黎明
――その光はまるで、星のような。ああこれは〝その〟先の未来なんだ、というのが一瞬遅れて分かった。
なんてことない玉狛の朝の風景は、今よりずっと人が少なくてがらんどうにすら思えた。窓から眩しい朝日が差し込んで、正面には林藤さんが座っている。その隣の席は空いている。おれの正面は、いつもなら最上さんが座っている席だ。
自分の表情はよく見えない。だけど自分がなぜだか、楽しそうにしていることは感じ取れた。
咄嗟に強い抵抗を感じる。どうしてなのか、未来視の中の自分の気持ちがまるで分からなかった。
だってこれは、最上さんや、仲間たちが沢山――死んでしまった先の未来のはずだ。
その先の未来で楽しそうにしている自分のことが分からない。
思わずおれは自分の拳を握りしめる。ぎゅっと強く。自分の爪が手のひらに食い込んで鈍い痛みを覚える。しかしそんなことは構わなかった。
おれは未来視の中のおれを、許せなかったのだ。
「なんだよ、楽しそうにしてるならいいじゃねーか」
最上さんはあまりにもあっけない、まるで今日の夕飯のことでも喋るくらいのあっさり具合でそんな風に言った。それに反射的にむっと表情を歪めてしまうおれを見て、最上さんはいやに楽しそうに笑う。
先日視た未来視にひどくモヤモヤとして、その感情のブレが剣にも出ていたのだろう。いつもの訓練の最中に最上さんに指摘されて、誰にも話すつもりなんてなかったのにむしゃくしゃして当たるように最上さんにぶつけてしまった。正直口にしてからすぐじわりと後悔をした。だというのに、これだ。
この師匠のことは出会った頃からよく分からないと思っていたが、やっぱりよく分からない。結構、変な人だと思う。きっと分からないまま終わってしまうんだろう――とちらりと思って、そんなことを思う自分がまた嫌になった。
もうじき、大きな戦いがある。玄界ではなく近界の同盟国でだ。
そしてその戦いの中で、最上さんも、そして仲間たちの多くも、きっと死んでしまう。おれの未来視は少し前からそのことを伝えてきた。生死に関わる部分に関しては、このボーダーの中でもごくわずか、城戸さんをはじめとした大人のメンバーにしか伝えていない。そして最上さんも、このことを知っている一人だった。
ほぼ確定だった。
物心ついた頃から付き合っているこの能力の制御の仕方、読み解き方はこのボーダーに拾われてトリオンやサイドエフェクトのことを学び、実戦経験を積むことで、より詳細にコントロールができるようになった。目の前に視えるイメージからより多くの情報を意識的に拾えるようになった。
だからこそ分かってしまった。この未来はもう動かしようがないことを。後はもうその中でどれだけ、ボーダーとしての最善を尽くせるか、というレベルの話でしかなくなっていることを。
自分の死を知った最上さんは存外あっさりしていた。少なくともおれが見ている前では、ひとつも取り乱したりなんてしなかった。むしろおれの方が動揺して、未だに受け止めきれていない。足掻いてやりたかったのに、思いつく手立ては全て無駄だと未来視がご丁寧に教えてくれて詰みだった。
そんな中にこんな未来視が現れてしまえば自分自身を不快に思うのも当然だろうと思う。不本意ながら、己の能力を疑いたくなってしまうほどだった。
最上さんの言葉に反論をしたくて、でも、と言いかける。だけどどう言葉にすればいいか分からなくて、まるで聞き分けのない子どものわがままのようになってしまいそうで、その後にうまく言葉は続かない。
「なあ迅」
最上さんが、いつもの顔で言う。穏やかで、悪戯っぽくて、そしてどこか不思議なほど優しい目がおれの瞳を覗き込む。最上さんはにっと口角を上げた。
「おまえの人生だ」
言った後、最上さんは一呼吸置いてから続ける。
「おまえが楽しいと思ったらさぁ、楽しんでいいんだぜ。それを咎めていいやつなんていない。今だって未来だってな」
つーか楽しめ! と最上さんがおれの頭をぱしんと叩く。軽い調子だったけれど結構痛かったものだから「最上さん!」と思わず声を上げたけれど、最上さんはおれの抗議をまったく気にする様子もなく、いつもの調子でけらけらと楽しそうに笑っていたのだった。
◇
――太刀川慶、だ。歳は迅より一つ上だな。よろしくしてやってくれ。
その少年は、忍田さんの紹介を受けてぺこりと軽く頭を下げた。
「よろしく」
そうのんびりとした口調で言った彼は、今この街に充満している近界民への恨みも、悲しみも、怒りも、あるいは街や大切な人たちの為に戦うという正義感や使命感も特別感じられなかった。その独特な格子の瞳が、凪いだ色をしておれを見る。
三門市への近界民の大規模な侵攻があり、そしてボーダーの存在を公にし隊員募集をかけ始めてからしばらく。完成間近のボーダー本部基地で、忍田さんに「紹介したい隊員がいる」と言われ紹介されたのがこの少年だった。
曰く忍田さんの古い知り合いの息子さんで、ボーダーの存在が公になる前から個人的に交流があったのだという。その縁もあり、ボーダーへの入隊が決まった時点から忍田さんが直接稽古をつけていたのだとも聞いていた。「まだまだだが、筋は良い」とあの忍田さんが言うからにはかなりの期待株なのだろう。
現に太刀川さんと会った瞬間から、おれの未来視はぱちぱちと弾けるように彼の未来を視せてきた。今とあまり変わらない容姿のまま訓練生用の一律の白い隊服ではない黒い服を纏って戦っている姿が視えて、この人はすぐ上に上がっていくんだろうということが知れる。どこか忍田さんの換装体にシルエットが似ている気がして、師匠リスペクトってやつかな、なんて考えた。
今のボーダーの新入隊員には珍しいほどに、戦う意思、というやつをそこまで感じさせないような雰囲気だが、それでもこうして忍田さんが紹介してくるほどには強いのだろう。人を見かけで判断するのはよくない。迅をまじまじと見るその表情はマイペースそうで、不思議な人だな、というのが第一印象だった。
「ランク戦ブースの試運転も兼ねて、慶と戦ってみてくれないか?」
忍田さんの言葉に、おれは断る理由もなく頷く。
ランク戦ブース、というのはボーダーがかねてから構想をしていた隊員育成システムだ。玉狛にある模擬戦室をベースによりゲーム性を持たせた仮想戦闘システムで、それによって隊員の順位付けも行われる。このボーダー本部基地が本格稼働するのと同時に、ランク戦システムも稼働を開始する予定だ。
おれが頷いたとき、茫洋としていた目の前の少年の目がほんのわずか光ったような気がした。
新システムの完成形はおれとしても見ておきたかった。し、それに――この人がどんな人なのか、もう少しだけ知りたい気持ちがあったのだ。
それぞれにブースに入り、端末に表示された相手に対戦申請を申し込む。すぐに対戦申請が承認され、仮想戦闘空間に転送された。
ランダムで設定したステージは〝市街地A〟。見るからに普通の住宅街、といった様相だ。少し遠くの道の先で向かい合った太刀川さんは、おれの姿を認めてその手元に弧月を出現させる。おれもほとんど同時に弧月を出して、切っ先を正面に向けた。
さて、どう来るか。
