密やかにブルーグレー




 どぉん、という独特の低い音が遠くから聞こえて、それでようやく目が覚めた。重い瞼を上げて、まず最初に太刀川が思ったのは部屋が暗くてとても驚いたこと。そしてその次に気が付いたのは、こちらを見下ろしている青いふたつの瞳だった。暗いせいで色はよく見えないはずなのだが、その一瞬窓の外がぴかっと光ったおかげで、その色がよく分かったのだ。一瞬遅れてまたどぉんという重低音が耳に届いて、あ、花火か? とようやく気が付く。そういえばそうだ、今日は。
「おはよう。よく寝てたね」
 薄暗い部屋の中で、迅の薄い唇がどこか楽しげに半円を描く。よく寝ていたと言われれば確かにそうで、最後に記憶にある部屋はまだ電気をつけなくても明るかった。この部屋は窓の方角的に、夕日が少し眩しいと思うほどに入るのだ。
「そうみたいだな。夜……? 花火ってことは今、八時くらいか?」
 寝起きでまだぼんやりとしている頭でそう言うと、何がおかしかったのか迅はくつくつと笑いながら「正解」と言う。正確なタイムスケジュールを把握しているわけではないが、花火といえば祭りの終盤のイベントだ。大体毎年そのくらいの時間だったと記憶している。
 そういえば今日は祭りだった。いや、昨日まではそのことは覚えていたのだが、昨夜からレポートに追われていたせいですっかり頭から抜け落ちていたのだ。レポートの正規の提出期限はとっくに過ぎていたのだが、教授からの温情で『今日の十六時までに提出すれば受付とする』という猶予期間が与えられたので、流石にここで落とすわけにはいかなかった――なにしろ太刀川の大学の単位は常に進級ギリギリのところを彷徨っているのだ。
 そんなわけで普段は使わない部分の脳をフル稼働してどうにかレポートの提出を終えたのが今日の十六時前のこと。ほぼゼロからのスタートだったせいで睡眠時間をかなり削ってしまった上にどうにか提出を終えたことによる安堵で気が抜けて、提出完了と同時に床に倒れ込んだところまでは覚えている。どうやらそのまま自分はすっかり眠ってしまったらしかった。
 太刀川が寝入った時には、この部屋には確かに一人だった。いつの間にか迅が入ってきていたことに、高揚感に似た感情はあれど驚きは大して無い。迅はこの部屋の合鍵を渡してあるし、そもそもこの季節には風を取り込む為に部屋の窓は開けていることが多い。換装体であれば、二階のこの部屋のベランダに降り立って侵入するなんて少々お行儀の悪い行為だって造作も無いことだ。勿論そんな風にこの部屋に入ってくる人間なんて、迅ただ一人しか居ないのだけれど。
「いつからいたんだ? 待たせたなら悪い」
「んー、今さっきだよ。おれだって夕方まで防衛任務だったし」
 迅はあっさりとした調子でそう口にするが、この男はそういう類の嘘は平気でつくから信用ならない。だいたい、夕方までの防衛任務といえば十八時に終了するはずなのだ。
 しかしまあ、入ってくるのも寝顔を眺められていたのもいいとして、電気も点けずにどういうつもりなのだろう。
 迅はこちらの顔の横に手をついて、正面からこちらを見下ろしている。迅が少し動けば、長い前髪がさらりと小さく揺れた。時々花火の光でぱっと窓の外が明るくなって、その目の青色が少しだけ鮮やかになる。
「……、祭りに誘いに来た? それとも寝込みを襲いに?」
 迅がこの部屋に来た理由を考えて、まず思いついた二つを挙げてみる。迅と祭りに行く明確な約束こそしていなかったが、今度の祭りどうしようか、行けるかなー、というくらいの世間話はしていたことを思い出したのだ。だからもしかしたら太刀川を祭りに誘いに来たのかもしれないし、それともいつもみたいに違う遊びを狙って来たのかもしれない。だから太刀川はそう言ってみたのだが、迅は一度ぱちくりと瞬きをした後、何かがツボにはまったのかくつくつと喉を鳴らして笑った。
「えー、そうだなあ。ある意味両方? どっちでもよかったから。でも寝てるところを襲う気はなかったよ。起きなかったらそのまま帰ってもよかったし」
 迅がそんなことを言うので、太刀川は思わず「ええ」と不平の声を漏らす。
「来たなら起こせよ、勿体ない。別に寝込みを襲って起こしてくれても俺としてはよかったんだが?」
 太刀川が言うと、迅は少しだけ困ったように眉根を寄せる。
「太刀川さんって太っ腹すぎない?」
「これ、太っ腹か? 本心なんだけどな」
