シークレット・シークレット
「――うん、今日は太刀川さんちに泊まらせてもらうことになったから。明日の朝には台風も過ぎてるだろうし戻るよ、朝食は多分食べてから帰る。……あーそうだ、あともうすぐちょっとの間停電すると思うんだ。そんなに長い時間なわけじゃなさそうだから問題ないと思うけど、陽太郎がびっくりして転んじゃったりしないように気をつけてあげて。うん、じゃーまた。おやすみー」
言い終えて迅が電話を切ると、ベッドを背もたれにして座っていた太刀川と目が合った。その目はわくわくと楽しそうな色を宿していて、迅に「停電するのか?」とその目と同じくらい楽しそうな声色で聞いてくる。自分よりひとつ年上のはずだというのにまるで子どもみたいなその様子をみた迅は、呆れるよりも先に自然と口元を緩ませてしまった。
「うん、まあ一時間もかからないで復旧しそうな感じだけどね。多分もう、ほんとすぐだよ」
ちらりとカーテンが薄く開いたままだった窓の方へと視線を向けてみたが、叩きつける大粒の雨でほとんど外の様子は見えない。強い風で窓が時折ガタガタと揺れる音と、光と共に雷がどこかへ落ちる大きな音が部屋の中にいても響いていた。
本部から太刀川の部屋に連れ立って帰ってきた時点でかなりの荒天だったが、さらに雨風も雷も強さを増しているようだ。今夜中はこの天気が続くだろうと今朝の天気予報でも言われていたし、迅の未来視もそう言ってきていた。迅はカーテンを閉めて、太刀川の隣、一人分開いたスペースに再び座る。外では再び強い風が吹いて、ベランダに続く大きな窓を音を立てて揺らした。
三門市に台風が近づいているから防衛任務担当以外の隊員は早く帰れ、という通達がボーダー本部から出ていたにも関わらず、それを聞かない無鉄砲なやつも少数だがいるものだ。その無鉄砲な少数の中の一人が、ボーダーの現役隊員のトップ――A級一位部隊の隊長兼、個人総合一位の太刀川慶という男である。
雨風が段々と強まってきた夕方の終わりくらいの時間、迅が普段よりもずっと閑散としたランク戦ブースを軽く覗いてみれば、すぐにこちらを見つけた太刀川が目を光らせた。そして「おっ、来たな、迅。ランク戦やろうぜ」といつものように誘ってくるものだから、それを迅もうっかり受けてしまったのだ。
太刀川が居ることは視えていて、ランク戦に誘われれば受けてしまうだろうことも分かっていたのに、本部からの帰りがけにランク戦ブースを覗いてしまった自分も自分であるということはまあ、自覚している。けれどそれも分かった上で顔を見たいしあわよくば戦りたいという気持ちが勝ってしまったし、なんでこの天気の中ランク戦ブースにたむろしていたのかと太刀川に聞いてみれば「おまえが来るような気がしたから」なんて言われて嬉しくなってしまったのだから、実際は迅も太刀川に何かを言えるような立場ではないのであった。
弧月とスコーピオンでは互角の実力の自分たちである。一度戦り始めたら長くなってしまって、ようやく対戦を終えた時にはすっかり夜になりこの荒天だ。その頃には流石にランク戦ブースも自分たちしか残っていなくて、その閑散としたブースを見てから二人で顔を合わせて思わず笑ってしまったのだった。
もうすっかり夜だし、この天気だから――そう言い訳を作って二人でほとんど傘も役に立たない天気の中太刀川の部屋にびしょびしょになりながら転がり込んだ。
大学生になってから一人暮らしを始めた太刀川の住むアパートは、本部までの利便性を最も重視したために警戒区域ギリギリの場所に位置している。ゆえに本部からだと、玉狛に帰るよりも圧倒的に近いのだ。
だから、と玉狛にはそんな〝用意していた〟理由を説明して「今日は太刀川さんの家に泊まる」と言っておいた。電話を受けた支部長も「そうか、了解」とすぐに納得してくれた様子だった。……あの頭が良く回って食えない我らが支部長のことだ、実際何かを察してはいるのかもしれないけれど、向こうが言わないのであればこちらも余計なことは言わないでおく。そういう不文律だ。数ヶ月前から始まった自分たちの新しい付き合いのことは、どうにも気恥ずかしいということもあってまだ自分たち以外の誰にも伝えてはいなかった。
「あ、くるね」