まずは相手の出方を待ってみることにする。と、すぐに太刀川さんが動いた。こちらに向かって駆けてきて、その弧月が振られる。それをこちらも弧月で受ければ、ギィンと仮想空間の中に刃がぶつかる甲高い音が響いた。
(太刀筋は、なるほど悪くない)
むしろ良い。ボーダーに入ってまだ間もないと考えれば驚くほどのレベルだった。流石忍田さんが直接指導をつけただけはある。もしかしたら元々剣道とか、そういう類の経験値があるのかもしれない。太刀筋自体も忍田さんのそれによく似ていた。
何度も畳みかけられる攻撃を全ていなしていく。正直未来視を使うまでもないとは思ったが、敢えて使ってみることにする。どうせ正隊員に上がってくるのならば、遅かれ早かれおれの能力は知ることになるだろうと思ったからだ。
わずかに目を眇めて未来を視る。
(う~ん、分岐が多い人だな)
本能とか勘とかが強い人は、未来視でも分岐が多い。でも読めないわけじゃない。不意を突こうとしたであろう攻撃を狙ってわざとらしく躱すと、目の前の茫洋とした表情が、お、と小さく驚いた色に変わる。
ひるまず続けて振るわれた刃も躱して、ここまで防戦メインでやってきたが今度はこちらからの攻撃だ。腕を狙ってこちらも弧月を振るえば、咄嗟に反応した太刀川さんが体を引く。反応速度も良いな、とおれは心の中で呟く。
腕を完全に落とすまではいかなかったものの、太刀川さんの肩口には深く傷が入った。訓練生用の白い隊服の肩から、黒いトリオンの光がぶわりと漏れ出ていく。
トリオン体での戦闘に慣れていない人だと、いくら痛覚を低減し生身の肉体が傷ついたわけではないとはいえ思わずひるんでしまう人も少なくない。むしろどちらかといえばその感覚が普通だろう。さてこの人はどうだ、と、おれは少し距離を置いた対戦相手を見やる。
体勢を立て直した太刀川さんが顔を上げておれを見る。視線が絡む。
ぼんやりとした印象だったその瞳に灯った何かを見つけた。それは怒りでも、戸惑いでもない。まして畏怖でもなかった。
この人は、楽しんでいる、と気付く。
きっとこの人の中で、これはスポーツみたいなものなのだろう。――この人はなんでボーダーに入ったんだろうかとちらりと思って、忍田さんの知り合いなんだったとすぐに思い出す。
この人はただ純粋に、この戦いを楽しんでいる。
は、とおれは短く息を吐いた。
この気持ちは何だろうか。嫌悪? 羨望? あるいは妬心? この感情にぴったりと当てはまるような言葉を、太刀川さんが再び駆け出すまでの一瞬の間には、おれはうまく探しきることができなかった。
目の前に迫った太刀川さんが弧月の刃を再びおれに向ける。肩口からこぼれたトリオンの光が、ありふれた住宅街の風景を薄く黒く染める。
(速い)
応戦のために、おれは弧月を握る手に再び力を込める。
この人は強い。新入隊員としてはおそらくトップクラスになるだろう。
(だけど、まだ足りない)
トリオン体でトリオンを使って――そして相手を殺すために戦う経験値が、当たり前だが圧倒的に不足している。いくら忍田さん直々にしごかれてきたとはいえど、本気の命を賭けた実戦経験はおれやおれたちとまだ比するまでもなかった。
もう相手の出方を見る時間は終わりだ。
太刀川さんの攻撃を躱す。予測より若干内側に振れた切っ先が頬をわずかに掠めトリオン体の皮膚の表面を斬ったが、そのほんの数ミリ程度の傷は気にするほどのことではなかった。
剣を大きく振った後に生まれる僅かな隙。そこを狙っておれは弧月を振るった。咄嗟に防ぎきれなかった太刀川さんが胴体から真っ二つになる。
斬られた瞬間太刀川さんは驚いたような、そして悔しそうな表情をした。そして一瞬後に、その不思議な瞳が細められて光を宿す。
先ほどよりもずっと確かに。
それはまるで星が瞬いたかのような一瞬。その目が楽しそうに笑ったことが、ほんの一秒もなかったはずなのに、おれの目に焼きつく。
瞬きをひとつする間に太刀川さんのトリオン体に入った亀裂は深くなり、無機質なアナウンスと共に緊急脱出する。一人残されたおれは、そのさまをぼんやりと眺めることしかできない。
――ただただ純粋に、〝楽しい〟という気持ちばかりを乗せたその目は、おれが今まで何百と戦ってきた誰とも違っていた。
トリオン体には流れていないはずの血液がさざめくように波打っているような気がした。妙に感情の座りが悪くて、まるで丸めた紙みたいにくしゃりとしたような気持ちになる。何がおれの感情をこんなふうに揺らすのかすらうまく言語化できなくて、それも何だか居心地が悪く思う。
太刀川さんの緊急脱出から少し遅れて対戦終了のアナウンスが流れる。強制的に仮想空間から転送されるまでの短い間、おれは、その場にぼうっとただ立ちつくしていた。
◇
玉狛は正確には家族ではないけれど、あえて例えるのであれば家族のようなものだ。特におれのように玉狛に住んでいる、帰る家が他にないメンバーにとっては。
おれは元々が宵っ張りで朝は割と苦手なのだが、こうして寒い日だと余計にである。自分の体温でほどよく温まったベッドの誘惑をどうにか断ち切って落ちてきそうな目を擦りながらリビングに降りると、キッチンに立っていたレイジさんが最初におれを見つけて「おはよう」と言った。おれとは対照的に、眠気なんてもうさっぱり感じさせない顔である。今日も朝のランニングを済ませてからこうしてみんなの朝食作りまでしてくれているのだろう。おれも何度か誘われたことはあるが、そのたび朝はムリかなと丁重にお断りしていた。
レイジさん、それからもうテーブルについていた林藤さんに「おはよう」と挨拶をして冷蔵庫に向かう。自分のマグカップを棚から出して牛乳を注いでいる間に、レイジさんが焼きたてのトーストやスクランブルエッグをお皿に乗せてくれた。
お礼を言って自分のマグと皿をダイニングテーブルに運んで、そして林藤さんの正面にそれらを置いて座る。昔の定位置だと林藤さんはおれの斜め前だったが、今はもう人数が少ないので、席はこだわらず詰めて座るようになっていた。
今リビングにいるのは、おれも含めこの三人だけだ。基本的にそんなに騒がしくないメンバーなので、つけっぱなしのテレビの音がリビングによく響く。小南は実家から通いなので朝はいないし、クローニンはおれよりさらに宵っ張り、陽太郎はまだお子さまなので今の時間に起きていないのはいつものことだ。雷神丸は陽太郎と一緒に寝ているはずである。ゆりさんは――まだ寝ているのだろうか。大学生は高校生までと違って曜日ごとに時間割がだいぶ違うので、起きる時間も結構まちまちのようだった。
マグカップに注いだ牛乳を飲めば、冷蔵庫でよく冷やされたそれが体の内側を通っていくのがよく分かる。その冷たさがまだ眠気を引きずっている体をどうにか起こそうとしてくれる。目の前で林藤さんががり、とトーストをかじる音が聞こえた。
流石にもうだいぶ慣れたけれど、いつもいたはずのみんながいないリビングは今もふとした瞬間にひどくがらんどうに見えるときがある。その度、胸は僅かに軋む。まるでかさぶたの下の傷が疼くみたいに。
あの日の未来視で視た景色によく似ていた。しかし少しだけ違うから、あの時の未来視の景色ではないのだと分かる。
「そういやランク戦システムはどうだ、迅。結構やってるんだろ?」
