猫と夕焼けの赤
「やー太刀川さん。偶然だね」
角を曲がってきた足音とともにそんな声が降ってくる。顔を上げれば、見慣れたいつものへらへらとした顔がそこにあった。
「おまえが偶然とか、笑わせるな」
しれっと普通の顔でそんなことを言うこの男に太刀川はついくつくつと笑ってしまう。他のやつならさておき、未来視を持っているこの男がそんなことを言っても信憑性などない。
いつもそうやって、飄々と立ち回ってはタイミングのいい時を見計らって現れるのがこの迅悠一という男だった。自分や相手の都合の悪いときには現れないし、逆に言えばこうやってわざわざ太刀川の目の前に現れたということはきっと今日は時間があるということなのだろう。
時刻は夕方。まだランク戦ブースは開いている。太刀川は大学の帰りで、もう家のすぐ近くまで来ているが今からUターンして本部に行ってもいいなと内心で算段した。勿論迅を連れてだ。
「やだな~、半分は本当だよ。さっき防衛任務終わってこの近く歩いてたら、太刀川さんがここで猫と戯れてるのが視えたからさ」
だから来てみた、と言って迅は太刀川の隣にしゃがみ込む。そして目の前の猫を一瞥して、「野良?」と聞いてきたので太刀川は頷いた。
「野良っぽいな。首輪つけてないし。たまにこのくらいの時間に来るといるんだよ」
太刀川がわしゃわしゃと頭を撫でてやると、茶色と白の模様の猫はにゃあと機嫌良さそうに鳴く。
しばらく前、たまたまこの道を散歩していた時に出会った猫だ。暇だったので少し構ってやるとどうやら猫の方も太刀川を気に入ったらしく、以来たまに出会った時にはこうして軽く遊んでやることにしている。
といっても猫じゃらしやら猫用の食べ物やらなんて気の利いたものは猫を飼っていない太刀川は持っていないので、撫でてやるくらいしかできないのだが。それに、飼ってもやれないのにまるで自分の猫のように過剰に構い過ぎてもよくない。太刀川の住むアパートがペット禁止かどうかは覚えていないが、どちらにせよ任務やら遠征やらで不規則だったり長期で家を空けたりする太刀川の生活はペットを飼うのは向いていないのだ。
まあ、動物は嫌いではない。むしろ好きな方だ。だからたまに会ったら構うくらいの距離感が丁度いいだろう。
「へー、おれもちょっとだけ触っても……」
そう言って迅が猫の方に手を伸ばす。人懐っこい猫という印象があったので太刀川もするりと猫から手を離して、迅が触れるようにしてやった。が――
「~~っ、て!」
がり、という音と共に猫がその前足を振り上げ、迅の手に爪を立てる。迅が驚いて手を引くのさまを見ながら、太刀川も少し驚いてしまう。猫が迅に対して警戒心を露わにしたことにも、迅が珍しく不意を突かれた様子であることにもだ。
「視えなかったのか?」
「動物は未来視効きづらいんだよ……ってか今は油断してて未来視気にしてなかったのもあるし」
ひらひらと引っかかれた方の手を冷ますみたいな仕草で振りながら迅が言うので、太刀川は「へえ、知らなかった」と頷く。迅の未来視について、相対する時のために迅が戦うときに出る癖なんかを自分なりに研究しておくことはあるが、それ以外のこと――例えば発現の仕方や具体的な視え方に関することは迅が自分から言ったこと以外あまり詳しくは知らない。迅が言わないなら、別に知る必要もないと思っているからだ。
「つーか大丈夫かよ、……ああ」
結構な勢いで引っかかれた様子だったので流石に心配して聞いてみるが、その途中で気付く。
そういやこいつ、いつもの隊服姿だ。
「トリオン体なのでセーフ。びっくりはしたし引っかかれた感覚はあるけど、痛くはないよ」
「いつもトリオン体なのが役に立ったな」
「だね。しかし、おれは触るのだめか~」
むう、と迅がわざとらしく拗ねたように唇を尖らせる。太刀川は最初からそこまで警戒された覚えはなかったのだが、どうやら人懐っこいのではなく懐く相手は選ぶ猫だったらしい。先ほど迅に譲るために引っ込めた手を再び猫に伸ばしてみると、先ほどの迅に対する様子とは打って変わって猫は素直に太刀川の手を受け入れた。まあ人だって色々あるのだから猫だって色々好みとか選ぶ権利はあるだろうが、とは思いつつ、ぽんぽんと頭を軽く触りながら太刀川は猫に向かって口を開く。人の言葉が通じるかは知らないが、こういうのは気持ちだろう。
「こーら、人を無闇にひっかくのはよくないぞ、きなこ」
言えば、しかし猫――きなこよりも先に反応したのは隣にいる迅だった。
「ん? きなこって」
「こいつの名前」
「太刀川さんがつけたやつ?」
「そう。由来は――」
「きなこもちに似てるから」
言おうとした言葉をそのまま迅に先んじられて、太刀川は目を瞬かせてしまう。
「よく分かったな」
「わかりやすいよ」
太刀川が言えば、迅はけらけらとおかしそうに笑う。
何度か顔を合わせるうちに、猫、とだけ呼ぶのもなんだか味気ない気がして勝手に名前をつけたのだ。多分野良だから、本当の名前があるかは知らないが、とりあえず太刀川はきなこと呼んでいる。由来は言ったとおり、茶色と白の体の色味がきなこもちに似ていると思ったからという直感である。そのときちょうどお腹が空いていた、ということも否定はできないが。
