とくべつあつかい
枕の横に置いていたスマートフォンがぶるりと震えて通知を知らせる。誰だ、と思いながら気怠い体を動かしてスマホを手に取れば、通知欄に表示されていたのはいつもだったら喜ぶ相手とメッセージだ。いや、今だって嬉しくないわけではないのだが、このタイミングかよという悔しい気持ちもつい沸き起こってしまう。
『今から行っていい?』
いつもと変わらないシンプルなメッセージ。送信者は迅だ。
迅からの連絡は久々で、ここ最近本部でも会っていなかった。大方また気になる未来でも視てあれこれ暗躍して、それが落ち着いたから太刀川に連絡してきたといったところだろう。いつもであれば嬉々として、いいぞ、とすぐに返してやるところなのだが、今日はあいにくだ。
『悪い。風邪引いて寝てるから今日はダメだ』
いつもよりだらだらと緩慢な手つきで返信を入力して、送信ボタンをタップする。既読はすぐについたと思ったら、それから数秒も経たないうちに今度は電話がかかってきた。発信元はもちろん、迅である。
「あーもしもし、じ――」
『太刀川さん風邪引いてんの!?』
スマホを耳に当てた途端勢い込んだ迅の声が耳に飛び込んできて、そんな驚いているというか焦っているような迅の様子が珍しくて少し笑えてしまう。久々に聞く迅の声に高揚する気持ちも同時にあった。
「いやーそうなんだよな。熱、咳、あと喉もちょっと痛い」
言いながら、げほ、と小さく咳き込んでしまう。ああなんて間が悪い、と内心で歯噛みする。折角こいつと遊べるかもしれなかったのに。風邪なんてしばらく引いていなかったのにどうして今日なのか。
「まあ一日寝てれば治るだろ。だから今日は、」
風邪うつしちゃ悪いから来るなよ。そう言いかけたところに、迅が被せてくる。
『なんか欲しいもんある? ご飯食べた? 喉痛いなら喉通りやすいものがいいよね……まあそれはうどんでいいか』
迅は独り言のようにぶつぶつと勝手に一人で納得してから、言葉を続ける。
『とりあえず今から行くから。大人しく寝ててよ』
言葉を挟む暇もなく早口でそう言った迅が、一方的にぶつりと電話を切った。話聞けよ、と思わないではないが、珍しく焦ったような迅の様子にどうも悪い気はしないのだから困る。
(大丈夫だから来るなっつってんのになあ)
そう思いながらも、熱と体の怠さで鈍った思考力ではそれ以上なにか考えるのが億劫になってしまう。まったく、と呆れる思いと、迅が来るということについ感じてしまう高揚と、先ほどの迅の様子を面白く思う気持ちと。色んな感情がない交ぜになりながらも、それらすべて深追いするのを放棄して太刀川はスマホを元の場所に置き直し、そのまま重い瞼を閉じたのだった。
玄関から控えめにドアが開く音が聞こえた気がして微睡んでいた意識が浮上する。なんだ、と思ったすぐ後に、迅か、と少し前の電話のことを思い出した。寝ていたような、寝ていなかったような。基本的に寝起きのいい自分にしては珍しくぼんやりとしたまま薄く目を開けると、少しの間の後居室に顔を出したのは予想通り迅だった。
「……あ。ごめん、起こしちゃった?」
こちらを見た迅が少し申し訳なさそうに言うので、太刀川は顔を軽く迅の方に向けて返す。
「いや? 起きてた」
本当に起きていたかといえば微妙なところではあるが、まあこのくらいの嘘はいいだろう。普段であれば迅をあえて困らせてみたい気持ちもないではないが、今の迅の様子だと本気で受け取って謝ってきそうだ。そんなことを考えていると、けほ、と小さく空咳が出る。
(つーかそうだ、マスク……)
迅が来る前につけておけばよかった、と今更に思うが、でもどうにも動くのが怠いという気持ちもあった。そもそも使う機会もあまりないため、どこにしまい込んだのかというところから思い出さねばならない。しかし流石に、と思ったところで迅の姿を改めて見て気付く。
