ステイゴールド

「視えた時から気になってたんだけどさ、それって貰いものとか?」
 部屋に入るなり、迅はローテーブルの真ん中に置いてあったそれに視線を向けて言った。
「お。視えてたのか」
「うん。あー太刀川さんち涼しい、やっぱ午前中でもこの季節はもう無理だね。暑すぎる」
 ぱたぱたとうちわ代わりにした自分の手を汗ばんだ首元に向けて扇ぎながら、勝手知ったる様子でクーラーが一番当たるベストポジションであるローテーブルの前に迅が座る。生身で歩いてきたらしい迅の顔や首にはなるほど薄く汗が滲んでいた。ただでさえ迅は暑がりな上、まだ朝の十時も回っていないというのに窓の外はまさに夏本番といった快晴である。
 太刀川も迅の隣に座って、先程迅が気にしたそれを手に取った。手の中にあると見た目よりずしりと重量を感じるそれ――今時は珍しくなってしまったフィルムカメラ、それもこんな小ぶりではあるが本格的でレトロなものとなると確かに俺の持ち物としてはなかなかイメージに無いだろうとは自分でも思う。
 今までカメラといったら、携帯についているカメラ以外だと修学旅行なんかで持っていったインスタントカメラくらいしか扱ったことはない。それだって大して写真は撮らなくてフィルムの枚数を余らせるのが常だったし、今持っているスマートフォンのアルバムには大学の課題の締切とかのメモの為に撮った写真とかが数枚入っているくらいで、写真らしい写真はほとんど入っていないのだ。
 だからまあ、そんな太刀川の性格を分かっているだろう迅が気になるのも当然といえば当然だ。
「かっこいいだろ?」
 手に持ったカメラを、迅の目の前にずいと出して見せてやる。存在感のあるその重みが、最近のなんでも小型化軽量化されていく世の中の流れとは相反するように思えてそれだけで歴史を感じさせる。
 にやりと自慢するみたいに笑ってみせれば、そんな太刀川を視た迅は呆れたような苦笑で返してきた。
「あーうん、そうだね、かっこいいねカメラ」
「気持ちが込もってないな」
「別に込めてないもん」
 言いながら、迅はぱたぱたと自分に向けて扇ぐ手を止めない。そういえばちょうど先日商店街でチラシも兼ねた紙製の小さなうちわを貰ったことを思い出して、棚の上に置きっぱなしだったそれを取って「使うか?」と差し出すと「お、ありがと。さすが太刀川さん」なんてこんな時ばかり調子よく迅が目を細めて笑った。
 迅が手ではなくうちわを扇ぎだしたところで、太刀川は話を続けることにする。
「これ元々は、出水のひいじーちゃんのやつらしいんだけどな――」

 事の始まりは、昨日の隊室でのことだ。
「ちょっと前に亡くなったうちのひいじーちゃんがカメラが趣味だったんですけど、遺品整理してたらカメラが大量に出てきたらしくって」
 普段より大きめのカバンを持って隊室に来た出水が、ソファに座るなりカバンからいくつかのカメラを取り出しながら言った。なるほど学校帰りならともかく、夏休み中の今にしては大きめのカバンはそういうことか、と思いながら太刀川はテーブルの上に置かれていくカメラを眺める。なんだいなんだい、なんて言いながら先程まで没頭していたゲームの手を止めて国近も近付いてきた。唯我は三雲の練習に付き合ってから来ると言っていたから、まだ隊室には来ていない。
「収集癖っつーか、カメラ買うの自体好きだったみたいで」
 と出水が続ける。ごとん、とがっしりしたカメラがテーブルに置かれて重そうな音を立てた。
「これ、まだどれも使えるみたいなんですけど、でもうちの親類でカメラ好きな人他にいないから。このまま全部捨てるのも忍びないし、ボーダーのお友達でカメラ好きな人とかいたらっておれに託されちゃったんすよね~。ってことでちょっと見つかるまで隊室に置かせて貰えたらと」
「なるほど」
 小ぶりなものからプロが使いそうな重厚なものまで並べられたカメラは様々だ。しかしどれもしっかりしていて、恐らくいいものなのだろうと思う。太刀川が手にしたことがあるインスタントカメラとは全然違う。「そうだね~、ボーダーなら誰かいるかも。ほら今レトロブームとかあるっぽいし?」と国近もカメラを眺めながら頷いていた。
 触っていいか、と出水に一応確認してから並べられた中で一番小ぶりなものに手を伸ばしてみる。全面シックな黒に金色でメーカーのロゴが印字されているそれを持ってみると、予想以上にしっかりと手に伝わる重さに太刀川は思わずおお、と声を上げた。そうした後に、くるくると色んな角度からカメラを眺めてみる。なるほど多少細かい傷はあって古さは感じるが、まだ全然使えそうだ。
「確かに見た目もかっこいいしな。ほら、カメラが似合う男ってなんかかっこよくないか?」
 そう言いながら試しにストラップを肩にかけてカメラを構えてみる。そのままきょろきょろと顔を動かしてみれば、国近が「そーいうカメラマンいそう~」とけらけらおかしそうに笑っていた。
「お、結構様になってるんじゃないか俺」
「まーいそうはいそうっすね、そういうカメラマン」
 出水にはそうあしらわれてしまったものの、そんなやりとりをしていたら何だか段々その気になってきてしまった。本格的なカメラなんてまともに扱ったことはないのだが、なんとなくむくむくと好奇心が芽生えてくる。
 楽しそうだな、と直感が思ったら、その直感を信じて進んでみるのが二十年ほど生きてきての自分の信条だ。勿論それで長く続くことも少しやってみて最終的に飽きてしまうこともあったけれど、しかしその直感は何度も自分を楽しい方に連れて行ってくれてくれたから。
 ――それに明日はちょうど、朝から迅と会う約束をしているのだ。
「なあ出水。……譲り受けるかは別として、貰い手見つかるまでちょっと借りてみてもいいか?」

「……と、いうわけだ」
「太刀川さん、単純すぎでしょ」
 かいつまんでの説明を終えると、呆れた顔をした迅が肩をすくめて苦笑した。
「いやー、でもカメラやってる男ってモテるって聞いたことある気がするぞ」
 太刀川がそう言ってみれば、迅がすぐに分かりやすく唇を尖らせる。
「なに、今更モテたいわけ? 女の子に?」
 拗ねてますというのを絵に描いたような表情と声色に、太刀川は思わずくっと笑ってしまった。かわいいやつだな、という言葉が喉まで出かかって、それを言うと余計拗ねられそうだと思ってぎりぎりのところで引っ込める。だいたいおまえだって大概かっこつけだろ、と言いたいのも、ここはこらえてやることにした。
「誰からだってかっこいいって思われるのは悪い気しないだろ。心配すんな、浮気する気は全然ないぞ?」
「ほんと調子いい……」
 言いながらも、その口の端がわずかに緩んでいるのは見逃さなかった。本当こういうとこ可愛げあるんだよな、と一つ年下の恋人を見て思う。一つ年下、といっても厳密に言えば迅の方が誕生日が早いので、太刀川が今年の誕生日を迎える前の今は年齢という点だけで言えば同い年ということにはなるのだが。
「ってか正直、この先の未来視もちらほら視えてんだけどさ。……このバリバリの真夏日に、元気に出かける気?」
 迅の言葉に、お、と思って太刀川はにまりと笑う。このカメラを借り受けた時からこっそり思っていたこと、まあ未来視のサイドエフェクトを持っている迅にバレるのも仕方ないだろう。元よりどうしても隠そうなんてつもりもない。迅と付き合う上で、こちらの用意した手札はバレる前提だ。その上で迅の思惑をひっくり返してやるのが楽しかったりなんてするのである。
「視えてんなら話が早い。折角カメラがあるんだ、外に遊びに行かないと損だろ。夏休みだしな。夏休みは元気に遊ぶものって決まってるんだよ」
 なんて言うと迅は「それは小学生とかの話じゃない?」と口を挟んだが、それは無視してぐっと距離を詰める。正面から迅の涼しそうな青い目を見つめれば、うちわを扇いでいた迅の手が気圧されたように一瞬止まる。そんな隙を見逃さず次のカードを切るのは、この男と戦うようになってからすっかり癖のようになったものだった。