視界の端で未来視が閃いて迅がそう伝えると、ほとんど同時に地響きに近いような雷の音がした。そして間を置かずにふっと部屋の電気が消える。未来視通りの停電だ。
「おー、消えた」
すぐ隣から、太刀川のいつものようにのんびりとした声が聞こえる。こちらが予告していたとはいえ、全く慌てないどころか妙に楽しそうな太刀川の様子に、太刀川さんだなあと思って迅はどうにも好ましさのようなものを感じずにはいられないのだった。
「どうしよっか。さっき言ったとおりそんな長い時間ではなさそうだけど――電気点かないとやれることもそんなないし、まあまあいい時間だし、もう寝ちゃう?」
夕飯とシャワーは簡単にだがもう済ませておいてよかった。部屋着にも着替えているし、よい子はもう寝る時間だ。太刀川の部屋に来れば色んな意味で夜更かしをしてしまうことが常なのだが、たまにはこんな日もいいだろう、と迅はひとりごちる。
そうだ、部屋の電気のスイッチから消しておかないと、電気が復旧した時に明かりが点いて目が覚めてしまうかもしれない。まあそのくらいならスマホを懐中電灯代わりにして部屋のドアの横にあるスイッチまでぱっと歩いて行けばいいだろう。そう思って立ち上がろうとしたところで、一瞬早く頬に何かがぶつかるように触れた。
突然のことに迅は驚いて、それを太刀川の指だと認識した時にはその手に両頬を包み込まれ、そしてぐっと引き寄せられる。太刀川が迅に対して突拍子も無いことをするのはいつものことだが、暗いせいで未来視もうまく効かない。だけどこの動きはもう、体が次に何をされるのか覚えていた。
唇が触れる――なんてロマンチックなものではなかった。太刀川の息が触れたと思った次の瞬間には、固いものがごちんと歯に思い切りぶつかって、唇ではなく歯同士がぶつかったのだと知れる。すぐ一センチ先も見えない暗闇だ、距離感を間違えたのだろう。痛いと思わず文句の声を上げようとしたが、今度こそ違わず塞がれた唇にその文句は吸い込まれてしまった。
性急に伸びてきた舌に強請られて迎え入れるように薄く唇を開いてあげると、太刀川の厚ぼったい舌がすぐに迅の口の中に侵入してくる。
真っ暗で何も見えない中で何をやっているんだと頭の片隅にいる冷静な自分は思うのに、一度この男の生身の熱に触れてしまえば体のほうは呆れるほど欲に従順だ。もっと欲しい、と思ってこちらからもすぐに舌を絡ませた。熱をもった舌同士が擦れるざらついた感触が与える気持ちよさに、背筋がぞくぞくとさせられる。唾液が絡む水音が二人の間に響いて、外はうるさいはずなのにそのいやらしい音が何より一番鮮明に聞こえて、迅は己の湧き上がるような興奮を自覚した。
互いの負けず嫌いがこういうところでも出るのか、一度深いキスを始めてしまえば長い。貪るように互いに相手の口の中に触れて、舌同士を絡ませて、互いの性感を煽っていく。たまらなくなってこちらからも手を伸ばして太刀川の耳の後ろを包み込むみたいに手のひらで触れた。見えないせいで、口の中の動きとは裏腹にそれは普段よりずっと慎重な手つきになってしまったが。
「……ッ、ん」
口の中の弱いところを擦った時に、太刀川が開いた唇の隙間から漏らしたわずかな声に自分でも笑えるほど欲情を感じた。
互いに食らうように貪って、舌や口の中の敏感なところを擦って、擦り合わせて、夢中になる。唇同士が離れたのは、呼吸が苦しくなってきてようやくのことだった。
は、と迅は大きく息を吐いて吸う。意識の中にようやく戻ってきた雨風の音とともに、同じく荒くなった呼吸の音がすぐ目の前からも聞こえて、しかしいつもと違うのは太刀川の顔がこんなに側にいるのに見えないということだった。
停電はまだ復旧せず、部屋は真っ暗なままである。普段であればこういう時にしか見られない、顔や唇をいやらしく赤くした太刀川を目の前に見ることができるのに――今だってそんな顔をしているはずなのに、この目に見ることができないことにいやに焦れるような心地になる。そういう時は大概自分だってひどい顔をしているのだから、それを太刀川に見られないことには安堵しているところもあるのだけれど。
すぐそこにいるはずなのに見えない、というのはそれだけでどこか心許ない感情ももたらすようだ。唇が離れてしまえば、太刀川の後頭部に触れた指から伝わる感触と熱、そして気配や息遣いだけが迅に太刀川が今もそこにいるということを教えてくれる。触れた指を確かめるようにわずかに動かすと、くすぐったかったのか太刀川が小さく喉を鳴らして笑った声がした。
