夏の夜のこと




 防衛任務を終えた迅が私用のスマートフォンのスリープモードを解除すると、一件の不在着信の通知が来ていた。
 発信元は太刀川。何の用件かというのは、留守電を再生しなくても視えていた。しかしまあ一応再生してみることにしようと思い、留守電の再生ボタンを押してスマホを耳元に当ててみる。と――
(いやあ、これはなかなか)
 思わず苦笑してから、留守電の再生を終えたスマホをポケットに仕舞う。こんな雑な誘いでも乗ってあげるおれやさしー、なんて心の中で嘯きながら、帰路とは逆の方向に迅は歩き始めた。



「おわ、もうみんなすっかり出来上がっちゃってんじゃん」
 席に辿り着くなりそう言えば、いつもとあまり変わらない顔をした東や冬島が苦笑しながら「おつかれ」と出迎えてくれる。諏訪も若干顔を赤くはしているものの口調はしっかりとしていて、「あの電話で来れたのか」と言いながら一人分のスペースを空けてくれた。
「視えたからね~、この店は来たことあったし分かったよ」
「なるほどな」
 諏訪が空けてくれた一人分のスペースに腰を下ろしたところで、店員が追加の箸や皿を運んできてくれる。そのタイミングで東がメニューのソフトドリンクのページを開いて渡してくれたので、さすが東さんと思いながらメニューを一瞥して、「じゃあジンジャーエールお願いします」と一杯目を注文した。
 さて他のメンツ――風間は起きてはいるし先程迅が到着したときも「迅」と言っていたのでこちらを認識してはいるようだったが、目は据わっていて完全に酔っ払っていることが知れる。
 そしてもう一人、迅をここに呼び出した張本人である太刀川はといえば、テーブルに突っ伏してすやすやと寝息を立てていた。どうやら迅がここに辿り着く前に眠ってしまったらしい。まったく人のことを呼び出しておいて、とは思うが、気持ちよさそうに寝ているものだから怒る気も湧かない。まあ美味しい夕飯を食べられるならいいか、というくらいの気持ちだし。
 先程の電話は明らかに酔っ払った声色をした太刀川からだった。あー迅? なあ今風間さんとか諏訪さんとかと飲んでるんだけどさあ、おまえも来いよ、というのを大変呂律の怪しい口調で言って、それで満足したのかそれだけで留守電は切れてしまった。店の名前も情報も何もない誘い、ひどい話である。
 かけ直してもよかったし他のメンバーに連絡をして店の情報を聞いてもよかったのだが、酒に弱い風間もどうせ酔っ払ってまともな受け答えは期待できないし、それ以外のメンバーは個人的な連絡先を知らなかった。それにどちらにしろ、顔を赤くしてへらへら笑いながらこちらに電話をかけてくる太刀川の姿と店の様子は未来視で視えていた。本部近くにある、ボーダー隊員に人気の大衆居酒屋だ。未成年なので酒は飲まなかったが迅も何度か行ったことがある店なので、それだけ分かれば改めて聞かなくても店には辿り着けたのだった。
「太刀川さん、何杯飲んでこの状態なの?」
「ビール一杯の時点で顔真っ赤、追加でハイボール半分飲んだ時点でこの有様だな」
「うわあ」
 太刀川さんって酒弱かったんだな~と呟けば、諏訪はA級一位の弱点見たりだなと言ってからからと笑った。諏訪は顔が赤いだけで受け答えはしっかりしている様子だが、やはり酔ってはいるのか普段よりちょっと笑い上戸な気がする。そんな様子を楽しそうに眺める東は何らかのロックのグラスを手に持っているが普段と全く変わらなくて、逆にそれもすごい。東さんは何杯目なんだ。
 迅が視えていたのは酔っ払ってこちらに電話をかけてくる太刀川の姿、そしてこの居酒屋の風景だった。その視えた時点でもなかなかだったが、現在はそれ以上にみんなひどいものである。
「おまえも来年はこうなるかもしれねーぞ」
「おれはもっと節度守って飲みます~、センパイたちのこんな姿見せられたらさあ」
 冗談めかして迅が言うと、諏訪がげらげらと笑う。やっぱり笑い上戸だ。店員が運んできてくれたジンジャーエールを受け取って、ぐいと喉に流し込む。きんきんに冷えた温度としゅわしゅわと弾ける炭酸がこの蒸し暑い夜に心地良い。
