love like a cats
家に帰ると、自分のものでない靴が玄関にあった。見覚えはある靴だ。というか、太刀川の不在時に太刀川以外の男物の靴がここにあるということは、わざわざ靴を脱いで入ってきた空き巣などでなければその靴の主は一人に限られる。この部屋の合鍵は母親と、そしてもう一人しか持っていないからだ。
部屋の中はすっかり冷房で快適な温度に冷やされている。夏を先取りしたような強い日差しの中を歩いて帰ってきたところだったのでちょうどよかった。設定温度は太刀川の普段の温度より少し低い気がするが、まあ許容範囲内だ。あいつ、暑がりだったなそういえば、と太刀川は思い出しながらその男の靴の隣に自分の靴を脱いで玄関を上がる。そうして短い廊下を進み、太刀川は居室のドアを開けた。
「迅」
名前を呼ぶと、ローテーブルの前にだらりと座っていた男が顔を上げる。茶色の前髪がさらりと揺れた。
「おかえりー、太刀川さん」
のんびりとした口調で言う迅の右手には、食べかけの棒状のアイスが握られている。太刀川の部屋の冷蔵庫にあったもの――先日迅が遊びに来た時に、スーパーで安くなっていたからと二人でほいほいとまとめ買いしたアイスだ。二人で割り勘して買ったので、太刀川はこれは二人のものだという認識でいる。迅だってそうだろう。なのでそのアイスを冷凍庫から迅が勝手に取り出して食べていようと、文句はなにもなかった。
「アイスいいな。俺も食おうかな」
「いいね、太刀川さんも食べなよ。外暑かったでしょ、アイス日和だよ」
「それはそうだ」
迅に言われるまま太刀川は大学用のノートや筆箱などが入っている薄いカバンを床に置いて、くるりと踵を返し冷蔵庫へ向かう。目的の迅と同じアイスを手に取って居室に戻ってくる頃には、迅はアイスの最後の一欠片を大口開けて食べるところだった。太刀川は迅の隣、ベッドを背もたれ代わりにして床に座る。
「今日、外暑かったじゃん。朝からいろいろ外歩き回ってちょっと疲れたし、そういえば太刀川さんちにアイスあるし、玉狛帰るより太刀川さんちのほうが近いし」
「んで、うちを休憩所代わりにしてると」
太刀川の言葉をどう捉えたのか、迅は悪ガキめいた笑みを浮かべて「勝手に上がっていいって、おれに言ったのは太刀川さんだよ」なんて言ってみせる。
「ああ、言ったな。べつに文句のつもりじゃないぞ。おまえならいつでも来ていい」
そう思ってないやつに合鍵渡さないだろ。そう太刀川が言うと迅はその青い目を細めた。その目の奥がほんのわずか、楽しげにひかった気がしてから、迅は「ま、そうだね」と返してきた。会話はそこで一度途切れる。
太刀川は手の中の袋を開けてアイスを取り出し、一口かじる。冷凍庫できんと冷やされたアイスは、暑い外を歩いてきた体によく沁みた。太刀川がぱくぱくとアイスを食べている横で、アイスを食べ終わった迅はローテーブルに突っ伏すようにして伸びている。随分とリラックスした姿だ。
「どーした、さすがの実力派エリートもお疲れか?」
「んー、どっちかっていうとクーラーが気持ち良くて。暑い日にクーラー効いた部屋でアイス食べるなんて最高じゃない?」
迅ののんびりとした口調の返事に、確かになあ、と太刀川は頷きながら返す。手の中のアイスをもう一口食べる。美味い。冷たくて程よく甘いバニラ味のアイスを味わいながら、太刀川は目の前でだらだらと伸びている迅を見て、今日の帰りがけに日陰で伸びていた猫を思い出していた。あ、ちょっと似てるかもしれん。こんなふうにふらっと気まぐれに目の前に現れるところも、考えてみれば猫っぽいのではないだろうか。
そんなことを考えていると、迅から「……なんかくだらないこと考えてるでしょ」という声が飛んでくる。少し不服そうなその声は、しかしやっぱり間延びしてのんびりしたものだ。
「いや、別に?」
「いや~、嘘だね」
「なんだよ。未来視が何か言ってるか?」
「顔がニヤついてんの、普通に」
そうか、と太刀川は呟くように返す。無意識だった。自分の口元を触る太刀川を見て、迅は小さく笑ってから、「ま、いーけどさ」と言ってまたぐだぐだモードに戻る。だから太刀川も再び先ほどまでのように残りのアイスを食べ始めた。
きっと他のやつら――とりわけ後輩たちの前では見せないだろう迅の姿を太刀川はぼうっと眺める。こうやって人の家に上がり込んで、勝手にエアコンをつけてアイスを食べて、だらだらと振る舞う迅のこのわがままぶりは、迅が可愛がっている玉狛の中学生の後輩たちなんかが見たらひっくり返ってしまうのではないだろうか。かっこつけの迅が自分の前でこんな姿を見せることに、太刀川は内心で優越感のような思いを抱く。