「こーいうことなら暗くてもできるだろ?」
そして次に太刀川のそんな得意気な声が暗闇の中から迅の耳に届いて、その言葉がどうにもいやらしく聞こえてじわりと赤面しそうになってしまった。確かにそうかもしれないけど、と絆されるように思いかけて、いやいやと迅はすぐに一番最初のことを思い出す。
「……最初、思いっきり指とか歯とかぶつかったけど」
あれは普通に痛かった。そう思って迅が言うと、太刀川はなははと呑気な声で笑った。ああこれは適当に誤魔化そうとするときのやつだ、と迅は長い付き合いで察する。
「まあそういうこともある」
そう言ってから、太刀川は触れたままだった手でするりと迅の頬を撫でる。その煽るような手つきにぞくりとして、太刀川がここで止まるつもりがないであろうことにも気が付いてしまった。まあ、あんないやらしいキスをしておいて、ここでハイ終わりだなんて聞き分けの良い男ではないのだ。お互いに。
この人に対する欲が、枯れているなんてわけがない。この温度をもっと知りたい。触っていて欲しい。こちらだって触りたい。あんなふうに火を点けられてしまってキスだけで足りるはずがない。
だけど、それにしたって。
「真っ暗で見えない中でするのは流石に事故るって……」
強い風がまたガタンと音を立てて古い窓を揺らす。遠くではまた雷が鳴る音が聞こえた。この天候はまだ止みそうにない。
照明をギリギリまで絞った薄暗闇の中でということはこれまでもあるが、それでも豆電球なり月明かりなり、何かしらの淡い光源はあったからできたことだ。今はその時以上に真っ暗で、目の前の太刀川の輪郭すらほとんど視認することができない。
キスだけならまだしも、それ以上の体の柔いところに触れる行為を文字通りの手探りで進めることには非常に不安があった。今すぐにでもがっつきたい気持ちをどうにか堪える。間違っても、太刀川の生身の身体を傷つけたくはないのだ。
そんな迅の葛藤とは裏腹に、太刀川は気にした風も無く迅の頬を確かめるようにもう一度柔く撫でてみせる。
「大丈夫だ、こんなふうにちゃんと触れてればだいたい距離感は分かる。だろ? おまえだってすぐノリノリになったくせに」
そう言われてしまえばぐうの音も出ない。しかも太刀川に「こーいうことすんのも、だいぶ慣れたしな」なんてさらりと付け足されてしまっては、色々とこれまでのそういうシーンを思い出してしまって、迅は余計に何も言えなくなってしまうのだ。
「ああ、真っ暗なのがダメなら懐中電灯でもつけながらすればいいのか? 多分どっかにはあったはず」
ぱっと思いついたように太刀川が放った一言に、迅は目を瞬かせた。そして想像してしまえばそのアンバランスさやくだらなさがひどくおかしくて、確かに懸念事項の解決策としては無いではないのだが、迅はこんな時なのに思わず笑ってしまいそうになる。
「それもそれでどうなの、雰囲気出る?」
「雰囲気とかいるか? 俺たちに」
「おれそれで勃つ自信ないけど」
戯れ半分でそう返してやれば、太刀川からは「大丈夫だろ」とあっさり返される。どういう大丈夫なんだ、と迅は思わず眉根を寄せてしまう。そう言われてしまったことには、色々と心当たりはあるだけに恥ずかしさがこみ上げてきてしまったのだ。
「断言されるとそれもそれで――」
反論しようとしたところで、ふと太刀川の気配が強くなる。耳の近くに太刀川の普段より温度の高い息が触れて、不意打ちだったということもありぞくりとしてしまった。肩が小さく震えてしまったことは、この暗い中だ、太刀川にはバレなかったと願いたい。
「せっかくおまえと二人で居るのに、ただ良い子に寝るだけなんてお預け食らってるようなもんだ」
そんなことを欲を纏った低い声で、至近距離で囁かれて、迅は一瞬動くことができなかった。
「っ、太刀川さ……~~っ、んん」
再び唇が塞がれて、言葉は途中で太刀川の口の中に呑み込まれてしまう。今度は歯はぶつからなかった。またすぐに口付けは深くなって、迅もされるがままではいられず再び舌を絡ませる。
