あおいろの舌先
七月も半ばに差し掛かった昼過ぎの直射日光はいよいよ夏本番といった暑さで、大学から本部に辿り着くまでの時間だけですっかり着ていたシャツには汗が滲んでしまった。
暑さに顔をしかめながらトリガー認証をして本部のドアに体を滑り込ませれば、暑すぎず寒すぎずいつだって快適な温度に調整された空調が熱を纏った体を一気に冷やしてくれる。それに太刀川は生き返るような心地になりながら、着いたがどこに行こうかと考えた。
今日は会議も隊のミーティングも無く、特段決まった予定は無かった。やはりランク戦ブースかなと思うが平日のこの時間だと高校生以下の隊員はまだ学校だ。つまり人が少なく、誰も捕まらないかもしれない。ランク戦ブースを覗いてみて、誰もいなさそうだったら隊室で出水が持ち込んだマンガでも読みながらだらだらするか――。
(あいつが来てればいいんだけどなあ)
無意識に顎髭を触りながら心の中で呟く。これはただの願望だ。そんなことを考えながら廊下を歩いていると、先程脳裏に描いていたその人物がまさに廊下の奥の壁に凭れているのを見つけたので太刀川は驚いてしまった。
太刀川がその青い隊服に気付くのとほとんど同時に、相手も手にしていた端末から顔を上げる。薄茶色の前髪がさらりと揺れて、その向こうに覗いた青い目と視線が絡んだ。
「迅!」
気持ちが逸って駆け足で廊下を進めば、そんな太刀川を見た迅は機嫌良さそうな様子で先程眺めていた端末をズボンの尻ポケットに仕舞った。
S級だった頃よりは随分と来る頻度は高くなったとはいえ、ただでさえ所属が玉狛である上あちこち暗躍だとか言って飛び回っているこいつが本部に居るのは今でもそこそこ珍しいのだ。こっちが会いたいときになかなか顔を出さないくせに、たまにこうやってふらっとなんでもない顔で現れるからずるいやつだと思う。でもそれ以上に迅が本部に来ていることへの嬉しさと期待の方がいつも勝つ。
「来てたのかよ。ランク戦――」
だから逃げられないようにすぐランク戦に誘おうとしたが、迅は何かを企んでいるように口角をゆるりと上げながら、「それはまた後で。その前にさ、食堂行かない?」と太刀川の言葉を遮るように言った。
予想していなかった単語に、太刀川はぱちくりと目を瞬かせる。
「食堂? 昼は大学で食べてきたけど」
迅が昼飯がまだで腹が減っているということだろうか。別にそれならそれで付き合うのは構わないが、と思っていると、そんな太刀川の考えを読んだかのように迅はふるふると首を振った。
「あー、昼飯じゃないよ。いーからいーから。今日からっぽいんだよね~、だからおれも本部来たんだけど」
思わせぶりなくせに核心を言わない迅の勿体ぶり方に、ますます疑問は深まる。
「何がだ?」
「見れば分かるよ。行こ」
そう言って食堂の方に歩いて行く迅を追いかけながら、そうだ、と思って「後でランク戦も、絶対な」と念押しすると、迅は「はいはい。今日はこの後予定ないから付き合えるって」と肩を竦めながら返してきたのだった。
食堂に辿り着くと、いつもはないのぼりがささやかに入口の上で揺れていた。
夏になると街でもたまに見かけるそれ――青い夏らしい背景に、筆で書かれた「氷」の一文字。
「かき氷?」
太刀川が言うと、迅が楽しげに「正解」と言う。
「視えたからさ~。おれも食べたくなっちゃったし、この暑い中汗だくで本部に来た太刀川さんにも教えてあげようと思って」
言いながら迅は食堂の中に入っていく。それに続いて太刀川も食堂に入った。
今まで本部の食堂でかき氷があった記憶は無いので、どうやら今年から始めることにしたようだ。顔馴染みの食堂のおばちゃんに聞けば、若い隊員も多いから楽しんでもらえるかと思って、とにこにこ笑っていた。
メニューのラインナップはイチゴ、レモン、ブルーハワイ、メロンと夏祭りなんかでよく見る定番のシロップたちだ。迅はブルーハワイ、太刀川はレモンを注文すれば、小さなカップにストローの先端を加工したスプーンを刺して提供されたので、本当に祭りのやつみたいだなと思って太刀川はなんだか楽しい気分になる。
