夕闇へ紛れて




 窓の外、遠くに運動部らしき賑やかな声が聞こえる。
 唇の隙間に差し入れられた迅の舌が熱い。ぬるりと動いたそれがどちらのものともつかない唾液に触れて、遠くの運動部の声よりずっと鮮明な水音を太刀川の耳に届けた。一瞬現実に戻りかけた意識を再び目の前の迅に引き戻される。太刀川の頭を固定するように添えられた手が、ゆっくりと指先で太刀川の頬をなぞる。その動きのいやらしさが、普段本部で見るような、へらへら笑いながらのらりくらりと振る舞う迅とあまり結びつかなくて、だからこそ興奮を煽られた。こちらからも舌を絡ませると、キスは一層深くなる。迅の舌でこちらの舌をなぞられると、こういうときにしか経験しないような感覚にぞわりと肌の表面を何かが駆けたような気がした。熱くて、柔らかくて、気持ちが良くて、もっと欲しい。その気持ちにすぐに浮かされて、あっという間に夢中になる。
 いつの間にか食い合うようになった口付けに酸素が足りなくなってきて、息が苦しいなと太刀川が思ったのとほとんど同じタイミングで迅の唇が離れていった。二人の間を伝った唾液の細い糸が夕焼けに照らされて橙色に光ってから、ふつりと落ちて切れる。はあ、と荒い息を吐き出したのもほとんど同時。耳に、窓の外の運動部の声が戻ってきて、ここが学校の空き教室であることをようやく思い出す。だけどこの教室の二人きりの空間の外は、やっぱりどこか遠い世界のように今の太刀川には感じられた。ひとつ瞬きをして、目の前の迅を見つめる。迅の唇が濡れて、頬は上気して夕日のせいだけではなく赤く染まっているのを見て、はっきりと欲情した。
 数日ぶりに迅とランク戦をする予定だったのだ。防衛任務だの学校の用事だの会議だのでなんだかんだと予定が合わず、ここ数日は迅とれていなかった。顔だってあまり合わせられていなかったのだ。少し前は毎日のようにランク戦ができていたから、それが自分の中で当たり前みたいになってしまって、ここ数日は余計にフラストレーションが溜まっていた。たった数日でと昨日防衛任務で一緒になった風間には呆れられてしまったが、仕方のないことだろう。それはきっと迅だって大差なかったのだと太刀川は思っている。
 だから迅の教室の前で落ち合って一緒に本部に向かおうとした途中で「待って、今二年の学年主任の先生が通るから隠れよう。見つかったら頼まれごとされて本部行くの遅くなるよ」と迅に腕を引っ張られたとき、それは勘弁だと太刀川も素直に従ったのだ。
 手近にあった空き教室に二人でこっそりと入って、すぐに近づいてきた足音が通り過ぎるのを待つ。その足音が近づいて、そして遠ざかっていくのを聞きながらちらりと横を見れば至近距離で迅と目が合った。
 出会ってからすぐに、太刀川の一等好きなものになった青い目。それが夕日のオレンジに染められて淡くひかっているのを見ていた。見つめられて数秒もなかったろうと思う。それがもっと近くなったと思ったらキスをされていた。そしてそれが柔らかくて気持ちが良かったから、太刀川からも強請るように迅の髪に触れた。
 迅とこういう遊びをするのは、初めてじゃない。少し前から、何度かあった。
 一度目は、昼休みに学校の屋上で。二度目は玉狛の迅の部屋で一緒にランク戦の記録ログを見ている時。ふと顔が近いな、と思ったら、流れるような仕草で迅の唇が触れていた。あんまり自然だったから、太刀川も驚くタイミングを逃してしまった節がある。それからも迅は普段と変わらなくて、だけどこうして時々、ふとしたタイミングで迅がキスを仕掛けてくるようになった。互いに、何かを言葉にして確かめたこともない。確かめようという気持ちにもならないほど、気付いたら自分たちの時間の中に増えていた遊びだった。そしてそれを拒もうとは、太刀川には不思議なほど思えなかったのだ。
 太刀川からわずかに数センチ低い位置から、迅が太刀川を見上げる。その瞳に灯っている熱は、ランク戦ブースの中で見るものに似ているようにも思えて、だけど決定的に違うようにも思えた。
 とっくに足音は去っていて、廊下や窓の向こうからは部活に励む生徒たちの声が聞こえるだけだ。もうここに隠れている必要なんてないし、本来であればここでこうしている時間さえ惜しいくらい、すぐにランク戦ブースに走っていきたいはずだったのに。
「……太刀川さん」
 静かなくせに、今まで聞いた迅の声の中で、一番熱を孕んで太刀川の耳を揺らした。
 太刀川の学ランの裾を迅の指がくんと小さく引く。その指に強請られて、天秤はほんの少し前まで思いもよらなかった方へ傾く。目の前の迅と、自分の熱ばかりが、二人きりの教室の中でいやに鮮明だった。
 迅に上げられた頬の、体の熱は、未だ引きそうにはない。
 太刀川は短く息を吸って、迅の言葉に答えるため口を開いた。



(2023年1月15日初出)






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