のトリオン供給機関を貫いたのと同時に、太刀川が握った弧月が迅の首元を深く割く。トリオン漏出過多の警告が響く。ぴし、と互いのトリオン体に亀裂が入る音がして、仮想の体が壊れるのは同時だった。
 くそ、ここで勝てれば今日は勝ち越せたのに。そう強く眉根を寄せると、目の前の太刀川も楽しそうに、だけど同じくらいに悔しそうに表情を歪めた。どうせ、互いに思ってることは同じだ。悔しくて、楽しくて、興奮してたまらなくて――。ああ、と次の言葉が出てくる前に、視界が白んで緊急脱出の音声が耳に届く。
 ぼすん、と体が現実に落ちる。固く黒いベッドの上、小さな個室の中はしんと静かで、だからこそ自分の熱の高さがいやに目立って感じられた。
 今日も学校帰りにいつものように待ち合わせて、そこからまっすぐランク戦ブースへ来た。十本勝負をなんだかんだと三セット、九勝九敗二引き分けだ。スコーピオンを使い始めてから太刀川との勝負はほぼ互角、こんな風に勝負がつかないことも多い。互いに弧月を使っていた頃は太刀川に勝ち越される方が多かったことを思えば迅の勝ち星もずっと多くなったと言えるが、それでも当時つけられたポイントの差は未だ埋められずにいる。それが悔しくて、勝ちたくて、でもそれと同じくらい楽しい。
 そして太刀川との戦いは、いつも高揚して興奮してたまらない。
 迅は体も起こさず、先程の戦いを反芻しながらぼうっと白い天井を見ていた。
 じくじくとした熱が体を蝕んで、引かない。仮想の体のはずなのに。それはいつものことといえばいつものことなのだが、今日はどうにもそれがひどい。
 ゆっくりと目を閉じると、瞼の裏に浮かんでくるのは先程までのおっかなくてぎらぎらした目でこちらに向かってくるトリオン体の太刀川の姿、ともう一つ。真夏の太陽に照らされた、ひどく健康的な肌を晒した太刀川の生身の体。
 ――昼間に見た、あの体のせいかもしれない。自覚するのは躊躇われたが、多分きっとそういうことなんだって、誰よりも自分が痛いくらいに知っていた。
 部屋の中に一人きりであるのをいいことに、はあ、と迅は長く息を吐く。ベッドの上に大の字になっても、熱は未だ自分の内側に居着いたままだ。
 ああやっぱり、今日はどうにも。

 ボーダー本部の端の端にあるトイレは今日も人気ひとけがなかった。使われていないわけではないのだろうが、何しろ隊員がよく使う主要な施設のどれからも遠い場所にあるためにわざわざこんなところまで来るという人は少ないのだろう。
 だから迅は、こういう時いつもここを使っている。
 全て空いている個室の中から、一番奥の個室を選んで鍵を閉める。換装を解いて生身に戻り、ズボンを下ろせば既に固くなった自身がパンツの上からも存在を主張していた。恥ずかしいような素直な体の反応が恨めしいような複雑な気持ちになりながらも、さっさと済ませてしまおうとそんな気持ちを振り払って手早くパンツも下ろしてそれを取り出す。便座に座って、触れると熱を感じるそれを手で包んで軽く扱き始めればすぐに固さを増していくのが分かった。
 ランク戦をはじめとした戦闘訓練の後に、こういった興奮状態になってしまう隊員は珍しくはないだろう。仮想のものとはいえ命のやりとりをする極限状態を体験した体は、生存本能の現れなのか何なのかこうして体の別の部分にもその興奮が作用してしまうことがあるらしい。それが中高生の、思春期の隊員であるならば尚更。迅だってそのひとりだ。