 太刀川は口を開いて、言葉を続ける。
「遊びに行こうぜ? 迅」



 ホームの端まで行くと屋根が無かった。直射日光が見るからに暑いと言った迅に倣って、その手前の日陰に入り乗り換えの電車を待つ。とはいえ日陰でも暑いものは暑くて、立っているだけで額にじわりと汗が滲みだす。迅は先ほど部屋で太刀川が貸した小さなうちわをまたぱたぱたと扇いで暑さを紛らわせていた。
 幸いにして、十分も待たずに乗り換えの電車はやってきた。電車に乗り込むと車内はクーラーがきんと効いていて涼しく、生き返るような心地だ。座席の多くは向かい合わせに配置されたボックス席になっていて、普段三門ではなかなか見ないタイプの車両に太刀川は思わず「おお」と小さく声を上げる。隣で迅も楽しげに表情を和らげた。
「旅行っぽいな」
「だね」
 学生は夏休み真っ盛りの時期とはいえ、平日の昼間だからか思ったよりも電車の中は空いている。ちらほらと親子連れや学生らしき人たちが乗ってはいるものの、座席は簡単に確保することができた。四人がけのボックス席に二人で向かい合うように座ったところで電車が発車する。
 窓の外の景色がゆっくりと、そして次第に速度を増して流れていく。窓のところが少し張り出して小物が置けるようなスペースがあったので、太刀川は首からかけていたカメラをそこに置くことにした。この電車に乗ればあとは乗り換え無しで、一時間ほどで目的地に着く予定だ。
 夏と言えば海だろ、と言えば迅には「安直」と苦笑されたが、しかしなんだかんだ言いつつ迅も結局着いてきたのだった。三門から乗り換え一回、一時間半くらいかけて行った先にある海のある街まで今は向かう途中だ。
 今日明日はお互い非番だということは確認済みなので、急いで帰ってくる必要もない。だからこそ普段はなかなかしない――というか、する必要性も互いにあまり感じていなかったであろう、ちょっとした遠出をたまには楽しんでみることにした。迅も最終的に反対しなかったということは、自分たちが三門を少しくらい離れても未来視的にも問題はないということだろう。
 斜め前のボックス席では、家族連れの中の小さな男の子がわくわくとはしゃいだ様子で窓の外を眺めたり両親に話しかけたりしていた。あの子たちもこれから海に行くのだろうか。夏休みだもんなあ、と思う。
 自分もその子くらい小さいときに、家族で海に行ったような記憶が朧気ながらある。詳しいことまでは覚えていなかったが、それが楽しい思い出であったことも。
 ボーダーに入ってからはなかなか、夏休みだろうが非番の日だろうがめっきり遠くに遊びに行くなんてことはなくなってしまった。それは単純に忙しいということもあったが、別に縛られていたつもりもない。不満などなかった。だってボーダーに入ってからは、それが俺にとって一番楽しいことになったから。
 だけどまあ、こうしていざ久しぶりに日帰り旅行じみたことをすると、それはそれで楽しくわくわくとした気持ちもやっぱり生まれてくるのだ。なんといっても、一緒に行くのがこの男とだから、というところも多分にあるだろう。俺にとっては。
 そんなことを思いながら迅の方を見やると、迅はくぁ、と大きく口を開けて欠伸をしているところだった。
「眠いか?」
 声をかけると、迅はぱちぱちと目を瞬かせながら太刀川に視線を向ける。
「うーん、このところちょっとバタバタしてたからね。若干寝不足ではあったかも……。それに、電車の揺れってなんか眠くなるしさ」
 確かに、ここ最近の迅は忙しそうではあった。余裕のある時期にはよく顔を出していたランク戦ブースでもしばらく見かけず、こうして二人きりでゆっくり会う時間だって思えばしばらく取れていなかったように思う。そんな時期がしばらく続いていた後に、そろそろ時間取れそうだからさ、と迅から連絡があって約束した日が今日だった。
 迅がその間何をやっていたかは太刀川はよく知らない。迅が三門やみんなのより良い未来のために、と言ってあちこち暗躍だとか称して飛び回っているのはいつものことだし、もし何か助力が必要なのであれば迅の方から言ってくるはずだから、あえて聞く必要性も太刀川は感じていなかった。迅から直接、あるいは上層部経由で太刀川に声がかけられなかったということは今は特にこちらが知っておく必要はないということだろう。その点において、迅の判断は信頼している。
 寝不足なんだったら、部屋に来るなりこんな風に連れ出して悪かったかな、という気持ちが少しだけ芽生える。最終的に迅も楽しそうな表情をしてはいるから、別に本人も無理しているわけではないだろうけれど。
「まだ一時間くらいあるし、寝ててもいいぞ? 俺が起こすし」
「あー、そうだね。ありがと。ちょっと寝てようかなあ」
 言っている側から迅はまた大あくびをする。「おー、寝てろ寝てろ」と頷くと、迅は「んー」と眠そうな声で返事をする。そうして迅が目を閉じて寝る体制に入ったので、話し相手もいなくなった太刀川は暇つぶしに窓の外を眺めることにした。
 窓の外は相変わらずの快晴。三門と似ていて少し違う街の景色が次々流れていく。
 しばらく行って、時々アナウンスと共に停車して、人が乗ったり降りたりして、そうしてまた発車する。特に何をするでもなく、そんな様子をぼーっと眺めていた。
 こんな風にちょっと遠出をするのは久々だな、と考える。それこそ高校の修学旅行以来とかになるんじゃないだろうか。最初はビルもぽつぽつ見えていた景色が、段々と高い建物が減って空が広く見えた。緑が多くなっていく景色は、窓から眺めているだけでもなんとなく心地が良い。
 なんとなく手持ち無沙汰になって窓のところに置いていたカメラを手に取ると、電車内のエアコンの風に冷やされたおかげか少しひんやりと感じた。片手で持てる程度のサイズと、しっかりとした重量感。すぐに手に馴染むそのフォルムに、出水が持ってきた中で一番コンパクトかつかっこいいと思ったやつを選んでみただけだが多分いいものなんだろうなと知れる。
 シャッターボタンの他にも色々細かいボタンやら何やらがあるので、カメラが分かる人ならこういうのまで使っていい感じの写真を撮るのだろう。残念ながらインスタントカメラくらいしか使ったことのない太刀川には何をどうすればいいか分かりはしないのだけれど。
 ものは試しにちょっといじってみようかとも思ったが、一応借り物なので変にいじって壊しても良くないなと思い直す。とりあえずシャッターボタンとフィルムを巻くところだけ分かれば良いだろう。道中で既に何枚か撮ってみていたが、特にそれで不便は感じなかった。
 フィルムを買った時にカメラ屋の店員に最低限の操作方法は教わったものの、もうちょっと色々聞いてみればよかったかなと少しだけ思う――聞いたところで分かるかどうかというのはまた別の話ではあるのだが。
 手の中でカメラを遊ばせながらふと迅の方を見れば、静かに目を瞑ってすやすやと寝息を立てていた。いつの間にかすっかり眠っていたらしい。座席に凭れて眠るその姿は、あどけない、という言葉が似合うんじゃないかと思うくらい普段よりずっと幼く見えて、それを眺めているとつい口元が緩んでしまう。
(寝顔、かわいーんだよなぁ)
 普段は大人ぶった表情や生意気な表情ばかり見せたがるくせに、寝ているときの迅はそうやってかっこつけようという意識が働かせられないせいか、油断しきった表情が年相応でやたらとかわいいように見える。普段はあまり意識することはないのだが、そういえばこいつ年下だっけ、と寝顔を見ると思い出すのだった。そんな迅の表情を見られるようになったのも、二人で朝を迎えるような関係性になってからの話なのだけれど。
(あ、……もしかして惚れた弱みってやつか?)