太刀川の注意が届いたかどうかは結局よく分からないが、先ほどの迅に対しての態度とは打って変わってきなこは太刀川の手の感触にまたのんびりとした様子で体を預けている。指で顎を軽く撫でてやると、きなこは気持ちよさそうに目を細めてぐるる、と喉を鳴らす。尻尾がゆらゆらと揺れているから多分この触り方も好きなのだろう。
自分のペットでもなくとも、こうやって自分が触ることで気持ちよさそうにしてくれるのは嬉しいもので自然と口角が上がる。だからそのまま何度かさわさわときなこの顎を戯れに撫でてやっていると、隣から不意に視線を感じた。
何だ、と思ってそちらに目線を返す。そうしたら迅が、そんな太刀川の様子をじっと――どこか不服そうなまなざしで見つめていた。
その目の奥に滲んだ色に気が付いたのは、さすがにそういう付き合いも長くなってきた賜物だろう。本人は気づかせようとなんてしていなかっただろうそれに気づけた自分に、妙な満足感や優越感のような感情が生まれる。さっき手を引っかかれたときのわざとらしいような拗ねた顔より、迅がずっと本気の表情なのだから余計にだ。
だからそれに気付いてすぐに、太刀川はきなこの顎からするりと指を離す。そして挨拶代わりにぽんと最後に頭をひと撫でしてやった。
「悪いけど、今日はこのへんでな」
またなーときなこに言ってあっさりと立ち上がると、迅は驚いたように目を瞬かせた。
「え、いいの?」
「ん? 今日はもう十分遊んだし、またそのうち会えるだろ」
太刀川の後を追うように立ち上がった迅の脇を、存外あっさりとした様子できなこも通り過ぎていく。隣の家の塀を上っていったかと思えば、あっという間にどこかに消えてしまった。この猫のこういうあっさりとした様子も太刀川と気が合って、この猫を妙に気に入っている理由のひとつだ。
それに、と言って、隣に並んだ迅の手を揶揄うように手の甲でちょいとつつく。
「俺は迅を構ってやらなきゃいけないみたいだからな」
「っ、な……!」
にまりと笑って言ってやれば、迅がかっと耳を赤くする。もしかしたら先ほどの表情は自覚がなかったのかもしれない。それはそれでむしろ、かわいいやつ、という気持ちが更に膨らんでいく。ああ、さっきまでこの男をどうランク戦ブースに引っ張っていくかと思っていたのに、今は別の場所に行きたくなってしまった。まあそれはそれでいいのだけれど。ランク戦はまた別の日に存分に付き合ってもらうことにしよう。
それより今は、もっと。
「構って欲しいなら素直に言えよ。いくらでも撫でたり触ったりして可愛がってやるのに」
言えば、迅はぐう、と喉を鳴らす。そのさまが何だか少し猫みたいだなと思ってしまって、つい笑いそうになったのをどうにか堪える。
「あのさあ……それ後半こっちの台詞っていうか、いやそうじゃなくて」
もごもごとらしくもない歯切れの悪さで言いかけた迅が、言葉の途中で急に視線を彷徨わせる。何だと一瞬思ってから、その理由に予想がついて太刀川は迅に言ってやった。
「視えたか?」
「あー……うん」
恥ずかしそうな様子で頷く迅に、なるほどと太刀川も頷く。どんないやらしいさまを視たのやら、先に視られてしまったのはずるいなと思わなくはないが、この男のこういう顔が見られたのでまあそれで帳消しということにしておく。それに、この先が分かっているなら話も早い。
「本当はこのまま本部引っ張っていってランク戦でもと思ったんだが――行き先、うちでいいよな?」
太刀川はそう言って、本部とは違う方向に足を向ける。太刀川の自宅の方だ。太刀川が歩き始めると、迅も「ん」と頷いて少し駆け足で太刀川の隣に追いついて歩き始めた。
ちらりと先ほどきなこが消えていった方を見やるが、もう背中も尻尾すら見えない。そうしてそのまま視線を横に向けると、まだ少しだけ不服そうな表情を滲ませた迅がすぐ隣を歩いている。
――まったく、ばかなやつだな、と思っておかしい。猫に嫉妬するなんて。
そりゃこちらも楽しく遊んではいたしあの猫のことは好きだが、それは向ける感情も触れる指に込もったものも、おまえに対してのそれとなにもかもがまるで違うというのに。
それが嫌なわけではない。むしろこの男の自分への執着を垣間見て高揚する気持ちもある。同時に呆れもするが、飄々と放任主義に見えて変なところで独占欲が妙に強い、この男のそういうところだって好きだと思わないわけがなかった。もしかしたらこれも、絆されているということなのかもしれないが。
(分かってないなら、教えてやらねーとなあ)
そう思って、つい口元がわずかに緩んでしまう。分かるまで、信じられるまで、何度だって。それは迅と何度でも飽きもせず遊ぶための言い訳じみていると自分でも思ったが、そんなことはまあどうだってよかった。
「……太刀川さん? なんか企んでる?」
こちらの様子に気付いたらしい迅が眉根を寄せながら太刀川の顔を覗き込む。その耳は、トリオン体だっていうのに空を染める夕焼けくらいまだ赤いままだ。
「いや? 猫に嫉妬する迅悠一くんはかわいいな~と思ってだな」
だからまたちょっとだけ揶揄いたくなってそう言ってやれば、照れ隠しのように迅に少し強めに肩を小突かれてしまったのだった。