心搏
目が合った瞬間、まるで星が弾けたような気がした。ランク戦の設定は十本勝負。ランダムに転送されたステージは、奇しくも懐かしくて見慣れた市街地Aだ。まっすぐな道の真ん中で相対して、目が合って、手の中にスコーピオンを出現させると弧月に手をかけた目の前の男の顔が楽しそうに歪むのがわかる。
(ああそうだ、……そうだった)
一気にぴりつく仮想空間の空気。そして目の前の男がおれにまっすぐに向ける殺気。それはぞわりと肌が粟立つほどの。
緊張ではない。畏怖でもない。これは、紛れもなく――
鏡映しみたいにして、自分の口角も上がる。それを見た彼の焦点の読みづらい格子の瞳が、嬉しそうに細められるのが見えた。
(ほんと相変わらず、性質悪い顔するじゃん)
そう口にすればきっと、おまえこそ、なんて笑われてしまうだろう。あの頃だって何度も繰り返したやりとりだ。
握ったスコーピオンは久しぶりだというのにひどく手に馴染んだ。そうだ、だってこのためにおれがつくった。おれがこの人に勝つために、そして。
弧月を抜いて構えた太刀川さんがその手にわずかに力を込める。それが合図だった。未来視が教えてくる勝率は五分。上等、とおれは心の中でそれを笑い飛ばす。こんな気持ちになるのも、随分と久しぶりだった。おれをこんな気持ちにさせるのはずっと、この人しかいなかったから。
視界の端に現れては消える未来視は捨て置く。この人と戦うときに、そんなものは必要がなかった。そんな戦り方だって久しくしていなかった。が、そのことにどこかで気持ちが疼き始める自分がいる。
地面を蹴るのは同時。
データベースからつくられた閑静な住宅街に刃がぶつかる鋭い音が響いて、ぎり、と拮抗する。至近距離で視線が絡んだ。太刀川さんがいつもは凪いだように見えるその瞳の奥をひからせて、燃やして、にまりと堪えきれないみたいに笑う。
きっと今同じ気持ちでいるのだと、確かめ合わずとも分かった。
本部の正面入口を出た途端に吹き付けてくる冷たい風に、「さみっ」と隣の太刀川さんが肩を縮こまらせた。そうした後太刀川さんはこちらを見て「トリオン体はずりーぞ」と顔をしかめたが、おれは「別にいーでしょ」と受け流す。
太刀川さんは温かそうなコートにマフラー姿、おれはトリオン体なのでいつもの青いジャージ姿だ。冬の空気は嫌いではないけれど、寒いのはあまり得意じゃない。それにもう基本的にトリオン体で過ごすのが常になっているから自分としてはなんの違和感もない。太刀川さんのトリオン体はあの黒いロングコートが設定されているから、街を歩くには不向きだろう。それに太刀川さんは基本生身派だから、本気でトリオン体で常に過ごしたいというわけでもあるまい。事実、太刀川さんはその会話の一ラリーであっさりと引き下がってすぐに先ほどまでのランク戦の話をし始める。
太刀川さんが吐き出した息の白さが、暗い夜に浮かんでは溶けていく。今日は開始した時点で結構遅い時間だったということもあるが、ランク戦を終える頃にはすっかり夜も更けていた。こんな風にブースが閉まるギリギリの時間まで戦り合って、とっぷりと更けた夜の警戒区域を二人で歩いていると、まるで本当にあの頃みたいだなと思う。
あれやこれやと感想戦をしながら、ふと見上げた空には星がいっぱいに瞬いていた。冬は空が澄んで高い。それに住宅や街灯の灯りのない警戒区域の夜は暗いから、余計に他の場所よりも星の光がはっきりと見て取れるのだ。そうだ、おれはこの景色が好きだったな、ということを思い出す。なにもかも、あの頃の景色がすぐそばに横たわっている。
「あー」
太刀川さんのそんな声と共に、空気が白く染まって消える。
「楽しかったなあ」
そう言った太刀川さんの横顔も声色もどこか恍惚としていて、それに浮かんだ感情の名前を考えるよりも早く、おれの口角はわずかに緩む。
――おれ黒トリガーじゃなくなったからランク戦復帰するよ。