 恋は盲目とか、好きな相手はやたらかわいく見えるみたいな、どこかで聴いた話をふと思い出す。そういうことなのだろうか、と思ったけれど、まあ別にそれはそれでいいかとすぐに思い直した。
 かわいく見えるものはかわいく見えるので、それで何も悪いことはないだろう。迅への恋情を自覚して、そういうふうに変わっていく、浮かれているような自分に気付くのがなんだか面白くもあるのだった。
 電車が少し大きく揺れて、迅の前髪もぱさりと小さく揺れてその顔に細い影をつくった。迅は起きる様子はなく、気持ちよさそうに眠ったままだ。そんな様子を正面から眺める。ただ眺めているだけでも、なかなかどうして飽きそうにない。そんな自分がやっぱり面白い。
 ふと、手に持ったままだったカメラの存在を思い出す。そうだ、折角持ってきてるんだしな、と思ってそのカメラを持ち上げて正面に構えてファインダーを覗いた。
(バレたら怒られっかな)
 ちらりとそう思ったけれど、まあいいか、と思ってぐっとシャッターボタンを押す。パシャ、と軽い音がしたけれどそれはすぐに電車の音にかき消されて、迅はまだ気持ちよさそうに眠ったままだ。おっ、バレてないな、と太刀川は心の中で呟いて口角を上げる。こうして本人の知らないところでこっそり撮るのも、なんだか迅を出し抜いたような気持ちになってちょっと楽しい。
 緩いカーブを描いて電車が走っていくなかで、窓から差し込んだ夏の日差しが迅の柔らかい茶色の髪を照らしてきらりと光る。それがきれいに見えたから、なんて理由で、太刀川はフィルムを巻いてもう一度シャッターを切ってみたのだった。



 駅を出るとじりじりと容赦の無い日差しは相変わらずだったけれど、穏やかに吹く風が心地の良い涼しさで暑さを中和してくれた。街の匂いも三門とは少し違う、潮のにおいがほのかに鼻をくすぐって、海の近くに来たのだという非日常の実感を連れてくる。
 迅は結局目的の駅に着く直前まですやすやと気持ちよさそうに眠っていたので、太刀川が肩を揺すって起こしてやった。目を覚ました迅が「すげー寝ちゃったな」とまだ眠そうな表情で目を瞬かせたあと太刀川が手に持ったままのカメラを見つけて、「……太刀川さん、撮ってないよね?」とじとりとした目で太刀川を見たので鋭いなと太刀川は内心で少し笑ってしまう。
「撮ってないぞ」
「いやー怪しいな」
 太刀川の言葉に迅はしかめた顔のまま太刀川を見ていたが、そこで電車が次の駅、つまり目的地の駅への到着のアナウンスを告げたのでそこで話はうやむやになって終わる。迅は電車を降りるまでまだ少しだけ不服そうな顔をしてはいたものの、そこまで深く追及するつもりもなかったらしく、それ以上は特に何も言ってはこなかった。
 海はここから歩いて行ける距離らしい。駅を出て道なりに二人並んで歩いていく。歩調に合わせて、太刀川の首からかけたカメラが小さく揺れた。
 歩道の脇に植えられた満開の向日葵も風にそよそよと揺れていて、夏だなあ、とぼんやりと思う。
 歩きながら、ぐう、と太刀川の腹が鳴る。そこまで大きな音ではなかったはずだが、すぐ隣にいた迅には聞こえてしまったようだ。おかしそうに笑いながら、「お腹空いた?」と聞いてきた。
「そういえば腹減ったな。そろそろ時間的にも昼飯時か」
 ズボンの尻ポケットに入れていたスマートフォンを取り出して時刻を確認すると、昼の十一時を少し過ぎたくらいだった。少し早めだが、ぼちぼち飲食店も開き始める時間だろう。
「じゃーとりあえずお昼食べる? どっかこのへんで食べれそうなとこあるかな」
「そうだなー。まあ海まで行けば、海の家とかでも食べれそうだけど」
 確かにね、と迅が頷いた。最終手段は海の家として、もし途中で何か良さそうなご飯屋さんがあれば入ろうということで合意して海に続く緩やかな坂道を下っていく。風が吹けば比較的涼しいとはいえ、この真夏の直射日光に当たれば数分外を歩いただけでもじわりと首元に汗が滲む。あちー、と太刀川はシャツをぱたぱたとうちわのように扇いで体に風を送った。
 と、目に入った道の脇にたなびいているのぼりに太刀川の目が奪われる。
「あ、かき氷」
「ん?」
 爽やかな青地ののぼりに豪快に書かれた『氷』の文字は、この真夏の日差しの中では普段の何割増しにも魅力的な響きに見える。かき氷を脳内で想像してしまえば、急に食べたくなってしまった。吸い寄せられるようにそののぼりの方に大股で歩いていくと、迅が「ちょっと~、お昼ご飯探してるんじゃなかったの?」と呆れ声で慌てて太刀川を早足で追いかけてくる。
 店の前に着いたところで、あることに気付いて太刀川は迅を振り返った。これはラッキーだ。太刀川に追いついた迅が、目が合って足を止める。太刀川は迅を見て、得意になってにまりと口角を上げる。
「見ろよ迅。かき氷もやってるけど、そば屋だ。飯も食えるぞ」
 太刀川がぴっと指差した店の看板には、しっかりと『手打ちそば』の文字が躍っていた。

 店に入ると、しっかり空調の効いた店内に迅が「あ~涼しい、生き返る」なんて呟いていた。開店直後らしい店内はまだ人もまばらで、窓際の広めのテーブル席に通される。
 店の中は明るくて天井も高く、こぢんまりとしているはずなのに広々と感じて心地が良い。首にかけていたカメラはテーブルの隅に置いて、テーブルの真ん中に置かれていたメニュー表に手を伸ばす。冊子になっている通常のメニュー表の他にラミネートされた色鮮やかなかき氷のメニュー表も一緒に置かれていたからついそちらに目が行きそうになったけれど、まずはご飯の方を決めないとと迅に言われて通常メニューの方をぱらぱらと捲った。
 結局二人とも冷たいそばがいい、と言ってシンプルなざるそばと、デザートとしてそれぞれかき氷を注文することにした。注文を終えた後、店員が持ってきてくれた水を迅は早速ぐいと飲む。そうして中身が半分くらいに減ったグラスを軽い音を立ててテーブルの上に置いてから、迅がそういえばといった調子で口を開く。
「ていうか太刀川さんってそば食べるんだ?」
 そんなことを聞く迅に、おいおいと何だか笑ってしまいそうになった。
「食べるぞ? 別に食べものの好き嫌いはないし、うどんが好きだからってそばが嫌いなわけじゃない」
「へー。いやなんか、うどん派かそば派かみたいなのあるじゃん。太刀川さんがちょっとうどんのイメージ強すぎるんだよね、食堂でも大抵うどん、コロッケ、コロッケうどんみたいな感じだからさ」
「そりゃまあうどんがあればうどん頼むけどな、うどんは何回食ってもうまい。でもうどん派そば派ってそこまで対立してるか? きのこたけのこはバチバチな感じあるけど」