同僚。友人。ライバル。迅と自分の関係を表すラベルはいくつかある。少し前にそこに、恋人、という新たなラベルが加わった。告白をしてきたのは迅からで、太刀川がそれを受け入れて始まった。とはいえ、あれから自分たちの関係性で変わったことといえば、連絡の頻度が少し上がったことと、太刀川が迅にこの部屋の合鍵を渡した結果迅が気まぐれにこの部屋を訪れるようになったことくらいだった。恋人らしいことは、今のところ何もしていない。そういうことしたくて告白してきたんじゃないのだろうかと思わないこともなかったが、太刀川はまず迅と過ごす時間そのものが楽しかったから、今の関係に特段の不満はなかった。迅が求めるなら、太刀川もやぶさかではない。だが、今の関係で結構、それなりに満足してしまっているのも確かだったからだ。
太刀川がアイスの最後の一欠片を口の中に含んで咀嚼する。と、こちらを見ていた迅の雰囲気がいつの間にか変わっていたことに太刀川は気が付いた。
先ほどまではただリラックスしていた様子だった迅の顔に、わずかな緊張のようなものが乗っている。
太刀川はその変化を不思議に思って、どうかしたか、と聞こうとした。食べ終えたアイスの棒を元々入っていた個包装の袋の上に置く。と、太刀川が口を開くよりも早く迅の手が伸びてきて太刀川の手首を掴んだ。
太刀川の手首を引いたその力は、決して強くはない。けれど太刀川は抵抗をしなかった――その発想も浮かばなかった――から、体はそのまま迅の方に引き寄せられる。上体を起こした迅の顔が目の前にあって、そして次の瞬間に掠め取るように唇が触れた。
唇は触れただけで離れる。その一瞬の感触に、太刀川が抱いた感想は「柔らかいもんだな」というのと「思ったより冷たいな」ということだった。後者はお互いにアイスを食べた直後だからだろう、と後から気付く。
迅は、太刀川の様子を確認するみたいにこちらをじっと見つめていた。手首は掴まれたまま。その力は案外強い。迅の手の温度が、触れた個所から伝わってくる。
「…………、今?」
見つめ合って、そして少しの間考えた結果太刀川の口から零れた最初の言葉はそれだった。そして迅はその言葉を律儀にそのまま受け取ったのだろう。
「……、だめだった?」
と、そう返してくる。こんな時だけ妙に生真面目な声色だ。迅が纏う緊張の空気はまだ消えていない。
「だめではない。けど、今までなんもなかったから、単純に何で今なんだろうなって」
太刀川の疑問に、迅は少し考えるそぶりを見せた後「……うーん。なんとなく?」と首を傾げる。
「なんとなく」と太刀川がオウム返しのように呟くと、迅は頷く。
「うん。……なんていうかさ、太刀川さんちでだらだらすんの楽しいなって思って」
「ほう」
「それで」
と、迅はそこまで言って言葉を止める。だからしたくなった、と言いたいらしい。
今まで何もなかったから迅の中にそういう選択肢はないのかと思っていたが、迅の中にもちゃんとあったらしい。それが太刀川には意外で、しかしそれが自分たちの関係性に加わるものなのだと知れば、思っていた以上に太刀川の心もふわりと高揚する。
そして、太刀川は先ほど思っていたことを今度はまた少し違う文脈で改めて思う。
「おまえってちょっと猫みたいだよなあ」
太刀川の突然の言葉に、迅はぱちくりと目を瞬かせる。
「へ? なに、いきなり。……もしかして、さっき考えてたことそれ?」
疑いの目を向けてきた迅に、「どうだろうなあ」と太刀川はかわす。迅は不思議そうな顔をしたままうーん、と小さく唸る。
「おれからしたら、太刀川さんもちょっと猫っぽいとこある気がするけど」
「へえ。どのへんが?」
「考えてることが全然わかんなくて、気まぐれで時々突拍子もない動きするとこ」
迅の言葉に、太刀川は少し笑いそうになってしまった。それっておまえだろ、と太刀川は言いたくなる。太刀川が迅に対して思った猫っぽさも、まさにそれだった。
「まあ、なんだっていいけど」
と太刀川は言って、迅との間合いを自分から少し詰めた。元々近かった距離がさらに近くなって、視界に互いしか映らなくなるほどの近距離になる。
「さっきのじゃ一瞬すぎてよく分かんなかった」
太刀川の言葉に、迅がその青い目をわずかに見開く。そして迅は、その意図を正しく受け取ったらしい。「……そうだね。おれも、アイス食べたての口が冷たいことしかわかんなかった」と言うものだから、今度こそ太刀川は吹き出してしまった。自分から仕掛けたくせに、おまえも同じなのかよ。
そう思っているうちに、笑った形のままの口に迅の唇が触れた。柔らかい。やっぱり冷たい。ちょっと甘い。――そしてその奥が、案外熱い。今度はそのことが分かるくらいの時間、迅は太刀川の唇から離れてはいかなかった。