コーヒーと夜更け前

「っうわ!」という声とともに何かがどんとぶつかる感触、直後に熱いものが胸元に飛び散るようにかかる。太刀川が「おわ」という声を上げるのと、目の前の男にぶつかられたのだと認識したのはほとんど同時だった。その男が、太刀川のよく知る人間であるということにも。
「……ちょ、ごめん、太刀川さん!」
 そこまで強くぶつかったわけではないのでお互い尻もちをつくようなことはなかったが、スーツを着た茶髪の男――迅は目を丸くして焦ったように太刀川を見ていた。そして「うわあ、ごめん、コーヒーが。熱くない?」と焦ったように言うので何かと思えば、迅の手の中にはボーダーの食堂横で買えるカップの自販機のコーヒーが握られていた。そして迅の視線を辿って自分のシャツの胸元を見れば、茶色の染みが白いシャツの胸元に飛び散っていた。
 どうやら迅がコーヒーを買ってきた矢先、ぼーっとしていたのか曲がり角で太刀川とぶつかりこの状況らしい。もう定時はしばらく前に過ぎた時刻、まだまだ終わらない仕事のお供にでも買ってきたのだろう。確かにコーヒーの飛沫がかかった瞬間は熱さを感じたが、そこまで大きな面積でぶちまけられたわけではないので火傷をするようなものでもなかった。
「あーあー、これすぐ洗わないと……替えのシャツとか持ってる?」
「持ってないな」
「だよねえ」
 マジごめん、と言って迅が項垂れる。そんな風にころころと忙しなく表情を変える迅を見ていると太刀川は愉快な気持ちがこみ上げてきて、くつくつと喉を鳴らして小さく笑ってしまう。
「……え、何。コーヒーかけられて笑ってるのちょっと怖いんだけど」
 軽く引いたような顔をする迅に、太刀川は「だってなあ」と言う。
「こういうヘマするお前、昔だったらほとんどなかったろ」
 太刀川が言うと、迅は瞬きをした後、少しだけむっと不服そうな表情になる。

 年齢とともに、トリオン供給器官は衰えていく。それは昔から言われていたことだったが、どうやらそれは高いトリオン能力に比例することが多いサイドエフェクトにも影響を及ぼすらしい。人によっても影響度合いは様々なようだったが、とりわけ希少で強力な能力である迅の未来視は、その影響を大きく受けるものであったようだった。
 とどのつまり、迅の未来視はこの数年間ですっかり減衰したのだ。
 もう個人の高い能力やサイドエフェクトの力に頼らずとも、ボーダーは三門市を守る能力を備えている。それは近界の主要国と停戦の協定を結んだり、過去の同盟国との同盟関係を復活できたりしたということも大きかったが、蓄積したデータによるボーダー自体の平均的戦力の向上やより強力な防衛システムの構築ができているということも寄与していた。
 だから、迅の未来視がなくなったって、ボーダーへの影響はいい意味で驚くほど少なかった。それを正しく理解したおかげだろう、この何でも勝手に背負いがちな男も、自分の能力が消えていくことを静かに受け入れることができたようだった。そもそも未来視は勿論敵襲を予測する、相手の動きを読んで先手で対応するなどといった部分においては他に類のない能力ではあったが、迅個人の高い戦闘能力については未来視だけに頼るものでは全くない。だから、太刀川は迅の未来視がなくなったって何も変わらないと最初から思っていた。
 変わったことといえば、迅がたまにこういう平凡なヘマをするようになったことくらいだ。

