Long・Vacation
ドシン、という鈍い音と共に真っ二つにされたトリオン兵が砂の上に落ちる。その一瞬後に黒のロングコートが舞うように迅の目の前に着地した。風が吹いて、砂と共にロングコートがさらりと靡く。玄界とよく似て非なる空は、青から夕暮れの赤色に変わり始めるところだった。
「随分と手荒な歓迎だったな」
「だね。地雷型トリオン兵――話には聞いてたけど、実際見るのは初めてだ」
「俺も。こりゃ後で鬼怒田さんや冬島さんにも報告だな」
言いながら太刀川が弧月を鞘に収める。きん、と乾いた静かな音が乾いた空気を伝って迅の耳に届いた。
地雷型トリオン兵というのはその名の通り、生物が通過するとセンサーが働いてトリオン兵が起動するという潜伏型のトリオン兵である。メリットは待機中のトリオン消費と運用の手間が少なく、当たれば確実に獲物を補足できるというところだろう。これまでに迅は玄界の防衛でも遠征先でも見たことのないものだった。近界でも汎用的に用いられているというよりは、一部の国が好んで使っていたものと聞く。過去形なのは、今はあまり使われておらず、今戦ったそれだって十数年前の内乱の際に埋められたものがそのまま回収されずに残っていたかつての遺物なのだという。それは昨日まで停泊していた同盟国の兵から聞いた話だった。
確かに奇襲という意味では厄介なタイプかもしれないが、然程戦闘能力は高いものではないらしい。太刀川の弧月一本であっさり真っ二つだ。――まあ、この人を基準に考えると基準がバグりかねないか、と迅は思い直す。
小型とはいえ大の男二人を乗せた遠征艇を流石に街のど真ん中に乗り付けるわけにもいかない。この国は同盟国というわけでもないから、軍や政府機関が協力してくれるわけでもないのだ。だからこうして街はずれのただっ広い砂漠のような砂地に遠征艇をつけたのだが、艇を出て数歩歩いた途端に件の地雷型トリオン兵に襲われ、そして太刀川があっという間に返り討ちにしたというわけである。
「一応、教えて貰っててよかったね。まだそこらへんに埋まってるかもしれないから気をつけないと。一応トリオン反応は確認しとく」
そう言って、玄界を出る前にトリガーに追加した簡易オペレーションの機能を呼び出す。オペレーターのいない旅だからと、個人でも普段オペレーターが使っている機能の簡単な部分は使えるよう出発の前にトリガーを改造してもらったのだ。数日前に教えて貰ったばかりの操作方法を思い出しながら、ざっと辺りを見回してみる。トリオン反応は多くはない、がまだ多少は埋まっていそうだ。
「お、さんきゅー。まぁ、出たら出たで斬りゃいいだけだ」
そう言ってにやりと好戦的に笑う太刀川が、頼もしいったらない。その顔を見て「流石」と言えば、太刀川は満更でもない様子で軽く目を細めた。いや、そもそもが上機嫌なのだ、今の太刀川は。それは自分だって同じことだった。
だって、――この歳になっての長い休み、行き先は近界、あとは当てもなく気ままな二人旅。相手は勿論、太刀川だ。
かつて未来視も教えてはくれなかった、想像すらできなかったような時間が、今ここにある。それが浮かれずになんていられるものだろうか。
（まあ正確には一応仕事ではあるんだけど、それはまあいいでしょ）
風が吹くたび閃く黒の隊服は、かつてＡ級一位隊の隊長を務めていた頃――そして暇さえあれば迅をランク戦に誘ってきていたような、互いにボーダーのいち隊員だった十数年前のあの頃と全く同じものがプログラムされている。ボーダーに就職してから、とりわけ本部長の職に就いてからはスーツ姿ばかりで、この隊服姿を見るのも迅だって随分と久しぶりだった。
かつてどうしようもないほどに焦がれて、そして追い越したくて追いかけた。その頃と変わらぬ姿に思わず見惚れて、迅は夕日が眩しいふりをしてそっと目を細める。
「で、とりあえずは街か？」
「うん、そうだね。ここがどんな星かも見ておきたいし。それにはまず中心部を見るのがいいでしょ」
「太刀川了解」
まるで任務の時みたいに言ったのはふざけているのか本気なのか分かりにくいが、それもまあいつものことだ。遠くに見えるこの星の中心的な繁華街であろう栄えた街を目指して歩き始めた太刀川を、迅も同じ歩幅で追いかける。
――ぼちぼちおまえと近界を旅するってのも面白そうだと思うんだよなぁ。
太刀川がそう言ったのは、なんてことない寒い冬の日、二人して早く仕事を上がれたからと暖かい部屋でのんびり夕飯の鍋をつついている最中のことだった。まるで今度の休みにちょっと隣の県の温泉にまで、くらいのテンションで言った太刀川がまさか本気だったなんて思わないだろうと今でも迅は言ってやりたくなる。