「あ~、確かにそこはね」
「ちなみに俺はどっちも好きだ」
「おれはぼんち派なんで」
 なんだよそれ、と下らないやりとりにけらけら笑っていると、母親くらいの年代だろう元気なおばちゃん店員が「お待たせしましたー」と言って二人分のお盆を運んできてくれた。お盆の上にはたっぷり盛られたざるそばとつやつやと光るつゆ、そして薬味の小鉢が乗っている。目の前に置かれた美味しそうなそれに、条件反射のように空腹を思い出してぐうとまた腹が鳴りそうになってしまった。
「ありがとうございます」
 そう言って受け取って、早速お盆の上に乗っている割り箸に手を伸ばそうとする。と、そこでふと思って、割り箸ではなくお盆の脇に置いていたカメラの方を手に取った。
(あれだ、こういう時に写真を撮ればいいんだな)
 貰いもののかわいいお菓子なんかを食べる前に、国近や他の女子隊員たちがやたらと写真を撮っていた姿を思い出したのだ。ファインダーを覗いて、そばが中心にくるように画角を決めてシャッターを切る。カメラから顔を離すと、その様子を見ていた迅が物珍しそうな目でこちらを見ていた。
「珍し、食べものの写真撮るとか」
「後でうまいもん食ったって自慢してやろうと思って。出水たちに」
 カメラを元の位置に置いて、今度こそ割り箸を手に取ってぱきんと割る。お、真ん中できれいに割れた。これは調子がいいな、なんて思いながら「いただきまーす」と言って箸をそばに向けた。
 つゆに薬味を溶かし入れた後、適当な量の麺を箸で掴む。さっとつゆにつけてからつるんと啜ると、冷たい麺とともにそばとつゆの良い香りや味わいが口の中に広がった。空きっ腹に染みるその味に口角が緩む。
 どんどん箸が進んであっという間にざるの上の麺が半分くらいになったところで迅の方を見ると、迅のざるも同じくらいの量まで麺が減っていた。
 太刀川に負けず劣らずのテンポでそばを啜る迅を見て、ふっと元々浮ついている自覚があった気持ちがさらにじわりと上向くのが分かる。楽しいだとか、美味しいだとか。そういうものを共有できているのがなんだか楽しいように思えたのだ。
 そばを食べ終えたのはほとんど同時、迅の方が少しだけ早いかなというくらいだった。途中で店員が置いていってくれたそば湯をつゆに注いで飲むと、優しい味わいと程よいお湯の温かさにほっと息をつく。
 こちらが食べ終わったことに気付いた店員が「かき氷お持ちしますので、少々お待ちくださいね~」という言葉と共にテーブルをすっきり片付けてくれたので、かき氷を待っている間なんとなく手持ち無沙汰な気持ちになった太刀川は再びカメラに手を伸ばした。レンズを正面に座る迅のほうに向けてみると、迅は妙に恥ずかしそうに眉根を寄せて太刀川を見る。
「おれ撮らなくていいじゃん」
「おまえ撮らなくて何撮るんだよ」
 当たり前のようにそう返すと、迅が驚いたようにぱちぱちと目を瞬かせた。寄せた眉の皺がさらに深くなったのは照れ隠しだろうと分かる。
「えぇ、それこそ食べものとか風景とか。ほら今日めちゃめちゃ天気良いし」
 そんなやりとりをしているところに、先程の店員がかき氷を運んできてくれる。太刀川は宇治金時、迅はみかん味だ。みかん味にしようかな、と迅が決めた後によくよくメニューの文言を見てみると「みかどみかん使用」と書かれていて、こんなところで自分たちの街の名前を見るなんて思わず二人で顔を見合わせてしまったものだった。
 二人分のかき氷がテーブルに置かれたところで、、店員のおばちゃんがちらりと太刀川のカメラに視線を向ける。次に太刀川の顔を見て、伝票をテーブルの端に置きながら口を開いた。
「カメラ好きなの?」
 急に聞かれて、太刀川は思わずぱちりと目を瞬かせる。さっき迅にカメラを向けながらわやわやと喋っていた様子を見られてたのかな、と思いながら太刀川も返す。
「や、たい――後輩からの借り物で。面白そうだったから試しにやってみてるとこです」
「へぇ。かっこいいカメラだしすごく様になってるからずっとやってる人なのかと思ったわ~」
 いいわねぇ、と店員のおばちゃんは人の好さそうな顔でころころと笑う。
 それじゃあごゆっくりどうぞ、と言い残して店員のおばちゃんが店の奥に去って行ったあと、太刀川は迅の方を見て口角を上げる。そして親指をぴっと自分の方に向けて、迅に言ってやった。
「俺、様になってるってよ」
「はいはい。とりあえず食べようよ、かき氷」
 肩を竦めた迅が、かき氷についていた細長いスプーンを手に取る。太刀川も手早くかき氷を写真に収めてから、溶けないうちにとかき氷を食べ始めた。
「考えてみれば、かき氷って久々だな~」
「祭りとかくらいでしかなかなか食べないもんな。……っておまえ祭りもそんな顔出してないか。いっつも防衛任務だろ」
 太刀川が指摘すると、迅がぐっと言葉に詰まる。祭りの日はなかなか防衛任務のシフトが埋まりにくいのが恒例なのだが、そういうとき迅は大抵シフトに入っているのだ。気付かれていないと思っていたか。
「……そりゃ、祭りは行きたい隊員もいっぱいいるでしょ? 中高生なら尚更。だったらかわいい後輩たちにそれはさあ」
「よーし分かった、来月のシフトまだ確定してないだろ。今年は俺と行くぞ」
「え、なに勝手に決めて――」
 言いかけた迅が、何か視えたのかじわりと照れたような表情になって口を噤んだ。一体何が視えたのやら、まあ何だって別にこちらとしては構いやしない。
「嫌か? 俺と祭り行くの」
「嫌なわけない、けど。……シフト調整できたらね」
 照れ隠しなのかそうぶっきらぼうな調子で言った迅が、ぱくぱくと勢いよくかき氷をかき込むように食べ始める。そうすると案の定というかすぐに頭を押さえ始めたので、けらけらと笑いながらカメラを向けてシャッターを切ってやると「ほんとひどい人だなぁ!」と割と本気のトーンで顔をしかめられてしまった。

 店を出てまた少し歩くと、海を見つけるよりも先に楽しそうな子どもたちの声が風に乗って耳に届く。「ぼちぼち着くかな」と先程迅が地図アプリで確認した通りに道を右に曲がると、すぐに視界が開けて鮮やかな青が目に飛び込んできた。
「おお」
「海だ」
 思わず二人して零れるようにそう言ってから、アスファルトの道を先程までよりも少しだけ足早に進む。平日の海水浴場は程よい賑わいで、楽しそうに遊ぶ親子連れや、あるいはのんびりと海を楽しむカップルらしき姿がちらほらと見えた。
 砂浜に降りる階段の目の前まで来たところで、迅が口を開く。
「で、海着いたけどどうする? 泳ぐの?」
「そうだな。折角だから泳……いやでも待て、水着がないな」
