flare

 ひゅ、と風を切る音がした。次の瞬間、咄嗟に構えた弧月に刃が降ってくる。ギィン、と鋭い音と共にびりびりと強い衝撃がかりそめの体の手のひらに伝わる。ぐ、と弧月を握る手のひらに力を込めてその刃を押し返した。
(あー、……っ、くそ)
 弾けるみたいに後ろに退いた太刀川が距離を取る。迅も崩されかけた体勢を整えて、弧月を構え直す。互いに既に細かい手傷を与え合っているから、トリオンがじわりと漏れて仮想の住宅街の空を黒く染めるのを見た。一手、ほんの一瞬、隙を突くことができれば――頭の中はギアが上がりきったみたいにぐるぐると高速で回転する。
 相対した太刀川はこんな時だというのに、……いや、こんな時だからこそ、ひどく楽しそうに笑っていた。そしてそれについては自分も人のことなど言えないことは不本意ながらよく分かっていた。自然、口角が上がる。
 ああ、やだな。そう心の中で呟く。悔しくて、どうしようもなく楽しい。なのに、だけどあと一手届かないじりじりとした焦燥が胸を灼く。ここ最近はずっとそうだ。全部の感情が自分のトリオン体の中を巡って、いつかはち切れてしまうんじゃないかとすら思う。
 この距離が旋空孤月の射程だということはよく知っている。自分自身も弧月使いの攻撃手アタッカーだということもそうだが、考えるよりも早く、太刀川と相対した瞬間にこれがこの人の射程内かどうかを測ることができるようになった。それはこの人と重ねてきた剣が自分に教えてくれた。未来視が眼前にばちりと現れて、ほんのわずか先の瞬間を教えてくる。それに合わせて迅は射程から外れるように待避する。
 旋空が迅の隊服の裾を僅かに掠めた。距離を取りながらエスクードを出す。無論、太刀川の攻撃をエスクード程度で躱せるなど思っていない。予想は違わず、エスクードはすぐに弧月に斬られてしまう。しかし、その視線が切れた一瞬、迅はぐっと地面を蹴り出した。太刀川の懐に飛び込むみたいにして弧月をトリオン供給機関めがけて振り下ろすが、寸でのところで弧月で受け止められてしまう。しかしそれに構わず手数で押すつもりで刃を振るった。刃同士がぶつかりあう高い音が鼓膜を揺らす。
(ほんの一瞬でいい、どこかで隙を……)
 ぐ、と目をわずかに凝らすようにして〝可能性〟を探す。攻める手は止めず、視界に次々現れる未来視から決定的な一手を探る。三手先に一瞬手薄になった脇腹を突いて大きなダメージを与えるか、次に距離をとった時に回り込んで首、いやそれは可能性が低いから片腕を先に落としておくか――。
 くるくると巡る未来視、高速で回転する頭の中。自分の感覚がぐんと研ぎ澄まされていくように思えた。太刀川の刃を受けて、打ち返す。
(この、次――)
 未来視が教えてくれた反撃の好機に向けて、弧月の狙いを定めて振るおうとする。弧月を握る手が流れるように動いた、そのはずだった。
「もらった」
 そう言った声は、自分の声ではなく太刀川の声だった。その声を認識するのとほとんど同時に、鋭い衝撃がトリオン体を貫く。
 ぴしり、とトリオン体にヒビが入る音が体の中に響いた。目の前の太刀川の髪の毛が揺れて、その隙間から彼の瞳が迅をまっすぐにとらえる。
 その、迅を見据えるまなざしが、目に焼き付いた。その目にどうして動揺したのか、戦線を離脱する寸前のわずか数秒の間には知ることはできなかった。
『トリオン供給機関破損、緊急脱出ベイルアウト
 機械的なアナウンスが響いて、迅の意識は一瞬白くなる。

 ――ぼすん、と肉体が黒いベッドの上に落とされ、意識が生身に戻ってくる。決して粗悪なわけではないけれど普通の寝具としてのそれよりもずっと固いこのベッドに落とされる感覚は、負けた時にはあまり気分の良いものではない。しかし起き上がることを億劫に思って、そのままベッドの上に寝転がったままぼんやりと天井を見つめていた。できてまだまだ日の浅いこの本部基地の天井は玉狛と違ってシミ一つ無く真っ白だ。
 先程まで意識はトリオン体にあったはずなのに、生身に戻ってもずくずくと熱が引かないような心地だった。太刀川と戦うと、いつもそうだ。生身に戻っても体が熱を持っているように錯覚させられて、余韻の中に落とされたままなかなか引いてくれない。それが心地よくて楽しくてもっともっとと求めてしまいたくなるのに、同時にそれに座り悪いような気持ちにさせられるようになったのはいつの頃からだっただろうか。
(今日は三‐七……)
 声に出さずそう呟くとまたじわりと焦燥が疼いて、迅の心の中を急かすみたいに揺らしてくる。はぁー、と迅は長く息を吐く。熱は、まだ引かない。
 ここ最近、太刀川に段々と勝てなくなってきていることを自覚していた。