――とりあえず個人でアタッカー一位目指すからよろしく。
そう宣戦布告をしてから、一週間と少し。風刃の返上と今後の運用に関わる上層部との打ち合わせや玉狛の後輩たちの正式入隊に向けての準備、そして視えているもう少し先の未来についての調査などなにかとバタバタしている中ではあったが、どうにか時間を作って三年ちょっとぶりにランク戦をしたのが今日だった。
初戦の相手は勿論、かつてポイントを超せなかった好敵手。別にそれにこだわる必要もないと分かっていたけれどどうしてもそうしたい気持ちが自分の中で強く、それにあの日以来太刀川さんからもしつこくいつランク戦ブースに来るんだと言われていたから、わざわざ事前に約束をして久しぶりのランク戦に足を運んだ。
今日の結果は、四対六で太刀川さんの勝利だ。どちらも譲らぬまま拮抗した最後の一試合、ほんの一瞬早く太刀川さんの弧月がおれのトリオン供給機関を切り裂いて勝ち越されてしまった。それが悔しくてたまらなくて、これほど純粋に悔しいと思えることすらも懐かしかった。そしてそう思えることが、呆れるほど楽しかった。
A級復帰のきっかけとなった、先日の黒トリガー奪取の命を受けた太刀川さんたちと戦ったときにも正直刃を合わせながら楽しいという気持ちが浮かぶ瞬間もあった。けれどそれ以上に譲れないものがあったし、あれはおれがやるべきと思ったことのための、それを守るための戦いだ。その後の展開も含めての、こちらの〝勝ち〟が前提。ただ楽しいというだけで戦り合える時間ではなかった。
S級だった間も、おれはおれなりに楽しく過ごしていたつもりだ。
玉狛のメンバーと過ごす日常も、嵐山や柿崎たち同学年でつるんでわいわいやることもそうだし、太刀川さんや風間さんたちとだって本部でたまに合えばくだらないやりとりをするくらいの仲は続いていて、そんな時間だっておれにとって楽しい日々だった。強がりでもなく本当にそう思ってきた。
だけど。
やっぱり特別だったと、思い知らされる。そう思えばなんだか少しだけ悔しくも思ってしまうけれど、これはもう誤魔化しようのない事実だった。
だらだらと喋りながら、ちらりと横を歩く太刀川さんを見やった。あの頃と同じような景色だけれど、太刀川さんはあの頃とは違う髭面だ。うさんくささが増している。ああでも、今みたいにマフラーに顔を埋めたら髭が隠れてちょっと懐かしいかもしれない、なんてことを思う。
「おまえ明日は? 来る?」
「あー明日はちょっと忙しい」
「じゃあ明後日」
「明後日も無理だな」
「おまえいつなら空いてるんだよ」
頭の中で予定と未来視を確認しながら返事をすると、太刀川さんは分かりやすく唇を尖らせた。その表情がいやに幼くて、うさんくさい髭面の成人男性だっていうのにそのギャップが面白く思えてしまう。
「実力派エリートはひっぱりだこで忙しいんですー、今日だってむりくり時間つくったんだから」
おれが言うと、太刀川さんは眉根を寄せてからがしがしと自分の頭を雑に掻く。
「あーもう……ようやく戦れたと思ったらまたこれかよ。もう玉狛の前で待ち伏せてやろうか」
「太刀川さんはやりかねないから困るな」
おれがまだ中学生だった頃、たびたび校門で待ち構えられていたことを思い出しながらそう返す。ちなみにおれが太刀川さんと同じ高校に進学してからおれがランク戦を離れるまでの数ヶ月間は、待ち構えられる場所は校門前からおれのクラスの教室前に変わった。まあ時々はその逆も、あったりなかったり。
そんなことを考えていると太刀川さんは「やりかねないっつーか、割と本気だぞ」なんてことを言うので、「小南が怒るでしょ」と、未来視を使わなくても想像が容易いそれを思い浮かべながらおれは肩をすくめた。
まだ身体に、興奮の残滓が残っている。