 聞けば今日は一応太刀川の誕生日祝い、という名目での飲みのようだった。本人はすっかり潰れているけれど、今日は八月二十九日――太刀川の二十歳の誕生日の当日である。
 防衛任務終わりにいつものメンバーで麻雀をして、その流れで飲みに来たということだ。だからこのメンバーなのだろうと迅は納得がいく。ちなみに風間は麻雀自体はしていなかったが、ちょうど本部で鉢合わせたのでそのまま一緒に来たらしい。
 今日が二十歳の誕生日ということは、こんなふうに居酒屋で酒を飲むというのも初めてのはずだ。誕生日ではしゃいでいる上に初めての飲みで自分の酒の強さを分からないまま飲んでしまったのだろう。アルコールにあっさり負けて真っ赤な顔でテーブルに突っ伏し、寝息を立てる姿はボーダーのA級一位も形無しである。
 勿論、今日成人したばかりの太刀川の酒の強さなど迅も知らなかったので少し驚きはした。ぐでぐでに酔っ払っているところは視えていたが、どのくらい飲んでこの状態なのかまでは分からなかったから。
「酒ってこえー、……あ、このからあげラスト一個もらうね」
 言いながらテーブルの上に残っていたからあげをひょいと箸で摘まんで口に放り込む。なにしろすっかり出来上がっている成人組と違って、こっちは夕飯自体まだなのだ。風間に何やら絡まれ始めた諏訪が露骨に嫌そうな顔をするのを横目に、「なんか頼むか?」と冬島が渡してくれたメニューを迅は眺め始めたのだった。

 明日は午前中から隊のミーティングがあるんだよな、と東が時間を気にし始めたのをきっかけにそろそろ帰るかというムードにようやくなったのは夜も更に深くなってきた頃だ。会計を済ませ店を出るという段になれば当然議題に上がるのは、一人で帰れるとは思えない前後不覚になった酔っ払いたち――太刀川と風間をどうするか、である。
 風間についてはまだマトモに歩ける状態の諏訪が嫌そうにはしながらも「適当に家に放り込んでおく」と引き受けてくれ――同い年で普段からよくつるんでいる分、こういうシーンには慣れているのだろう――、そして太刀川については諏訪から迅が指名された。
「こん中で太刀川の家知ってるのおまえくらいだろ」
 そう言われればぐうの音も出ない。そんなこんなで太刀川を送り届ける係は迅に決まって、店の前で解散する。
「悪いな」
 結局ずっと素面と変わらぬ顔色のままだった東にそう言われた迅は、肩に大の男の体重をしっかりと感じながらも「や、……だいたい視えてたんで」と空いている手をひらひらとさせて苦笑した。
 最初の時点で、もうここまでセットで視えていた。それでも来ることを選んだのは自分だ。
 この居酒屋は警戒区域にほど近い場所にあるゆえにボーダー隊員の利用が多い。警戒区域近くのアパートで一人暮らしをしている太刀川の家もそう遠くないのは幸いだった。
 他のメンバーは帰路が別方向だった為一人で――正確には肩に抱えたもう一人を半分引きずるようにしながら夜道を歩く。警戒区域が近いこのあたりは基本的に人通りは少なく、飲食店のある通りを離れればたまに車が通る音がするくらいで静かなものだった。今日は警戒区域のほうも門があまり開いていないようで、そちらからもほとんど音はない。
 夏ももうすぐ終わるというのにまだ蒸し暑い夜だ。肩に抱えた太刀川の温度も生温くて、触れたところから暑い。体温高いな、と一瞬思ってから、まあ酔ってるせいもあるかと思い直した。
(確かこの道だったよな)
 数ヶ月前の記憶を辿りながら歩く。太刀川の家を知っている、と言っても数ヶ月前に一度行ったきりだ。なぜ知っているかというと、その一人暮らしのアパートへの引っ越しを迅が手伝ったからだった。
 太刀川は実家も今も三門市内にあるが、大学生活も慣れてきたこと、防衛任務や遠征任務なんかでスケジュールが不規則なことも特に多く、また太刀川の実家はボーダー本部からは若干遠いため「本部の近くに住んだ方が楽」ということで大学二年に上がるタイミングで一人暮らしを始めたのだ。そしてその時に、手伝ってくれ、と白羽の矢が立ったのが高校を卒業したばかりで進学せず時間に融通のきく――というのが太刀川の言い分だったが、実力派エリートは忙しいんだよと言っても聞いてくれなかった――迅だった。