 勿論、己を無敵などと驕っているわけではない。師匠である最上にも忍田にも到底及ばないし、小南や木崎に模擬戦で負けたことだって何度もある。そのあたりは迅は冷静に自分の実力を捉えているつもりでいる。
 だけど。だけど、ほんの数ヶ月前にトリガーを使い始めたばかりの太刀川に。
 この負け方は偶然や、ただ太刀川が今調子が良いからだとか、そういうことでないということにも気付いていた。――太刀川が入隊して、ランク戦制度が始まってから、誰より刃を合わせてきた自分だからこそより分かる。
 太刀川は冷静に、こちらの動きを読んだ上で対処してきている。
 未来視を使っているのに、捉えきれない。捉えられたとして、こちらの動きが追いつかない。
(……太刀川さんは、強い)
 入隊してからの太刀川の戦闘における成長ぶりは目を見張るほどだった。流石忍田が直々に鍛えているというだけはある。その上、元々の素養として弧月での戦い方は太刀川によく合っていたのだろう。最初こそトリオン体での戦いに慣れていた迅の方が勝ち越していたが、あっという間に互角にまで追いつかれ、そして今に至る。
 ぼんやりとした心地で寝転がったまま、右の手のひらを天井に向けるみたいに掲げてみる。先程まで、トリオン体で弧月を握っていた手のひら。太刀川の大きな手とは違う、すらりと細い自分の手。
 太刀川の戦い方を見ていて、最近では薄々気付かされていた。自分を卑下するわけじゃない。ただそこにある事実として、眼前に突きつけられる時がきていた。迅と同じ、弧月。同じ武器を使っているからこそ、より鮮明に、痛烈に、分かってしまうのだ。
(弧月じゃ、もう、おれは――)
 机の上に置いてあるモニターの画面がぱっと切り替わって、通信が入ったことを知らせる。表示された部屋番号はこの隣、太刀川が入ったブースから。ポイントは先程よりも少しだけ増えている。迅から勝ち取ったポイントだ。
『今日も俺の勝ちだな』
 そう迅に伝えてくる声色はわくわくと嬉しそうだ。あー太刀川さん今すごい楽しそうな顔してるんだろうなー、なんて想像する。しかし迅は先程までのぐるぐると腹の中で巡る感情をどうしたらいいのか決めかねてぐっと小さく唇を噛んでしまった。今日「も」、と言われてしまえばそうとしか言えない。最近の対戦では、ずっと太刀川に負け越している。
「……そうだね」
 返した言葉は冷静を装おうとしたはずなのに、自分でも思っていた以上に拗ねた子どものような声色になってしまった。しかし太刀川のことだからそんな迅のことをなっはっはといつものように得意気に笑い飛ばすのかと思ったのに、何も言葉が返ってこない。おや、と少し動揺させられてしまった。どうしたのだろうか。この画面にカメラ機能はついていないので、今太刀川がどんな表情をしているかは分からない。
『……おまえさあ、』
 言いかけて、太刀川の声が途中で止まる。こんなふうに何かを言い淀む太刀川は珍しい。何を言うつもりなのだろうか。あの太刀川だ、まさか同情めいた言葉など言わないだろうが――そう思いながら、迅は少しだけ身構えて太刀川の次の言葉を待つ。しかし太刀川が口にした次の言葉はそっけないものだった。
『いい。ちょっと待ってろ』
 そう言った後、通信は一方的に切られる。何なんだ、と思っているうちにブースの外から大股の足音が聞こえてきて、すぐに迅のいるブースの扉が開かれる。迅は反射的に体を起こした。入ってきたのは、つい数十分前にも見た学ラン姿の太刀川だ。
 目が合う。太刀川は迅の顔を見るなり小さく笑った。
「悔しそうだな~」
 言われて、じわりと耳が熱くなる。自分はそんなにひどい顔をしていただろうか。そう思えば羞恥を覚えて、確かめたいような衝動に駆られたけれど、しかし今ここに鏡などない。迅は精一杯の強がりの表情を貼り付けて、太刀川に言い返す。
「なに、それ言いにきたの?」
 迅が言うと、太刀川は「いや、そうじゃないけど」と言ってから、つかつかと迅が座るベッドに近付いてきた。太刀川が迅の正面に立つ。迅は座っていて、太刀川は立っているので見下ろされるような格好になる。太刀川は最近また、背が高くなった。成長期らしく、最近は関節が痛いとぼやいていた。身長もじわじわと離されていくのを悔しく思っているのは太刀川には言えない秘密だ。
 太刀川が上体を屈ませて、迅の横に手をつく。
「おまえさ」
 そう言った後、太刀川の顔がさらにぐっと迅に近付いた。互いの呼吸の音すらもばれてしまいそうな至近距離だ。常にない距離感で見る太刀川の顔に、変に心臓が跳ねてしまった。目線がばちりと合う。というよりむしろ、むりやりに合わせられた、といったほうが感覚的には近かった。
「目」
