Magic hour




 投げ出した腕にうっすらとした風を感じた気がした。エアコンの人工的な風とは違う、もっとささやかで少しだけ生温さのある風。しかしその風はすぐに止んで、もとの纏わり付くような暑さに戻る。
 ぼんやりと意識が浮上して、太刀川は目を開けた。ぱちぱちと瞬かせると、部屋の中はまだ薄暗い。そして蒸し暑い。薄く汗をかいている。その次に気付いたことは、迅がいないな、ということだった。
 ごく一般的な広さの一人暮らしの太刀川の部屋はしんと静かだ。寝るときは隣に確かにいたはずなのだが、トイレにでも行っているのだろうか。そこまで考えたところで、ベランダに続く窓にかかっている大きなレースカーテンがふわりと風になびいたのが見えた。どうやら窓が開いているらしい。さっきの風はこれか、と合点がいくのと同時に、窓開けてたっけ、とまだ覚醒しきらない頭で思う。しかしよく見たらその奥に人影が見えて、ああなるほど、と太刀川は心の中で呟いた。
 ベッドから体を起こしそのまま立ち上がろうとしたところで、自分が上半身裸のままであることを思い出す。夜中、いや早朝? とはいえ流石にこれは、と思って、ベッドの下に脱ぎ捨てたままだったTシャツだけでも着ることにした。下半身は、まあ外から見えないだろうしこのままでいいか。
 Tシャツを身につけてカーテンをのれんみたいにくぐると、その奥には予想通りの姿があった。サンダルに足をつっかけてベランダに出れば、そのわずかな音に迅が振り向く。迅がこの部屋に来るようになって、ベランダ用のサンダルはいつの間にか二足に増えた。一緒に洗濯物を干したりしているときに、一足だと不便だなと思ったからだ。
「あれ、起きた?」
 外はまだ暗いと思っていたが、ちょうど夜明けの時間らしい。雲の隙間からほんのわずか、太陽の気配のようなものを感じる。いつもの迅の目は、まだ薄暗いせいで青とグレーの間くらいの色に見えた。
「起きた。暑かったからかな」
 太刀川が返すと、迅は「あー。この時間でも結構もう蒸してるよねえ」と苦笑した。
 どちらにしろ蒸し暑いが、風通しが良い外の方が部屋の中より幾分涼しく感じる。まだ眠気の名残のようなものはあるが、部屋の中よりこちらの空気の方が気持ちが良いと思ってベランダの手すりに凭れるようにしていた迅の隣に並んだ。迅も太刀川と同じように、Tシャツの下は下着のトランクスだけのようだ。どうせ同じことを考えたのだろう、と思ってそれが何だか楽しい気持ちを誘う。
「おまえこそ起きるの早いな」
 そう言えば、迅は頷く。
「おれは眠り浅いから」
「トリオン体で居すぎなんだろ」
「やー、耳が痛い」
 迅はわざとらしく肩を竦めてみせたが、しかしどうせ改善する気もないんだろうということが覗える。
「寝れなかったから涼んでるとか?」
 ふと思って太刀川は迅に聞く。確かに部屋の中よりこちらの方が涼しい。が、よく考えれば暑いなら別にエアコンを再びつけてくれても良かったんだが、ということに思い至る。まあエアコンの人工的な風より自然の風の方が心地良いというのは分からんではないが――と思っていると、迅は太刀川の方に顔を向けて「ああ、いや」とかぶりを振った。
「それもちょっとあるけど。……けっこー好きなんだよ、ここから見る景色」
 迅はそう言いながら、再び正面に視線を向ける。太陽の気配はより色を濃くして、空の淵を淡く光らせ始めていた。
「夜明けくらいの住宅街ってきれいじゃない? おれ割と好きなんだよね、この雰囲気」
 いつもの軽さもありながらどこか柔らかい口調で言った迅は、「それにほら」と正面のほうを指差して続ける。
「このベランダっておれらの高校の方に面してるじゃん。あれが三門第一高校。ちっちゃいけど。あっちの商店街は太刀川さんとの買い食いでよく行ったしさ――なんか見てると懐かしくもなる。だから余計にかな」
 懐かしむように目を細めて言う迅の横顔が楽しそうで、どきりと心臓が小さく鳴る。
 それは太刀川にとっても本当に楽しかった記憶だ。高校生の頃、他の何をするよりも迅とランク戦がしたくて、時間も忘れて戦り合って――本当に楽しかった、そしてそれはきっと迅にとっても。