 一度行ったきりの道だったが、どうやら自分の記憶力はだいぶ優秀だったらしい。さほど時間もかからずに見覚えのある太刀川のアパートが見えてきて、流石おれ、と内心で自画自賛をした。
 敷地内に入って、太刀川の部屋の前に辿り着く。太刀川の部屋は二階の角部屋だ。いつものようにトリオン体だったからよかったものの、生身だったら自分で歩く気のない大の男を担ぎながら階段を上がらなければいけないことになっていたのできつかったなと思う。
 結局太刀川はあの後もたまに起きたり起きなかったりで、最終的にはまたこの通りほぼすやすやと寝ているような状態だ。いやあ、酒ってこえー、と居酒屋でも思った感想をまた思うが、しかしちょっと今はまた起きてもらわないと困る。
「太刀川さーん、着いたんだけど。鍵どこ?」
「ん~……」
「ちょっと、また寝ないでよ。鍵ないと家入れないんだけど」
 声をかけると辛うじて呻くような反応は返ってきたものの、まともな返事を貰えそうな気配はない。そして息がアルコールくさい。
 とにかく鍵を貸して貰わないとどうにもならないと、適当に太刀川の服のポケットを探らせてもらう。今日太刀川はカバンは持ってきていないようだったから、ポケットの中のどこかだろう。ぺたぺたとズボンのポケットにそれらしい感触がないか確かめて、尻ポケットの辺りを上から撫でるように手を滑らせると何だか別のことをしているみたいで妙な居心地の悪さがあった。その奥にちらりと見え隠れする変な気を起こさないように、鍵、鍵、と心の中で呟きながらポケットをまさぐる。しかし一通りポケットを探ってもそれらしき感触は見つからなくて、どうしたものかと思ったところでふと思いつく。
「あー、ちょっと借りるね」
 どうせ本人の耳には届いちゃいない宣言をしてから、迅は尻ポケットに突っ込まれていた財布を引っ張り出す。勝手に開けることに罪悪感が全くないわけではないが、これは起きて鍵を貸してくれない太刀川の方が悪い。そう結論づけて財布を開くと、ビンゴだ。その中に入っていた鍵を取り出して、ようやく部屋の鍵を開ける。
「ほら太刀川さん、家着いたよ」
 ドアを開けて玄関に太刀川を転がすとようやく肩の重さが消えて迅はほっと息を吐く。トリオン体のおかげでそこまで体力的にきつくはないものの、自分と大して体躯の変わらない酔っ払いを運び終えたという開放感は大きい。
「んん、……迅?」
 玄関の床に転がされた太刀川はそれでようやく意識が浮上したのか、薄く目を開けてぼんやりとした声色でそう呟く。どうやらこちらのことは認識できているらしい。それは何よりだ。
「はいはい、実力派エリート迅悠一ですよ。甲斐甲斐しくここまで運んであげたんだから、今度なんか奢ってよね」
 言いながら手探りで電気をつければ廊下がぱっと明るくなる。それが眩しかったのか太刀川がぱちぱちと緩慢な仕草で目を瞬かせるが、その表情はまだぼうっとしていた。顔が火照って赤い。普段からぼんやりしているといえばしている人だが、こういう類のぼんやりした様子を見るのは初めてだった。酒弱かったんだなこの人、ということを改めて思う。
 とりあえず家までは運んであげたけど、さてここからどうするか、と思ったところで迅をじっと見ていた太刀川が口を開く。
「……じん、おまえさあ」
「なーに、太刀川さん」
 普段よりずっとのったりとした眠たそうな声音。まだ酔っ払って意識がふわふわとしている状態なのだろう。どうせこの状態で言うことなんて酔っ払いの戯れ言だろう、という気持ちで適当に返すと、太刀川が言葉を続けた。
「ランク戦、来いよ」
 思わず一瞬、息をするのを忘れた。
 仮想の体にはないはずの心臓が、大きく音を立てたような錯覚をした。太刀川の方を見やれば、太刀川は何やらもにょもにょと唇を動かした後再びすうと寝息を立て始めてしまう。
 二人きりのしんと静かな部屋の中に太刀川の寝息だけが響いていた。もし生身だったら、自分の心臓の音がばくばくとうるさく聞こえていたかもしれない。詰めていた息を、意識的にゆっくりと長く吐き出す。
 なんなんだ、そんな、今になって。