 ――正確には、今の迅はただひとりと戦ったときだけ、そうなる。
「っぅ……あ」
 ぬるり、と先端から先走りが零れて指先を濡らす。体の内側に溜め込まれた熱がぐるぐると巡って、下半身に集まっていくような感覚。そしてその敏感になった箇所を、気持ちいい、と思うたび全身の熱も底上げされていく。トイレの中も空調はちゃんと効いているはずなのに、零れ落ちた自分の息が熱い。興奮がおさまらない。
 太刀川と戦ったときだけだ。自分がこんなふうになるのは。
 命を獲って、獲られる。自分の全身全霊をぶつけるそんな極限状態のやりとりを、あんなにも興奮してたまらない楽しいことだと、そう味わえるのは間違いなく太刀川とだけだった。自分が抑えきれないくらいに高揚して、だからだろうか、ランク戦を終えたとき体の方も興奮して抑えきれないほどに熱を抱え込んでしまうことがある。興奮が変に混線してしまっているのかもしれない。
 こういう時、本当はトリオン体のままで誤魔化して玉狛まで帰って自室で処理すればいいと分かっている。しかしその時間すらも我慢できないと思ってしまい、こうして本部の隅のトイレに駆け込んで落ち着かせることが常だった。
 目を閉じれば、脳裏に今日のランク戦の様子が浮かぶ。ぎらぎらとした目で迅を見据えた太刀川が、楽しそうに弧月を振るう。エスクードで視界を切って、その一瞬の隙にスコーピオンで斬りかかる。腕を落として、足を斬って機動力を削って、そうして互いの首を――。
 こちらに向かってくる太刀川の姿に、ふっと昼間に見た太刀川の姿が重なる。きれいな流線をした、程よく筋肉のついた生身の体が鮮明に思い出されて、思わず自身を扱く手の力が強くなった。
「……っ、あ、」
 手の中の自身がどくどくと脈打っているのが分かる。膨らんだそれを扱く手の動きは止まらない。自分の分かりやすさに呆れてしまう。
 興奮している。
 太刀川とのランク戦にも、彼の生身の裸にも。
 自覚してしまえば戻れないところまでいってしまう気がしていたのに、熱と性感に茹だった頭はもう何も考えられなくなる。
「……た……ちかわ、さ、……っ」
 自身を扱きながら、ほとんど無意識にそう口にしていた。零れ落ちた言葉は熱で揺れて、静かなトイレの中に跳ね返って迅の鼓膜を小さく震わせる。ひどく情けなくて剥き出しなその音に、その単語に、指先までもが熱を帯びた気がした。先端からはまたじわりと先走りが滲んでいる。
 ああ、だめだ、もう。目の前に突きつけられる。思い知る。
 欲しいんだ、おれは、あのひとの――。
 その瞬間、ぎぎ、とトイレのドアが開く音がした。迅は弾かれたように頭を上げる。
(っ、え)
 急に冷水を浴びせられたみたいに頭が冷えた。足音が続いて、誰かが入ってきたことを知る。
(うそ、ここ今まで誰か使ってるの見たことないのに)
 そうは思うが、しかし本来ボーダー関係者には開かれているトイレだ。当然そんなイレギュラーもあるだろう。自分のことは視えづらいとはいえ、読み逃してしまったらしい。丸出しの自身を手で掴んだままの間抜けな格好で迅は固まってしまう。
 息を殺して相手の気配を探る。誰だか知らないが、どうか早く用を済ませて何事もなく去っていってくれ――と願っているところに、かつかつとやってきた足音が迅のいる個室の手前で止まった。
(……え、なに)
 そう思ったところで、思いがけない声がしんと静かなトイレの中に響いた。
「おい、迅。いるんだろ」
(……ッ!?)
