プリズム

 ――虹の根元って見たことあるか? と、昔迅とそんな話をした。
 あれは太刀川がボーダーに入ってまだ日が浅い頃。互いに高校生で、毎日のようにランク戦で競い合っていた時期の、他愛のない雑談のうちのひとつだった。
 確かその日は朝から雨が降っていたのだが、学校が終わるなり連れ立っていつものように本部へと向かう途中で雨が上がって虹が出たのだ。遠くに架かったその細い虹を見ながら、ふと太刀川は迅にそんな話を振ったのだった。
 虹の根元? とぱちくりと目を瞬かせた迅は、太刀川と同じように虹を見上げて返す。
「んー、そういえば無いかも。今も建物……っていうか本部の影に隠れちゃってるし」
 迅が言ったとおり、虹の根元は――というか右下半分くらいは、ちょうど今自分たちが向かっているボーダー本部の白い建物に隠されてしまっていた。それを見て太刀川は少しだけ残念な気持ちになる。いや、逆に本部の向こう側に行けば虹の根元が見えるのだろうか? と思ったが、その向こうにも結構高い建物が多いのでどちらにしろ見えないのかもしれない。
「小学生の時になー、虹の根元に行ってみたくなって、自転車乗ってずっと虹を追いかけたことがあって」
「へえ」
「んで気付いたら知らないとこに出てて、帰ろうにも道が分からんまま外が真っ暗になっててさ。かーちゃんにすげー怒られた」
「太刀川さんらしいっていうかなんていうか」
 太刀川の話に、迅はおかしそうに苦笑した。太刀川よりも少しだけ低い位置にある、同じ黒い学ランの肩が小さく揺れる。
「……思ったんだけど、トリオン体で走れば虹の根元に追いつけそうな気がしないか?」
 太刀川がそう思いつきで言ってみれば、迅は「まだ諦めてないこの人!」と大袈裟に目を見張ってみせる。「だって面白そうだろ」と太刀川が言えば、迅は「太刀川さんの行動原理ってそうだよね」と肩をすくめた。それにしても、自分で言っておいてこれは結構名案な気がしていた。トリオン体は生身よりずっと身体能力が強化されるので、生身よりも速く走ることができるのだ。しかし、そんなことにトリオン体を使うなと怒る忍田の顔が同時に浮かぶ。いやでも……と好奇心との間で揺れる太刀川の横で、迅が口を開いた。
「そういえば、虹の根元で思い出したんだけど。まあ、ただのおまじないみたいな迷信なんだけどさ」
「ん?」
 何だろう、と思って太刀川が迅の方に顔を向ける。こちらを見る迅の青い瞳と目が合った。
「虹の根元を見たら幸せになれる、って。小南が言ってた」