 いや、今になるまでこの人はずっと。
「……行かないよ。行けない。しってるでしょ」
 どのくらい経っただろうか。そう呟くように吐き出した音は、ひどく頼りなくて自分でも笑えた。その言葉はきっと、廊下のフローリングの上ですやすやと気持ちよさそうな顔で寝入ってしまった太刀川には届いちゃいないだろう。

 気持ちよさそうに寝ているとはいえ流石にこのまま床に転がしておくのは可哀想かと思って、どうにかまた太刀川を引きずってベッドの上に転がしてやる。今度は本格的に眠ってしまったのか、結構雑にベッドの上に放っても太刀川は起きはしなかった。ここまでしてやれば褒められこそすれ、文句などないだろう。
 居室の中は、迅が引っ越しを手伝った当時の部屋の様子は見る影も無くごちゃごちゃで呆れてしまった。ゴミ屋敷というわけではないが、とにかく生活感がものすごい。使ったものを元の場所に戻すとか、整理整頓するとか、そういう概念がないのだろう。服やらカバンやらマンガやらが雑然と放置されている。まあこれは太刀川隊室の様子を見ればさもありなん、という感じではあるが。
 一仕事終えた、という開放感で迅は再び小さく息を吐く。さておれも帰ろう、と思いながらも、つい太刀川の方をちらりと振り返ってしまった。太刀川は迅の気も知らず、赤い顔のままベッドの上で大の字になって眠っている。典型的な酔っ払いといった様相だ。
 さっきの言葉がまだ、頭の中で響いている。

 迅がS級になってランク戦を離れたのは、もう三年ほど前になる。
 あの夏の名残の残るような秋の日に、風刃の争奪戦が告知された。太刀川は風刃を起動できなくて、迅は風刃を起動できた。
「おれは風刃を獲りに行くよ」と太刀川に宣言したとき、風刃争奪戦前最後の太刀川とのランク戦のとき、迅が風刃争奪戦で勝ち残った後にそれを見ていた太刀川と顔を合わせたとき。そして迅がS級になって以降に太刀川と会ったときだって、太刀川は迅を引き留めるようなことも引き戻そうとするようなことも言わなかった。わかったと、おまえがそうしたいならすればいいだろと一度だけ言って、この三年間迅の行く道をただじっと見ていてくれた。
 太刀川は今でこそ再び個人総合一位に返り咲いたものの、ほんの少し前までは違った。原因は迅がランク戦を離れたから、らしい。迅がランク戦を離れて以降太刀川がしばらくランク戦のやる気を微妙に失っているようだ、と迅は人づてに聞いたことがある。実際あれからしばらくの間、太刀川は迅と競い合っていた頃ほどランク戦ブースに通い詰めてはいないようだったのだ。戦り合う回数が減った、だから順位を抜かれたという簡単な話だ。
 しかしその時期だって、太刀川は迅に「戻ってこい」なんて一言も言わなかった。迅がS級になって以降もそれなりに同僚として友人としての付き合いは続いていたが、顔を合わせればへらりと笑って、「食堂の新メニューにコロッケうどんが入ったんだよ」とか「宿題やりたくね~」なんていつもみたいに呑気な調子で言っていた姿しか迅は覚えていない。
 今になるまでずっと、この人はそれを言わないでいてくれた。

(……たぶん、あれが本音だろうな)
 それを言ったってどうにもならないことを、あの日の迅の選択には当時の迅なりにどうしても譲れない強い覚悟があったことを、太刀川は分かってくれていた。だから言わずにいてくれた。その気遣いを迅も心からありがたいと思う。
 だけどきっと、本当は。
(三年、かあ)
 改めて数字にしてみれば、もうそんなに経ったのかと驚いてしまった。
 三年も経てばいろんなことが変わる。ボーダーを辞めたやつも戦闘員から本部運営やエンジニアに回ったやつもいれば、それ以上に新しい隊員も沢山入ってきた。隊も沢山できて、個人ランク戦は勿論あの頃はまだなかった隊でのランク戦もすっかりボーダーの育成・評価システムとして定着している。
 迅がA級を外れたことなんてもうとっくに過去のことで、新しい歯車でボーダーは動いている。
 それなのに。
 そう思えば、迅は思わずぐっと唇を噛みしめていた。沸き上がってくるこの感情を、どう処理すれば良いのか咄嗟に分からなかったからだ。
