やきいもの日
いしやーきいもー、という馴染みのある音が遠くに聞こえて、お、と迅はそちらの方に顔を向けた。普段であればあー秋だなぁ、と聞き流してしまうその音に思わず反応してしまったのは、ちょうど昨日太刀川が何気ない会話の中で「焼きいも食べたい」と言っていたことを思い出したからだ。
時刻は夕方に差し掛かった頃である。通常であればこの時間はまだ仕事中なのだが、今日は急ぎの仕事もあまりなく、このところ残業が込んでいたので林藤に「今日は早く上がれ、迅。あとはこっちでやっとくから」と半ば上司命令といった感じであれよあれよと早上がりをすることになったのだった。
書類仕事が山ほど積み上がっているときは流石にうんざりすることもあるが基本的に仕事は嫌いではないので、定時まで働こうが残業が増えようが構わない。だがこうして日が落ちる前にのんびりと街を歩いて帰るのはやはり気持ちが良いものだな、と迅は思う。
学校帰りの子どもたちの元気な声が響く夕方の街、涼しい秋の風を感じながら迅はくるりと方向転換をして先ほど音がした方に足を向ける。今日の太刀川は先日まで行っていた遠征の代休により非番で、日中は出かけて夕方には帰る予定とのことだ。迅が今日早く帰ると連絡をした時も、だいたい同じくらいの時間に帰ると言っていた。
帰宅時間が同じくらいなら、夕飯前にちょっと小腹を満たすのにちょうどいいだろう。お土産に喜ぶ彼の顔を想像して、つい頬が緩みそうになる。昔であれば未来視で先取りで知ることができただろうが、今はそれがないことが逆に別の楽しみももたらすことを知った。年齢と共にゆるやかに減衰し始めた未来視は今も完全に失われたわけではないのでやろうと思えば視えないこともないだろうが、敢えてしない。未来を先に知れない人生の面白さを迅に側で教えこんできたのは、紛れもなく昔から予知を覆すと言って憚らなかった彼だった。
音を頼りに道を進んで、細い角を曲がれば目的の車がのんびりとした速度で走っていた。鼻孔を美味しそうな焼きいものにおいがくすぐってくる。迅は「すみませーん」と呼び止めて、車の方に駆け寄っていった。
買ってきた焼きいもをキッチンに置き、ソファに凭れて一息ついたところで玄関の鍵が開く音がする。あ、ほんとに同じくらいの時間だな、と思っていると廊下から足音が響いてリビングのドアが開いた。
「太刀川さん、おかえり――」
ドアの方に顔を向けてそう言うと、現れたその人の手の中にあるものに思わず目がいってしまった。
「ただいま。さっき帰りでちょうど焼きいも売っててな」
買ってきたぞ、とその手の中にある見覚えのある紙袋を掲げて太刀川がどや顔でそう言うものだから、迅は思わずぶは、と吹き出してしまった。
「うっそ、おれも買ってきたとこなんだけど!」
「なに?! マジか」
目を丸くする太刀川がおかしくて迅はまた声を出して笑ってしまう。太刀川はキッチンの方を一瞥して同じ紙袋を見つけたようで、「マジだ」と鷹揚に笑っていた。
ソファの背もたれに腕を凭れさせて、迅はまだ笑いがおさまりきらないまま言う。
「うわ~、未来視効いてた頃ならこんなミス絶対しなかったのにな」
昔であれば視ようとしようがしまいが視界の中にほぼほぼ常に未来視のウインドウが開きっぱなしのような状態だったのだ。意識的に視ないように気を逸らすことはできても自分の意思で完全に閉じるということはできなかったので、きっと今回だって先に太刀川が焼きいもを買って帰ってくることを自然と知ることができただろう。敢えて未来を視ようとしなかったことが仇になった。昔だったらしなかったであろうこんな凡ミスがくだらなくて、いやにおかしくてしょうがない。
くつくつとまだ小さく笑っている迅を見て、近付いてきた太刀川はにまりとなぜか得意気に笑う。
「未来視のない世界も面白いだろ」
ああ本当に、これだから。
先ほどまでとは別の理由で口角が弧を描く。迷いなく、皮肉でも憐憫でもなく、ただただ素直にそう言ってのけるこの人を好きだな、と思った。
「悪くないね。悪くないけど、どうする? 何個買ったの?」
「俺とおまえで二個ずつ」
ソファの迅の隣に座って太刀川が紙袋の中身を見せてくる。どれどれ、と見れば芋が予想以上の大きさだったのでまた笑いの虫が復活してしまった。
「いや、デカくない?! 二個って言ってもボリュームすごいんだけど」
「なんか焼きいも屋のおっちゃんと話してたら盛り上がってサービスしてもらった」
「ほんと、変なとこ人たらしだな~。おれは一個ずつだから一人三個ね。……ねえ、夕飯入る? これ」
夕飯前のちょっとしたおやつのつもりで買ってきたはずが、この量となるともはやおやつどころではない。
「三つならいけるだろ」
「焼きいもって結構腹にたまるでしょ」
「まあそんときはあれだ、今日は焼きいもの日ってことで」
太刀川が真面目な顔でしれっとそんな提案をするのでまたおかしくて迅は笑ってしまう。太刀川を見ていると、夕飯もまだ作ってはいなかったしたまにはこんな日もいいか、なんてあっさりと思えてしまった。
「まーいっか、それで。とりあえずほかほかのうちに食べようよ」
さっきから香ばしいにおいがお腹を刺激して仕方ないのだ。そう思って言えば、太刀川は「さすが迅だな」なんて返してくる。何を褒められたのやらと呆れ半分くすぐったい気持ち半分になるのだが、そう言って満足げに笑う太刀川の顔が好きな顔だったので、それだけでまあいいかとやっぱり思えてしまうのだった。