 太刀川の返事に、迅は「ううん」とまた困ったような表情をみせる。だけどどこか嬉しそうでもある。窓の外で光った花火が照らした迅の瞳の青が、色を深くしたのをみて、太刀川の中にもじわりと熱が生まれる。
「生憎おれは紳士なもんでね。いくら恋人でも流石に寝込みは襲わない主義」
「紳士? おまえが?」
 妙に格好つけた口調でそんなことを言う迅がおかしくて、今度は太刀川が妙にツボに入ってしまう。けらけらと笑っていると、迅の顔がぐっと近づいてきたと思ったらその笑っている口を唇で塞がれてしまった。
 笑い声が止んで、満足したのか迅がゆっくりと唇を離す。静かになった部屋の中で、視線が絡む。一瞬の間の後、連発の花火が上がったのか遠くではどんどんと花火の音が立て続けに聞こえた。ぴかぴかと何度も窓の外が光って、迅の表情を照らす。その顔には、太刀川と同じ色の熱が浮かんでいる。
「紳士なんじゃなかったのか?」
「今は寝てないじゃん」
 そういう話なのか? と太刀川が一瞬考えていると、また唇が塞がれる。そして太刀川の上に本格的に覆い被さって、太刀川のシャツの隙間に手を滑らせる。迅の手の感触が腰に直接触れて、この先の行為にすっかり慣らされた体は条件反射のように簡単に期待を拾った。
「……祭りはいいのか?」
 一応、太刀川はそう聞いてみる。迅はさっきの言いようからして、太刀川がすぐに起きたなら祭りに誘うつもりだったのだろう。二人で祭り、というのは高校生の時にも行ったことはない。それもきっと楽しそうだろうと思う。だって迅となら、何をやっても楽しかったから。こちらが起きなかったせいでその可能性を潰してしまったなら悪いと思う気持ちも少しだけはあるのだ。
 しかし迅は、「今更?」と笑い飛ばす。
「今から行ってももうほとんど終わりだし」
 言いながら、迅の手は太刀川の体の形を確かめるみたいに脇腹のあたりをゆっくりと撫でる。くすぐったいような、しかしこれからすることを丹念に予告してくるようなその動きは、湧き上がる期待と同じくらい太刀川を焦れるような心地にもさせた。
「まあ、そうだな。祭りはまた来年でも、再来年でも、行けばいいし」
 太刀川が言うと、迅はぱちりと目を瞬かせる。そして「……うん。そうだね」と言った言葉が妙に嬉しそうだったものだから、太刀川はそんな迅を笑ってやりたくなってしまった。
 未来が視えるくせに――いや、だからなのか――迅は時々、未来に期待することを変に怖がる癖があった。だいたい自分たちがこういう関係になる時だって、なんだかんだと言って変な抵抗を続けてきたやつなのだ。普段が考えすぎているせいで、迅は時々忘れてしまう癖があるように思う。
 未来だって所詮、自分たちの選択に過ぎない。
 勿論イレギュラーなことが起きる可能性は否定はできない。だけど互いに互いを好ましく思って、この手を離すつもりがひとつもないのならば、視えない先の未来をそんなに不安に思う必要なんてないだろう。
 太刀川の体を撫でていた手が離れて、その手は太刀川のシャツへ向かう。シャツの第二ボタンまでを慣れた手つきで外した迅が、首筋に唇を落とした。首やら鎖骨やらに何度もキスをしてくるのは、迅のテンションが上がってきている時の癖だ。
「それより、久々じゃん。これでも結構我慢してたんだからね、おれ」
 首元に噛みついた迅がそんなことを言うので、太刀川は少しだけ呆れてしまう。合間にちらりと上目遣いでこちらを見た迅の瞳は、今は窓の外で花火が光っていないから彩度が下がってブルーグレーくらいの色味である。しかしその瞳は暗い中でも静かにぎらついているのがよく分かる。迅の前髪が晒された鎖骨のあたりに触れて、少しだけくすぐったい。
(我慢してたなんて、どの口が言うんだか)
 ここ数週間、本部にも大して現れなかったやつが何を言う。普段からふらふらと居場所を掴ませず、こっちが探した時には全然姿を見せないくせして。こっちだって――いや、こっちのほうが我慢していると、迅は考えないんだろうか。
 分かってない、と時々迅に言いたくなる。だけど間近に感じる久しぶりの生身の迅の熱に、どうにも絆されてしまう。まったく、文句を言うのはまた後にしてやろう、と思いながら、太刀川は離れかけた迅の頭をくしゃくしゃにかき混ぜて再び引き寄せてやることで一旦の手を打つことにしたのだった。





(2023年7月17日初出)





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