 うそだ、と、今度はさっきよりも切実に思う。
(何で、太刀川さんがここに)
 ランク戦が終わった後、太刀川とはランク戦ブースの入口のところで別れたはずだ。その時の太刀川はいつもと変わった様子はなかったように思う。普通に、「おう、またな」といつもの調子で迅にひらひらと手を振っていた。
 そのはずなのに。
「おーいー」
 後を尾けてでも来たんだろうか。でも、何の為に? いや待ってその前に、さっきの声聞かれてないよな? と混乱した頭で考えていると、いつもと変わらぬ呑気な調子の太刀川の声と共にコンコンとドアがノックされる。素直に返事をするか、しらばっくれて黙るか、どう出るべきか迷って息を殺したままでいると、太刀川は迅の返事がないことに焦れたのか、ノックをやめて「迅」とこちらの名前を呼んでから別の言葉を口にする。
「……おまえさ、帰るときちょっと変だったろ」
「……」
 迅は黙る。こちらとしてはいつも通り振る舞っていたつもりだったのだが、何でバレたのか、とじわりと焦りが生まれた。しかし太刀川は気にした風もなく言葉を続ける。
「気になって後尾けてきたらこんな変なとこのトイレ入るから、さてはと思って」
 やっぱり尾けてきたのか、という思いと、察してるならなんで、という思いが交錯した。そして人の気配には聡いつもりであったのに気付けなかった自分を恥じる思いもあった。――それだけ自分に余裕がなかったということだろうか。迅は思わずぐっと唇を軽く噛みしめたが、そんな迅に対しドア越しの太刀川は普段と何ら変わらない口調で言い放った。
「俺もだぞ」
 え、と、思わず声が出そうになった。
 何が『俺も』なのか。自分の都合の良い勘違いではないのかと一瞬思いかけたが、そんな迅の考えの行く手をすぐに塞ぐように太刀川が続ける。
「しょーじき俺も今けっこーやばい。おまえと戦るとそうなんだよ、興奮してたまんないからかな。体が勝手にこうなっちまう」
 何の告白だ、と思う。かっと耳が熱くなった。いつもと変わらない呑気な声音で言うことじゃない。おれは何を聞かされていて、この人は何を言い出してるんだと思った。
 だというのに、太刀川さんも同じなんだ、と思うと心がざわざわと騒ぎ出す。太刀川さんも、おれと同じように、興奮して――。
 ぞくり、と背筋を駆けたのはこれまでに感じたことのない類の興奮だった。戦って得るそれとは似ていて違う、もっと凶悪で、性質の悪い色をした。
「で、提案なんだが」
 ドアの向こうから聞こえた太刀川の言葉を合図にしたみたいに、ばちんと視界の端で未来が弾ける。
「お互いこうなら、一人でそれぞれするより二人でしたほうが気持ちいいんじゃないか?」
 何言ってんの、と笑い話で終わらせてしまいたかった。
 そうして一蹴して、適当に誤魔化して、あとはいつも通りの関係に戻れば良い。それがいいはずだった。
 だというのに、先程視えた未来の甘美さに心がくらりと揺れる。
 流石に丸出しは躊躇われて、先走りでべとついていた手をトイレットペーパーで雑に拭ってから適当にパンツとズボンを上げた。ズボンのベルトはぶら下がったままだがいいだろう。そんなことに構っている余裕なんて今はなかった。
 個室の鍵をスライドして外し、バタンと音が響くような勢いで個室のドアを開けると太刀川と目が合う。
 太刀川はもう生身に戻っていて、迅と同じ半袖シャツの制服姿だ。ドアを開けた迅の姿を認めて、太刀川はにやりと悪戯っぽく笑う。
 よく見る表情だ、と一瞬思った。だけど違う。
 その格子状の焦点を読みにくい瞳の奥が、確かに興奮に濡れているのを見つけてしまった。気づいてしまった。
「……、わかったよ。しよう」
 努めて冷静にそう言おうとしたはずなのにその声が僅かに掠れてしまったこと、それを恥じらう気持ちが顔に出ていないことを迅は密かに祈った。

 個室の中に太刀川を招き入れて、他に誰が見ているわけでもないのに隠れるように素早く再び鍵を閉める。