近界による玄界の侵略、そしてその防衛の長い戦いが一旦の終結を迎えてから早いものでもう十年以上が経つ。最後の戦いはこれまでの比ではなく相当に厳しいものとはなったが、それでも民間人の被害もボーダーの被害も迅の未来視で視えていた中では最善に近い結果となったと言えただろう。それで自分を慰めるつもりもないし、たらればを考えればキリはないが、それでも後悔はない。今は心からそう言えた。それは年月が癒したものもあったし、周りの仲間たち――そして今隣にいる男のおかげでもある、と迅は思っている。この人に直接言ったことは未だないけれど。
玄界を侵略してきていた近界諸国と協定を締結し、旧ボーダー時代の同盟国との国交も復活したことをきっかけに、ボーダーの在り方は大きく変わった。「界境防衛機関」としての役割を失ったわけではないが、同時に近界諸国と玄界を繋ぐ窓口としての役割も担うこととなったのだ。
そうして形を変えゆくボーダーに迅も、そして大学と大学院までをどうにか無事に――あるいは奇跡的に――留年することなく卒業した太刀川も、本格的に就職をすることを決めた。すぐにあれよあれよと次期幹部候補として上層部にしごかれ、圧倒的に増えた会議や書類仕事にうなされたりもしながらも、気付けば十年。
より大きくなったボーダーでより上の職位に就いた忍田や林藤の後を継ぐ形で、太刀川は本部長、迅は玉狛支部長にまでなっていた。そして。
「まあねぇ、太刀川さんとならより楽しそうだよね。色々と」
「だろ？」
二人で暮らし始めてもう何年かになるマンションの部屋の中、きんきんに冷えたビールを煽りながら、迅がそう軽口で返したのはあくまでも太刀川がいつもの軽口で言ったのだと思っていたからだ。この手の軽口を太刀川が言っていたのは昔からで、今のようにボーダーが近界との窓口になってからは勿論、それより前の互いにボーダーのいち隊員だった頃にだって「迅と遠征したら楽しいだろうな」とアルコールでいい気分になった太刀川が零すこともあった。だからその度に迅は「いつか行けたらね」と冗談半分で返していたのだ。
勿論、本当に行けたら楽しいだろうともずっと思っていた。だけどそれはあくまで「いつか」の夢物語としてである。本気でそれを算段するなんて考えてもみない。
「流石に今すぐってのは無理でも、まあ色々準備して仕事の引き継ぎとかもして、できれば春くらいには――」
「……は？」
だからいつものような夢物語で終わらずに太刀川の口から飛び出した現実的なスケジュールに、思わず迅はそれまでのふわふわとした気分なんて吹っ飛んで、素っ頓狂な声を上げてしまったのだ。
「何か問題あるか？ スケジュール」
「いやいや待って、それ以前の話……嘘でしょ、本気で言ってる？」
「本気だろ、勿論」
「近界だよ？ ちょっと数日休みとってそこらに旅行に行くとかとはわけが違う」
近界との国交も年々盛んになり、一般人が海外旅行に行くくらいの感覚で近界に行くというのは流石にまだ難しいが、昔よりずっとボーダーにとって近界に行くということのハードルは下がった。同盟国だって増えたし、近界も戦争をしている国ばかりではない。それに玄界とは違う文化が築き上げられている近界は、太刀川だけでなく迅にとっても昔からとても興味深い場所ではあった。そこらの海外に行くよりもずっと、近界に行くという方が迅にとっても魅力的だ。
だが、現実問題というものがある。
「そりゃそうだな。最低でも数週間、できれば数ヶ月以上は――」
「流石にそんなに休みなんて取れないって」
だからこれで、話は終わりだ。そう思って迅がほかほかと湯気の立つ鍋に再び箸を伸ばしかけたところで、太刀川の視線にじっと見られていることに気付く。底の知れない、深い色をした格子の瞳。
「……なに？」
「おまえは行きたくないか？」
「っ、……」
その聞き方はずるい、と迅は思う。どうせこっちの本音だってもう分かっているくせに。下手に誤魔化したってこの人にはバレてしまうだろうと思い、迅は素直に答えてやった。
「……行きたくないわけないでしょ。でも現実ってもんがある」
そう言えば、太刀川の表情がにまりと緩む。その表情に、ああやっぱりこの人はずるい、と再び思う。自分だって行きたいのだと言葉にして伝えただけで、こんなに嬉しそうな顔をされてしまっては。
「じゃあおまえ、いつになったら行く気だよ。じーさんになってからより体が動くうちのがいいし、トリオン供給機関だっていつまで維持できるかって話だろ。もう下だって十分育ってる、ちょっとやそっと俺やおまえが抜けたって揺らぐような組織じゃない」