テーブルの上に置いてあったジャムをトーストにたっぷり塗りつけて、それをかじろうとしたところで不意に林藤さんが話しかけてきたのでおれは顔を上げる。林藤さんが手に持ったマグカップの中のコーヒーが、冬の朝の冷たい空気に触れてゆっくりと湯気を立てていた。
現ボーダー本部が本格的に動き始めたのと同時に、ランク戦システムも無事に正式稼働を開始した。ランク戦システムの正式稼働以降、訓練をしたり各隊員の戦力、および戦いのクセを知ったりするのに非常に良いシステムということもあっておれも時間があるときにはランク戦に参加している。
特に太刀川さんとは頻繁に戦っている――顔を合わせればランク戦をしようとあの人が言ってくるので、気付けば頻繁に戦うようになっていたという感じなのだが、とにかくあれよあれよとおれと太刀川さんはすっかりランク戦の上位ランカーとなっていた。順位は戦う度、ころころと頻繁に入れ替わっている。
少なくとも玉狛の中では、おれが一番ランク戦をやっているだろう。小南は習い事が忙しくてランク戦にはほとんど参加していないし、レイジさんはまあ人並みにそこそこだ。
ランク戦システムは林藤さんが鬼怒田さんと一緒に開発したものだ。だから使用感が気になるのだろうとおれは思って、少し考えてから答える。
「――、すごくいいシステムだと思うよ。実際にトリオンを消費しないから残りのトリオン量を気にせず何度でも戦えるのがいいよね。新入隊員の戦闘力と士気向上にもかなり役立ってるし、地形も随時色々追加されてるからいい訓練になる」
言ってからおれは、手に持ったほかほかのトーストをがぶりとかじる。外はカリカリ、中はもっちりと絶妙な加減で焼かれた食パンの上に、たっぷりと塗った甘いいちごジャムの味が口の中に広がって美味しい。口の中のそれを咀嚼していると、林藤さんはおれの言葉に対してふうん、と納得しているのかしていないのかといった返事をした。ちらりと林藤さんの表情を見やったけれど、口元に運んだコーヒーの湯気で曇った眼鏡の奥はよく見えない。
コーヒーを一口飲んだ後、林藤さんが何かを言おうと口を開きかけた気がした。けれどそこでゆりさんがバタバタと慌ただしい音とともにリビングに入ってきたので、話はうやむやになってしまう。
「おはよう、今日一限なのに二度寝しちゃった! レイジくんごめん、さっと食べられそうなものある?」
「あっ、おはようございます、すぐ準備しますね!」
ゆりさんが登場した途端、レイジさんが弾かれたようにあわあわとし始めるのは何度見ても面白い。ゆりさんが通う三門市立大学はかつては玉狛からも比較的通いやすい距離にあったものの、先の侵攻で破壊され新校舎に変わった今は玉狛からは少し遠くなってしまったのだ。
つい表情がにやにやと緩みそうになるのをレイジさんに見られたら後で怒られそうなので、さっさと退散することにしよう。おれはトーストの残りとスクランブルエッグをぱくぱくと口の中に詰め込んで、牛乳もぐっと一気に飲み干す。
「ごちそうさま」
ヨーグルトやら何やらを冷蔵庫から出しているレイジさんの横をすり抜けて、皿とマグカップをシンクに片付ける。さて学校に行く支度をしなくては。今日は一時間目から数学だったな、と思い出せばまた眠気がぶり返してしまいそうな心地になって、微笑ましいレイジさんとゆりさんのやりとりを背中に聞きながらおれはつい大きなあくびをしてしまった。
それはすでに視えていたし予想もできていたので、ホームルームが終わる頃におれはそれを確かめるように頬杖をつきながらちらりと横目で窓の外を見下ろしてみた。この教室はちょうど、校門のあたりがよく見える場所にあるのだ。
(あ、いた)
その姿を見つけるのとほとんど同時に、ホームルームが終了してガタガタと椅子が引かれる音が教室に響く。同級生たちがカバンを持って帰り始めるのを視界の隅で見ながら、おれは門に凭れて律儀に待っているその人の姿に、やっぱ変なひとだよなあという呆れに近い気持ちやなにやらを感じる。テレビで見たことのある忠犬ハチ公像をちらりと思い出してから、あのひと忠犬か? と少しだけ笑いそうになってしまった。
あんまり待たせても悪いので、教室を出て素直に校門に向かう。昇降口を出てまっすぐ進むと、先ほど三階の自分の教室から見下ろした太刀川さんの横顔を今度は正面に見つけた。おれの中学の制服はブレザーなので、真っ黒の学ランの太刀川さんはよくよく目立つ。背も高いし。なのであからさまに通り過ぎる生徒たちにはじろじろ不思議そうに見られているのだが、当の太刀川さんは全く気にした様子はない。少しだけ寒そうに肩を竦めて息を吐き出したところで視線を動かして、ぱちりと目が合った。
その瞬間、太刀川さんが顔を上げて表情を緩める。楽しそうな表情になった太刀川さんは、リュックのように肩にかけたスクールバッグを揺らしながらおれの方に駆け寄ってきた。口角をにまりとつり上げて太刀川さんがおれの前に立つ。
「迅、やっと来たな。行くぞ」
もしこの人が本当に犬だったらぶんぶん尻尾を振っているんじゃなかろうか、とつい思ってしまうような様子で太刀川さんが言うので、先ほどの忠犬の想像を思い出してまた少しおかしくなってしまう。黙っていればさっきの横顔は結構大人っぽかった気がするのに、今の言い方もこういうやり方も子どもみたいでとてもひとつ年上の高校生とは思えなかった。
「わざわざ待ち構えてなくても、今日も本部は行くつもりだったって」
言いながら、がしりと肩を掴まれて連行される未来が視えたのでおれはさりげなく歩き始めて回避する。今でこそ注目を集めているので、同級生も見ているかもしれない中でそういうのはできれば避けたかった。まあこうやって太刀川さんがおれの中学までわざわざ迎えに来るのは今日が初めてのことではないのだが。
おれが歩き始めたのに合わせて、太刀川さんも横に並んで歩き始める。
「待ちきれなかったんだよ。昨日悔しい負け方したからな、勝ち逃げはさせん」
そう言って鼻を鳴らす太刀川さんの横顔をちらりと見れば、その瞳は爛々と輝いている。リベンジに燃えているのが半分、あとはただ純粋に楽しそうなのが半分。
「いや~、でも今日もおれが勝つかな」
「お、サイドエフェクトか? なら覆してやる」
おれの言葉に、太刀川さんはますます張り切ったような口調で言う。校門を出たところで冷たい風が吹いておれは思わず肩をすくめたけれど、太刀川さんは気にする様子もない。中学からでもよくよく見える大きなボーダー本部基地の方へ二人並んで歩いていく。
クラスどころか学年、学校も違う太刀川さんとは勿論時間割がぴったり合うわけじゃない。けれど時々、太刀川さんが掃除当番がなくて早く帰る時だとか、タイミングが合うときや太刀川さんがどうしてもおれと戦いたいっていう時にはこんな風に学校まで待ち構えられていることがある。太刀川さんいわく、「おまえ本部にいる時といない時あるだろ」、だから確実に捕まえられるようにこうしてわざわざ本部から反対方向のおれの中学まで足を運んでくるらしい。あとはついでみたく、「それによその学校来るのって結構わくわくしないか?」なんてことも言っていたが。