 まっすぐに、迷いのないその目が、迅を見つめる。表情の読みにくい格子模様の、普段と変わらない太刀川の瞳のはずなのに、どうしてか金縛りに遭ったみたいに目を逸らせない。迅の返答を待たずに、太刀川は言葉を続ける。
「おまえさ、俺のこと見てないだろ。いや、みてるんだけど……未来視のほうに気ぃ取られすぎ」
 ぐ、と、迅は思わず言葉に詰まった。意外だったからじゃない。その言葉が図星だったからだ。
 薄々、自覚はしていた。未来視がすべてじゃないことはよくよく分かっている。しかし自分は、いざという時につい未来視で勝ち筋を探そうとしてしまう癖があること。そして未来視を使っている間は、どうしても、現実の時間の視野への集中力がわずかでも落ちてしまうこと。
 太刀川が小さく息を吸って、再び口を開く。
「俺を見ろよ」
 ――その言葉だけ聞いたら、人によっては尊大にも聞こえる言葉かもしれない。
 けれど太刀川は、まっすぐに、迷いなく、迅にそう投げかける。
(……、見る)
 音にはせず、口元だけで呟く。何度か瞬きをした後、はっと太刀川を見つめ返す。迅を見る太刀川の口角が楽しげに上がった。
(そうだ、――そうだな)
 未来を視るこの能力に、助けられたことは数え切れないほどある。この能力のせいで味わった苦しさもあるけれど、この能力があったから切り抜けられた戦い、乗り切れたことだって沢山ある。この能力だって間違いなく自分の一部だと、自分はそう思っている。
 だけど、この能力は戦闘において相手にどう対応するべきかのヒントくらいは与えてくれるが、時にそれだけでは足らないこともある。それに甘んじるだけでは追いつけないものがある。
 そう、例えば太刀川を相手にする時なんか。
 ただ、シンプルに、目の前の相手を見るということ。今、この瞬間の太刀川を、剥き出しの迅悠一として見つめること。本気で、一瞬一瞬を削り取って食らい合うみたいに戦うこと。
 そうだ、その先にあった楽しさこそ、おれがこの人と出会って知ってしまったものだった。
(……あ)
 ――閃いた、その瞬間ぶわりと数多の未来視が眼前に広がる。一瞬現れて消えた未来視の後、迅は今目の前にいる太刀川を見つめた。迅の表情が明確に変わったからだろう。太刀川が、お、という表情になる。
「……うん、そうだね」
 まだやれる。まだ強くなれる。まだこの人ともっともっと高いところで戦える遊べる
 そう確信しているのは、今さっき現れた未来視のおかげじゃない。それはあくまでも補助的な要素でしかなかった。
 この人への信頼と、そして、自分に対する期待だ。
 頭の中がぐんぐんと高速で回転している。先程閃いたそれのせいだ。わくわくと心が疼いて、揺らされて、たまらない。今にも溢れ出してしまいそうで、今すぐ玉狛に戻ってクローニンのところに駆け込んでしまいたいとすら思った。
 迅を見つめたまま、するりと太刀川の体が離れる。いつもの太刀川との距離感に戻った、それを少しだけ寂しく思ったのはなぜだろうか。でも今はそんなことに構っていられないくらい、走り出した気持ちを止めたくなくて、すぐにそんな些細な感情なんてどうでもよくなってしまった。
「いい目だな」
 太刀川の言葉に、迅は答える。
「当たり前でしょ」
 おれを誰だと思ってるの。そう宣戦布告めいて言って目を細めると、太刀川もにまりと笑う。
「俺、やっぱおまえがそーいう目してる時が一番好きだわ」
 そう言う太刀川こそ、迅の一等好きな顔をしている。楽しそうで、わくわくとして、次は何をしてくるんだとこちらに期待している顔。もっとおまえとりたいと、一緒に遊びたいのだと、そう心底から希求しているような顔。
 この顔をもっとさせてやりたい。いや、きっとさせてやれる、おれなら――。
 それは矜持なのか、優越感なのか、愛情なのか、はたまたもっと暴力的な何かなのか? 全部ぐちゃぐちゃの感情が勢い込んで騒ぐ。とても一言では言い表せそうにない、衝動とも言うべき感情が迅の心の中で暴れていた。なのに頭は驚くほど冷静に鋭く回り続けている。
 とにかく今、分かることは。迅をこうさせるのは、こうまで強欲にさせるのは。こんなにもこの心の内側を揺らされるのは、他の誰でもなく太刀川が相手だからということくらいだった。
 絡んだままの視線は、どちらからも逸らされない。じっと見つめ合う時間は不思議なほど満たされるようなのに、同じくらい迅に飢えも教えてきた。太刀川の瞳の奥で、揺らめく炎を見た。
 それはきっと、迅の内側を揺らすものと同じ熱だ。そんなの確かめようがないはずなのに、どうしてだろうか、疑いようもなく迅はそう確信していたのだ。



(2021年10月10日初出)





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