「ううん、……」
太刀川にそうずばりと言われてしまって、うまい返答が咄嗟に出てこない。
それは確かに、そうなのだ。近界へ行くハードルは昔より下がったとはいえ、まだまだ危険が無いとはいえない。自分の身を自分で守るためにある程度トリオン体で動けるうちの方がいいに決まっているし、それで言うなら互いに三十代も半ばとなり、もうすぐ四十代も見え始めてきた今が結構最終ラインと言えるだろう。勿論、ピークは流石に過ぎたと言えど未だ申し分ない戦闘能力を維持している忍田のような存在もいるが――トリオンというものは未だ研究途中、未知の部分の方が多い。鍛えていてもいつからどう衰えていくかというのは実際にその時を迎えてみなければ分からない。
いやでも流石に、立場もあるし、そんなの許可されるわけない。そう言いたいのに、「太刀川と近界を旅する」なんて夢物語でしかなかった想像をもし現実のものにできるとしたらと一度思ってしまえばその甘美な誘惑にうっかり心が揺れてしまった。そんな迅に生まれた僅かな隙をまるで戦闘の時みたいに違わず突いて、太刀川は畳みかける。
「おまえの未来視でもこの先しばらく三門の不穏な未来は視えてない。あったとしても対応できる力は今のボーダーは備えてる。それに、行かずに後悔なんて性に合わないだろ？ 俺もおまえも。自分で言うのもなんだが十分ボーダーにも貢献してきたと思うしさ――お願いするだけしてみようぜ」
太刀川がそう言った数週間後にまさか本当に許可が下りるなんてこと、昔より多少弱まり始めていた迅の未来視は直前になるまで教えてはくれなかったのだった。
「街に着いたら、まずは飯だな。腹減った」
「そうだね」
さらさらとした砂に足を取られないよう、そして視界に表示したトリオン反応も気にしながら進んでいく。確かに昨夜経由した同盟国を出発して以来、慣れない艇の操縦に手間取ったこともあって遠征艇の中で簡単な携帯食料しか食べていない。言われてみれば確かに腹が減ったな、と迅も己の空腹を自覚した。
「美味いもんあるといいけど」
「それは……近界に求めるのはあんまりじゃないかな～」
玄界と比べて、近界の食事事情はあまり良いとは言えない。そもそも近年に至るまで長いこと戦争をしている国が多かったから、美食よりも手っ取り早くエネルギーを補給することに重点が置かれてきた部分が大きいのだろう。近界の中でも比較的独自の文化を発達させている乱星国家の中では美食の国が無いわけではない、と噂程度に聞いたことはあるが、それは近界でもかなり少数派と言える。かつて玄界に来たばかりの頃の遊真やヒュースが、玄界の食事の美味しさと豊かさに驚いていたことを迅は懐かしく思い出した。
「だよな。うーん、都合良くうどん屋とか餅屋とかあったりしねーかな」
そんなことをいつもの調子で言う太刀川に、ぶは、と迅はつい笑ってしまう。
「流石に無いでしょ。なに？ 早速ホームシック？ 太刀川さん」
まさか本気でそう思ってはいないけれど、揶揄うつもりで迅は太刀川にそう言ってやる。すると太刀川はそんな迅ににやりと悪戯っぽく笑いかけて返してきた。
「いや？ まあ美味い飯があれば最高だけど――折角おまえと近界に来れたっていうのに、それ以上に欲しいものなんてあるはずないだろ」
迷いなく手渡されたそのストレートな言葉に、かっと耳が熱くなる。そんな迅を見て、太刀川はしてやったりといった表情で目を細めた。
「おまえいくつになってもそういうとこかわいいよな」
「太刀川さんこそいくつになっても所構わず殺し文句言ってくるのやめてくれる？」
悔し紛れにそう言うと、太刀川はくつくつと喉を鳴らしておかしそうに笑った。
「いいだろ。長年の夢が叶ったんだ、浮かれてるんだよ」
なあ、と言って、太刀川はこちらに同意を求めるように小さく首を傾げる。
いくら互いに休暇を溜め込んでは総務に消化しろと注意される常習犯と言えど、流石に溜め込んだあらゆる休暇をかき集めても近界を気ままに旅するほどの長い休みは取れないだろう。そう迅は思っていたのだが、勉強と日常生活以外ではいやに頭の回る太刀川の進言か、それとも忍田や林藤をはじめとする上司たちの計らいなのか、とにもかくにも話は思わぬ方向に進展していった。
曰く、個人的な休暇ではなく一応は任務の一環という形になるのだという。