 同じ記憶を、同じ気持ちを今なお、この男と共有できていることが嬉しい。
「……じゃあ、一緒に住むか?」
 そんな気持ちのままにぽろっと口から零れた言葉に自分でも驚いた。が、弾かれたようにこちらを振り返った迅の方がもっと驚いた顔をしていた。
 ああでも、なるほどな、と口にしてから自分で自分の提案に納得する。想像するとじわりとわくわくとした気持ちが生まれてくる。
 だってそれはもし実現したら、楽しそうだ。
「え、……まって、今そんな話の流れだった?」
 迅は動揺したように視線を彷徨わせている。いつもはなんでも分かったような余裕ぶった顔をすることの多いこの男のそんな顔に、かわいいやつ、という気持ちが芽生えて口角が緩む。こんなかわいい反応をされてしまえばもっとからかってやりたくなるではないか。いや、からかいというわけではなく、これは割と本気になってきてしまった話だが。
「ほら、ここからの景色が好きならここに住めばいつでも見放題だぞ」
 太刀川が言えば、迅は「いやそういう話じゃ、……」と言ってから言葉に迷うように口ごもる。そうして暫くなにやら「あー」だの「いや、」だのもにゃもにゃと口を動かした後、ゆっくりと息を吐き出すようにしながら太刀川に言った。
「……ここじゃ二人で住むには狭くない?」
「……あー、まあ」
 迅の指摘に、まあそれはそうだ、とは思う。いつもしているように迅が一晩泊まっていくくらいであればベッドが狭いくらいで何の問題も感じてはいなかったが、単身者用に設計されたこのアパートはごく普通の1Kで、二人で生活をするとなれば確かに狭い、かもしれない。いや今まで気になったことがないから迅とならそのくらい気にならないか、とも思うが――太刀川が顎に手をやってそんなことを考えている間、迅もなにやら考えるように唇を引き結んでいた。
 まだ蝉も鳴き始める前の早朝の住宅街は、二人ともが黙り込むとまるで何か違う世界にでも来たのように思えた。二人以外に音を立てるものがない世界は静かで、しかしそれは嫌な静寂ではなかった。空が段々と光る面積を増やして、街がうっすらと明るくなり始める。またわずかに風が吹いて、ふたりの髪の毛を淡く揺らす。
 揺れていた迅の目が、なにやら覚悟を決めたように再び太刀川を見つめる。
 先程は彩度が低く見えたその瞳は、空が明るくなったおかげで、鮮やかな青に変わっていく。太刀川の好きな色。透明な青が、朝日を浴びてきらきらと光る。
 ふたりきりのベランダ、街が目を覚ます直前、未だふたりきりの世界。
 迅が息を吸う音すら空気を揺らして太刀川の耳に届く。
「するなら、もっとちゃんと考えたい」
 迅の声はいつもより少しだけ固くて、それが迅の本気の言葉であることを伺わせた。迅の目がじっと、太刀川を射抜くかのように見つめている。
 思わぬ真剣さに少し驚いた。が、――もしかして迅は元々ちょっと考えてたりしたのかも、と思うと驚きは嬉しさにすぐに変わった。思いがけず大きく動きそうな事柄に、しかしわくわくと気持ちが疼く。自分にはサイドエフェクトがないから分からないが、迅の目には未来の俺たちはどう視えているのだろうか。まあそんなのは、互いの気持ちが同じならば辿り着く未来はきっと楽しいものに決まっている。
「なら、考えよーぜ。ちゃんと」
 迅の真剣さに感化されてしまった。まだ若干遊びのノリが混じっていた先程まで以上に本気でそう言えば、迅は一拍置いてから「うん」と頷く。
 何か新しいことが始まる時というのは、いつだってわくわくする。それが迅と一緒なら尚更。迅と過ごしてきた、教え込むみたいに積み重ねてきた時間がその証明だった。
 空はあっという間に明るくなって、降り注ぐ太陽の光が街に朝を告げる。明るく鮮やかになった世界の中で、少しだけ恥ずかしそうな、でも嬉しそうな迅の表情がいちばん近くに見える。
 今のことだけではなさそうなその顔に、何か視えてるのかと聞いてやろうかと一瞬思う。しかしそれは未来でのお楽しみにしておこうと太刀川は思い直した。




(2022年8月27日初出)






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