彼女の長い髪




 本部を出た頃にはすっかり夜になっていて、ひゅうと冷たい風が吹き付けてくる。太刀川の「さみっ」という声に隣を見た迅は、寒そうに肩を竦める彼女の姿にあれ、と思った。
「太刀川さん、マフラーとかしてこなかったの?」
 迅の言葉に、太刀川は「あー」と今思い出したといったような声を上げた。隣を歩く太刀川は暖かそうなコートは着ているものの、首元にマフラーなどの防寒具はない。襟ぐりの空いたニットを着た首元は寒空に晒されて、見るからに寒そうだった。
「うーん、多分大学に忘れてきたな……。今日は本部来てそのままランク戦ブース行ったから隊室には寄ってないし、昼間暖かかったから気付かなかった」
「マジで」
「マジ」
 隊室に忘れたなら引き返して取りに行こうよと言うつもりだったのだが、大学となるともうこの時間は開いていないだろう。となるともうどうしようもないな、と思うが、しかしこのままというのもやはり寒そうだ。そう思って迅は、自分が巻いていたマフラーをするりと解く。
「貸すよ。おれは換装して帰ればいいから」
「え、いいの?」
「いーよ。寒いでしょ流石に」
 マフラーを解いた途端、首元に入り込んだ冬の空気はやはりしんと冷たい。トリオン体で一日過ごすことも珍しくない迅なので冬場でも薄着で出てきてしまうことも間々あるのだが、今日はちゃんとマフラーしてきててよかった、と内心で今朝の自分に感謝した。
 はい、とマフラーを渡すと、太刀川は「さんきゅ」と素直に受け取ってくれる。
「いやぁ、やさしー彼氏を持って助かったな」
「……こーいう時だけ現金だよね」
 太刀川の言葉にまんまと心臓が小さく跳ねてしまったことに、迅は悔しくなる。普段は高校生の頃と変わらぬ友人、あるいは悪友の延長のような空気でいる時の方が多いのに、ちゃんとそういう意識が太刀川の中にあるのだということに触れる度今でも迅は新鮮に動揺させられてしまうのだった。
 迅の言葉を気にした風もなく笑い飛ばして、太刀川は自分の首にマフラーをくるりと巻き付ける。ほとんど黒に近い深い緑色をした癖毛気味の長い髪がマフラーの下に巻かれていくのを見ながら、迅はふと思ったことを何の気なしに口に出した。
「太刀川さん、髪伸びたよね」
 目の前の太刀川の髪は、そろそろ腰に届こうかといったくらいの長さになっている。確か出会った頃は、肩につくかつかないかくらいの長さで今よりずっと短かった。そう考えると随分伸びたよなあ、と迅は思う。
「ん? あー、高校の頃と比べたら確かに……」
 迅の言葉を受けた太刀川はそこまで言ってから、不意に言葉を切る。ぱちりとひとつ目を瞬かせた後迅をじっと見つめてくる太刀川に、迅は何の意図をもって見つめられているのか分からず戸惑った。
「え、……どうかした? おれの顔なんかついてる?」
「いや、……流石に覚えてないか~」
 そう独りごちてくつくつと笑う太刀川に、迅は心当たりがなくてますます戸惑ってしまう。
「えぇ、だから何のこと……?」
 太刀川が妙に勿体ぶるものだから、自分は何か大事なことを忘れてしまっているのではないかと焦る。そんな迅を見ながら太刀川はますます楽しそうに笑ってから、「いや、大したことじゃないんだけどな。私も今さっきまで忘れてたくらいだし」と前置きをしてから言った。
「高校の時、当時にしては結構髪伸びてて、もっと短く切ろうかなー癖毛だし寝起きとかすぐあっちこっち行って邪魔くさいしって言ったんだけど、そしたらおまえが『おれは太刀川さんの髪いいと思うけどな~』って言って」
「……あ」
 そう言われた瞬間、ぶわり、とその時のことが迅の脳裏にも蘇った。
 それは出会って間もない高校生の頃――この感情を自覚すらしていなかった頃の話である。いつものようにランク戦で楽しく戦り合った後、自販機の前でだらだら駄弁っていた時に太刀川が言った言葉に、何の気なしに素直な感想としてそう言ったのだ。
 今にして思えば、この感情を自覚していなかったからこそ素直に言えた言葉だったと思う。自分の髪は直毛だから癖毛の悩みは正直あまり分からないが、しかしだからこそ太刀川のふわふわとウェーブを描いた髪は好きだった。それが戦闘の時には動く度ふわりと揺れるのも、その髪の隙間から覗くきらきらと楽しそうな瞳も、全部――。
「それ聞いてそうかって思って、じゃあ試しにもうちょっと伸ばしてみるのも悪くないかもなって思って――そんで気付いたらこの長さになってたんだよな、って、今思い出した。意外と伸ばしても、戦うとき思ったほど気にならなかったしな」
 なつかしいなーとすっきりしたような顔で頷く太刀川に対して、迅はかっと自分の顔に熱が集まるのを自覚する。
 どんな顔をすればいいのか分からなくて、迅は思わずその場にへたり込んでしまった。片手で顔を覆えば、やはり熱い。そんな迅を見た太刀川は、「おー、どうした?」と笑い混じりの声をかけてきた。
「いや、なんか、……なんか色々と……」
 いつの間にかロングヘアになっていたなとは思っていたが、まさかそのきっかけが自分だったなんて夢にも思わないし、そもそもあの時の自分は何でそんな恥ずかしいことを言ったのか。若いって怖い、無自覚って怖い、と十五歳そこそこの自分に向けて内心でそんな言葉を吐き出す。太刀川への恋愛感情を自覚してから、とりわけこうして付き合い始めてからというものこうして自分の感情に振り回されてばかりだが、今日も見事にキャパオーバーだ。
 視界にふっと影が落ちたと思って視線だけを動かせば、太刀川もしゃがみ込んで迅を見ていた。首元に巻いた迅のダークブルーのマフラーが、太刀川のロングヘアと共にふわりと風に揺れる。
「で、どう思う? 迅。私のロングヘアは」
 機嫌良さそうなにやにや笑いのまま問われて、迅は「……おれは、」と言いかけて一度言葉を止める。
 いいと思うよ? 似合ってると思う? いくつかの言葉が頭の中に浮かんで、でも少し考えてから、迅はすぐ目の前にあった太刀川の髪に手を伸ばした。さらりと遊ぶように触れると少しだけ引っかかる癖毛は、けれどただ見ていただけの時に想像していたよりも柔らかい。すう、と息を吸ってから迅は、その続きの言葉を口にする。
「おれは、……好きだよ」
 迅がそう返事をしたら、太刀川は満足そうに「それはよかった」と目を細める。
 迅が髪に絡めたままの指先を咎めるでもなくそのまま好きにさせてくれた太刀川のせいで、換装するタイミングをすっかり逃してしまう。冷たい風が吹いてからようやくまだ生身であることを思い出すのと同時に盛大にくしゃみが出て、太刀川にはけらけらと笑われてしまったのだった。




(2023年1月3日初出)






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