ボーダーとしてここ十年ほどで近界との交流や情報の交換はこれまでの比にならないほどに増えたが、未だ玄界にとって近界は知らないことの多い世界である。同盟国など交流のある国から得られる情報だけでなく、より多面的に近界のことを知っていった方がいいのではないか。また、これまで一度行くのにいちいち大がかりなプロジェクトが必要だった近界遠征を将来的にはより小回りが効くように少人数でも挙行できないか、という案も本部の上層部の中で出ていたところだったのだという。
そこに、太刀川が「迅と近界に行かせてくれないか」という頼み事をしてきた。普通に考えて秒で却下されそうなその案が思わぬ形で通ったのは、そういうタイミングの良さもあったのかもしれない。いや、太刀川のことだ、そういう案が出ていることを知っていてきっちりタイミングを測って行った可能性すらもある。
まあとにかく、迅と太刀川はその「近界の情報収集のための少人数遠征のモデルケース」という体をとって、ボーダーの任務として近界へ旅立つことを許可されたのだった。
期間も一応定まってはいるが、玄界の公共交通機関のように近界と玄界の行き来は全て予定通りに運ぶとは限らない。その上、行き先も明確に定めていない旅だ。ある程度の誤差は許容範囲だと言われている――ちなみに、現在副開発室長の職に就いている冬島には「その分色んな情報持って帰ってきてくれよ～」だなんて冗談めかして言われたりもしたのだった。
とにもかくにも一応は任務、という形式だが、実質的にはいつか夢見た太刀川との二人旅そのものである。
この広い砂漠とも言える砂地の中、見渡す限り他に人はいなかった。こうして街の外に出る人はあまり多くないのだろう。
玄界にいた時だって二人で外でデートをすることくらいはあったが、こんなにも四方八方誰もおらず、二人きりになることなんてなかった。照れくさいからという理由でこれまで迅は家の外で恋人やパートナーらしい振る舞いをすることをあまり好まなかったが、ここまで人目がないのならば恥ずかしがる理由もないのではと思う。加えて普段とは違う異国、どころか異世界の地であるというその非日常の高揚感がさらに迅の背中を押した。
この旅の許可が下りた後、林藤には迅にだけ聞こえる小さな声で「おまえら新婚旅行もしてなかったろ。この機会に行ってこい行ってこい」なんて楽しげに言われたことを思い出す。見透かされていたようで恥ずかしかったし、実際来てみれば出会い頭にトリオン兵に襲われる新婚旅行って何なんだよと笑えてしまうが、しかし今この瞬間、本当にそんな気分になってしまっている自分がおかしい。
太刀川との新婚旅行――もう新婚という頃でもなくなってしまったが――であれば、きっとこのくらい物騒なくらいがきっと丁度いい。そしてそれに付き合える人間なんて、おれしかいないだろう、なんて。
（まあ一応は任務……だけど、折角来たなら楽しませてもらうよ）
だって自分にとってもこれは、長年の夢だったのだ。
隣を歩く太刀川の手をとって、指を絡める。互いにトリオン体同士ではあるが、生身を忠実に再現したその手のひらは迅のよく知った温度を指先に伝えてきた。お、というような顔でぱちくりと目を瞬かせた太刀川を迅はちらりと横目で見やった。外ではあまりそういう触れ合いをしたがらない迅の性質を、ずっと隣にいたこの人こそよく知っているはずだ。だけど、と思って、迅は先ほどの太刀川の口調を真似るようにして言う。
「おれも浮かれてるんだよ」
言って、迅はくんと太刀川の手を引くようにして歩く。そうしたら、ふは、と楽しそうに太刀川が笑う声が聞こえた。
「二人して浮かれてるんならしょうがないな」
「でしょ」
迅から絡めた指に、太刀川がきゅっと力を込めてくる。そんな仕草が呆れるほど嬉しくて、楽しい。きっと表情にも出てしまっているだろう。こんな顔、この人に見られたらまた揶揄われてしまうだろうけれど、この人になら見られても構わないとも同時に思う。そう思う自分が少し気恥ずかしいけれど、浮かれた気分がそんなものはすぐにどうでもよくさせた。
先ほどは遠くに見えた街が少しずつ近づいてきている。とりあえずご飯を食べて、宿を探して、それから。どこに行くも何をするも自由。この人と二人で。そう実感すれば、心が震える。
昔より薄らいだ未来視がこの先のことを気まぐれに教えてくれなくなったって、その未知が期待に変わるのは、不安なんてないのはこの人の隣だからだ。
（この人と二人で、気ままに近界を旅して――それ以上に欲しいものなんて、おれだってあるはずがない）
風が吹いて、二人の髪を揺らす。ふたりきりの旅路に疼く気持ちを窘めるように迅は小さく息を吸ったあと、その足でまた一歩地面を踏みしめた。