 言っている途中で今更気付いて、しまったな、と思う。夏だから海に行こう、というくらいのノリで出てきてしまったから、迅と海に行くということにばかり気を取られていてそこまで気が回っていなかった。
 別にどうしても泳ぎたい、というほど海水浴に大して強いこだわりがあるわけではないのだが、折角ここまで来たのなら海を最大限満喫して帰りたいという気持ちが芽生える。自分は何事も後悔を残すのは向いていない性質なのだ。
 無意識に顎髭に手をやってううんと唸れば、迅はなぜかにやにやと笑いを隠し切れていない顔をする。そうして、待ってましたとばかりに悪戯っぽく青い目を細めて太刀川に言った。
「この道をもうちょっとまっすぐに行ったところにある商店に売ってると思うよ。歩いて五分もかからないかな」
 迅が得意気に口角を上げる。その生意気な表情に、好きな顔だなと思うってこちらの口角も緩んだ。
「流石。おまえの未来視もこーいうとき役立つな~」
「実力派エリートですから」
 いつもの台詞をかっこつけた調子で言ってから、「行こっか。暑いしおれも早く海入りたくなっちゃった」と言って歩き始める。そんな迅を太刀川は歩調を早めて追いかけると、さっきそば屋を見つけた時と逆の構図だな、なんてことを思った。
 迅の言う通り歩いて数分もしないところにそれらしき焦点があった。水着のほかにも浮き輪やらビーチボールやら海水浴で遊べるグッズが沢山売っていたが、とりあえずはそこで適当な水着だけ二人分調達して海の方に戻る。
 先程見つけた階段のところから砂浜に降りて、設置されていた更衣室で買ったばかりの水着に着替えた。カメラを含む貴重品はコインロッカーに預けて、迅とともに再び砂浜に出ると昼過ぎの真夏の日差しの眩しさに思わず目を細める。隣の迅は組んだ自分の両手をぐっと反らして軽く伸びをしていた。そうしてその手をゆっくりと離して、太刀川の方を見る。
 自分の隊服に似たマリンブルーの水着を履いた迅の上半身はすらりと薄い印象だが、必要な筋肉はしっかり無駄なくついているのが好ましく感じる。きれーなカラダしてるんだよな、と何度も見ているはずのその体に改めての感慨を抱いてしまったのは、それをこうやってあまりに健康的な夏の太陽の下で見るのは新鮮だったからかもしれない。とどのつまり、太刀川の好きな体だ。
 視線が絡んで、迅がにっと楽しそうに笑う。いつものかっこつけた顔をしているくせに、なんだかその表情に子どもっぽい無邪気さも感じたのが何だか可愛く思えた。
「さて。遊ぼっか、太刀川さん?」
 その迅の声を合図にして、二人で笑って駆け足と早足の間くらいの速度で青々とした海へと足を向けたのだった。



 楽しい時間が過ぎるのはあっという間だと言うものだけれど、本当にあっという間に夕方になっていて驚いてしまった。遊泳可能時間の終了を告げるアナウンスが響いて海から上がる時に迅が「久々にこんな生身で遊んだ……」と肩を竦めながら呟いたのに太刀川も素直に頷いたくらいだ。
 そもそも、どちらが速く泳げるかという勝負をふっかけたのが良くなかった。いや、楽しかったから良くないことは何もないのだが、互いにひどく負けず嫌い、それも相手が互いであるなら尚更――とくれば未来視などなくたって、双方ムキになってしまうのは目に見えていた結果だった。短めの距離で迅が勝てばいや俺は長距離の方が得意なんだよと太刀川が言い、そんなこんなで結構な本気でああだこうだ言いながら遊んでいたらもうこんな時間だ。それはまあ、体力も使う。
 ボーダーに入ってから体を動かす遊びといえば、それも迅と一緒の遊びといえばランク戦ばかりだったから、迅の言うようにこんなに生身ではしゃいで心地良い疲労感を感じるまで遊んだのはとても久しぶりのように思えた。一周回って新鮮だ。新鮮で、とても楽しい。
 海の家の側に設置されていた簡易のシャワーブースでざっと体についた海水を洗い流して、水着から私服に着替え直した。迅と共に更衣室を出ると、日はゆっくりと傾き始めている。
 夏は日が長いからまだ夕焼けというほど空は赤く染まってはいないが、日中のあのじりじりと焼けるような日差しからは幾分日光の威力は和らいでいた。ふっと足元から浚うみたいな柔らかい風が吹いて、太刀川のシャツを揺らす。一日たっぷりと遊んで日に焼けた体に、その風の涼しさが心地良かった。
 遊泳可能時間が終わった海はもう人もまばらで、みんなどこか名残惜しそうにしながら帰り支度をしている。太刀川と迅も、帰路につくべくのんびりとした歩調で砂浜を歩いた。
 そういえば海で遊んでいる間はすっかり忘れてしまっていたと思って、太刀川は再び首にかけていたカメラを手に取った。フィルムカウンターを見てみるとなんだかんだで撮影可能な枚数はもう残り僅かとなっている。序盤で色々撮りすぎたかなと思ったが、もう夕方であとは帰るだけだろうから別にここで使い切ってもいいだろう。
 そう思って太刀川はぴたりと足を止める。カメラを構えてファインダーを覗いて、ファインダー越しに迅の姿を探した。
 画角の真ん中に少し先を歩く迅をとらえてシャッターボタンに手をかけると、太刀川がついてこないことを不思議に思ったのだろう、迅が振り返ってこちらを見た。そしてカメラを構えていた太刀川を見て意外そうに、そしておかしそうに笑う。
「まだカメラやるの?」
 迅にしてみれば、ちょっと触ってみてすぐ飽きるだろうと思っていたのだろう。迅の読みも分かる。触ってみた最初の理由なんてただの興味とノリだったし、これまで携帯のカメラすら碌に使ってこなかった人間だ。特に写真に残すことにこだわりもないし、正直言ってカメラ自体の面白さはいまだ百分の一も分かっていないだろうと思う。
 しかし段々とカメラを向けたときの迅の反応が面白くなって、かわいく思えて、気持ちが乗ってきてしまった。迅に言えば、なにそれと顔をしかめられてしまうだろうか。
 迅と遊ぶのは――迅と遊ぶから楽しい。いつだって、なんだって。
 自分は勉強や書類仕事以外の大抵のことはそれなりに楽しめる性質だという自負はあるが、その中でもやっぱり特別はある。迅との遊びはやっぱりいちばんに特別だ。
 シャッターを切る。迅はなんだかんだ言いつつも太刀川の好きにさせることにしたようだった。
 たわいない話をしながら、迅の姿をカメラでとらえた。涼しそうなまなざし、呆れたように肩をすくめる仕草、風に吹かれて気持ちよさそうに伸びをするすらりと長い手足、太刀川の言葉におかしそうにくつくつと笑う顔。そうしてひとしきり笑った後、細めた目をゆっくり開いて迅が太刀川を見る。
