コロッケ味の特別

 角を曲がれば、見慣れた大きな背中を見つける。寒空の下、それだけでほっと気持ちがあたたかく満たされたような心地になった。まあ、換装体であれば寒いとかも関係はないのだけれど。
 迅は少し歩調を早め、のんびりと歩くその後ろ姿に追いついて声をかけた。
「おつかれー、太刀川さん」
 そう言えば、ほとんど高さの変わらない瞳が迅の方に向けられる。特徴的な格子の瞳だ。
「お、迅」と言ったその声も歩調と同じくのんびりとしていた。この道をまっすぐに行くと本部だ。きっとこれから本部に行くところなのだろう。迅もそうだ。今日は珍しく特に決まった予定があるわけではないが、たまには顔を出そうかと思っていた。
 シンプルなグレーのコートを着た太刀川は肩から軽そうなトートバッグを提げ、そして右手には半分紙の包装に包まれたコロッケを持っている。先程未来視でちらりと視てはいたが、迅はその手の中のコロッケを軽く覗き込むようにして言う。
「本部行く前に買い食い?」
「ん。大学で頭使ったから腹減った」
「太刀川さんが大学で頭使うこととかあるんだ。ずっと寝てるのかと」
「おまえって本当失礼なこと言うよなあ」
 迅の言い草に太刀川は眉をひそめたが、しかし本気で気分を害した様子はない。迅の軽口には太刀川も慣れているのだ。迅が本気で太刀川を馬鹿にしているわけではないと太刀川も知っている。その距離感に迅は改めて、心地の良さを感じる。
「いやー、だって二宮さんとか諏訪さんとかがいつも言うからさ」とへらへら笑いながら言ってやれば、太刀川は「あいつらはなあ」と軽く唇を尖らせた。
「抜き打ちで小テストみたいなのがあったんだよ。焦った」
「へえ。大学生も大変だ」
「そうそう、大変なんだよ」
 言いながら太刀川は、手の中のコロッケをぱくりと一口かじった。そのさまを、その横顔を迅はなんとなくぼんやりと眺めていた。他にやることもなく手持ち無沙汰だったということもあるかもしれないし、そもそも太刀川の顔を見るのも少し久しぶりな気がした。
 そうしたらその視線に気付いた太刀川が横目で迅を見て、ぱちりと目を瞬かせる。口の中に含んだコロッケを噛んでごくりと飲み込んで、そして太刀川は言った。
「……やらないぞ?」
 思わぬ言葉に、今度目を瞬かせたのは迅の方だった。何のことかと思って、すぐにコロッケのことかと合点する。
「え? 別に欲しいって言ってないけど」
 迅が言えば、太刀川は表情を変えずに返す。
「物欲しそうな顔してたから」
「ええ……」
 おれそんな顔してたかなあ、と迅は考える。まったく自覚はないし、そもそも別に、美味しそうとかいいなくらいは思ったけどコロッケを分けて欲しいとまでは思っていなかった。仮に自分が物欲しそうな顔をしていたのだとしたら、それはコロッケに対してではなく――
(まあ、確かにちょっと、期待はしてるけど)
 ちょうど今日は暇ができたから、たまにはランク戦でもできないかなと思って視界の端の未来視のチャンネルを辿って太刀川を探して来たのは事実だ。別に迅がランク戦ブースに現れれば、珍しい人が来たと対戦相手には事欠かないだろうことは未来視を使わなくたって分かった。だけどわざわざ太刀川を掴まえに来たのは、いつだって自分が一番に戦いたい相手は彼であるからということに他ならない。
 早いものだ。あれからもう一年近くが経つ。
 風刃を本部に渡し、A級に出戻って、ランク戦に復帰して。それからも色々なことがあってやるべきことに奔走する日々で、昔のように毎日ランク戦ブースに入り浸るようなことは流石にできなかったが、それでもたまに暇があればランク戦ブースには顔を出すようになっていた。悔しいことに未だアタッカー一位の座を塗り替えることはできていないが、しかしブランクの期間に開いた差は少しずつ詰めてはきている。そのことが嬉しくて、わくわくした。ずっと忘れて、もう錆び付いたとすら思っていた感覚だったというのに。
 手放したと思った日々は当たり前みたいな顔をして、自分の手元に戻ってきた。
 そんなことを考えていると、隣を歩く太刀川も少し考えるような表情をしていることに気が付いた。この人がこんな顔をするなんて、少し珍しい。なんだろうと思って迅が見やれば、それとほとんど同時に「ん」という声とともに目の前にずいと食べかけのコロッケが差し出された。
「一口だけやる。特別だからな」
「え……っと」
 いやだからおれ、コロッケ欲しいとは言ってないんだけど。そう思うのに、同時に心の奥でその言葉にじわりと嬉しがる自分がいることに気が付いてそれに恥ずかしくなった。
 別に太刀川にとっては深い意味のない言葉だろうに。
(あー、……ったく)
 恥ずかしさ紛れにそうくしゃりとした気持ちを抱いたのはひどく単純な自分に対してだ。
 〝特別〟なんて簡単な言葉だ。だけど、誰にでもおおらかで来る者拒まずのようなこの人だからこそ、その言葉がいかに大きいものかって、その言葉を欲しがった自分だからこそ気が付いてしまう。
 この人に、おれを見て欲しかった。この人の特別になりたかった。その強い感情に自らライバルという名前をつけた――そんな青かった頃の思い。それが自分の中でフラッシュバックして、そして厄介なことに、その青かった自分は今もなお自分の中から消えたわけではないのだということを、自分が一番よく知っていた。
「……じゃ、お言葉に甘えて」
 そう言って、コロッケを持つ太刀川の手に自分の手を重ねる。それを軽く引き寄せるようにして、食べかけのコロッケを大きく口を開けて迅もかじった。まだできたてのあたたかさを残したほくほくのコロッケの味が口に広がる。おいしい。その味に覚えがあるような気がして、ああそうだ、高校生の時に二人でたまに買い食いしてたとこのやつかも、と思い出す。ちょうどそのコロッケが売っている肉屋がある商店街も、ここからすぐ近くなのだった。
 手を離してコロッケを咀嚼して、それからふいと太刀川の方を見る。そうしたら太刀川は彼にしては珍しいなんとも不満げで、かつ呆れたような表情で迅と手の中のコロッケを見比べていた。
「……おい、一口がデカい」
「一口って言ったのは太刀川さんじゃん」
 ごめんって、後でぼんちあげるから。そう言ってみせれば、「ぼんちとコロッケは違うだろ~」と言いながらも少しだけ機嫌を直すこの人のおおらかさと素直さがおかしくて、迅は笑ってしまう。
 冬の午後の、きんと冷えた風が二人の間を撫でるように通り過ぎていく。だけどまだ、コロッケのあたたかさと触れた太刀川の手の温度は、少しの間迅の手のひらに残ったままでいた。




(2023年12月18日初出)





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