 ごく普通の狭い個室なので、二人で入ればもう狭くて距離は自然と近くなる。至近距離、思わず視線を下ろして太刀川の下半身を見てしまった。太刀川本人の言う通り、制服のズボン越しでも確かにそこがもう主張し始めているのが分かる。それを目の当たりにしてしまえば、未来視で一瞬視てしまったこれからすることへの実感が沸いてきて体が熱くなった。
 けれどもうここまで来たなら、躊躇っている方が恥ずかしい。
「おまえ、もうやばいな」
 迅と同じようにこちらの下半身に視線を向けた太刀川にそう笑われて顔が熱くなりそうだったけれど、あえてしれっと「中断させられちゃったからね」と言ってみせれば太刀川は照れることもなく「それもそうか」とあっさりと返してきた。
「つーか途中だったんなら、わざわざ履き直さなくてもよかったのに」
「丸出しでドア開けるのは流石に間抜けすぎるでしょ、どう考えても」
 太刀川の言葉にぎょっとしながら返すと、太刀川はそんな迅の反応がおかしかったのが喉を鳴らして小さく笑った。最近より目立つようになってきた太刀川の喉仏が、至近距離で小さく震える。そんなところにすら目がいく自分に気付いて、ああもう急にこんな展開になって頭わけわかんなくなってるのかも、と誰にするでもない言い訳をした。
 自分のズボンのベルトに手をかけた太刀川が、かちゃかちゃと音を立てながらベルトを外していく。静かなトイレの中に響くその音がいやに淫猥に思えた。
 そんな迅の思いもつゆ知らずといった様子で太刀川はあっさりと前を寛げる。下げられたパンツから顔を出した太刀川の性器は想定よりも大きくて、勃起し始めて色を濃くしたそれを目の前にして迅は思わず口の中に唾がじわりと溜まった。太刀川の、知らない場所だ、と思ったからだ。
 太刀川に倣って、こちらも覚悟を決めてズボンとパンツを再び下ろす。照れを出さないように、と思っていたのに太刀川が「おお」と感心するように言ったのが妙に恥ずかしくなって、それを誤魔化すように「なんかその反応嫌なんだけど」と迅はわざとらしく顔をしかめて返した。
 油断すると、頭がくらくらしそうになる。なんだこの状況、と思うけれど、これはただの抜きあいっこだ、太刀川さんにとってはただの利害の一致だし――と言い聞かせて迅の方から距離を詰めてみせた。
 こちらが触れるよりも早く、太刀川の方から手を伸ばしてきた。太刀川の指が遊ぶように迅の幹に触れて、既に張り詰めていたそこはそんな刺激とすら言えないような触れ合いにも感じてしまってぴくりと思わず肩が震える。負けじと迅も太刀川のものを握りこんで軽く扱いてみせると、太刀川が短く息を吐き出した。
 気持ちいいんだろうか。そう思って、前後させる手の動きを速くしてみる。人のものを扱いた経験なんてこれが初めてだが、自分でするのとやり方は大して変わらないだろうと考えた。太刀川の体が小さく揺れたと思ったら迅を握りこんだ手の動きも強くなって、耐えきれずに息を荒くしたのは今度は迅の方だった。
「……ッ、ぁ……」
 鼻にかかった声が抜ける。さっきも零していたけれど、今度は間違いなく太刀川に聞かれているだろうと思ったらかっと顔が熱くなる。恥ずかしい。だけど、それにすらどこか興奮している自分がいた。太刀川といやらしいことをしている、という実感がこの空気の密度を上げていく。
 扱く要領は一人でする時と同じだ。だけど太刀川の言う通り、一人でするよりずっと気持ちが良い。自分とは少し違う力加減で、予想できない動きに煽られて、しかもそれが太刀川の手だと思えばもうだめだった。
 迅の手より少しだけ大きくて骨張った、既にすっかり男っぽい太刀川の手。弧月を迅の知る誰よりもうつくしく操る手。
 指先が亀頭の境目のあたりを擦って、その性感に肩がびくりと跳ねた。刺激を受ける度自分の先端からとろりと零れ落ちる先走りがその太刀川の手を透明に汚していくのがたまらなく淫靡で、いけないことをしているような気持ちになる。そんな感情は同時に、迅にひどく興奮をもたらした。