お互いにあの頃よりは大人になったはずなのに、ひとたびランク戦の仮想空間で獲物を持って相対すればあっという間にあの頃みたいに夢中になってしまったことが、少しだけ恥ずかしいようにも思う。いつもは誰に対しても余裕を崩さない、つかみどころのない実力派エリートで長いこと売ってきているからだ。だけどそんな恥ずかしさ以上にずっと、充足感のほうが勝った。
この人といると、この人と戦うと、トリオン体であっても時に生身でいるとき以上に身体の隅まで血が巡っていくような。生きているという実感をどの瞬間よりも強く連れてこられるような、そんな心地になる。
「まあ、それならそれでしょうがない」
おれの言葉に太刀川さんが真面目な顔でそんなことを言うので、おれはいよいよぷっと笑ってしまった。つい数十分前まで一瞬たりとも気が抜けない仮想の命のやりとりをしていたはずなのに、戦っていない時のこの人といるとみょうに気が抜けてしまう。そういう所も不思議なほど居心地がいいと思っていたんだ、あの頃のおれも。
けらけらと笑った後に、おれは小さく息を吐いて呟く。
「はーなんか、なつかしいね、こういうの」
「だな、……」
太刀川さんがそこで言葉を切る。何かを考えるような間。なんだろう、と思っていたら、太刀川さんが顔をくるりとこちらに向けて言う。
「おかえり」
思わぬ言葉に、ぱちくりと目を瞬かせてしまった。
帰ってくるつもりはなかった。その覚悟であの日おれはS級になった。あの頃はまだこの未来は視えていなかったし、考えて考えて、手にするものと手放すものを決めたのだ。
(……おかえり、かぁ)
心の中で、飴玉でも転がすみたいに今受け取った言葉を反芻する。
玉狛以外でおれがそんなことを言われる日がまたくるなんて、思ってもみなかった。だけどなんだか不思議なほど、その言葉がすとんと心の中に素直に落ちる。
いやあ、生きてたら、ほんと何があるかわからない。そう思ってなんだかおれは、ふと小さく笑ってしまった。
――おまえの人生だ。
かつてそう言ってくれた師匠の顔が頭を過ぎる。
――今だって未来だってな。
一度目を閉じて、またゆっくりと開いて、そうして目の前の太刀川さんにこちらも顔をまっすぐに向けて返事をした。
「ただいま」
そう言うと太刀川さんは、「おう」といつもの顔で満足げに頷く。そうしてまた太刀川さんが歩き始めようとしたので、おれは「太刀川さん」と名前を呼んだ。格子の瞳が、不思議そうに再びおれを捉える。
別にわざわざ呼び止めてまで言うことじゃないかもしれなかったけれど、なんだかこの気持ちを、自分の外に出しておきたかったからだ。
風が吹いて、目の前の太刀川さんの緩く癖のついた髪を揺らす。昔はもう少しだけ身長差があったけれど、今はほとんど変わらない。ほぼ同じ目線の高さになっている。すう、と息を吸って、そうして何気ない口調でおれは言う。
「やっぱりあんたとのランク戦、すげー楽しいわ」
そう言うと今度は太刀川さんのほうが目を瞬かせた。そうしてその表情はにまりと笑みのかたちになって、一歩おれの方に近付いた太刀川さんはおれの顔をわざとらしく覗き込んで聞く。
「最高に?」
言わせたがっているのがよくよく分かって、呆れと同時にその子どもじみた表情がおかしくて笑いそうになってしまう。
先日A級に戻って、ランク戦に戻ると宣戦布告した時に言った言葉だ。学校で習ったことはすぐに忘れるっていうのに、こういうところだけはしっかりと覚えているらしい。まあそうやって覚えていてくれるのは、こちらとしても嬉しい限りではあるが。
暗い夜道で、太刀川さんの目が初めて戦ったあの日と同じ光を湛えているのが見えた。
目の前に弾ける星のような光。それに、自然おれの口角もにまりと上がる。
おれは太刀川さんの顔を見つめ返して、はっきりと頷いた。
「最高に」
そう言ってみせると太刀川さんはすっかり満足げな顔になって、「そうだろ」だなんて上機嫌に笑うのだった。