耽溺
シャワーを浴びて部屋に戻ると、明かりのついた室内で迅はうつ伏せにベッドに寝転がってスマートフォンを弄っていた。ドアが開く音に気付いたらしい迅は顔だけこちらを振り向いて「おかえり」と言う。大した用はなかったのだろう、スマートフォンはすぐにスリープモードにしてヘッドボードに伏せるように置いた。
肌を重ねた夜の、いつものやりとりである。しかし太刀川の目線は、明るい照明に照らされたその迅の背中に一瞬釘付けになってしまった。
「……? どうかした?」
いつものように「ただいま」という声が返ってこなかったことを不思議に思ったのだろう。迅が太刀川を見つめて首を傾げるので、太刀川はそれに「ああ」とようやく我に返る。
「いや、……背中。悪い」
「え? ……ああ、これ?」
言いながら、迅がちらりと目線を自分の背中の方に向ける。
迅の背中には、薄い赤色に染まった爪跡がいくつも走っていた。迅の肌は割と白いので、その赤色が浮き出るように見えて余計に、目立つ。その犯人は考えるまでもなく――数十分前の自分であろう。
(あー……マジか、気付かなかった)
情事の最中、迅の背中に手を回したことは覚えている。そして迅によって何度も与えられる強い性感に堪えかね、その手に力を込めてしまったような気もする。しかし、こんなに跡が残るくらい爪を立ててしまっていたという自覚は無かった。気付いていたら流石に力を緩めるか別のものに縋るかしようとしただろう。
迅とこういうことをするのは好きだが、迅の体に傷をつける趣味はない。赤くなったそれは見るからに痛そうだ。さっきシャワー浴びたときとか、染みたんじゃないのか。
それに気付かないほど夢中になり自失していた己を自覚して、流石の自分でも恥ずかしいような気持ちが芽生える。が、そんな太刀川に対し迅はへらりと蕩けた顔で笑った。言い方を変えれば、とても後輩には見せられないような締まりの無い顔だ。
「いーよ、全然」
「でも痛いだろこれ」
「大したことないよ。むしろ嬉しい」
迅があんまり衒いなく言うので「……おまえそーいう趣味でもあんのか?」と言えば、迅がぶは、とおかしそうに吹き出す。
「ないって。太刀川さんだからだよ」
ベッドサイドに座った太刀川の手に指を絡めて、迅がにまりと目を細める。
「太刀川さんがそれだけ、おれに夢中になってたってことでしょ?」
得意気に言う迅の言葉は図星だっただけに、嬉しそうな迅をかわいいやつと思う反面少しだけ恥ずかしいような悔しいような思いも芽生える。
迅といるといつも不思議だ。この一つ年下の生意気な男をどこまでも甘やかしてやりたいし、でもこの男に上手を行かれるのは悔しくもある。そんな思いが、この男に向く恋情を自覚したからずっとある。自分でもうまく把握しきれないこの感情は、いつだってこの男に対してだけ生まれるものだった。
「おまえって、……時々趣味悪いよなあ」
だから返した声には少しだけそんな悔しいような思いが滲んでしまったかもしれない。その言葉を受け取った迅は珍しいものを見たと言わんばかりにぱちぱちと目を瞬かせてから、「そーかもね」と絡めた手を柔く握ってその悪戯っぽくて嬉しそうな笑みを深くするのだった。