そりゃあ用事がなければ本部に行かない日もあるし、本部に居たって会議だったり城戸さんや忍田さんに報告だったりでランク戦ブースに立ち寄る時間がないこともある。そう説明もしたが、太刀川さんはたいして聞く耳を持ってはくれなかった。
まあとにかくおれはあの日以来、この人になぜだか妙に気に入られてしまったらしい。
太刀川さんには言わなかったが、正直今日の勝敗に関して予知には結構ブレがあった。おれが勝つ未来も、太刀川さんが勝つ未来もあった。それでもおれが勝つよと言ったのは、予知というよりも宣言に近いものだった。
「いやぁ、覆したな? 予知」
だからブースから出た太刀川さんがにやにやと嬉しそうな笑顔で言ったことに、「元々どっちの未来もあったから覆したってほどじゃないよ」と咄嗟に反論したくなる。けれどなんだか負け惜しみみたいになってしまいそうだったので言うのはやめておいたのだった。
初めて戦った後に、おれの未来視の能力について太刀川さんにはざっくりと説明している。驚かれるか、特別視されるか、それとも嫌煙されるか――いろんなパターンを想定したが、太刀川さんは驚き半分納得半分といった表情になった後、「でも可能性ってことは覆すこともできるんだよな?」とわくわくとした顔で返されたのだから驚いてしまったのはこっちだった。以来、太刀川さんはことあるごとにおれの予知に張り合おうとしてくる。つくづく、変な人だな、という思いが深まる。
あのまま本部に来てからランク戦ブースに直行、そこからなんだかんだでずるずると三十本戦って結果は十二勝十四敗四引き分けだ。今日はレイジさんも小南もそれぞれの用事で本部に来ているから、頃合いをみて林藤さんが車で迎えに来てくれることになっている。それまでもう少しだけ時間があったので、自販機のある休憩スペースで時間をつぶすことにした。自販機に新しくおしるこが入ったのをおれは未来視で知っていたので、ちょっとそれを飲んでみたかったのもある。一人で行ってもよかったのだがそのことを太刀川さんに言ってみれば、太刀川さんも「おしるこいいな、行こうぜ」と二つ返事で乗っかってきた。
自販機から取り出したおしるこの缶はほかほかで熱いくらいだった。一つを太刀川さんに渡した後、おれもおしるこの缶を開ける。一口飲むとその熱さと小豆の甘さが口の中に広がった。太刀川さんは飲んでおいしいと言った後に、「餅も入ってれば完璧なんだけどな~」なんてことを言ってなははと笑っていた。
太刀川さんと二人でいれば、話題は自然と先ほどまでのランク戦のことになる。今日のランク戦のあそこがどうだった、ああだった、あの戦略はどうだと感想戦を繰り広げるうち、太刀川さんの普段はぼうっとした印象の目が再び楽しそうに光るのを見て取る。
ランク戦で対峙した時もいつもそうだ。
太刀川さんの目は、初めて戦ったときから今まで、ずっと輝きを増し続けている。刃を交えるごとに。仮想の体で斬り合うたびに、いつだって。そのことに改めて気付かされて、胸の中にふっとなんとも言えないような感情が生まれる。この感情の正体が何なのか、咄嗟にうまく掴みきれない。
「――太刀川さんって、ランク戦好きだよね」
だから思ったことを、そのままぽろりと口にした。何の気なしに言った言葉のつもりだったが、すると太刀川さんはおれの言葉を受け取って当たり前みたいに頷く。
「ああ。楽しいからな」
そう言って太刀川さんは、またおしるこをもう一口飲む。
おれはその言葉に、咄嗟になんと返せばいいか分からなかった。
「そっか」
少しの間の後、どうにかそれだけ口にする。
喉に何かがつかえているような感覚。それを無理やり飲み下すように、おれは手に持っていたおしるこの残りを口の中に流し込んだ。甘い、甘い味。缶の底に溜まっていた細かい小豆の粒が落ちて、飲み込んだ後も妙に舌の上でざらつく感覚が残る。
飲み干した缶から口を離すと、太刀川さんはおれのことをじっと見ていた。いつもの、何を考えているのか読みにくい瞳だ。そしてまた、当たり前みたいな声でおれに聞く。
「おまえは楽しくないのかよ」
おしるこはもう全部胃の中に落ちたはずなのに、まだ喉に何かつかえているような感じが消えない。人をまっすぐ見つめてくる太刀川さんの視線はいつものことのはずなのに、なんだか急にどこか居心地の悪さを感じた。
(……楽しい?)
ふ、と思い出したのは、あの日の最上さんとのやりとりだった。
そして、その後のこと。近界での死戦、選択、変えられなかった予知、助けられなかった、助けなかった――
それらが頭を過ぎれば、考えるよりも早く、言葉は口から零れていた。
「戦うのって、楽しいだけじゃないよ」
その声がいやに冷たく響いて、自分で驚いてしまった。太刀川さんもめずらしく少しだけ驚いたような表情をしている。その反応を見て、自分で口にしたくせにくしゃりとした気持ちになる。それは太刀川さんと初めて戦った後に感じたものにどこか似ていた。
いつもの自分だったらこんなヘマはしない。したとしてもすぐにへらりと笑って適当に撤回するだろう。だけど今は、それすらできなかった。したくなかった。
――おれは、強くなりたかった。
強くなりたくて、もう失いたくなくて、戦うことにした。それしか生きる道はなかった――いや、ボーダーに引き取られてからも林藤さんや忍田さんをはじめ大人たちはおれに戦うことを強制はしなかったが、おれはそれしかないと思った。強くない、戦えないままの自分を、能力を持っていながらそれを使わずみすみす誰かが傷つけられるのを見逃す自分を許すことができなかった。
ボーダーには、いろんな『戦う理由』をもって入ってきた人がいる。
戦うことは、手段だ。守るための。抵抗するための。生きるための。あるいは復讐するための。
それぞれの理由と矜持を持ってそうやって必死で戦っている人が、ボーダーの中には沢山いる。それを普段表に出していなくたって。
そんなこと、太刀川さんだってもう知ってるはずだった。このひとは学校の勉強は不得手なようだけれど、人として馬鹿なわけじゃない。なのにわざわざそんな風に言った自分の意地の悪さに、苦虫を噛み潰したような気持ちになる。
ふたりきりの休憩スペースに静かな静寂が落ちる。どこかから聞こえてくる隊員たちの賑やかな声が遠い。おれは何も言えなくて、太刀川さんも何も言わなかった。いや、太刀川さんは何か言いたげだったけれど、言葉をうまく探しきれないような表情をしている。
太刀川さんといて、居心地が悪いと感じたことは多くない。基本的に表裏がなくからっとしている人で、変に気を遣うようなこともしないので一緒に行動していてもどこか気安かった。たまに戦っているとき――例えば最初に戦った後みたいに妙に気持ちがざわつくことはあっても、それ以外の時にそう感じることはあまりなかった。
だけど今は、どうも居心地が悪い。すぐ目の前にいる太刀川さんが、まるで遠くにいるように感じていた。
静寂にじりじりとした焦燥が負ける。太刀川さんが何か言おうと口を開くのが未来視で先に分かって、おれはそれを制するように口を開いた。
「おれもう行くね。林藤さん待ってるから」
もういい時間だ、林藤さんはそろそろ本部に到着している頃だろう。だからこれは嘘じゃない。
