残夢に朱
コートのポケットからトリガーを取り出そうとしたところで、見知った顔が通りから歩いてくることに気付き太刀川は「お」と声を上げる。向こうもこちらに気付いたらしく、少し――結構低い位置からの視線がかち合った。
「風間さんも本部?」
聞けば、「ああ」という返事が返る。ここは町中ではあるが細い路地の奥まったところにあるボーダー本部直通の通路の前なので、こんなところに来るのは本部に行こうとするボーダー隊員くらいのものだろう。
ちょうど太刀川が通路のドアを開けようとしていたところなのが分かったらしい風間は、寒い風に体を縮こまらせながら太刀川がドアを開けるのを当然のように待っている。風間にはこういうところがあるが、長い付き合いなので特にそんな態度を気にすることもない。ポケットの底からトリガーを取り出してパネルに当てると、ロックが解除されたドアが自動で開いてくれる。まだまだ寒さの盛りといった二月、冷たい風から逃れるように太刀川も風間もすぐに目の前のドアの中に体を滑り込ませた。
「これから防衛任務だ」
「お、ウチもだ。ってことは上がる時間も一緒だから、風間さん久々にランク戦――」
「用があるんでな。俺は帰る」
「ちぇ」
久しぶりにタイミングが合いそうだ、と一瞬期待したのも束の間、すげなく返されて太刀川は唇を尖らせる。風間と戦うのも楽しいのだが、いかんせん風間はあまりランク戦をすること自体多くないのだ。そう言われるだろうとは思っていたが、久々に戦いたかったなと思う。
まったくこういう時、あいつがちょくちょく本部に来てくれればいいんだが――。
そう思いながら、空調の効いた通路のあたたかさに巻いていたマフラーを緩める。するりと解いた後、「そういや風間さん、こないだ麻雀してたら諏訪さんがさあ」と風間に話しかけた。と、こちらを見上げた風間がある一点に目を向けて大袈裟に顔を顰めたので驚いた。
「……え、なに?」
俺別に変なこと話してないよね? というか今話し始めるところだったじゃん、と思いながら風間に聞く。すると風間は至極嫌そうな顔をしたまま、とんとんと自分の首の後ろを指で示した。
何かついているのかと、真似をするようにその場所に指を這わせる。すると昨夜の記憶がふっと蘇って、太刀川は「……あ」と声を漏らす。
ああそうだ、この場所は昨日の夜、あいつが。
「おまえらが何しようが知ったこっちゃないが、そういうのは隠しておけ。特に年下の隊員の前ではな」
鋭い赤い目でこちらを睨み付けながら言う風間に、太刀川は返す言葉もなく「はぁい……」とだけ返事をする。解いたばかりのマフラーを巻き直してから、そうだと思ってトリガーを起動する。一瞬で生身からトリオン体に変わって、こっちならば〝それ〟は無いから問題ないだろう。
「今日はできるだけトリオン体で居ることにするわ」
「そうしてくれ」
はあと息を吐いた風間を横目に見ながら、でもこれ俺のせいじゃなくないか、と思ってから、いやでも煽ったのも許したのも俺だしなあと思い直す。結局俺だって同罪だ。
昨夜のことを思い返す。夜に太刀川の家を予告なく訪問してきた気まぐれな恋人――迅となんだかんだと雪崩れ込み、盛り上がって、結局かなり深い時間まで肌を合わせていたのだ。
昨日の迅は妙に興が乗っていたのか、後ろから何度もしつこく穿たれて、敏感なところに何度も手を這わされ、そして背中やら首やらに何度も噛みつかれ吸い付かれた。まるで我慢のきかなくなった犬みたいだった。それ自体は構わないし、むしろ大歓迎だ。普段は冷静ぶって独占欲なんて見せようとしない迅の、こういう時にだけやっと隠さず見せるようになった我儘や執着にはこちらだって興奮するばかりだった。
(吸われたとき、ちょっと痛かった気はしたけど)
ちり、と一瞬走った痛みも、昨夜の熟れた体は快楽としか捉えられなかった。すぐに目の前の熱に押し流されて、ひとつひとつどこに何をされたかなんてすっかり忘れていたのだけれど。
首元に手をやって、するりと先ほど風間に指摘された箇所をもう一度指先で撫でてみる。トリオン体には当然それは残っちゃいないが、首の後ろ、うなじの近く。昨日確かに、あいつに吸い付かれた場所だ。
(痕残ってたんだな)
あの男が、流石に見えるところにわざと痕を残したがるとはあまり思えないのだが――だとしたら無意識で我慢がきかなくなって、というところだろうか。
そう思ってしまえば、自然と口角がにやりと緩む。と、すぐに横から強めの肘鉄を食らって「ぐえっ」と声を上げてしまった。
「そういう気持ちの悪い顔も隠せ」
「ハイ……」
トリオン体なので痛くはないが、さらに不快そうに眉間の皺を深めた風間の剣幕に気圧され太刀川は大人しく緩んだ表情を戻そうとする。風間に自分たちの関係を表立って伝えたわけではないが、流石というべきなのかなんなのか、風間にはもうとっくに察されているようだった。当然、この痕の原因が誰であるかもよくよく分かっていることだろう。
「風間さん」
珍しく痕までつけてきたあの男の独占欲を思い出せば、朝起きて別れて数時間しか経っていないのにまた顔を見たくなってしまった。会いたい、顔が見たい、ランク戦がしたい、そして。触れるほど、近くなるほどに、あいつにだけは尽きない欲求を自覚して自分でも笑えてしまう。
(なあ、俺には未来視なんてないからわかんねーよ。だから)
今日、あいつ来ると思う? そう聞こうとしてから、しかし今の風間に言えば火に油だと思い直して、太刀川は「いや、やっぱなんでもない」と言い直すのだった。