高校生以下の隊員はまだ来ていない平日昼間の食堂は空いていて、窓際の適当なテーブル席に迅と向かい合わせで座った。スプーンを手に持って一口目を口に運ぶと、甘くて冷たい塊が溶けて口の中をきんと冷やしてくれる。まだ外の暑さの名残を引きずっている体にその冷たさは心地良かった。
「いやー、懐かしい味」
「ん。外暑かったから、確かに染みるわ」
太刀川が言うと、迅はしたり顔で「でしょ?」と笑う。こちらとしては早くランク戦をしたい気持ちはあったが、確かにこの暑い日に食べるかき氷というのは美味い。こいつもしかしてその為に廊下で待ってたんだろうか、と思うと何だかいやに目の前の男に可愛げを感じてしまったが、直接言えば照れて拗ね始めてしまうだろうことは目に見えていたので言うのはやめておく。ここでへそを曲げられてランク戦やっぱなしと言われるのは御免だったからだ。
だらだらとどうでもいい話をしながら二人でかき氷を食べていると、ちょうど通りかかった橘高と藤丸がこちらを見て不思議そうな顔をした。
「あれ、かき氷?」
橘高が言うと、迅は「おー羽矢さんにののさん、おつかれ~」とひらりと手を振る。
「今日から始まったみたいだよ。夏季限定」
迅が食堂のカウンターの方を指して言えば、橘高と藤丸は顔を見合わせた。
「えー、懐かしい。見てたら食べたくなってきちゃうわね」
「なら早めの方がいいよ。中高生組が学校終わって本部来たら、大人気になって夕方には今日の分終わっちゃうっておれのサイドエフェクトが言ってる」
「マジか」
藤丸が迅の言葉にそう言って、橘高と「折角だし食べるか?」「ミーティングまでまだ時間あるしね」と相談し始める。そしてすぐに食べるという結論に至ったらしく、二人は「じゃあ食べてこようかな、ありがと迅くん」と言って食堂のカウンターの方へ去って行った。
かき氷を三分の二くらい食べ終わったところで、そういえば昔かき氷を食べたときに舌がシロップの色になったりしたよな、ということをふと思い出す。迅が食べているのはブルーハワイだから余計に分かりやすいだろう、と思いついてしまえば好奇心が抑えられなくなって、にやりと口角が自然と上がった。
「じーん。舌見せてみ」
「え、何」
脈絡なくそう言えば迅は戸惑ったような声を出したが、素直に口を開く。控えめに出された舌は予想通り真っ青に染まっていて、思わずけらけらと笑ってしまった。
「やっぱ青くなるんだなー」
「そりゃブルーハワイ食べたらみんなそうなるって。そう言う太刀川さんは、……やっぱちょっと黄色だね」
太刀川の口の中にちらりと視線を向けた迅がそう言って、おかしそうに小さく笑う。
「お、マジか。自分じゃ見えないからなー。でも青の方がインパクトあって面白かったかな」
「舌の色で味決めるもんじゃなくない?」
呆れ半分といった様子で迅が苦笑してから、再びスプーンでかき氷を掬って口に運んでいく。
開いた口から覗いた青い舌。その上にかき氷が一口乗って、じわりとその舌先の熱で溶けていく。
そんな様子をなんとなく目で追っていたら、心の中で何かが僅かに疼くような心地がした。
溶かされ、その白い歯で噛み砕かれたかき氷を飲み込むのと同時に、迅の突き出た喉仏が上下するのを太刀川はじっと見ていた。
(キスしたら舌の色って混ざんのかな)
そんな埒もないことをちらりと考える。視線に気付いた迅が、顔を上げて太刀川を見た。
自分たちのテーブルの横を、遅い昼休みだろうか、スーツを着た職員たちがわいわいと喋りながら通り過ぎていく。ここじゃ勿論試せないって流石に分かっている、が。
太刀川を見つめた迅が、ふっと目を眇めた。悪戯っぽい目。
後輩とかには絶対見せないような、子どもくさくて――そしていやらしい顔だ。
迅を見つめる太刀川を、見つめ返していた迅がゆっくりと口を開く。そして声には出さずに、唇の動きだけで太刀川に言った。
――あとで、ね。
そう言う迅の口の奥、暗いそこからまたちらりと青色に染まった舌が覗いて、それを見つけるたび暑さのせいじゃない類の熱が自分の内側で揺れる。
後で、ってランク戦についてもそう言ってなかったかとふと思い至る。ランク戦とそれと、どっちが先のつもりなんだろうなと太刀川は思って、まあそれはどっちからだって構わないなとすぐに思い直すのだった。