太刀川さんの答えを待たずに、空になった缶をゴミ箱に放る。「じゃ、またね」と言い残してからおれは背を向けて足早に正面玄関の方に歩き出した。太刀川さんの反応は見ていないし、視もしないようにする。ガコン、とゴミ箱の淵に缶がぶつかって立てる音を背中に聞いて、その軽い音がおれの耳の中でいやに大きく響いた。
◇
王都が崩落するのを見た。
ついに敵兵が王宮の心臓部にまで辿り着き、陥落させ、トリオン兵の攻撃によって城ごと崩落させようとしたのだ。このままでは自分たちも巻き込まれてしまう。視えていて、危険は承知だったがギリギリのところまで戦い続けた。が、ここが限界だった。倒れてくる柱を避けながら走る。敵兵が少ないルートは既に先頭を走る忍田さんに伝達済みだ。王女たちと共にそろそろ遠征艇の近くまで辿り着く頃だろう。
気付けば奥歯をぐっと噛みしめていた。傷ついたトリオン体のあちこちからトリオンの黒い靄が零れる。走らなくてはいけない。おれはここで死ぬわけにはいかない。そう思っても、感情が理屈に全部ついてきてくれるわけじゃない。思わず振り返りたくなって、しかし林藤さんにぐっと腕を引かれた。ここで走るペースを落とすことはすぐに死を意味することだ。
林藤さんのもう片方の手には、黒い塊が握られている。――ほんの少し前まで、最上さんだったもの。
最上さんはいなくなった。今にも崩れかけている王宮の中にはもう動けなくなった仲間たちがいる。いやだと喚きたかった。だけどもう無理だって、覆らないって、なにより自分の未来視が知っていた。だからおれは一瞬唇を噛みしめて、喉元までせり上がった言葉を無理やりに飲み込む。林藤さんの方を見て「だいじょうぶ」と言って瓦礫を蹴る足にぐっと力を入れる。
瞬間、ふっと視界が切り替わる。
目の前には大粒の雨が降り注いでいた。ここは三門の中心的な住宅街、だった場所だ。数時間前までそうだった。あちらこちらに現れたトリオン兵が市街を、市民を蹂躙して、今や瓦礫の山だ。あちらこちらに怪我人や犠牲者も転がっている。
おれの手には抜刀したままの弧月が握られている。視界が暗くなったと思った瞬間、反射的に刃を構えた。襲ってきたバムスターを一振りで真っ二つにして、再び地面を蹴って走る。
ぼやぼやしている暇はなかった。特筆すべきもない捕獲用のバムスターがほとんどで、一体一体はそんなに強いもんじゃない。ただ、数が多すぎる。三体を一息に斬り倒して、しかしまだ湧いてくる。一番数が多い地区は忍田さんと小南が担当しているとはいえ、ここだってなかなかだ。トリオン兵の数に対して、おれたちはあまりにも少人数で、正直言って物理的にカバーがしきれない。
だけど弱音を吐いている暇などないし、わけがわからなくて不安なのは市民のみんなのほうだ。今こいつらと戦えるのはおれたちしかいない。だから、不安な顔なんてしちゃいけない。数えきれないほどの犠牲者が倒れ込んでいる未来視が視界の端から消えてくれなくて、それを振り切るように走りながらおれは逃げ遅れた市民たちに「あっちに逃げて、大丈夫、おれたちがなんとかするから」と声をかける。一体、また一体、核を違わず最短ルートで正確に切り捨ててさらに次へ。
と、泣き声が聞こえた。反射的に走る速度を緩める。振り返ればおれより少し年下くらいの制服姿の少年が、女性を抱いて泣いている。お姉さんだろうか。
足が思わず止まってしまう。
胸から血を流しているその女性は助からないと一目で分かった。分かってしまった。呼吸を確認するよりも早く、未来視がそれをおれに教えてきた。
「助けて」
まだ声変わりもしていない少年は――秀次は、涙声で言う。
「姉さんを助けてよ」
その声に答える言葉を、おれは未だ見つけられていない。
被害がゼロなんて最初から無理だと、門が開く前から未来視で分かっていた。
叶えようのないたらればなんて、考えるだけ無駄だ。そんなの頭では分かっている。
だけど。
(おれがもっと強かったら)
痛烈に、そのことを思った。普段は良く回る口が、何も返事が出来ず立ちつくす。雨はどんどん強くなって、大きな雨粒が前髪を重くする。そして自重に耐えきれなかった雫が、ぽつりと地面に落ちていった。
(強くなりたい、もっと強くならなくちゃいけない。だから、おれは――)
「――、っ!」
ハッとして目を開けた瞬間、目に入ったのは見慣れた天井だった。
おれの部屋だ、というのと、今のは夢だ、というのを同時に認識する。部屋の中はまだ薄暗くて、夜明けはまだの時間のようだった。この季節だというのに、自分がうっすらと寝汗をかいていることに気が付く。
(久々に見たな、この夢)
おれはゆっくりと息を吐く。ここから二度寝をするには十分な時間があるというのに、少しの間そのまま天井を眺めてぼうっとしていてもなんだかうまく寝付けそうになかった。少し考えた後、おれはベッドから起き上がってハンガーにかけていたコートを適当に羽織る。
まだ寝ているであろうみんなを起こさないように気を付けながら自室を出て、階段を上がって屋上へ続くドアを開けた。
「さむっ」
瞬間風が吹き付けてきて、羽織ってきたコートをおれは思わずたぐり寄せた。真冬の屋上、それも夜明け前ともなればなかなかの寒さである。だけど夢見のせいで変に冴えてしまった頭を冷ますにはちょうどいいかとも思った。
風が強く吹いたのは最初だけで、その後は頬をそよそよと撫でる弱い風がたまに吹くくらいだった。おれは屋上の淵の手すりにもたれ掛かって、そのまま街を眺める。
かつて多くの住宅が立ち並んでいた場所は円状に暗くなっていて、その中心にはボーダー本部基地が大きくそびえ立っている。本部基地のあたりはうっすらと明るいが、その周辺が暗いのはもうそこには人は住んでいないし、街灯の電気もほとんど通していないからだった。戦闘が起きている様子もここからは確認できないから、今日は門もあまり開いていないのだろう。車の通る音が時々遠くから聞こえてくるくらいで、辺りは静かなものだった。
寒いけれど、冬のこの静かな寒さは実はおれはあまり嫌いではない。寒さ自体は得意な方ではないけれど。だからおれはしばらくの間、しんしんと冷えた空気を生身の頬や指先に感じながらぼうっと街を眺めていた。
しばらくすると、うすぼんやりと空の淵が明るくなり始めるのに気付く。あ、夜明けの時間だ。そう思っているとその光はすぐに面積を大きくして、街をちらちらと照らし始めた。生まれたての朝日を浴びて、街の輪郭がじわりと濃くなっていく。
あの日の傷痕は完全に消えたわけじゃない。しかし街は確実にまた歯車を回し始めている。それは以前とは少し違う歯車だったとしても。
(強くなりたい)
声には出さず、小さく呟く。吐き出した息が淡く光る街を白く濁して、ゆっくりと融けていく。
(おれは強くならなきゃいけない)
もう一度心の中で呟いてから、おれはひとつ瞬きをした。きらきらと街が朝日で光って、それを少しだけ眩しく思う。
あの日に、あの日々に思ったことは今でも変わっちゃいない。
だからおれは戦うと決めている。それが今なお、間違いなくおれの戦い続ける理由だ。
だけど。