「あー、トリオン体か。頭いいな」
「そう。だからうつすとか気にしなくていいよ」
迅の格好はいつも本部で見るのと同じ、青いジャージの隊服だ。私服も傍目には大して変わらない男だが、今のこれはトリオン体の方だろう。そうでなければこの寒空の下、こんな薄着で来るはずもない。
なるほど生身じゃないなら風邪の菌は恐らく効かないだろうと納得する。トリオン体の詳しいことまでは技術班ではない太刀川には分からない部分も多いが、トリオン体に攻撃する目的で作られたウイルスならともかく、玄界の普通の風邪の菌がトリオン体に左右するとは考えにくい。流石に迅にうつすのは悪いと思っていたので、その心配がなさそうだということに少しほっとする。
迅がベッドのそばまで来たので体を起こそうとすると、すぐに「いいよ」と押しとどめられる。迅は片手に持っていた買い物袋二つをローテーブルの上にがさりと置いて、ベッドの淵に腰掛けた。買い物袋の片方には近所のスーパー、もう片方には薬局のマークが入っていて、さっき飯があーだこーだ言ってもいたしあの後何か色々買ってから来てくれたのだと知れる。なんだかんだ世話焼きな面もある迅らしい。
「で、具合どう?」
「朝から風邪薬飲んで寝てたら多少マシになったな。まだちょっとだるいけど」
「そっか、無理しないでよ。……でも焦ったよ、まさか太刀川さんが風邪で寝込むとは。ここ最近会ってなかったから未来視でも視てなかったし」
「バカは風邪引かないってか」
よく言われる、と言ってなははと笑えば、迅は肯定とも否定ともつかないなんとも微妙な表情になる。
「いやー、……ってか太刀川さんが体調悪いとことか想像できなくて……いつも健康体って感じだから」
その言葉に、ああなるほどなと迅の反応に納得する。そういえば迅と付き合い自体は長いが、離れていた期間も長かったからあまりそういう体調を崩すタイミングで会うこともなかったかもしれない。二日酔いでぐだぐだになっている姿を見られたことならちょくちょくあるが。
「俺だって風邪くらい引くぞ、数年に一回くらいだけど。あれなんだよ、唯我がこないだ風邪気味で」
「あー隊員からうつったパターン……。確かに今本部でも風邪流行ってるもんね。体調不良で防衛任務シフト変わったりもしてるし」
「そうそう。で、唯我もマスクはしてたし大丈夫だっつってたんだけどちょっと咳き込んでたから、ミーティングだけだったし家に帰した。体調管理もボーダー隊員の仕事だぞって。A級隊員なら尚更な」
「おお、隊長っぽい」
「んでその後徹夜でレポート仕上げて隊室で仮眠した後、そのテンションのまま深夜まで麻雀して、酔ってコート忘れて帰ったらこれだ」
「さっきの見直し損だよ、A級一位の隊長さん……」
迅が心底呆れた、といった表情で眉根を寄せたので、流石の自分も若干の座りの悪さを感じる。いくら体調を崩すことが少ないという自負があったとはいえ、振り返ってみれば悪手に悪手を重ねた自覚はあるからだ。
「さすがに反省はしてるって……今日任務も隊のランク戦もなくてよかったわ」
はあ、と吐き出した溜息はまだ少し熱い。そんな太刀川を見ていた迅が、再び口を開く。
「太刀川さん次の任務いつ?」
「明後日の朝」
太刀川の言葉を受けて、ううん、と迅が小さく唸った。その透明な青い目がほんのわずか細められたのを見て、未来を視たのかもなと気付く。
「それまでに治ってそうではあるけど……。もし厳しそうだったらおれから忍田さんに連絡しとくから」
「いーってそのくらい、自分でやる」
