雪解けて春




 踏みしめた地面の雪が靴にこすれて、じゃり、と音を立てた。薄く積もった雪は一部でシャーベット状になり始めていて、うっかり滑ってしまいそうだから気をつけないとなと太刀川は思う。数年前まで起きていた内戦が一旦沈静化したこの国では戦闘になる可能性は低いだろうとは聞いているし、周囲に怪しいトリオン反応も無いが、何が起こるか分からないのが近界だということは太刀川自身もよく知っている。周囲を適度に警戒しつつ、足下にも気をつけつつ、遠征艇から降りてくる他の隊員たちを待った。
「わ、雪溶けかけだ」
「おー、足下気をつけろよ」
「はーい」
 太刀川と同じように足下に意識を向けながらといった様子で歩いてくる出水が「いっつも雪とかいっつも暑いとかは行ったことありますけど、ここはちょっと玄界っぽいってか……四季とかあるんですかねえ」と言うから「どうなんだろうなー」と辺りを見渡しながら返す。きっと自分たちが来る前は雪が降るほど寒かったのだろうが、今は玄界で言う春くらいに暖かく過ごしやすい気温であることは仮想の体からも感じ取ることができた。そのおかげで、雪もこうして溶け始めているのだろう。今回の遠征の行程の大部分を終えて帰路の途中、補給兼情報収集の為に立ち寄ったこの国は、ボーダーとして初めて立ち寄る地であるという。
「雪といえば」
 と、隣に歩いてきた出水がふと思い出したように言う。
「遠征行く直前の雪はすごかったっすね。三門であんな降ったの初めて見たな」
 出水の言葉に、太刀川はあの日のことをゆっくりと思い出しながら頷いた。
「すげー寒かったよなあ」

 寒かったから、は果たして理由になっていただろうか。
 あの夜の俺たちは多分きっと丁度いい言い訳が欲しかっただけなのだ。かっこつけで意地っ張りなあの男は、特に。
「遠征の準備とか大丈夫なの?」とへらりと笑って言いながら遅い時間にふらりと本部に現れた迅は、なんだかんだ言いながらも太刀川との十本勝負に付き合って、そうして遅い夕飯を食べに太刀川の家に上がってきた。普段は遅くまでやっている行きつけのうどん屋に行くつもりが、雪がひどいからと言ってラストオーダーの時間を早めていたから入ることができなかったのだ。
 部屋のエアコンの効きが悪くて肌寒いと軽く文句をつけつつコンビニで買ってきた親子丼をぺろりと完食した迅は、食べ終わったら帰るのかと思っていたら迅は帰る気は無い様子でそのまま部屋に居座っていた。「泊まるのか?」と聞けば「……うん」と言った迅の様子は、今考えれば少し変だったなと思う。
 きっとその時にはもう視えていたのだ、あいつには。
 さっきのランク戦の話、ボーダーの話と、他愛の無い会話をしているうちにふと肩が触れた。薄手のニットを着た迅の体温を布越しに感じて、意外とあったかいなと思ったのと同時に迅が「太刀川さん、体温高いね」と言う。
 自分じゃそんなこと分からないので、そうか? と返そうとした。だけどその言葉が声になる前に、唇にあたたかいものが触れた。
 さっき感じたそれよりもずっと生々しい温度の柔らかいものに塞がれて、一瞬置いて、それが離れる。至近距離に迅の顔があって、その青いまなざしから目を逸らせなくなる。
 それは少し前にランク戦ブースで見たものによく似ている気がして、いや、でも違うものだとすぐに思い直す。
「……やっぱ、熱いよ」
 そう言って何かを我慢するように細められた迅の目の方がよっぽど熱くて、だから、もっと知りたくなった。もっと欲しくなった。その目の熱さも、肌の温度も。エアコンが効ききらない肌寒い部屋の中で、それが何より鮮明に太刀川の体温を上げた。
 だから。

「帰る頃には向こうはもう雪なんて残ってないだろうけどな。きれいさっぱり」
 太刀川が言えば、出水は当たり前とばかりに返す。
「そりゃ、もう三月ですからね。春ですよ春」
 数週間に及ぶ遠征もあと数日で終わりだ。出水の言う通り、既に玄界のカレンダーでは三月に入っている。あの日の雪はとっくに溶けているどころか、冬用のコートでは暑く感じるくらいの気温になっているだろう。
 顎髭に手をやって、太刀川は「だよな」と出水の言葉に同調する。