そう思っておれの脳裏に浮かぶのはあの日のこと、昔も今もボーダーで色んな思いを持って足掻いて戦っている仲間たち、そして。
(……、太刀川さん)
あの、誰より楽しそうに弧月を握る、ひとつ年上の後輩のこと。
任務やら太刀川さんの補習やらおれの予定やら、色んなものがうまく噛み合わなくて太刀川さんとランク戦をするのはしばらくぶりになってしまった。別に、わざと避けていたわけじゃない。だけどいよいよしびれを切らしたのか太刀川さんが『いつならランク戦できるんだよ』とメールをしてきたので、予定と未来視を確認してこの日のこの時間からなら、と返事をした。そうしたらその時間に太刀川さんはしっかりランク戦ブースの入口で待ち構えていたので、なんだか面白い気持ちになってしまった。
少しだけ、前の時の態度を気にしている自分がいた。あの後なんのフォローもできず、あからさまに不機嫌に去って行ったままだったからだ。しかし太刀川さんはおれを見つけるといつものようににまりと口角を上げて、まったくもって普段通りの様子でおれに話しかける。
「よし来たな、何本勝負にする?」
そう言う太刀川さんの声は相変わらず楽しそうで、だからおれも気付けばいつも通りに「……今日はもう遅いから、十本……いけて二十本かなあ」と返事をしたのだった。
太刀川さんは、どんどん強くなっていく。それはもう目を見張るほどに。
「――ッ!」
太刀川さんの刃がひゅ、と風を切る音がしておれの首を掠める。寸でのところでそれを避けて、体勢を整えてこちらも刃を振るった。しかしそれもひらりと躱され、再び降ってきた刃を弧月で打ち返す。先ほど掠めた首が薄く切れて、そこから細くトリオンが漏れ出しているのが視界の隅に映った。
おれはもうすぐ、この人に勝てなくなる。
未来視でも知っていたし、なにより自分自身がそのことを強く感じていた。
既にランクの一位は太刀川さんで、おれは二位だ。周囲の人間には二人だけがかけ離れたポイント数だと言われるが、おれとしてはそんな言葉に甘んじられるようなものじゃなかった。一見すれば誤差程度に見えるかもしれないが、少しずつ、じわじわとポイントが離され始めているのを感じていた。
弧月の扱いやトリオン体での戦闘における一日の長なんてあっという間に埋められてしまった。忍田さんの指導に加え、元々のセンスがいいのだろう。弧月という武器は太刀川さんの戦闘スタイルにとてつもなく合っているようだった。どちらかといえばスピードや先読みを基にした奇襲に長けたおれの戦い方よりも、一手の安定した切れ味と攻守のバランスの取り方が上手い太刀川さんの方が弧月の強みにも合致している。
今日はもう四対八、それに一引き分けとダブルスコアをつけられていた。高速の打ち合いを繰り返せば、仮想空間に刃がぶつかり合う音が響く。状況を打開すべく癖で未来視を使おうとすると、そのほんのわずかな隙を違わず見つけた太刀川さんが弧月を振り下ろす。まずい、と思った瞬間にはもう遅くて、体を引くよりも早く太刀川さんの弧月が鋭くおれの肘から下を落とした。片腕を落とされて、そこからトリオンが大幅に漏れ出していくのが分かる。即緊急脱出とまではいかないが、細かい傷はつけているもののまだ五体満足の太刀川さんに比べれば状況はかなり不利だ。
ああくそ、悔しい、と思わず唇を歪める。
強くなりたい。もっと強く。みんなを守れるように。もうひとつでも多く取りこぼさずに済むように。
その思いはなにひとつ変わらない。だけど今この瞬間の衝動を説明するのに、それだけじゃ足りないような気がして戸惑った。
強くなりたい。このひとみたいに。いや、このひとよりもっと。
おれは今、このひとに――
言葉を探す前に、おれは太刀川さんの懐に飛び込むように駆け出す。未来視では、かなり分が悪い。だけど勝算は無いわけじゃない。
握った剣に力を込めて構えると、太刀川さんはやっぱり楽しそうにその目を不敵に光らせて笑う。
結局今日の勝負は七対十一、残りの二戦は引き分けでおれの負け越しとなった。ランク戦を終えて、約束通り今日はここまでと個人ブースから通信を入れると太刀川さんは殊の外素直に了承してくれる。まだブースが完全に閉まるまでは少し時間があるからもう少し戦れないかとごねられる可能性も考えていたので、少しだけ意外に思った。
ブースを出るとほとんど同時に隣のブースのドアも開く。出てきた太刀川さんが「今日も俺の勝ちだな」と嬉しそうに言った後「喉渇いたから、自販機付き合ってくれよ」とおれに言う。この後特に急ぎの用はなかったし、おれも喉は少し乾いていたので太刀川さんの誘いに素直に頷いた。
自販機に着くと太刀川さんはおしるこ、おれは今日はおしるこほど甘いものの気分でもなかったのでホットのカフェオレを買うことにする。ガコン、と音を立てて落ちてきたカフェオレの缶を拾い上げておれはプルタブを開けた。缶はやっぱり熱いと感じるくらいにほかほかだ。お互い缶を傾けて一口飲んだ後、ふっと互いの間に静寂が落ちる。
その静寂を破ったのは太刀川さんの方だった。
「迅。こないだの話だけどな」
太刀川さんがそう話し出したので、おれははっとして顔を上げる。視線が絡んだ。
太刀川さんはおれを見つめている。怒るでも責めるでもない、あるいは悲しむでもない。太刀川さんの不思議な格子の瞳は、凪いだ高すぎも低すぎもしない温度で、ただじっと目の前のおれを見ていた。
こないだの話、と言われればそれが指すものはひとつしかなかった。奇しくも今いるのはあの日と同じ自販機だ。今日会ってからここまで全然気にした素振りもなかったのに、覚えていたのか、というのと、太刀川さんも考えていたのかという驚きが同時にある。太刀川さんが何を言うつもりなのか分からなくて身構えそうになる。
けれど、太刀川さんの瞳があまりに静かだったから。いつも通りだったから。だからおれは、なにも言わずに太刀川さんの言葉を待つことができたのだと思う。
おれがなにも言わないのを見ながら、太刀川さんは普段と変わらない口調で続ける。
「戦うのは俺は楽しいけど、別にみんなにとって楽しいだけじゃないのも、いろんな理由があるから戦うやつらがたくさんいるのも知ってる。それに正解も不正解もないからさ、楽しまなきゃいけないなんてことないとも思う。でもな、あれからまた俺も考えたんだけど」
太刀川さんがひとつ短く息継ぎをしてから、言葉の続きを口にする。
「折角やるなら――そんでもしちょっとでも楽しいって思えそうなら、楽しめた方がお得だろ」
ほんの一瞬。おれは呼吸をするのを忘れそうになった。まるで胸元にまっすぐ、弧月が触れた時のように。気付かぬうちにおれはきゅっと唇を噛みしめていた。自分の胸の内に問いかけたからだ。
(ちょっとでも、楽しいって、……)
――本当は。
あんまり気持ちよさそうに戦うこの人の姿が、ずっときらきらとして見えた。
羨ましかった。
少しだけ悔しくて憎らしくもあって、でもそれ以上に心の底でずっと惹かれてもいた。
勝つと嬉しくて、負けると悔しい。
どっちに転んだってこの人と戦うとその感情が渦巻いて、もっと、と思う自分が本当はいた。それをずっと見ないようにしていただけで。