 S級になるとランク戦への参加資格は無い、けれどもしも本当にまた戦り合いたいなら手段が全く無いわけではない。ポイント移動のない模擬戦として、あの頃と同じトリガーセットのノーマルトリガーに一時的に持ち替えて戦うならば何の問題もないはずだ。
 だけどそんな中途半端なことを、この人に対してだけはしたくないと思っていた。
 この人と戦うなら、自分の百パーセントで、全身全霊で挑みたい。それがこの人に対する礼儀だと思った。この人のことに対しては意固地になる自分を昔から自覚していた。だけどもう仕方がないのだ。
(……それに)
 迅はゆっくりと瞬きをした。
 うっすらと視えている、未来がある。
 多分、冬頃か。まだ確定はしていない。分岐は沢山ある。だけど少し前から、その未来に繋がる色んなことが動き始めている気配がある。
 どうなるかなんて、まだ迅にも分からない。その未来の結果だって未確定だ。その先のおれたちのことだって。
 もしかしたら――かもしれないし、今回はまだそうならないかもしれない。おれの感情だけで決められることじゃなさそうで、おれはみんなのより良い未来のための選択をいつものようにするだけだ。
 だけど。
「……太刀川さん」
 ぽつりと小さな声で話しかけても、太刀川は反応しない。すやすやと寝息を立てているだけだ。そのことに安心する。
「どうなるかわかんないし、おれの意思だけで決められることじゃない。意外とすぐ何か変わるかもしれないし、もっと先のことになるかもしれない――ずっと、戻らないかもしれないけどさ」
 こんな言い訳じみたこと、この人が起きている間には言えない。喋りながらそう迅は思う。
 三年間、ずっと言わないできた。きっと互いにそうだ。言うつもりもなかった。
 今夜だけだ。
 太刀川さんはきっと素面だったら一生言わなかったし、おれだって太刀川さんが酔っ払って寝てなかったら一生言わなかった。
 すう、と自分が遠慮がちに息を吸う音が、しんと静かな部屋の中にいやに大きく響いた。
「わがまま言うだけ言わせて。……おれのこと、待っててよ、太刀川さん」
 ひどいわがままだと分かっている。だけど、欲しくなってしまう。願ってしまう。この人に対してだけ、ずっとおれは意固地なままだ。今だってずっと。
 言い終わって、部屋にまた静寂が落ちる。太刀川は何の反応もせず、ベッドの上で気持ちよさそうに眠るばかりだ。そのことにやっぱり迅は安心する。
 太刀川の寝顔を少しの間見つめた後、迅はふっと肩の力を抜いてベッドから離れた。おれももう、帰らなくては。別にもう高校も卒業して夜遊びを咎められる歳ではないが、明日レイジさんが作ってくれる朝食は美味しそうだからさ。
「太刀川さん、明日の二日酔いしんどそうだからがんばってね~」
 残念ながらこれはもう確定している方の未来だ。呑気な顔で寝ている太刀川に、迅はいつもの軽い調子で言う。足元に積んであるマンガやら服やらを踏んで転ばないように気を付けながら進んで居室を出るところで、そうだ鍵はどうしよう、と思ったが、施錠した後ポストに入れておいてそれをメールで伝えておけばいいかと思った。紙とペンがあれば書き置きでも残しておきたかったのだが、生憎持ち歩いてなんていないし、この物が散乱した部屋の中から適切なものを見つけられる気もしなかった。
 玄関でブーツを履き直してドアに手をかけようとして、ふと思い出す。どうせ聞こえてないけど、と思いながら居室の方を振り返って、口元に手をやって迅は先程よりも少しだけ大きな声で言った。
「言い忘れてた、誕生日おめでとう」
 満足して、今度こそ部屋を出る。施錠してそのまま鍵をポストに入れると、カランと小さな金属音が聞こえた。
 もう結構な時間だというのにまだ外は少しだけ蒸し暑さが残る。暑いのは基本的に苦手だ。だけどこういう夜の空気は、迅は嫌いというわけじゃなかった。
 高校生の頃、太刀川と散々ランク戦をした後の帰り道と、同じ空気のにおいがするからだ。



(2022年8月29日初出)






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