 翻弄されっぱなしなのが悔しくて、こちらも太刀川のものを扱く早さを増してやる。迅の手が擦る度気持ちが良いのか太刀川の体がびくびくと小刻みに震えて、そんな姿を見せられてしまえば興奮で頭が灼けるかと思った。
 太刀川さんが、おれに触られて感じてる。
 その強烈な事実に、目眩がしそうに思った。
 太刀川を追い詰めればこちらだって同じだけ追い詰められる。体が熱くて、気持ちよくて、膝が震えそうになる。もっと欲しくなって無意識に体を太刀川の方に寄せれば、息を吸った時にふっと汗混じりのにおいが香った。
 自分のものとは違う、少し男っぽい――太刀川のにおいだ。
 そう気付いた瞬間、体の熱ががつんとまた一段階上がった気がした。
 本部は空調がしっかり効いているが、いつものように学校から汗だくで本部まで来てそのまま換装したから行きがけの汗がまだ生身の体に残っていたのかもしれない。それともこの行為で体温が上がって汗が滲んできたのか。そんなことを思って、しかしすぐにどうだってよくなった。
 太刀川の生身の身体の輪郭も、温度も、においも、そして触れたらこの人がどんな反応をするのかも、どんな風に感じてみせるのかも。
 こんなに近くにいたつもりだったのにずっと知らなかった。だけどもうおれは知ってしまった。知らないふりなんて、もう。
 ただの利害の一致。
 先程そう思って自分をいなしたことを思い出す。
 太刀川にとってこれは利害の一致であり、そして好奇心だろう。どうせ処理しなきゃいけないなら、こっちの方が気持ちよさそうだし興味が湧いた、くらいのこと。
 太刀川は一度面白そうだと思えば、躊躇わずそっちに突き進んでいく性質がある。それが性的なことであってもこんなふうに手を伸ばしてくるなんて、想像以上だったが――と思って、おれ以外にこんなことしたら嫌だな、という思いがふつふつと湧いてくる。
(こんなの、ただの嫉妬だろ)
 認めざるを得ない。でも、それならそれで、だ。
 太刀川にとってただの好奇心だとしても、本気じゃない戯れの延長だとしても、そっちがそういうつもりならそれ以上のものを刻んでやりたいと思った。こっちはそれだけじゃないのだ、もう。
 今日の昼間には手を伸ばす勇気なんてないと唇を噛みしめていたはずだったのに、翻った自分の強欲さに呆れる。でも知ってしまって、触れてしまってからはい割り切って忘れますなんて聞き分けの良いことはおれには到底できそうになかった。
 いつだってなんだってこの人の一番はおれがいい、と願う自分に気付いてしまった。
 ひどいわがままだ。まるで聞き分けのない小さな子どものようだ、と思う。分かっている。だけど。
 男にとって敏感な場所、先端の部分を指の腹で擦ってやると太刀川の呼吸が分かりやすく震えた。「ぅ、あ……っ」と零れた声に乗った色に、こちらの息も詰まりそうになる。迅の手の動きに感じて逐一反応する太刀川に、かわいい、なんてこの人に対して初めて思う感情が心の底から沸き上がって迅の頭を熱くさせた。
「……っ、じん、でる」
 熱っぽい声で太刀川が言う。こっちだってもう限界だった。
 もっとこの人をよくしたい。もっと気持ちよくなりたい。この人と一緒に――そんな欲のままに、壁に凭れるようにしていた太刀川の名前を呼ぶ。
「太刀川さん」
 彼が返事をする前に体を寄せて、二人分の性器を一緒に握りこんだ。性器同士が軽く擦れる感覚に、それだけで手でするのとは違う、ぞくりと粟立つような快感が背筋から駆けていく。そのまままとめて扱き始めると、太刀川の体が一際大きく震えた。そしてそれは自分だって同じことだ。
「ッ、な、じん、……っやば、」
「うぁ、これ、すご、……」
 思いつきでやってみたがその快楽の大きさに思わず声が零れる。荒い呼吸の太刀川も迅の手の上から重ねるみたいに一緒に握りこんで擦り始めたから、手の刺激と性器同士が擦れる刺激でそこからはもう駆け上がるように性感が膨らんでいった。ふたりきりの静かな個室に、ぐちゃぐちゃと淫猥な水音と互いの荒い呼吸の音ばかりが響く。そのことにぞくぞくした。