強くなりたいとか、守るためにとか、そういう自分の中の大きな目的を忘れたわけじゃない。だけどそんなこと関係ない、ただただ自分自身のためだけのシンプルな感情も、本当は自分の中にあること。気付いていなかったわけじゃない。それをかたくなに、気付かないふりをしていただけで。
あの日の最上さんの言葉が蘇って、自分の内側で反響する。
(おれは、ランク戦をすることが、――太刀川さんと戦うことが)
その言葉の続きを口にするためには、もっと、もっと欲しいものがあった。
ふっと、ある考えが頭に浮かぶ。それが一度浮かんでしまえば、居ても立ってもいられなくなった。それを早く現実にしてみせたくなって、急に焦れるような気持ちになる。うずうずと心が揺れて弾む。
こんな気持ちになるのは一体いつぶりだろうか。
とりあえず、帰ってクローニンに相談すればどうにかなるだろう。クローニンは今日は一日玉狛でトリガーの調整や研究をしていると言っていたはずだ。
「……太刀川さんごめん、おれもう帰るね」
「お?」
太刀川さんは急にそんなことを言い出したおれに不思議そうな顔をする。しかし、おれの目を見た瞬間何かが伝染でもするかのように太刀川さんの目に淡い光が灯る。何も言っていないはずなのに、何かがバレているのだろうか。やだなあ、これはちょっとお披露目まで隠しておきたいんだけど――そう思いながらも、言わなくても何かが通じ合ったような感覚に、感じるのは確かに高揚や喜びの類のなにかだった。
「急用!」
そう言った自分の口角が上がっていたことに、口にしてから気付く。残りのカフェオレを一気に飲み干して、缶はすぐそばのゴミ箱に投げ入れた。また缶が淵に引っかかって音を立てたけれど、そんなことはもう気にもならなかった。
今日も遅くなるんだったら迎えに行くと言われていたが、迎えを待つ時間すら待てそうにない。本部から玉狛は生身で移動するには遠いが、換装体で走れば存外すぐなのだ。
急に走り出したおれを訝ることもなく、呑気に「またなー」と言う太刀川さんの声を背中に聞いた。本部の廊下を駆ける。未来視が追いつくよりも早く。先ほど頭の中に浮かんだそれが、頭の中でちかちかと瞬く。早くそれを作り上げてやりたかった。期待でどくどくと心臓が音を立てているような気がした。今はトリオン体だから、本物の心臓じゃないけれど。
それを手に持って、そしてランク戦のステージに立って、戦って。――ああそうしたらあのひとはきっと、その目をあの日みたいに輝かせるんだろうな。
そんなことをおれは、頭の隅でちらりと思ったのだ。
◇
リビングの大きな窓からこぼれる朝日が起き抜けの目にはいやに眩しい。レイジさんからトーストを受け取った時に、くぁ、と大きなあくびをしてしまえば、レイジさんに「また夜更かししてたのか」と呆れられてしまった。ここ最近はクローニンと夜な夜な訓練室にこもっていることは既にバレているので、おれは「まあ、いろいろとね~」とへらへらと笑って誤魔化すに留める。「まああそこまでの夜更かしも昨日までだから。多分」と付け足して、マグカップに牛乳を注いでそそくさとダイニングテーブルの方に向かった。
しかし眠い。日付が変わった頃にはもう最終調整は完了して自室に戻っていたのだが、その後しばらく寝付けなかったのだ。遠足前の小学生か、と自分でも思うが、そうなってしまったものは仕方がない。そもそもがおれはあまり寝付きがよくないのだ。日頃トリオン体で居すぎるせいだろうとレイジさんには言われてしまうのだが。今日の授業は眠気に耐えられる気がしないけれど、まあその時はその時だ。元々起きていてもたいして真面目にノートを取るような性質でもない。
林藤さんの前の席に座って、いつものようにジャムをたっぷりとつけたトーストをがぶりとかじる。今日もリビングにいるのはこの三人だけだった。つけっぱなしのテレビでは、東京にできた新スポットを若いアナウンサーが楽しげに紹介している。
それをなんとなく眺めながら口の中のトーストを飲み込んで、そうだ、と思って目の前の林藤さんに向き直って言う。
「今日は遅くなるから、夕飯なくていいよ」
おれの言葉に林藤さんは顔を上げて、お、という表情でおれを見る。そうしてなぜだか少し楽しそうな顔をして、「わかった」と頷いた。
今日は学校が終わったらそのまま本部へ向かって、ランク戦ブースに行くつもりだった。約束は特にしていない。だけどあのひとが今日も本部に居ることも予定が空いていることも、おれは未来視で既に知っていた。
あのひとに言えばズルいと言われるだろうか。だけどこの時のために、おれは最高の舞台をつくり上げたくなってしまったのだ。
テレビの音と食事の音、あとはレイジさんがキッチンでこの後起きてくるであろうゆりさんのための朝食を準備している音。昔より人が減ったリビングは立てる音も少なくてすっかり静かに思える。もう、見慣れてしまった光景だ。さみしいと今もふと思う時もある。思い出せば、苦しいとも思う。
だけど。
かつての日に視た未来視をふと思い出す。あれはきっと今の光景だ、と思った。
ああなるほどな、と思う。あの時理解できなかった自分自身の感情が、今ならすとんと腑に落ちるような心地になった。
テレビの中では天気予報のコーナーに切り替わって、今日は空気は冷えているものの日差しはあたたかく、日中は春の気配を感じる陽気になるでしょう、と言っていた。確かに今日の日差しは眩しいが、きっと外に出るとあたたかさを感じるだろうと窓の外をちらりと見て思う。
春が少しずつ近付いている。月日が経つ早さに少しだけ驚く。だけどそう思えば、どこか浮き足立つような気持ちにもなった。
季節が変わっていく足音がする。
食べ終えた食器をシンクに片付けて、歯磨きをした後一旦自室に戻った。制服のネクタイを巻いて、ほぼ置き勉しているおかげで軽い通学カバンを持って、そしてポケットには昨日調整したばかりのトリガーを入れて階段を降りる。
林藤さんとレイジさんはまだリビングにいたので、開きっぱなしのドアからリビングに顔だけ出して、おれは二人に声をかけた。
「いってきます」
いってらっしゃい、といつものようにリビングから声が返ってくる。靴を履いてドアを開けると、空気の冷たさがまず肌をさした。しかしその後に降り注ぐ日差しのあたたかさをわずかに感じる。天気予報通りだなあなんてことを思いながら、おれは歩き慣れたコンクリートの橋の上に足を踏み出した。
学校が終わってラウンジに足を運ぶと、目的の姿はすぐに見つけることができた。予知通りだ。今日はちょうどランク戦の相手も見つからなかったようで、ラウンジのソファにだらだらともたれかかっているそのひとの後ろ姿を見ながら、テーブルにまっすぐに近付いていく。
足音に気付いた彼が顔を上げるよりも早く、おれはテーブルに手をついてその顔を覗き込んで言った。
「ランク戦やろうよ、太刀川さん」
考えてみれば、そう自分から誘うことは珍しかった。太刀川さんはおれを見上げてぱちくりと目を瞬かせた後、ぼんやりとしていたその表情はにまりと嬉しそうで好戦的な笑みに変わる。
この顔も、もう未来視で知っていた。だけど未来視で視るのと、実際に現実として見るのはやはり違う。目の前に見たその表情に、自然と自分の口角も上がるのが分かる。