体調不良での欠勤は、手元の端末からメールか電話の一本でも入れればいい話だ。ただの風邪なのだしわざわざ迅の手を煩わせることもないとその過保護ぶりにこんどはこちらが少し呆れるような心地になってしまったが、迅はそんな太刀川の気持ちを気にする風もなく太刀川の言葉を遮るように「病人は寝てて」とばっさり切り捨ててきた。
(頑固……)
迅は基本的に思考は柔軟なほうだと思うが、自分の中で一度こうと決めたら頑として動かないタイプの人間でもある。こういう態度の時の迅はどうせ何を言っても無駄だと経験則で分かっていたので、「へいへい」と適当に返事をして話を終わらせてやる。こうやって迅が自分を心配してあれこれしてあげようとしているさまが、いやにかわいく思えたのもあった。ちゃんと寝てるぞという意思表明に、太刀川はずれかけていた掛け布団をしっかり肩までかけ直す。
「でも、まだちょっと顔赤いよね。熱あるって言ってたから一応冷却シートも買ってきたけど……」
太刀川を見てそう言った迅がこちらに手を伸ばしてくる。前髪の下をくぐり抜けて額へ、そして頬へ、順番に迅の手が優しく触れた。少しだけ固く、すらりとした迅の手の感触が肌を伝わる。
「うーん、やっぱちょっと熱いな。体温測った? 体温計どっかにある?」
頬に手の甲を触れさせたまま迅が眉根を寄せて言う。肌に触れる迅の感触は、トリオン体だから生身のそれではない。
しかし生身を忠実に再現したそれは迅の少し冷えた手の温度までをしっかり再現してくれていて、まだ熱を持った体にはとても心地良く感じた。さっきまで寒い外を歩いてきただろうから余計に冷えているのかもしれない。
いつもより少しだけぼんやりとした頭でそんなことを考えていると、迅が不思議そうな表所になって太刀川の顔を覗き込む。
「ん? どうかした?」
迅の問いに、「んー」と小さく唸ってから答える。迅が小さく身じろぎをして、するりとその手を引きそうな気配がしたので半分無意識に留めるようにその手に軽く触れていた。指先にも迅の低い体温が伝わって、心地良い。
「いや、おまえの手冷たくて気持ちいーなと思って」
そう素直な感想と共に目を細めてへらりと笑うと、「え」と一瞬呆けた声を出した後迅の顔がかっと赤く染まった。見事に赤くなったので、リンゴみてー、なんて呑気に思っておかしい。
「……っ、太刀川さん」
「なんだ?」
聞けば、迅は赤い顔のまま真剣な表情をする。青い目が太刀川をまっすぐにじっと見据えた。
余裕のない表情。こういう関係性になってしばらく経つ今となっては、こんな迅の顔を見るのは久しぶりかもしれない。
「おれ以外に絶対看病させないで。もしまた風邪引いたら絶対おれ呼んで」
大真面目な声で、早口でそう言ってのけた迅につい苦笑してしまう。揶揄うように「おいおい」と言えば、迅はむっと拗ねた表情になった。子どもじみた顔だ。玉狛のやつらや、自分を慕ってくる後輩には絶対に見せやしないような。
「あんた今どんな顔してるか分かってないでしょ……」
「どんな顔だよ」
「隙だらけでやらしー顔だよ!」
最早やけくそといった様子で声を大きくする迅に、今度こそくっと喉を鳴らして笑ってしまった。
「なら大丈夫だろ、多分おまえにしかしないぞ」
「……それでもだよ」
そう唇を尖らせる迅の顔はまだ真っ赤で、顔だけ見ればどっちが病人か分からないなと笑えてしまう。そんな迅を眺めていると、迅の手が引かれてするりと頬から離れていく。迅の温度が離れていって、それを少しだけ名残惜しく思っていると迅がテーブルに置いたコンビニの袋から冷却シートを取り出して照れ隠しのような雑な手つきでべり、とシートを剥がし太刀川の額にそれを貼り付けた。人工的な冷たさが額から伝わって、これはこれでまあ当たり前だが心地が良い。
「夕飯は?」
