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 テーブルの上に放っていたスマートフォンの通知音が何度も繰り返し鳴って、何だと反射的に思った後すぐに合点がいく。もう日付が変わったのか、と太刀川は心の中で呟いた。
 今日――正確に言えばもう昨日――は夜までの防衛任務シフトだったから、ついさっき帰ってきて風呂から上がったばかりだった。まだ髪も乾ききっていない。どうせこの季節は暑いからとついドライヤーを使わず横着してしまいたくなる。元より癖毛気味の髪だから、完全に自然乾燥にしてしまえば翌朝痛い目を見るのは経験則で分かってはいるのだが。
 メッセージアプリの通知が先ほどまで沈黙していた画面にいくつか連なっているのが遠目から見える。誰からかな、と少しうきうきとした気持ちで座っていたベッドから前屈みになってスマートフォンに手を伸ばしかけた時、カタン、とベランダの方から小さく音がした。
 反射的に顔を上げる。音がしたベランダを見れば、そこにはよく見知った男が涼しい笑みを湛えて立っていた。
 レースのカーテンが風でふわりと揺れるのと一緒に、その薄茶色の髪と青いジャケットも軽やかに風に揺れる。ベランダの窓は薄く開けたままだったので、その風はすぐに太刀川のもとに届いた。夏の盛りよりは幾分涼しくなった夜風が、風呂上がりで火照り気味の体を柔らかく冷ましてくれる。だけど同時に、体の内側から別の熱の欠片が淡く灯ったようにも思う。暗い夜の空の中、迅の青い目だけがひかっているように見えた。
 まるで当然の権利、とでも言うように迅がその薄く開いた窓を開ける。部屋の中に入ってくる直前に換装を解いて生身に戻った。Tシャツにチノパンのラフな姿だ。履いていたサンダルをベランダに脱いで、裸足の迅が部屋の中に入ってくる。
 迅はたまに、こうして太刀川の部屋に訪れることがある。窓から。別にここから入ってくる必要性は全くないのだが、迅曰くこっちの方が楽、ということらしい。太刀川の住むアパートは入口の階段が奥まった場所にある上に、太刀川の部屋は一番奥だから正規のルートで入ろうとすると無駄に辿り着くまでが長いのだ。ベランダがある方は警戒区域に面していることもあって、夜にもなればほとんど人目はない。太刀川の部屋は二階だが、換装すれば上がってくるのに何の問題もなかった。
 しかしなんだかんだと理由を並べながら、結局迅はこの少し露悪的な遊びを楽しんでいるのだろうと思う。窓から入るという行儀の悪さ、普通だったら良くないとされることをするスリル、それを許されている優越感。普段玉狛の連中といるときや本部で実力派エリートとか言って先輩ぶる顔には滲ませないその悪ガキめいた発想は、かつて互いに高校生だった頃、太刀川とよくつるんでいた時期にたまに見せるものだった。そしてそれは、太刀川だって共犯だ。迅がここから来るということを分かっていて、この窓は大抵いつも鍵を開けている。
 裸足の足音を鳴らしながら、迅が部屋の中に入ってくる。太刀川の目の前に立って、迅はふっと微笑んで口を開いた。
「太刀川さん、お誕生日おめでとう」
「おお。ありがとう」
 そんな一往復のやりとりの後、迅が座っている太刀川の足を跨ぐようにして乗り上げてくる。腕を肩に回して、距離が詰まる。
「今年はおれが一番だった?」
 太刀川の目を見つめながらまるで挑むように、でもどこか楽しげに迅が言うので太刀川は思わず笑ってしまった。
「そここだわるのか?」
「まあ別にいいっちゃいいんだけどさ――でも」
 そう言ってから、迅はす、とその青い目を細めた。
「折角なら、太刀川さんの全部で一番になってやりたくなっちゃって」
 おれ、思ったよりわがままみたい、と迅は開き直ったように口角を上げて笑う。
 明るい部屋の中にいても、相変わらず、迅の青い目は天井の灯りよりずっと煌々と光ってみえた。いや、ぎらついている、との中間くらいかもしれない。
 それはかつての日に、太刀川を殺すための武器スコーピオンを作り上げて太刀川の前に立った時に湛えていた光と、とてもよく似た。
「おまえがわがままなのは今に始まったことじゃないんじゃないか?」
「ひでー、太刀川さん」
 太刀川が素直な感想を返すと、迅はその言葉の反面気を悪くしたような様子はなくけらけらとおかしそうに笑っていた。緩んだ口調と声色。昔馴染みや気を許している相手にしか出ないものだ。
 別にいいっちゃいい、なんて言いながら、どうせ視えていて来たのだろう。日付が変わった直後、太刀川が同僚や友人たちからの連絡を見る直前をわざわざ見計らって。
「それでわざわざ?」
 太刀川が聞くと、迅は頷く。
「もう我慢とか、しないでいようと思ってさ」
 迅が言葉にもたせた含みに何を指しているのかと一瞬考えたが、きっとこいつなりに思うことがあるのだろうと太刀川は思った。ハナから我慢なんてしなくていいのになと思うが、付き合い始めて数ヶ月、段々とわがままを言うことを己に許し始めた迅を見ているのは太刀川にとって楽しく喜ばしいばかりだった。
 性質たちが悪いやつ、と思うこともある。しかしそれこそが太刀川にとって迅の好きなところの間違いなくひとつだからだ。
(俺の全部で一番、か)
 そんなのもう、とっくに――と言いかけて、止める。あえてこいつの好みそうな言い方をしてやりたくなったからだった。
 太刀川は基本的に分かりやすいものが好みだが、この男との駆け引きは嫌いじゃない。むしろ好きだった。そうした時に熱が灯る、俺を欲しいと目の色で伝えてくるこの男の顔を見ることも。それも迅との楽しい遊びのひとつだった。
「じゃあなってみせろよ。俺の全部で一番」
 目を細めて、にやりと太刀川は迅に笑ってみせる。
「楽しみにしてるからな、迅」
 太刀川の言葉に、見つめ合った迅の目に熱が灯る。
「ほんとおれを煽るの上手いよね、太刀川さんってば」
 言った後、こちらが反応を返す前に迅の顔が近付いてくる。すぐに唇を奪われて、こちらの熱もぐんと上げられる。
 唇が触れる直前至近距離で見た迅の顔はそれは楽しそうで、これだからやめられないのだと、もともとやめる気なんてないくせに太刀川は思って口付けをより深く強請ねだるように迅の頭を引き寄せた。


(2022年8月29日初出)






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