 そんな迅の変化を、太刀川は面白く思って眺めている。太刀川がそういう風に迅を眺めていることを迅自身も分かっているのだろう。迅はわざとらしく大きく息を吐く。
「太刀川さん、もう帰り?」
「いや、この後忍田さんとこ寄る。報告書とか次の遠征の計画書とか渡しに」
「あー……じゃあせめてトリオン体になりなよ、スーツのトリオン体作ってあるでしょ? 流石にコーヒーの染み目立つからさ」
「いや? このまま行く」
 言ってから、太刀川は迅のバツが悪そうな顔を見てにやりと笑ってやる。
「忍田さんに聞かれたら、迅のせいだって返す」
「う~わ~~」
 悪趣味だ、と迅が呟くので、太刀川はなっはっはと笑い飛ばす。太刀川の言葉は決して迅への嫌がらせなどではなく、単純に迅のやらかしたヘマを面白がっているだけだということもやっぱり迅はよく分かっているようだった。太刀川がこうなったら、迅が何を言おうが聞かないだろうということも。
 忍田はコーヒーの染みをつけたままの太刀川をだらしがないと怒るだろうが、しかし迅のヘマだと事の顛末を聞けばきっと、怒るに怒りきれないなんともいえない顔をするだろう。忍田もまた、未来視を手放した迅の変化を見守っていた一人だった。迅のこんなヘマは、未来視が完全に機能していた頃にはほぼなかったことだから。太刀川が面白がっているのに対し、忍田はまるで親かのような目線で見守っているという違いはあるのだが。
 未来視がなくなってからの迅は、太刀川の予想通りほとんど変わることはなかった。昔より幾分頻度は減ってしまったが手合わせをすればその強さには何も陰りはないし、普段の飄々とした態度も変わらない。未来視が減衰し始めた頃は流石に時折思い悩むような横顔を見ることもあったが、今は未来視のない世界を楽しむ方向に迅の意識は変わってきたようだった。のびのびとした、等身大の表情を昔より見るようになった気がする。まあ、こういう未来視がないゆえのヘマをやらかした時は、必要以上に恥ずかしがったりバツが悪い顔をしたりするのだが。
「……とりあえず、クリーニング代は出すよ」
「別にいいっての、このくらい」
 自分のデスクに戻る迅と、忍田の執務室に向かう太刀川は途中まで道は一緒だ。人もまばらなボーダー本部の廊下を二人で連れ立って歩きながらそんな話をする。「でもさあ」とごねる迅は変なところで頑固だ。別に本当にいいんだけどな、と太刀川は思って、そうだと閃く。
「久々に模擬戦。あと、その後のメシ。クリーニング代のかわりにこれでどうだ」
 どうだ名案だろう、と太刀川が言うと、迅はぱちりとその目を瞬かせる。
「……、それって結局おれも得してるんじゃないかなあ」
 呟いた迅の声は、小さすぎて太刀川は咄嗟にうまく聞き取れなかった。なんだ、と聴き返せば、迅はかぶりを振って今度は太刀川にちゃんと聞こえる声量で言う。
「いや、了解。この繁忙期抜けたらになるけどね」
「……お前いつでも繁忙期じゃないか? 抜けるのいつだよ」
「さあ」
 太刀川の言葉に迅は肩をすくめる。ボーダーに就職して本部運営に関わるようになって以来太刀川もそれなりに忙しい日々を送っていたが、迅はいつもそんな太刀川以上に忙しくしているようだった。確かに今は新年度が始まったばかりでボーダー全体として繁忙期ではあるのだが、迅の閑散期は覚えがない。
 訝しむような顔を向ける太刀川に対して、迅はその青い目の奥を小さくきらりと光らせた。
「でもまあ、楽しみは後にとっておいたほうがいいでしょ?」
 まるで歌で見歌うみたいに楽しげに、悪戯っぽく、迅は太刀川にそんな言葉を投げてみせる。
 ――暗躍だとか言って、あちこち飛び回っていた昔のお前みたいなことを言う。ランク戦に復帰したと思えば、迅は忙しいからと太刀川の誘いを何度も断ってはそんなことを言っていたことを急に思い出す。
 やっぱり、この男の根底にあるものは変わらない。自分たちを取り巻く環境が変わろうと、迅が持っていた能力の一部を手放そうと。
 だから太刀川はずっと迅のことが、一等特別なままずっと変わらない。
 きっとそれはこれからも。
 太刀川はそんなことを思いながら、「しょーがないな」と頭を掻く。そうやって後に取っていた楽しみが、本当に楽しかったことはこれまでの自分たちが証明済みだった。
 そんな太刀川を見て、迅はくっと口元を緩ませて笑う。二人が並んで歩く速度に合わせて、迅が持つコーヒーの水面がゆらゆらと楽しそうに揺れていた。


(2024年6月16日初出)





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