翌日
いつものようにアラームと共に朝目が覚めて、スマホのアラームを手探りで止めた。そして、隣にいつもの温もりがないことに少し驚いた。あれ今日太刀川さん早出だったっけと寝惚けた頭で一瞬思ってから、そうだ、と迅は昨日のことを思い出す。
(そうだ、……そうだった。昨日から)
体を起こしてカーテンを開ければすぐに、太陽の光が燦々と部屋の中に降り注いだ。春も近づいてきて、最近はだいぶ陽が昇るのも早くなったものだと思う。その眩しさに小さく目を細めてから、今頃はまだ遠征艇の中かな――と迅は、今『この空の下』にすら居ない、遠くを旅する恋人のことを思い浮かべた。
迅の恋人である太刀川を含む遠征メンバーが玄界を出発し近界へと旅立ったのは昨日の夕方、あるいは夜に差し掛かろうとしているくらいの時間だった。本部基地の地下深くにある格納庫、ボーダー自慢のエンジニアたちによる整備をきっちりと終えた遠征艇に乗り込む太刀川たちの見送りに顔を出したのは、今回の遠征計画には迅も未来視持ちの人間として、そしてボーダーの準幹部のような立ち位置になった者としてそれなりに噛んでいたからだ。……だなんていうのは半分建前で、本音のところは出発する前にちょっと太刀川の顔を見ておきたかったという部分も大きい。
別に未来を視ておきたかったとかそういうわけじゃない。今回の遠征において、データ的にも未来視的にも、遠征メンバーが危険に晒されるような不安要素はほとんど無いと言ってよかった。数年前までのような遠征であればまた話は違っただろうが、近界の主な大国と休戦協定を結びいくつかの国とは同盟関係を締結、あるいは復活させることができた現在においては、遠征がもつ意味合いも旅程の危険度も大きく変わりつつあった。
だからこれは、ただのひとりの、迅悠一という男としての個人的な欲である。
そのくらい許されてもいいじゃん、と心の中で言い訳をしてこっそり顔を出してみたら、上層部と最終確認なのか雑談なのか立ち話をしていた太刀川がふっとこちらに気が付いて「迅!」と名前を呼んだ。
そうして近づいてきて、来たのかと問われれば「ちょっと時間が空いたからね」と用意していた答えを返す。それに「ふぅん……」と返した彼がどのくらい迅の内心を見抜いていたのかは、あえて思考回路から外すことにした。
少しの間取るに足らないような会話を交わして、そして「太刀川、そろそろ時間だ」と遠征艇の方から風間の声が飛んでくる。それに振り返って「はーい」と返事をした後に、もう一度迅の方を見た太刀川はにまりと口角を上げた。
なんだ、と思った迅の目に未来視が届くより早く、太刀川が迅にだけ聞こえる声で囁く。
「俺がしばらくいないからって寂しくて泣くなよ?」
そう言った太刀川は揶揄うように目を細めて笑って、ぽんとその手が迅の頭をさりげなく撫でて離れる。触れたのはほんの一瞬、すぐに駆け足で遠征艇の方へ戻っていった太刀川の背中を、迅はぽかんと見送ることしかできなかった。
「なっ、……!」
泣くわけないじゃん、と言おうとした時にはもう太刀川はすっかり遠くに行ってしまって反論も叶わない。太刀川は上機嫌な顔で、遠征艇に乗り込みながらこちらをちらりと振り返って呑気に手を振っていたから、こちらはただ手を振り返すことしかできなかった。
(……ったく、なんてこと言い逃げしてくれるんだあの人は……)
ほぼ昔馴染みの面々しかいない空間とはいえ、人前で羞恥に顔を灼かないようにするのに苦労する羽目になってしまった。帰ってきたら平気な顔で、さっき言えなかったことを言い返してやろうと迅が心に決めている間にあっという間に準備は整って、門が開く。そして大きな艇がそこに吸い込まれるように旅立っていくのを迅は見送った。
それが昨日のことだ。
そもそも太刀川が遠征に行くのなんて現在のボーダーが近界遠征を始めてからは日常茶飯事――とまでは言い過ぎかもしれないが、なんら珍しいことではない。迅と太刀川が付き合うようになる前も、付き合い始めてからも、何度も太刀川が遠征に行くのを見てきた。
期間は数週間程度の時もあったし、長ければ数ヶ月に及ぶこともあった。その間玄界にいる迅とは当然顔を合わせることもなければ、個人的な通信すら取ることもない。
それでも平気だった。寂しくて枕を濡らすことなんて有り得なかったし、会いたいと胸を苦しくさせることもない。彼が近界でいつものようにしっかり任務をこなしているのであれば、こちらだって玄界で背筋を伸ばしてやるべきことをやるだけだと思っていた。
