STEP BY STEP
カーテンの隙間から漏れ出す淡い朝の光の中、目が覚めて最初に目に入ったのは隣でまだ眠る恋人の顔だった。それに迅の心臓はどきりと律儀に跳ねてから、昨日のあれこれが頭の中に蘇る。数度体を重ねてもまだ慣れないこの状況にそわそわと落ち着かない気分にさせられた後、じわりと甘ったるい感情が内側に広がった。
少しの間、すやすやと眠る恋人の寝顔を眺める。昨夜の濃密な時間の名残を引き摺った迅のふわふわとした甘い気分は、しかし――とりあえず服を着ようと体を起こして部屋の中に目を向けた瞬間に一気に霧散してしまった。
(いやあ、……これはひどい)
そう、思わず心の中で呟く。
この人が片付けができないということは昔から知っている。この部屋に来たのだって初めてではないし、この部屋がきっちりと片付いているところなんて見たことがないから慣れているつもりだ。が、今日はまた一段とひどい。
眼前に広がる太刀川の一人暮らしの部屋の床は、ベッドとテーブルの周りに辛うじて足の踏み場がある程度であとは空き巣にでも入られたのかと疑いたくなるくらいにぐちゃぐちゃだ。服やら教科書らしき本やらが雑然と積み上げられ、一部では雪崩も起こしている。自分だってさほどきれい好きというわけではない――自室に関しては、ものをあまり持たないから散らかしようもないという部分も大きい――が、流石にこの惨状に顔をしかめてしまったのは仕方がないだろう。
とりあえずせめて自分の服を救済しようと自分が昨夜脱ぎ捨てたパンツを探す。きょろきょろとベッドの近くを見渡して、衣類の山の頂上にぽつんと乗っかっているグレーのパンツを見つけてつまみ上げた。
昨日脱ぎ捨てたときは部屋も暗かったから、どこに放ったかなんて気にもしていなかった。昨日はランク戦をしたままのテンションで太刀川の部屋に二人で帰宅し、部屋の電気も碌につけないまま盛り上がってベッドに直行してしまったから、この部屋の惨状なんて目に入っていなかったのだ。
昨夜の余裕の無い興奮状態の己を思い出して今更に恥ずかしい気持ちが湧き上がりながら、それを振り払うように迅はさっさと自分のパンツを履いてしまう。丸出しの状態よりも、衣服を一枚でも纏っている方が幾分気持ちは落ち着いた。
あとは着てきた自分の服を、と思いながらも、ぐちゃぐちゃのこの部屋を見るにつけ空気すら澱んでいるように思えて段々と気になってきてしまう。とりあえず、日光を取り入れよう。外はめちゃくちゃ晴れてるっぽいし。そう思って床を埋め尽くすあれやこれやをできれば踏まないように、せめてこれ以上雪崩を起こさないように気をつけながら迅はベランダに続く大きな窓にかかっているカーテンを目指した。
辿り着いたカーテンをじゃっと音を立てて開ければ、溢れんばかりの眩い朝の日差しが一気に部屋の中に流れ込んでくる。と、ベッドの方から「ん~……」という小さな唸り声が聞こえて迅は振り返った。見れば、ベッドでまだ掛け布団にくるまっていた太刀川がもぞりと身じろぎをしたところだった。そしてすぐに、瞼がゆっくりと持ち上がっていつもの胡乱な格子の瞳が覗く。
ぱちりと瞬きをする太刀川に、迅は「あ、ごめん」と声をかける。そりゃカーテンを開ければ眩しいよな、もう少し寝かせていてもよかったか、と思ったからだ。確か今日は太刀川は大学は午後からで午前中に特に任務もないと言っていたはずだった。
「起こしちゃった? おはよう。……眩しい?」
「はよ。いや、いい。今何時?」
「えーっとさっき見たときは八時過ぎ……この部屋時計どこにあんの?」