 穏やかな夕方の太陽に照らされた迅の表情の柔らかさを、淡くひかるその海よりもっと透明な青い目をファインダー越しに見つけた瞬間、シャッターを切ろうとする手が思わず止まった。
(あ)
 普段、本部とかでは見せない表情だな、と気付く。
 多分、俺といるときだけの顔。
 ――ぱしゃ、と一拍遅れてシャッターを切る。そうしてファインダーから目を離してフィルムカウンターを見ると、ちょうどカウンターはゼロを指していた。
「それにしても珍しいよね。お互いオフで時間あるのに、ランク戦じゃないことするの」
「あー、……」
 何気ない調子で言った迅に、何と返すか少しだけ考える。カメラから手を離して、太刀川は口を開いた。
「俺は結構、ずっと前からしたかったぞ」
「え?」
 迅がぱちくりと目を瞬かせる。そんな迅を見ながら、太刀川はゆっくりとした歩調で少し離れていた迅との距離を詰めた。
「高校の時、夏休みっつったらほぼランク戦しかしてなかったろ」
 言いながら、ぴたりと迅の正面に立つ。先程よりも近くなった距離で、ほぼ同じ高さにある青い目が太刀川の言葉の続きを待った。当時のことを思い返して、太刀川は懐かしくなって口角を緩ませながら「それはそれで楽しかったけどなー」と付け足す。
 ボーダーでランク戦システムが始まって、迅と競い合うようになって。そして迅がスコーピオンなんて新しい武器までつくってきて迎えた高校二年の夏休みは本当に楽しくてたまらなかった。学校がある時は放課後から夜にかけてくらいしかできなかったランク戦が朝から一日できるとあって、忍田や風間たちには呆れられてしまうほどに毎日ランク戦ブースに入り浸っては迅と戦り合っていたのだ。
 いくら戦っても楽しくて、負けたら悔しくて、でもやっぱり楽しかったからもっともっとと迅と遊びたくなった。終わらない渇望。満たされてもその分だけすぐに欲しくなる。迅だってたまに「まだやるの?」と太刀川に呆れた顔をみせたりなんかしていたが、その実迅の瞳はずっと楽しそうだったから、あの頃迅だって同じ気持ちだったろうと思っている。
 それに半年ちょっと前、黒トリガー奪取の命で久しぶりに刃を合わせた後ランク戦に復帰すると言ったときの迅も太刀川たちとバチバチに戦り合っていた頃のことを「最高に楽しかった」と形容していたから――やっぱりそうだったろうという気持ちと共に、三年ちょっとの間満たされなかった部分に久しぶりに水が注がれたような、そんな喜びを感じたことを思い出す。あの頃の記憶が、互いに同じだったことが嬉しかった。
「でもある日ふっと思ってさ。おまえとそれ以外のことしてみるのも楽しそうだなって。……そういう興味だな」
 学校があるときは放課後に待ち合わせて競うように本部に行ったりしたものだが、夏休みにもたまに本部に向かう途中に道やコンビニなんかで迅と鉢合わせることもあった。そうして連れ立って本部に行ってはランク戦をしていたものだった、けれど。
 いつものようにうだるように暑かった夏休みの午前中、たまたま警戒区域の近くで出くわした迅と「暑いからアイス買ってから行こう」なんて言って二人分のアイスを買って食べながら本部に向かった日。
 あんまりにも暑くて、日陰に入って信号待ちをしている間大きなカバンやキャリーケースを持った家族連れが目の前を通り過ぎていって、ああ旅行か、夏休みだしなとぼんやりと考えた後にふと思ったのだ。迅とランク戦あるいはその前後の買い食いやご飯とか以外のこと、……例えばどこかに遊びに行くとか、そういう類の遊びはしたことがなかったな、と。
 ちらりと隣に立っている迅を見た。視線に気付いた迅が口の中のアイスをごくりと飲み込んでから太刀川を見て、「なに?」と聞いてくる。だから喉まで言葉は出かかった。
 けれどそれを言うか一瞬迷ったまま、信号が青に変わったから言えずじまいになってしまった。まあいいか、と思ってそのままにしてしまったままだったこと。
 迅とランク戦をするのがあの頃なにより楽しかった。
 だけどそれだけじゃなくなっていたことに、無自覚に気付き始めていたんだろうと今になって思う。
 迅と居ることが楽しかった。迅の色んな表情を見るのが面白くて、もっと見たいと思った。
 迅とならきっと何をしたって楽しいだろうと思って、そう思ってしまえば現実にしてみたくなった。そんな自分の中の衝動にあのとき自分でも驚いたし、でも同じくらいに納得感もあったのだ。
「まあ顔合わせたらランク戦したくなるし、結局しないままおまえがS級になって、本部に寄りつかなくなって、そういうタイミングなくしちまって」
 そこまで言って太刀川は短く息を吐く。迅の目は、じっと太刀川を見つめている。それを見つめ返しながら太刀川は言葉を続けた。
「……っていうのを急に思い出したら、じゃあ今やるかって思って。だから四年越しのリベンジってわけだ」
 やっぱり思った通り楽しかったから、できてよかった。そう言って太刀川がにまりと口角を上げると、迅が反比例するように唇を引き結ぶ。一見不機嫌そうに見えるけれど、照れたときの迅の顔だとすぐに分かった。迅の頬が、じわりと赤く染まっていく。
 段々と海岸からは人が少なくなっていって、ざわめきが遠くなる代わりに波の音が耳の中に静かに響く。もう遊びの時間は終了、みんな家に帰る時間だ。
 もう終わりか、と思う。一日たっぷり遊んで満足しているはずなのに、この迅との遊びの時間が終わるのが名残惜しい。まだ帰りたくないな、なんてまるで子どもみたいに思った。
 すっかり顔を赤くした迅が、「……太刀川さんが、」と歯切れの悪い声で呟くように言う。
「あの頃からそんなこと考えてたとか、知らなかったんだけど」
「まあ言ってなかったからな」
 普段の飄々とした迅からは想像もつかないような照れて恥ずかしがる表情を可愛く思って、本当はもう残り枚数はないというのにふざけて再びカメラを構えてみる。と、そんなことは知らない迅が唇を尖らせてカメラを持つ太刀川の手首を掴んだ。
「今は撮らないで」
「悪い」
 形だけ謝りながらも、おかしくて楽しくてつい笑ってしまう。と、迅に掴まれた太刀川の手首がぐっと引かれる。油断していたから思わずよろめいて、迅との距離が詰まった。靴の爪先同士が触れる距離。ほんの少し顔を動かせば、唇だって簡単に触れ合わせられそうだった。キスをされるのかと一瞬思ったが、外だからか流石に迅はそれ以上は動かない。
 その代わりのように、迅がその青い目を静かに揺らして「ねえ」と太刀川に話しかける。小さな、太刀川にだけ聞こえるような声。まるで内緒話でもするみたいだなとちらりと思った。
 迅がゆっくりと息を吸う音が、波の音に混じって聞こえた気がした。