 あの日、準備に必要なあれこれなんて持ち合わせてはいなかったから最後まではしなかった。だけど何もなかったと言い切るにはあまりにも、相手の肌に触れすぎてしまった。
 翌朝、予定よりも少し寝坊してバタバタと家を出てそのまま遠征に行ってしまったから、あの日の迅の真意をきちんと確かめることはできていない。けれど、あの夜のあのまなざしの熱さが、他ならない答えだろうと何度考えても思うのだ。
(ったく、あいつ、どこまで作戦だったんだか)
 作戦なんてものじゃなかったかもしれない。ただ衝動的に、我慢がきかなくなったから手を出しただけなのかもしれないし、だけどもしこうして太刀川に悶々と考えさせることまで計算尽くだったのならたいしたやつだと思う。おかげでこの遠征の間、なにかにつけてあの夜のことを思い出しては、あいつのことを考えている。
 ――あの時だってそうだった。
 もう三、四年も前になる。あんなにも楽しかった時間が急に終わって、あいつが何も言わずにランク戦を離れてからしばらくは、不意に思い出してはあいつのことを考えていた。
 勝手にこっちに刻みつけては、ふっと離れて物足りなくさせる。だからまんまと忘れられなくなってしまうのだ。
 あの夜の迅のことを思い出す。薄暗くした部屋の中でも分かるくらいにいやに熱い目をしておいて、言い訳をするみたいに強引めいた口調をしておいて、触れる手も唇も、呆れるほどに優しかったこと。
(まあ、もう、しょうがないよな)
 全部ひっくるめて、そういう奴だと分かっていて好きになった。
 この遠征の数週間の間繰り返し思い出して、考えて、辿り着いた結論がそれだった。迅に対する「好き」の種類をこれまであえて考えることなんてなかったが、一度そう気付いてしまえば、きっと俺はずっとそうだったのだろう。迅といると楽しかったし、迅のあの目に見つめられるのが好きだったし、触れてしまえばもっと触れてみたいと強く思った。
 なあ、もう帰る頃には寒いからなんて言い訳はできない。だけど俺はまた、おまえに触りたいと思ってるんだよ。
 帰ったらすぐにでも迅を捕まえてそんなことを言ってやろうと、この長い遠征の間に企んでいた。そうしたらあいつはどんな顔をするだろう。恥ずかしがるのか、嬉しがるのか、それとも。長い付き合いだというのに知らない面がまだあったのかということに新鮮な思いになる。それはとても、わくわくと心が躍るものだった。

「――さん、太刀川さーん」
 出水の声にはっと我に返る。ふと見れば、遠征艇での待機組以外のメンバーは既に艇を降りて太刀川のことを待っていた。
「っと、悪い。ちょっとぼーっとしてた」
 行くか、と言って街に向かって歩き始める。もちろん足元には気をつけながらだ。
 しっかりしてくださいよ、と視線で言ってくる出水に太刀川は肩をすくめる。流石に隊結成初期からの長い付き合いだ、年齢の差があろうが容赦がない。そういうところも好ましい部下だと思っているが。
「そろそろ玄界に帰ると思うと、結構楽しみだなって考えててな」
「え、太刀川さんがそういうこと言うの珍しくないっすか」
 そう言って目を丸くした出水が、ああ、と少し置いて納得したような声を漏らす。
「雪の日に食べられなかったっていういつものうどん食べたいとか、そういう?」
 出水の言葉に、今度は太刀川が目を瞬かせた。そういえば、その話までは遠征艇の中で出水にしていたのだった。勿論その後の迅とのあれこれまでは話してはいないが。
 言われてみればそっちも大事だなあと太刀川は思って口角を上げる。そして、「確かにそれも、半分くらいあるな」なんてにやりと笑って出水に返したのだった。




(2023年2月19日初出)
マストドンBL鯖の「お題でSSを書こう」という企画で書いたものでした。
お題:「雪解け」






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