起き抜けに自分のスマホで確認した時刻を答えつつ、きょろきょろと部屋を見回す。しかし腐海の森と化した部屋に時計らしきものは見当たらない。掛け時計はともかく、目覚まし時計とかも置いていないのだろうか。そう思って言えば、太刀川の返答は「あー、多分どっかにはある」だったので迅は心底呆れてしまった。
「っていうか、この部屋流石に酷すぎない? 足の踏み場もないんだけど」
だから足下に気をつけて来た道を戻りながら先ほどまで思っていたことを率直に太刀川にぶつければ、ベッドから上半身を起こして呑気に寝癖を直している太刀川は特に意に介する風もなく言う。
「期末レポートとか任務の報告書とか、あと飲み会とか、色々重なってたからな~。しょーがない。まあ生活できてるんだからいいだろ」
「これは生活できてる部屋って言わなくない? もうちょっと片付けなよ」
「えー、でもなぁ、別に……」
そう言って眉根を寄せる太刀川の顔には、『面倒くさい』という文字がありありと書いてあった。そのさまにまた呆れて、再び口を開こうとしたところに太刀川が「あ」と言って何かいいことを思いついたとでもいったように言葉を続ける。
「ならおまえが来たときに片付けてくれればいいだろ? どうせ片付いてないの気にするのおまえくらいなんだし」
にやり、と一転攻勢に入った太刀川が悪戯っぽい笑みを浮かべる。どうだ名案だろうとでも言いたげな太刀川の顔を見ながら迅は、その言葉を受け取って、思わずかあっと耳が熱を持ってしまったのを自覚した。
(……来たとき、ってそんな、当たり前みたいにさあ……)
きっと太刀川は何も考えずに言った言葉だろう。だからこそ、性質が悪い。
自分はまだこの関係に慣れてなんていなくて、こうして太刀川の部屋に二人きりでいることにも、こんな風に朝を迎えることにも、ふと不思議で落ち着かないような気持ちになることが多々ある。それはライバル、同僚、友人、あるいは悪友のような関係性の期間があまりに長く、そして同時に片思いだった期間もそれと同じくらいに長かったからだろう。今この瞬間を時々、夢とか奇跡とか、そういう風にすら思えてしまうことだってあるのだ。
だけど太刀川は驚くほど順応が早くて、二人でいる時に照れたりもしないし、こんな風に当たり前みたいに『次』の話をする。当然のようにその先が続くのだと、当然のように自分の隣に迅がいるものだと確信を持って。
太刀川はボーダー内でもなんだかんだ先輩にも後輩にも好かれ慕われているし、大学内での友達もそこそこいるらしい。しかし太刀川が一人暮らしをしているこの部屋は家賃が安い代わりに警戒区域に近いため、人を呼ぶことは実はほとんど無いのだということを以前何かの話の流れで聞いたことを思い出した。
――だから、この部屋に来るのって結局おれくらい、ってことか。そう気付くのと同時に、ベッドの上で欠伸をしている太刀川の鎖骨の下に昨夜の自分がつけた独占欲の証である赤い痕を見つけてしまえばもうだめだった。
「じーん? どうかしたか?」
まだ少し眠そうな顔で言う太刀川に、耳が赤くなっているのがバレないうちにとベッドの近くに放ってあった太刀川のパンツや服を雑な仕草でベッドの方にぽいと投げつけた。流石の反射神経で、太刀川は難なくそれをキャッチする。
「とりあえず、起きたなら服着て。おれも昼までなら居られるから、片付け手伝ってあげる」
早口でそう言って、「忙しい実力派エリートが手伝ってあげるんだから感謝してよ?」とわざとらしくふざけてみせる。そうしたら太刀川はくっと喉を鳴らして笑って「いやー、頼りになる彼氏を持って助かったなあ」と同じくらいわざとらしい上機嫌な様子で返してくるものだから、また耳どころか顔が赤くならないように頑張る羽目になってしまったのだった。