 ◇


 一滴空から落ちてきた、と思っているうち、大雨になるのはあっという間だった。
 朝からどんよりとした雲がたちこめているとは思ったのだが、こんな時に限って傘を忘れてきている。いや、途中で思い出しはしたのだが、大学に遅刻する寸前だったから傘を取りに戻るのを諦めたのだ。まあ降らない可能性もあるし、と太刀川は楽観的な方に賭けたが、見事にその賭けは外れたのだった。
 持っていたカバンを雨避けにしようとするも、これでは頭くらいしか守られない。カバンからはみ出した服の裾はまるきり野ざらしのようなものだった。服の裾があっという間に大粒の雨を吸って重くなる。
 流石にどこかで雨宿りを、と思って太刀川が適当な路地を曲がると、ちょうど軒先に屋根のある商店を見つけた。シャッターは閉まっている。休みなのか、それかもう廃業してしまった店なのかもしれない。
 とにかくちょうどいい、と思ってそこに向かって太刀川は走る。雨で煙ってよく見えないが、そこにはもう先客がいるようだった。そいつもこの突然の雨に降られて雨宿りしているのだろう。そう思いながら走って近付いていくと、その先客がものすごく見覚えのある男であることに太刀川は気が付いた。
 太刀川がその意外な姿を認めて小さな驚きを抱くのと、軒先の男が柔い茶色の髪をわずかに揺らして太刀川の方を振り向くのは同時だった。
 雨で煙る景色の中、青い目が太刀川をとらえる。ばしゃ、と太刀川が踏んだ大きな水たまりが音を立てる。ようやくその軒下に辿り着いた太刀川は、体に打ち付けるように降っていた雨から逃れられたことにほっと息を吐いて頭の上に掲げていたカバンを下ろす。そうして、太刀川の姿を認めてへらりと軽く笑った男に声をかけた。
「迅」
「やー太刀川さん。ずぶ濡れじゃん」
 そう言う迅はといえば、肩や袖に少しだけ濡れたような跡はあるがその服はほとんど乾いている。降り始めてすぐにここに待避してきたのだろうということが窺えた。
 太刀川は目の前の迅をじっと観察する。迅はいつもの青いジャージの隊服姿で、特に荷物は持っていない様子だった。迅は私用のスマホや財布、ボーダー端末などの必要最低限の荷物だけ持って手ぶらで出歩くことがほとんどなのでいつも通りと言えばまったくいつも通りなのだが。
「……なに? 人のことじろじろ見て」
 太刀川の視線に迅が訝しげな表情になる。しかし、迅を訝しんでいるのはこちらの方だった。太刀川は右手を顎に添えて、ひとつ浮かんだ疑問を迅にぶつける。
「いや、傘持ってないんだなと思って」
「持ってたらこんなとこで雨宿りしてないでしょ」
「未来視で俺がずぶ濡れでここを通ることを知ってて、優しい迅くんが傘を恵んでくれるとか、そういう」
「そんな回りくどい慈善事業みたいな……」
 呆れ半分といった様子で迅が苦笑する。しかしそんな迅を見て、太刀川こそ苦笑してやりたい気持ちになった。いつも慈善事業のように、人の幸福のためにと悩んで考えて暗躍と称し駆けずり回っている男が何を言うのかと――しかしまあ、迅の慈善事業はあくまで広く『三門市民』に向けられているのであって、太刀川個人には特に適用はされないらしい。
「そんなんじゃないよ。雨が降るのは五分五分だったんだ」
 そう青い隊服の肩をすくめる迅に、ふうん、と太刀川は呟く。
「じゃあ、読み逃したと」
「嬉しそうな顔がなんかやだな……」
 迅に指摘されて太刀川は自分の顔のニヤつきを自覚するが、まあ直す必要も感じなかったので緩んだ口角はそのままにしておく。迅がどうでもいい未来を読み逃した時の表情は、何度見ても面白い。「読み逃したっていうか、どっちも視えてたんだよ。で、降らない方に賭けた」と迅は太刀川に付け足す。どうやら今日雨が降らない方に賭けて負けたのは、太刀川も迅も同じだったらしい。
「まあ、そんなに長くは降らないよ。ただの通り雨。だから無理やり帰るより、ここで雨が過ぎるのを待った方がいいと思う」
 そう言って迅は雨に煙る景色を見やる。きっと今の迅の目にはそれが視えているのだろう。太刀川には見えない景色だが、迅が確信を持った様子で言うならそうなのだろうと思って太刀川は「そうか」と頷き、迅の提案通りここで雨が過ぎるのを待つことにする。元からこの後どうしても急ぎというほどの用はない。
 ざあざあと音を立てて雨粒がコンクリートの地面を叩く。この商店の周りにもいくつか同じような建物は立ち並んでいるが、そのどこも閉まっていた。たまたま営業時間外なのかもしれないが、しかしこのあたりは警戒区域に近いからかもしれないとも太刀川はちらりと思った。警戒区域に指定されていなかったとしても、その付近には近付きたがらない人間も当然多く、自主的に移転や廃業をした店も多かったらしいと太刀川は以前聞いた。その費用の補助もボーダーがしていたらしい。
 そのせいなのか、それともこの雨のせいなのか、太刀川がぼんやりと雨を眺めている間人通りはなかった。会話が途切れると、雨の音だけがこの空間を包むように響く。一息ついて、迅の顔を見るのも案外久しぶりだな、こいつ全然本部来ないからな――と思ってから、太刀川はそうだと思って迅に向けて口を開く。
「お前、この後」
「ランク戦はできないよ。夕方から防衛任務だもん」
 皆まで言わずとも被せるように返ってきた迅の言葉に、太刀川は大袈裟に顔をしかめてみせる。
「ええ……なんだよ、折角久々に迅が掴まったと思ったのに」
「悪いね。実力派エリートは引っ張りだこなもんで」
 そういつもの涼しい顔で言ってのける迅に、引っ張りだこってただのシフトの防衛任務だろうと太刀川は思ったが突っ込むのはやめてやることにする。たまたま今日は防衛任務なだけで、実際迅がいつもあちこちにやたらと呼ばれたり、呼ばれなくとも自分の判断で勝手に暗躍とやらをしたりして、実際忙しくしていることも太刀川もなんとなくは知っているからだ。
「でも先週、一瞬ブース来てたろ。緑川が相手してもらったって自慢してきたぞ、俺に」
「うわ、バレてた。あれはほんとに突発的に時間空いたんだって。あのとき太刀川さん防衛任務だったしさ」
 ごめんって、と迅が軽い口調で謝ってくる。正直この件に関して不満な思いはあるが、確かに迅の言うとおりその時間は防衛任務中だったのだ。どうせあの日は本当に門もほとんど開かず暇だったし、ちょっと抜けて誰かに交代してもらったって――なんて言ったら風間あたりに怒られてしまうだろうか。
 とはいえ胸中で燻っていた先週の不満は、久々に迅の顔を見て、迅とこんな軽口めいたやりとりをしているうちに段々と霧散していくのを感じていた。迅に関することでの不満は、どうやら自分は迅でしか解消できないらしい。
 雨宿りというのは随分と手持ち無沙汰だ。それは互いにそうだったのだろう、まだ降りしきる雨の音をBGMにしながら、二人でなんとなくだらだらと話をした。大学でのこと、玉狛でのこと、ボーダーでのこと、太刀川隊でのこと。どれも、明日になったら話したことすら忘れてしまうようなとりとめのない話ばかりだ。しかしそれが楽しい。こちらの話にけらけらと笑う迅の顔を見ていれば、太刀川も余計に愉快な気分になるのだった。