一度だって口にしたことはないが、いつだって彼に誇れる己で在りたいと思っていたからだ。
――だというのに。
迅は緩慢な仕草でベッドから起き出して、顔を洗って、着替えて、朝食の準備をする。朝食といっても玉狛にいた頃のしっかりとしたメニューではなく、トーストにコーヒーというシンプルな朝食だ。玉狛の美味しくて満足感のあるボリュームの朝食も好きだが、太刀川と暮らし始めてからのこのさっと準備して食べられるシンプルな朝食も迅はそれなりに気に入っている。
引越し祝いだと言って数ヶ月前に嵐山から貰ったトースターで綺麗に焼けたトーストに、ジャムを塗って一口囓るとパンの香りと甘いジャムの味が口の中に広がる。そしてブラックのコーヒーも一口飲めば、体がようやく一日の始まりを認識して起き出してくるような心地になった。いつものルーティンだ。
ダイニングテーブルの目の前の席に、いつもの人がいないだけで。
(いつものこと、……のはずなのに、なんでだろうな)
誰も座っていないその席に目線を向けながら、迅は心の中でそう呟いた。
会わない時、会えない時なんて、これまで数え切れないくらい経験してきたはずなのに。
うまく言語化しきれない、そのうえ理由もわからないこの感情に朝からモヤモヤとしてしまう。いつもよりもずっと広くて静かな部屋の中で、トーストを囓る音やマグカップをテーブルに置く音がやけによく聞こえるような気がした。
……そういえば、この部屋がこんなに静かなのも珍しいよな。そんなことに迅はふと気が付く。
勿論互いに働いているわけで、朝や夜の時間が合わない日もあるし、一人で出かけたり友達と飲みに行ったりして居ない日だって当然ある。だからこの部屋に一人でいる時間が初めてなわけではない、のだけれど。
二十代半ばの二人暮らしにしては少し広めで陽当たりのいいこの部屋を借り、住み慣れた玉狛支部を出て、太刀川と同棲を始めたのは数ヶ月前のことだ。そうして同棲を始めてからは互いに遠征や泊まりの出張なども無く、家に帰れば、目が覚めれば、そばに相手がいるという生活が日常に馴染んでいった。最初こそ不思議な感じもあったがすぐに慣れ、生活の中に互いがいるということがいつしか当たり前になっていたのだ。
だから――いや、だからか?
そこまで考えて、迅ははっとする。思い至ったそれに動揺して、トーストの最後の一口を思わず喉に詰まらせそうになってしまった。慌ててコーヒーで流し込んで、喉を通って胃に落ちていくのを確認してからはあ、と大きく息を吐く。そして再び先ほど頭の中に浮かんでしまったことに思いを馳せれば、流し込んだコーヒーの熱さのせいではなく、じわりと耳が熱を持つのを感じた。
「……え、もしかしておれ、マジで寂しがってんの?」
口元に手を当ててそうぽつりと零せば、ほんの小さな声のはずだったのにひとりきりの部屋ではやたら大きく響いて、さらに恥ずかしさがこみ上げてきてしまう。
こんな些細なことで。まだ旅立った翌日、たった一日も経っていないのに、いつもの朝に彼が居ないだけで寂しいだなんて。
嘘だろうと自分に言いたくなるが、胸の内で燻るこの感情につける名前は一度思ってしまえばそうとしか思えなかった。ええ、と自分自身に対してひどく動揺してしばらくその場で固まってしまったが、不意に壁掛け時計の時刻が目に入って我に返る。今日も自分はいつも通りに出勤して一日仕事なのだ。午前中から上層部との会議があるから、当然遅刻はできない。
慌てて椅子から立ち上がって、食器を流しに置いて手早く歯磨きをして出勤の準備をする。昔はラフな隊服姿で本部でもどこでも歩き回っていたものだが、デスクワークが中心になってからは基本がスーツにネクタイだ。今でも少し首元を窮屈に思うが仕方がない。
ネクタイを巻いてジャケットを羽織りながらも、思考の隙間に挟まってくるのはやはり先程思い至ったことだった。
(――寂しい、なんて、そんなの)
真正面から受け止めざるを得なかったその感情が、ひどく懐かしいものに思えて、そのことにも驚いてしまったのだ。
寂しいと思ったら、足が止まってしまうような気がしていた。
それは若さゆえの不安定さと意地からきていたものだと、今振り返ってみればそう言える。けれどそうしなければあの頃の自分は、気丈な顔をして、飄々と誰も彼もに余裕ぶって笑って、そんなふうには立っていられなかったのだとも思うのだ。