「……今日もう帰るの面倒だからさ、このへんで泊まらない?」



 海沿いで適当に見つけたホテルは運良く空きがあって、スムーズにチェックインを済ませてエレベーターを上がる。部屋に辿り着いてドアが音を立てて閉まった瞬間、カードキーを備え付けのホルダーに挿し込むよりも早く迅にキスをされた。
 噛みつくように押しつけられて、離れていく唇を今度はこちらから追いかけるようにキスをしてやる。迅の唇は熱くて、だけどやわらかくて、ああ俺はこれが欲しかったんだなと重ねた後に実感が追いつく。このところ迅が忙しいと言ってまともに二人で会えていなかったので、当然こういうことをするのだって考えてみれば久しぶりだった。
 唇を離してから、部屋が暗いことにようやく意識がいって太刀川はつい笑ってしまった。カードキーを挿していないのだから当たり前だ。手に持ったままだったカードキーを半ば手探りでホルダーに入れると室内がぱっと明るくなって、目の前の迅の顔――欲を灯した瞳も全部くっきりと見えるようになる。
「がっついてんな~、迅?」
 楽しい気持ちになってそうからかってやると、迅は少しだけ悔しそうな表情で太刀川をぐっと見つめ返す。
「太刀川さんだって。……久々なんだからしょうがないでしょ」
「まあ、それはそうだな」
 エレベーターに二人で乗っているときから、迅から発せられる空気は感じ取っていた。触れたい、俺をどうにかしたい――みたいな空気。だいたい、海で話していた時からキスしたそうな顔をしていたから、よくここまでいい子で我慢したよなあという気持ちにすらなる。
 そんな迅に愛しさみたいなものが募って、もう一度こちらからキスをしようかと思ったところで迅が太刀川の手を引いた。今度は手首ではなく手の甲からきゅっと掴まれてベッドまで連れて行かれる。といってもごく普通のビジネスホテルだから、ドアからほんの数歩で辿り着ける距離なのだが。
 ツインルームだから、ベッドは二つだ。ベッドは大きい方が嬉しいしダブルでもよかったのでは、と思ったが、迅がフロントで「ツインで」と言ったのを訂正するほどでもなかったのでそのままにしておいた。
「……ちょっと待ってて」
 そのまま押し倒されるのかと思いきや、太刀川をベッドまで連れてきたところで迅が自分のカバンの中を探る。その間に太刀川も首からかけていたカメラをベッド横のサイドチェストの上に置いて、カバンはもう一つのベッドの方に適当に放った。
 ベッドの上に座って、さて、と思って迅の方に視線を向ければ迅は小さなカバンからローションとコンドームを取り出したものだから太刀川はにやにやと笑ってしまった。
「おまえ、どこまで視えてたんだよ。えっち」
 そう言ってやると、迅はむっと唇を尖らせた。その表情は少し恥ずかしそうで、もう数え切れないほどこういうことをしてきた仲だっていうのに、未だにたびたび照れるところがやっぱりかわいい男だと思う。
 迅の色んな表情を見る度楽しくて、興味深くて、もっと見たくなる。もっと欲しくなる。それはあの頃と同じようで、あの頃自分が思っていたよりもずっと厄介さを孕んだ感情でもあるという自覚はあった。
「可能性があるなら、万全に準備しておくのが男の嗜みでしょ」
 迅は手に持ったローションとコンドームをサイドチェストの上に置いて、肩にかけていたカバンを太刀川と同じようにもう一つのベッドに放り投げる。そうしてベッドに乗り上げてきた迅が太刀川に覆い被さるように跨がって、当然の権利のように再び唇を重ねられた。触れて、離れてから肩を軽い力で押される。こっちだってそのつもりなので素直に押し倒される格好になると、迅は満足そうな表情になってよくできましたとでも言うように額にもキスを落としてきた。海水浴場に設置されていた簡易シャワーでざっと体についた海水は流してはいたけれど、唇を離した迅が「まだ海のにおいがする」と小さく笑った。
 手早く部屋の照明を絞った迅の手が太刀川のシャツに触れて、恭しいような仕草でシャツのボタンをひとつひとつ外していきあっという間に上半身は裸にさせられる。迅が自分は着たままこちらにまた触れてこようとしたので、太刀川が「おまえも」と言って迅のTシャツを引っ張って脱がせてやった。
「も~、太刀川さん、雑」
 比較的緩めのTシャツを着ていたといえど、適当に引っ張って脱がせてやればそれに引っ張られた迅の髪はくしゃくしゃに乱れてしまった。迅は顔をしかめながら、乱れた前髪を適当に後ろに撫でつけ直す。
 露わになった迅の上半身は昼間に海でも見ていたものだが、改めてやっぱり好きな体だなと思う。というか他のやつの体にそう思うこともほとんどないので、迅の体だからそう感じるのかもしれない。まあそんなことはどっちだってよかった。
 触りたいという気持ちが芽生えて手を伸ばせば、その手をとられて手首に口付けられる。遊ぶように何度かキスをされるのがくすぐったくて、触れるだけの唇がなんだかかわいらしく思えて口角が緩んだ。
 唇が手首から離されたので、自由になった手でそのまま迅の髪に触れた。少しかさついた茶髪。この髪もまだ海のにおいがするだろうか、なんてことを思いながらさらりと撫でると、迅が気持ちよさそうに目を細めてから太刀川の首筋に唇を落とす。
 迅の頭が近付いてきた時にふっと海みたいなにおいがした気がして、やっぱりだと少し楽しい気分になる。海からちょっとしたお土産を貰ったような気分だった。
 首筋や鎖骨のあたりに何度かかじるみたいにキスをしてきた後、唇がゆっくり離れたかと思ったら迅がぽつりと零れるみたいに「……、おれもさ」と口を開いた。急に少し改まったような様子に、何の話だろうと思う。迅が体を離して、再び太刀川を見下ろした。オレンジがかった淡い照明に照らされた――今はファインダー越しじゃない、迅の熱い目が太刀川だけをまっすぐに見ている。
「おれも、太刀川さんと遊びたかった。あの頃」
 太刀川を見つめたままゆっくりと吐き出された言葉に、思わず目を瞬かせた。
 おれも遊びたかった、というのは海でした話のことだろう。太刀川が、高校生の頃に迅とランク戦以外の遊びをしてみるのも楽しそうだなと思ったこと。だけど結局言い出すタイミングを逃してしまって、それをできないままになってしまったこと。
 そうか、あの頃、迅も。
「そうか」
 とりあえずそれだけ返すと、迅が「うん」と頷く。その言い方が妙に子どもっぽく聞こえた。二人の間の言葉が一瞬途切れて、迅は少しだけ迷うように唇を動かす。何か言いたいのだろうと思って、じっと迅の言葉を待ってみる。太刀川と視線を合わせた迅が、短く息を吐いてから付け足すように言った。