 どのくらいそんなふうに話していただろう。ふと迅が顔を上げたので太刀川もつられて顔を上げれば、外の景色はいつの間にやら幾分明るくなっていた。濡れていた太刀川の服の袖口も、迅と話している間に少しだけ乾き始めている。
「――っと。雨、上がったっぽいね」
「お、ほんとだ」
 先程までは暗く澱んだ色ばかりだった空の雲が切れて、明るい空の色が覗いている。その眩しさに太刀川がぱちりと瞬きをする横で、迅は一足早く軒下から出て太刀川を振り返った。
「んじゃ、雨宿りは終了。行こっか」
 その言葉を聞いて、もう終わりか、と一瞬だけ後ろ髪を引かれるような思いが太刀川の中に過った。しかし迅の言うとおり、雨が上がったのなら雨宿りは終了だ。太刀川も迅に倣って、「ああ」と頷きまだ雨粒が残滓のように伝う軒下を出た。
「太刀川さんはどっち方向?」
 迅が聞くので、太刀川は「これからちょっと鈴鳴。来馬に借りたノート返しに行かなきゃならん。防衛任務夜からだから、ノート返したら一旦着替えに帰るかな」と返す。太刀川の答えに迅が頷いて、「じゃ、あっちの角までだね」と道の向こうの十字路を目で示した。隣に並んで、その十数メートルの距離を歩く。
「……来馬に借りたノート、濡れてないよな?」
 そういえば、借りたノートが入ったカバンを先程傘の代わりに雨避けにしたんだった。肩にかけたカバンが水を吸って重いことを急に思い出した太刀川は迅にそう聞くが、迅には今度こそすっかり呆れた顔で「いや、知らないよ。おれのは透視能力じゃなくて未来視。自分で確かめればいいじゃん」と返されてしまったのだった。

 十数メートルの距離なんて大人の足ではあっという間だ。十字路の前まで辿り着いて、太刀川は迅の方に顔を向けて言う。
「今度ランク戦できる時連絡しろよ。お前たまにしか来ないんだから、そんなんじゃアタッカー一位の座は獲れないぞ」
「分かってるって。あと、アタッカー一位の座は全然諦めてないから。太刀川さんこそ、この実力派エリート相手に油断してちゃ足元掬われるんじゃないの?」
 迅に向けて煽れば、同じだけ煽り返される。後輩といる時にはなかなか見せない迅の好戦的な目がちらりと一瞬覗いて、太刀川の心はそれだけで弾んだ。
 と、不意に迅が顔を上げて空を見る。急なその行動に何だ、とつられて太刀川も顔を上げて迅の目線を追いかければ、重い雲が去った空に大きな虹が架かっていた。
「お、すごい」
 太刀川が思わず感嘆の声を上げれば、迅はふ、と笑うような息を漏らす。
「でしょ」
 その言い方がどこか得意気で、あ、こいつ視えてたんだな、と太刀川は気付く。太刀川が迅の方に視線を戻すが、迅はまだ虹を見上げていた。
「――ここからじゃ、やっぱり虹の根元は見えないけどね」
 ふ、とそう言った迅に、太刀川は目を瞬かせる。迅は太刀川に視線を戻した後その青い目を悪戯っぽくわずかに細めて、そして太刀川とは逆方向の道へ一歩踏み出して振り返った。
「じゃーまたね、太刀川さん。今度こそランク戦できるときは、ちゃんと連絡するから」
 軽い調子でひらりと手を振って、青い隊服の背中が遠ざかっていく。その背中があっという間に小さくなっていくのを見ながら、今度は呆れたように苦笑するのは太刀川の番だった。
「……あいつ、どこまでが本当だったんだか」
 本当に雨が降るのが五分五分だったのか、だから雨宿りをしたのか、それとも。未来視をもたない自分には、これ以上の推測はできない。
 迅の思考や行動は時にひどく回りくどくて複雑で、太刀川にはよく分からないことが多い。自分とは違う生き物なのだ、という当たり前のことを何度でも思う。だからこそ、太刀川にとっては迅という男がずっと面白かった。
 遠ざかる迅の背中を見送った太刀川は、くるりと百八十度振り返って自分の目的地の方に足を向ける。顔を少し上げれば、まだ空には鮮やかな虹が浮かんでいる。迅の言うとおり、建物に阻まれて今日も虹の根元は見えない。
 虹の根元はあれからも結局見たことはなかった。追いかけてみたい、という好奇心も消えたわけではない。進行方向にある虹を見やって、好機なのかもしれないと思ったが、今はなんだか本当にそうしようという気分にはならなかった。
 それはきっと、虹の根元を見ずとも、太刀川は今この瞬間がずっと満ち足りた気分であったからだった。



(2024年6月15日初出)





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