一番そばにいた大切な人を二度失って、仲間も沢山失って、大切な場所が変わっていって、大切だった時間を手放して――それでもおれは進まなければならないと、望む「未来」に届いていないのにまだ諦めるわけにはいかないと、半ば使命感に駆られるようにすら思っていたから。
生きるために、守るために、前だけを見て戦ってきた十数年だった。
だからそんな感情は芽生えて、育ってしまう前に無意識に押し込めてきたように思う。平気なふりをして平気な顔をして、自分すらも騙そうとして、それで。
無理をしてきたつもりはない。自分なりにそれなりに楽しく生きてきたつもりでいるし、自分を可哀想とも思わない。ただそうやって押し込めてきた感情はいつしか癖になって、押し込めてきたことすら忘れてきただけだった。
なのに、今になってこんな。
「……、あ~~……」
自覚して、思わずクロゼットの横の壁にごつんと頭をぶつけてしまった。痛い。痛いついでにこのうっかり赤くなった顔出勤するまでにどうにかなってくれないかな、と願う。そんなどうでもいい願いを叶えてくれる神様なんていないだろうけど。昨日の太刀川とのやりとりを思い出してしまえば、昨日触れたあの手の温もりと感触もうっかり鮮明に思い出せる自分が余計に恥ずかしい。
そんな風に自分に対して意地を張って、自分の心を無意識に縛っていかなくても生きていられるようになったこと。ちゃんと立っていられるようになったこと。凝り固まった自分のそんな感情を気付かないうちに解きほぐしてくれたのは、自分の感情に素直で居られるようになったのはきっといつだって自分に素直にのびやかに生きている彼と過ごし、彼と交わした長く深い時間のおかげであることに他ならないと、そんなことを今更に自覚する。
おまえって自分のことには鈍感だよな、といつか彼に珍しく呆れたような顔で言われたことを覚えている。その時は深く考えず、「そんなことないでしょ」と笑い飛ばしたものだったが、しかし。
もうとっくに手の施しようもないほど大きくなっていたことは分かっていたつもりの感情だったのに、それですら自覚が足りないほどに彼との時間が自分をこんなふうに変えてしまっていたなんて思っていなかった。
(いや、なんか……もうほんとにダメだな)
こんな短い時間で寂しいと思ってしまう自分にも、自分の変化をまったく自覚できていなかった己の鈍さにも、そして気付かぬうちに彼にすっかり絆されて、溺れて、変えられてしまった自分にも。
そのうえそれに呆れているくせに、どうにも嬉しいように思ってしまう自分がいるから余計に厄介なものだった。
「……寂しくて、泣きはしないよ」
それはない。そんなことはないということはやっぱりあの人に言ってやりたい。だけど、寂しいと思ってしまったのは――そんなことを今自分が思えたことは、誤魔化しようもない事実だった。
もうそろそろ本当に急がなければいけない時間だ。スーツのボタンを閉め、春物のコートを羽織ってカバンを手に取り玄関に向かう。
靴を履いて部屋を出る前にちらりと室内を振り返る。自分以外に誰も居ない部屋。今回の遠征は最近にしては結構長期間で、一ヶ月以上の期間を予定している。少し考えてから、すう、と息を吸って口を開く。
「いってきます」
いつものその言葉を口にしてみても当然、返事はない。部屋に響いたその声が跳ね返って自分の耳に届くのを聞いてから、迅は玄関のドアを開けた。晴れ晴れと広がる青空と春めいた優しい日差しに少しだけ自分の心が和らぐのを感じながら、早足でボーダー本部までの道を急ぐ。
太刀川がいない間、自分のすることはいつもと変わらない。いつものように過ごし、彼の隣に在る自分として背筋を伸ばして自分のやるべきことをやっていくだけだ。
だけど、彼が帰ってきたら。
横断歩道に差し掛かって、信号待ちで足を止める。まだ少し肌寒い風が髪の毛とコートを柔らかく揺らすのを感じながら、迅はゆっくりと瞬きをする。
(……一度くらいは、言ってみてもいいかな)
あんたがいなくて寂しかった、だなんて。
そんなことを言ったら太刀川に思い切り揶揄われるだろうことは、未来視で視なくたって分かる。だけど同時に、未来視ではまだ視えないというのに不思議なほどに思えるのだ。そんなことを言えば彼は年上ぶって目を細めて、そうしてひどくやわらかい、嬉しそうな顔もするんだろうな――なんてことも。
マストドンBL鯖の「お題でSSを書こう」という企画で書いたものでした。
お題:「翌日」