「きもちい、ね。たちかわさん」
 途切れ途切れにそう零した声は自分でも恥ずかしくなるくらいひどく甘くて、だけどそれに太刀川がこくりと頷いてくれたのが自分でも呆れるほどうれしかった。手も性器も体液もいっしょくたに絡んで、熱くて、互いの熱の境界が曖昧になっていることにくらりと興奮させられた。
 自分の先端に熱が集まる。頭の中が気持ちいい、ばかりになって何も考えられなくなる。も、むり、と心の中で呟いたのと同時に、耳元で太刀川の呼吸が震えるのを聞いていた。
「っ、ぁ――あ、……ッ!」
「ふ、……っ、うあ……!」
 ぶるり、と互いに大きく体を震わせたタイミングはほとんど同じだった。声を抑えることすらできず、駆け上がってくる快感を無防備に享受する。指先まで痺れるような感覚と共に性器から白濁が零れ、二人分の精液が互いの手を白く汚す。
 今までに感じたことがない、一人でするときとは比べものにならないくらいに気持ちが良かった。
 目の前がまだちかちかとしていた。力の入りにくい体で太刀川の肩に頭を凭れさせると、制服のシャツ越しに太刀川の体温を感じる。太刀川もトイレの壁に体重を預けて荒い息を吐き出していた。
 少しだけ顔を動かして、その横顔を盗み見る。
 無防備で、熱っぽくて、なのに男くさい顔。その表情に、心臓がぎゅっと掴まれたような心地になる。この人イくとこんな顔するんだ、と思って、熱を吐き出したばかりのはずの体がまた熱くなりそうだった。
 太刀川が、ふう、と長く息を吐く。横目でちらりと迅を見たので、何だかじわりと恥ずかしくなってさりげない仕草でゆっくりと体を離した。
「気持ちよかった、な、やっぱ」
「……ん」
 一人でする時は出せばすぐ冷静になるはずなのに、まだ余韻の中にいる心地だった。
 太刀川が緩慢な仕草でがらがらとトイレットペーパーを引き出し、色んなもので濡れた自分の手やら何やらを拭っていく。それを便器の中に放った後、もう一度トイレットペーパーを引き出して千切ったと思ったらそれを「ん」と迅に差し出した。
「……、ありがと」
 素直に受け取って、迅も手早く濡れて汚れた場所を拭う。その間に太刀川は普段の調子に戻り始めたらしく、パンツとズボンを履いてベルトを締めて身支度を調える仕草は先程までの緩慢さは消えていた。迅も余韻を振り切るように手を拭ったトイレットペーパーを水に流してから身支度を平静を装いながら整える。
 先程までの濃密な空気がふっと霧散していくのが分かる。それをひどく寂しくなんて思ってしまった自分に気付いて、また耳が熱くなりそうだった。太刀川はもう、さっきまでの熱に浮かされた顔なんてとっくに仕舞ってしまったというのに。
 元通り身支度を終えた迅を見て、太刀川がドアの鍵に手をかける。
「じゃあ、」
「太刀川さん」
 行くか、と言いかけたであろう太刀川をわざと遮って名前を呼ぶ。太刀川は不思議そうな顔で迅を振り返った。
 少しだけ逡巡して、だけどぐっと太刀川を見つめ返して言葉を続ける。
「……また、してもいい」
 なるべく声が揺れないように、さりげなさを装いながら聞いた。
 おれ以外にそんな顔見せないでほしかった。もっとおれに見せてほしかった。
 本当に欲しいものはもっと他にあると自覚しているくせに、ずるいやり方だとは分かっている。でもこれが今のおれの精一杯だった。精一杯で、だけどどうしても聞いてほしかったおれのわがまま。ぐちゃぐちゃに絡まった、おれ自身にすら解ききれないこの人への欲。
 おれはこの時間をなかったことになんてできないから、この人にもなかったことにしてほしくなかった。
 迅をじっと見た太刀川が、悪戯っぽい顔になって頷く。
「いいぞ。気持ちよかったしな」









(2022年8月25日初出)






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