Love goes on.




 手を伸ばそうか、と思っては躊躇ってやめた。
 今日太刀川の部屋に来てから――いや、本部で会った時から迅は何度もそれを繰り返している。当の太刀川はといえばそんな迅の葛藤もつゆ知らずと言った様子で、夕飯の時に使った二人分の食器やマグカップを洗っているところだった。少し首を伸ばして覗き込めば台所に立つ大きな背中がちらりと見え、水音や食器が軽くぶつかる音が迅のいる居室にも聞こえてくる。
 今日は時間が合わずランク戦こそできなかったけれど、本部で顔を合わせた時に太刀川の方からいつものマイペースな調子で「今日空いてるならうち来いよ」と誘われ、のこのこついてきて今だ。
 別に触れたいなら触れればいいのではないかと、内心で呆れている自分もいる。彼に触れてもいい、自分たちはそういう関係であることに間違いはないのだ。それをなぜ躊躇うかといえば、だいたい自分の問題でしかない。
 長年想い続けてきた彼と初めて体を繋げたのは、一週間と少し前のことだ。
 それが良くなかったなんてわけじゃない。むしろ、良すぎた。あんまり気持ちよくて、嬉しくて、幸せが過ぎて、翌朝起きた時にはまともに彼の顔が見られなかったほどだった。
 だからこそ困っているのだ。
 思い返せば、顔を見れば、また触れたいと強く思うようになってしまった。その体温に触れたいし触れられたいし、太刀川さんの気持ちよくなって蕩けたあの顔がもう一度見たいし、そして太刀川さんの中に――
 そこまで思って、迅はじわりと耳が熱くなりそうになって慌ててかぶりを振る。あーあー、良くない、と自分を諫めるように呟いては小さく息を吐く。
 彼も気持ちいいと言ってくれていたし、翌朝も機嫌が良さそうな様子だったから、多分またしたいと言ってもすげなく断られるということはないだろう。きっとそのくらいは、自惚れてもよさそうな気はしている。
 だけど一度許されてしまったおかげで、自分の中の欲が日に日に膨れ上がっていることが問題なのだ。
 家に来る度にしていたら、流石にがっつきすぎなんじゃないか。体目当てと思われてしまうんじゃないか。それに、そんなふうに好きな時に触れていいのだと思ってしまえば自分の中の箍が外れて、ブレーキなんて効かなくなってしまいそうなことも怖かった。流石の太刀川だって、毎回求められれば呆れてしまうかもしれない。
 夜に太刀川の部屋で二人きり、互いに明日早くに予定はない。前回に続き絶好のチャンスではある――のだが。
(……あ~、どうしよう)
 未来視的には一応、どちらの可能性もあるようだった。色んな未来の可能性が視界の端にくるくると現れては消える。あんまり『アリ』の方の未来を視すぎると目に毒だから、直視しないようにしているけれど。
 体を繋げなくたって、幸せなのは間違いないのだ。顔を見て、一緒に過ごして、側で眠るだけでも。それだって本当なのに。
 そんなことを考えているうちに水音が止んで、太刀川の足音が聞こえてくる。迅が気付いて顔を上げるのと、居室に戻ってきた太刀川の影が目の前に落ちるのはほとんど同時だった。
「風呂、どっち先入る?」
 見上げた太刀川の首元、緩いニットから覗く無防備な肌につい視線が行ってしまう自分がいる。この間そこに指で、唇で何度も触れたことを思い出してしまえば、ぐらぐらとまた自分の中の天秤が揺れ始めてしまう。どうしよう。やっぱり触りたい。じわりとこみ上げてきた甘い欲に、迅は小さく生唾を飲み込む。
 迷いながらも口を開きかけて、しかし太刀川がふあ、と欠伸をしたのを見て迅は言いかけた言葉を止めた。
(あ、……眠いのかな)
 そう思えば一人で勝手に高揚した気分がゆっくりと萎んでいく。眠いなら、無理強いするのはよくないだろうと迅は内心で結論づけた。半分は自分に対する言い訳、というところもあるけれど。
「えーっと、太刀川さん先でいいよ」
 まずは質問に答えてから、迅は自分に言い聞かせるように付け足す。
「眠いんでしょ? お風呂入って早く寝よ」
 そう言えば、迅の言葉を受け取った太刀川はきょとんとした表情になる。予想外の反応に、え、と戸惑った迅が何かを言う前に口を開いたのは太刀川からだった。
「しないのか?」
「え」
 今度こそ声が出た。心臓が、急にうるさく鳴り始める。
「俺はそのつもりだったし、したいけどな。――まあ、今日はしないならそれでもいーけど」
 風呂入ってくるわ、と言って踵を返しかけた太刀川の手を、迅は思わず立ち上がって掴む。
 太刀川の体温が触れた手から伝わって、この一週間ちょっとの間ずっと頭から離れなかった、焦がれていたそれに自分の体温が一気に上がるのが分かる。動揺と期待のあまり、じわりと手に汗をかいてしまったのが恥ずかしい。しかし、触れたままだから今更隠しようもない。太刀川が振り返る前に、迅はその背中に額をぽすんと軽く預けた。うっすらと香る太刀川のにおい、額からも感じる体温に胸が詰まる。好きだ、と思う。どうしようもなく。
「……おれもしたい、よ」
 言った声がわずかに震えて、その必死さに自分で笑えてしまう。
 この人の前ではいつもそうだ。
 他のみんなの前みたいに飄々とスマートになんていられない。余裕ぶっていてはこの人に太刀打ちすることなんてできないと、もう骨身に染みているのだ。期待と恥ずかしさが入り交じって、顔が熱くなるのが分かったけれど止めることもできやしない。
 迅の答えを聞いた太刀川が、ふ、と小さく笑った気配がした。
「じゃあ、しようぜ。先風呂入って待ってるから」
 振り返った太刀川がそのまま迅の手を引いて、それに驚いて抵抗もできないまま唇を奪われる。熱い唇が一瞬触れて、離れて、そうして至近距離で太刀川が目を細めて不敵に笑う。
「年数は今更敵いようもないかもしれないけどな。……もっと自惚れろよ? 好きなのは自分ばっかりとか思うなよ」
 そんなことを言い残して、太刀川はするりと迅の手から抜け出していく。あっさりと風呂場に消えていった太刀川の背中を見届けてから、迅は力が抜けてしまってその場にしゃがみ込んだ。
 はああ、と大きく吐いた自分の息の音が、一人になった静かな居室に大きく響く。しばらくそうしていたらシャワーの水音が遠くから聞こえてきた。そうだこの後、と実感が追いついて、先程太刀川が言ったことがようやくじわりと迅の全身に沁みてくる。
(もっと自惚れろ、って)
 そんなことを言わないでほしい。今だって本当に、また期待してしまうのに。
 この思いの大きさに、少しでも太刀川さんも近づいてほしい――だなんて、ばかみたいなことを。





(2023年5月4日初出)







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