暗くて何も見えないという状況が与える不安に似た感情も、しかし太刀川に深く触れて、熱をすぐそばで感じるにつれ、そんなものがあっという間に消えていってしまう自分がいた。
太刀川の後頭部に触れたままだった手を滑らせて指でうなじの辺りを明確に煽る意思を持って撫でると、太刀川が唇の隙間から小さく「ん、」と息ともつかない声を漏らす。少し撫でただけで反応を示してくれるさまがどうしようもなく可愛く思えて、こちらからも引き寄せるようにしてさらに深く唇を合わせた。
すると対抗するみたいに太刀川の舌が迅の弱いところ――舌の裏のあたりをぬるりと擦ってきて、その動きもあんまりいやらしかったものだから、気持ちの良さに迅は思わず身体の力がわずかに抜けてしまった。
そうしたらその一瞬の隙を違わず太刀川がぐっと体を倒してきて、視えてもいなかった突然のことに碌な抵抗もできず体が傾いだ。頭をぶつけないように直前で床に肘をついたおかげで頭をぶつけることはなかったが、暗い中でこれは危ないだろうと迅は流石に眉根を寄せて太刀川に抗議の声を上げる。
「ちょ、っと! 危ないって――」
――言いかけた瞬間、降り注いだ眩しさに迅は思わず目を瞑ってしまった。
何度か瞬きをするうち、突然明るくなった視界に段々と目が慣れ始める。他のことに気を取られていたせいで、停電から復旧したのだ、と理解するのが一瞬遅れた。未来視から目算した時間とそれほど違わぬタイミングでの復旧のはずなのだが、すっかり頭から抜け落ちてしまっていたおかげで驚いてしまった。
そしてようやくまともに認識することができるようになった視界の中、自分の目が真っ先に像を結んだのは迅の上に乗っかってこちらを見下ろす太刀川の姿だった。
逆光になっているせいで多少薄暗くはあるが、暗かった間ずっと見たいと思っていたその表情を今はずっと鮮明に見ることができる。
唾液に濡れて赤く光る唇も、薄く上気した頬の色も、明らかな欲を――おれをどうにかしたいなんて獰猛な色でその瞳が濡れていることも。
それは暗い中で想像していたものよりもずっといやらしくて、そんな恋人の姿を眼前に見せつけられて、迅は頭を強く殴られたかのような心地になった。体がかっと一気に熱くなる。さっきまでよりもずっと、さらに強く欲情したのだ。
「お、……復旧したな」
迅と同じように、眩しそうに何度か目をぱちくりと瞬かせながら太刀川が言う。明るくなった部屋を少しだけ視線で見回した後、再び迅の方を見下ろして、そして迅の下肢に手をやってそこをするりと撫でてきた。
愛撫とも言えない程度のその刺激に、迅はびくりと大袈裟に体を震わせてしまう。何故ならその場所は、既に誤魔化しも効かないくらいに反応を示してしまっているからだ。
「しっかり勃ってんじゃねーか」
案の定太刀川にはそうおかしそうに笑われてしまって、顔が赤くなるのを自覚してしまうのにこの明るさでは隠すこともできない。まだ暗いままだったらよかったのに、と思うけれど、しかしそう言い切ってしまえないような未来が視界の端にちらつき始めている。
「また停電しそうな未来は視えてるか?」
窓の外の雨風の音はさらに激しさを増しているように思う。しかしいつの間にか雷はだいぶ遠ざかっているようだった。迅は自分の未来視を辿る。やましい方ではないやつを。そうして迅は欲情した顔を隠しもしない太刀川を見上げてゆっくりと口を開く。
「……今夜はもう大丈夫そうだね」
自分の今の返答で、ひとつ未来が確定したのが分かる。こっちはやましい方のやつ。そして自分がそう言えば、太刀川がどんな風に返すのかはもう未来視がなくたって予測することができた。それはこっちだって、少し前の自分の言葉を覆して言ってやりたい言葉だったのだ。
「なら、まだ寝なくてもいいってことだよな」
予想と違わぬ言葉を太刀川が口にしたと思えば、言うが早いか太刀川が再び距離を詰めてくる。もう一度唇が触れる直前に迅はそれを手で防いで、一瞬不満げなものに変わりかけた太刀川の目を至近距離で見つめ返した。
「床で始めるのはやめよう。……ベッド行こ?」
そう宥めるように言って、するりと太刀川の下から抜け出した迅は太刀川の腕を引いて立ち上がる。そしてすぐそこのベッドに移動すると今度は迅が太刀川を押し倒して、そしてさっきおあずけにした分のキスをこっちから性急に奪ってやったのだった。