ここ最近はこれの開発で忙しかったから、なんだかんだで太刀川さんとランク戦をするのは少しだけ久しぶりになってしまった。だから余計にだろう。太刀川さんも――そして、おれも。予想より結構時間はかかってしまったが、しかしその分最高の出来になっているという自信はあった。
まずは十本勝負の設定にして、ランダムで転送されたのは市街地A。どノーマルなステージだが、このくらいプレーンな場所の方がむしろちょうどいいな、と思った。
まっすぐに相対して弧月に手をかけた太刀川さんは、おや、という顔になって眉毛をぴくりと動かした。それはそうだろう。いつもだったらこのタイミングでこちらも弧月を出現させているからだ。
おれが何を企んでいるのか、太刀川さんは分からないだろう。だって何も言っていなかったし、流石の太刀川さんでもこれは予想できないだろうと思う。この人には未来視もないから、おれみたいに予知して先取りで知ることもない。ただ、おれの出方を待っている。おれに全神経を集中させて、おれだけをじっと見つめて。
不思議そうだった太刀川さんの表情は、すぐにわくわくと楽しげなそれに変わる。期待されてるな、と思った。おれが何をするつもりでいるのかを。
それを心から、嬉しいと、素直にそう思った。この人をそうさせる自分に対しての優越感のような感情もある。
あのころの自分じゃ考えられなかった。認めたくもなかったし、許せなかった。
だけど今おれは、確かにそう思っているんだ。
「何する気だ? 迅」
にやにやと、楽しそうなのを隠しもしない声で太刀川さんが言う。この人の反応はずっと素直だよなあ、と思う。おれとは全然違う。何も考えてないなんてわけじゃない、けど、だからこそずっとシンプルに生きている人。
「それを言っちゃったらつまんないでしょ、言ってほしいとも思ってないくせに」
弧月もなにも持ってない手のひらをひらりと上に向けておれは返す。向こうは今すぐにでも抜刀できる姿勢で弧月に手をかけていて、こっちは一見丸腰だ。
おれは太刀川さんの真似をするようににやりと笑って、そして目を細めて目の前の男を見つめながら言う。
「まあ、戦ろうよ。太刀川さん」
そう言って、太刀川さんに向かって駆け出す。太刀川さんの纏う雰囲気が、一気にぴり、と警戒した張り詰めたものに変わる。
この瞬間を、好きだと思った。
本当はずっと。
弧月の一振りが届くかギリギリの距離で、「それ」を手の中に出現させる。瞬間、太刀川さんが驚いたように目を見開いたのが見えた。すぐ太刀川さんが弧月を構える。しかしこれはこのひとが想像するよりも、このひとが知っているおれの速さよりも、もっと速い。
寸でのところで太刀川さんの弧月がその刃を受けて、ギィン、と高い音が仮想空間に響く。流石に最初からトリオン供給機関の破壊は防がれてしまう、が、しかし弾かれるのも想定のうちだ。その反射の動きを活かしてわずかな隙をみせた脇腹を深く切り裂くと、太刀川さんのトリオンがぶわりと零れて空気を黒く汚す。
「迅。なんだ、それ」
体勢を立て直すため少し距離を置いてまたまっすぐに相対すれば、太刀川さんがひどく嬉しそうに笑う。他の人からすれば凶悪だとすら言われてしまいそうな表情だと思うのに、今のおれはそれに高揚しか感じられなかった。
「なんでしょう。考えてみてよ」
言いながら再び太刀川さんに向かっていく。
弧月と、それも太刀川さんほどの使い手と正面からぶつかり合えば流石に分が悪い。軽い代わりに耐久性は弧月よりかなり落ちるのだ。その強度の脆さは、速度と手数でカバーする。
おれの得意分野だ。
刃同士がぶつかり合う音が何度も響く。力勝負の押し合いにならないようにうまくいなしながら、ほんのわずかな隙もつくらないように、そして相手のほんのわずかな隙も見逃さないようにタイミングを図る。未来視は敢えて使わなかった。この人と戦う時にそれはむしろ隙を生みかねないとこれまでの経験から感じ始めていたからだ。自分の経験値と、この人と戦ってきた日々からの予測。予知を使わずとも、それは想像以上に自分の手足を的確に動かしてくれた。
ただ目の前の男に勝つために、己の全神経を集中させる。
目の前の男からも、同じまなざしが向けられる。
刃の音がずっとうるさいはずなのに、まるで世界に二人だけになったかのような静寂すらもあった。それは、呆れるくらいに心地が良かった。
ふと、思い出したのだ。いつの間にかずっと忘れてしまっていたこと。
刃を握った理由は、もうなにも失いたくないからだった。守りたかった。生きたかった。もう何かがてのひらから零れ落ちるのを見たくなかった。強くなりたいと思った。だからおれは、戦うことを選んだ。
だけど戦う術を覚え始めて、できることが増えていくこと、強くなっていくことそのものにどこかで高揚していたこと、自分の仮想の身体を思い通りに動かして模擬戦で勝てたとき、おれは確かにうれしかったこと。
それは確かにあったはずなのに、いつしかおれはその感覚をすっかり記憶の隅に追いやっていた。
時を重ねていくと、人はいつしかシンプルなままの感情ではいられなくなる。ある瞬間に抱いた感情だって、いつしか埃を被って忘れていってしまう。
だけどあの時よりもずっと痛烈なそれが、ただただシンプルに立つこの人の姿が、かつてのおれの記憶を引きずり出してくれた。
未来視より鮮明に、ここだ、と思った。その直感は違わず一気に振り下ろした刃が太刀川さんの片腕を落とす。腕と共に握っていた弧月が地面に落ちて、その隙を逃さずおれはトリオン供給機関にスコーピオンの刃を突き立てた。
ぴし、と太刀川さんのトリオン体にヒビが入る。トリオン体に刃を突き立てた感触が手の中に残っている。は、とおれは短く息を吐いた。
トリオン体に血なんて流れていないはずなのに、全身がどくどくと脈打っているかのような錯覚をする。だけどあの時――太刀川さんと初めて戦ったときに感じたものとは違う。今この瞬間、自分でも驚いてしまうほどに、すっきりとした気持ちだった。
緊急脱出直前の太刀川さんが、逸らさずまっすぐおれを見ていた。太刀川さんの焦点の読みづらい格子の瞳の中に、おれが映っている。
必死で、ひどくて、性質の悪い、嬉しそうな顔。そんな自分に呆れるのに、それ以上に、この人の瞳がおれだけをまっすぐ見つめて嬉しそうに光るのが嬉しかった。
まるで星が弾けるように、その瞳が光る。
指先まで、体の全部が充足しているように思った。
あの日の未来視のことをまた、思い出す。そしてあの日に最上さんが言ったことも。
――おまえの人生だ。
――おまえが楽しいと思ったらさぁ、楽しんでいいんだぜ。
あの時は全然わからなかった。理解できなかったし、したくもなかった。だけど今、少し分かったような気がするんだ。
(あの痛みを忘れるつもりはない、あの時の後悔を手放すつもりもない。だけど)
そうだね、おれは今。
「太刀川さん。おれさ」
戦いの場に相応しくないくらい、穏やかな声が自分から零れた。
「太刀川さんとランク戦するの、すげー楽しいよ」
そう言ったときの自分の声も、太刀川さんの瞳の色も。
太刀川さんが緊急脱出した後も、しばらく焼き付いて離れなかった。