そう聞く迅に、もうそんな時間かと思う。一日ごろごろ寝ているばかりだったから時間感覚が弱くなっていた。窓の外はもう日が落ちかけて、夜の気配が顔を出し始めている。
「まだ」
「オッケー、台所借りるね」
そう言って迅が立ち上がりこちらに背を向ける。急にてきぱきとし出したその動きに、しかしまだ前髪の隙間から覗く耳が赤いままなのを見て、つい口角が緩んでしまった。
(かわいいやつ)
やっぱりそんなことを思ってしまう。あれこれ看病してくれていることに免じて、今日は口には出さないでやるけれど。
「うどん?」
「うどん」
「やった」
そう聞いて今度は別の意味でも口角が緩む。迅が作る好物を楽しみに思いながら、迅の言う通り少しの間休んでいようと再び大人しくベッドに体を預けることにした。
◇
鍋の中で先ほど買ってきたうどんの麺が煮えて揺れるのを見ながら、迅は寝ている太刀川に聞こえないよう静かに息を吐いた。
先ほどの太刀川の表情を思い出すだけでまた顔が赤くなってしまいそうで恥ずかしい。トリオン体もこんなところまで再現してくれなくていいのにな、といつも思ってしまう。
(いやだって、あんな顔)
油断した、隙だらけで緩んだ表情。いつもより赤い顔、おれの手に小さく頬をすり寄せる仕草や、離れていくのを留めるように添えられた指先の感触。
ちょっとやそっとのことでは動じず、いつも泰然自若とした太刀川のあんなさまを、見せられる側はたまったものではない。太刀川はおまえにしかしないと言っていたけれど、あんなのを他の誰かに見せるなんて絶対に無理だった。
(……っていうか、おれだから、か?)
太刀川の言葉を反芻していたらそんな可能性に思い至って、結局頬がまたかっと嫌になるほど熱を持ってしまう。眼下でぐつぐつと煮える鍋の様子が、まるで今の自分の感情にリンクするようになんて思えてしまった。
自分にだから自然とあんな表情になった、ということなのか。いや、それってもっと、……とぐるぐると考えては墓穴である。もし生身だったなら、今頃心臓の音がうるさくて仕方なかっただろう。
確かに、付き合い始めてから太刀川の色んな新しい表情も見るようになった。ぼーっとした顔やランク戦に誘ったときの楽しそうな表情、仮想空間で相対したときのあのおっかない表情は昔からよく知っていたが、もっと色んな――ふとした瞬間の柔らかい表情とか、油断した表情とか、そういうの。
あの人は基本的に来る者拒まずだし、裏表なんてない。だけどその中でもより内側にあるもの、よりプライベートな表情をおれに、見せてくれるようになったというのだとしたら。
(いや、そんなのって、さあ)
あー、と扉一枚隔てたところに太刀川がいなかったら思わず呻いてしゃがみ込んでいただろう。
どうして今まで気付かなかったのか。いつの間にか自分がそんな特別扱いをされていたことに。
どうしよう、さわりたい、キスしたい、なんて欲求がむくむくと沸いてくるのだから呆れる。病人に手は出さないけれど。絶対に。こちらはトリオン体だから触れ合って風邪がうつることはないだろうしキスくらい太刀川は許してくれそうな気はするけれど、これは実力派エリートとしての矜持である。
不埒な欲望をどうにか発散させるようにはああと大きく溜息を吐いたところで、目の前の鍋が噴きこぼれんばかりに煮立っていることに気付いて慌てて火を止める。あぶない。仮にも火を使っているところだったというのに、邪念に気を取られてぼーっとしていたなんて恥ずかしいといったらない。そのせいで余計に顔が赤くなってしまってダメだった。
(早く治してよね、太刀川さん……)
そうしてくれないとこちらの調子が狂うのだ。顔の熱が早く引くことを心底から願いつつ、迅は茹で上がったうどんをざるにあけたのだった。