「……四年越しになっちゃったけど」
 迅の言葉に、なんだ、そんなことかと思う。
(それを言うなら、こっちだって同じだろ)
 迅はどこか後悔や反省を滲ませるような声で言うが、あの頃結局言えずじまいだったのは太刀川だって同じだ。迅だけが何か後悔するべきことでもない。
 今にして思えばそんなこと、思いついたらすぐに言えばよかったことだろうと思う。今だったらそう簡単に笑い飛ばせる。だけどあの頃言えなかったのは、きっと自分たちがまだどこか青かったせいかもしれない。
 確かにそりゃあ、あの頃できたらよかっただろうと思う。それだってきっと間違いなく楽しかっただろう。
 だけど。
「まあな。でもこれからしていけばいーだろ? 今日みたいに」
 時は戻せなくても、今からならいくらでも自分たちで作っていけるのだ。だからそんなの、今から取り返しにいくくらいに満喫してやればいい。そう思って太刀川が言うと、迅はひとつ瞬きをした後、ふっと目を細めた。
「そうだね」
 触れたままだった迅の頭をくしゃりとひと撫でしてやると、迅はお返しとでもいうようにまた唇を塞いできた。
 海で迅が妙に動揺した様子だったのは、あの頃太刀川も同じことを考えていたということが分かったせいなのもあったのだろうと今更に腑に落ちる。かわいいやつめ、と思って、キスをしたままの唇が柔らかく緩む。
 あの頃も今も――同じことを楽しいと思って、同じことをしたいと思って。そういう気持ちが一緒なことを嬉しいって思うのはおまえだけじゃないぞ。
 そんな気持ちをどう伝えれば迅に正確に伝わるだろうか。そんなことを頭の隅で考えていると、緩んだ唇の隙間を迅の舌が強請るようになぞってきた。拒む理由もなく唇をもう少し開いてやると、すぐに迅の舌が口の中に侵入してくる。迅が絡めてくるのとほとんど同時にこちらからも舌を絡ませた。互いが求めているのだから、止めようもなくキスはすぐに深いものに変わる。太刀川の口の中を探るように触れてくるざらついて熱い迅の舌の感触を、気持ちが良いなと思う。じわりと溢れてくる唾液が絡んで、わざとらしいような水音が静かな部屋の中に響くのを聞いていた。
 キスの感触を追いかける頭の隅の方で、迅と遊んで、色々写真を撮ったりなんてしていた今日一日を太刀川は頭の中でぼんやりと反芻する。
 写真に残す良さも、分かる。後から見返したらその時を思い出せて楽しいだろうと思うし、今日カメラを向けたときの迅の反応もとても面白かったから、今日カメラを片手に一日過ごしてきた時間自体もとても楽しいものだった。
 だけどどちらかってあえて言うのであれば、やっぱり俺には――俺たちにはこっちの方がいいな、と思う。
 正面から何にも遮られず近い距離で見つめ合って、触れて、確かめて、知ることのできるこの距離が。
 迅がキスの角度を変えてくる。太刀川の好きなところをなぞる舌の感触に、粟立つような淡い快楽が背中を駆けた。
 ――俺たちはまだまだいくらでも、飽きもせず、そうやって遊べばいい。だってその時間は今、俺たちの手の中にちゃんとあるのだから。
 キスをしながら、迅が腰を撫でてくる。その手つきがいやらしくてひくりと太刀川の腰が揺れてしまったのに、合わさったままの迅の唇が小さく笑った気配がした。
 唇を離した後、迅の手が太刀川の胸元に伸びる。親指でつつ、となぞるように触れられた後、迅が口を開けて伸ばした舌で先端をゆっくりと撫でた。口に含まれて舌でくにくにと転がされると、その場所は素直にすぐ尖り始める。日焼けをしたせいか、舐められると普段よりも少しだけちりちりとした感覚がした。
「……っ、ん、迅……」
 むずむずとするような感触が、徐々に気持ちいい、を連れてくる。最初はあまり感じなかった場所だったのに、迅が毎回ベッドの上で執拗に触ってきたせいで敏感になり始めているのを感じていた。
 全体をねっとりと優しく舐められたかと思えば、つんと尖った先端を軽く押しつぶすように触れてきたり、あるいは飴でも舐めているかのように転がしてきたり、迅の舌に濡らされ愛撫されて、着実に体の熱を上げられていく。何度も弄ってくる姿に、子どもみたいでかわいーな、なんて迅に言えば怒られそうなことを最初の頃は内心思いながら好きにさせていたのだが、最近ではそうやってただからかう気持ちだけではいられない程度には快楽が強くなっていることを感じていた。
 迅が、ふ、と何気なく吐いた息の熱さにすらわずかに体を震わせてしまった。迅が今度は反対側の尖りを口に含んできて、唾液ですっかり濡らされたもう片方は指でくにくにと弄ってくる。迅が愛撫を重ねる度に、自分の呼吸も段々と熱っぽくなっていくのが分かる。
 気持ちいい、けど、これだけじゃ足りない。じわじわと体が疼き始めていた。条件反射のように、体がこの先を期待し始める。
 かり、と迅が迅が痛くない程度に先端を甘噛みしてきて、その刺激に緩く立てていた膝が分かりやすく震えてしまった。
「ッあ、んん……っ」
 思わず零れた声は自分でも少し驚くくらい甘ったれた響きになってしまう。けれどそれを恥じる間もなく、ようやく唇を離してこちらを見下ろした迅の目に分かりやすく色が乗ったことのほうに興奮した。
 迅の手が下肢に伸びて、ズボンの上からそこに触れる。布越しの迅の手の感触とこの先の行為への期待で小さく息が零れた。
「もう固い。……胸、だいぶ感じるようになったね?」
 触れた手が、形を確かめようとでもするようにゆっくりとその場所を撫でる。迅の声がやたら嬉しそうで、普段は本音をのらりくらりと躱そうとするくせにベッドの上では素直なんだよなと思った。取り繕うつもりがないのか、それともそんな余裕がないのか。どっちにしたって、そんな迅をかわいいやつだと思っている。
「おまえがそうしたんだろ」
 だからあえて煽るような言葉を選べば、ぐっと興奮したように迅の瞳の青が濃くなる。唇をぺろりと舐めたひどく雄くさい表情に、それだけで自分の腰が重くなるのが分かった。ベッドの上での反応の素直さ――という点で言えば、自分だって迅のことを言えないかもしれない。
 迅が下着ごとズボンを下ろしてきて、一糸纏わぬ姿にさせられる。そんな太刀川の全身を撫で下ろすように見た迅が思わずといったように笑ったので、太刀川は目を瞬かせる。何だと思っていれば、迅が太刀川の表情を見て「ごめんごめん」と返した。
「日焼けってこんな分かりやすいんだなーと思って」
「日焼け? あー……思ったより焼けてるな」
 言われて自分でも見下ろしてみれば、下半身にはばっちりと水着の形で日焼けの跡が残っていた。水着を着ていた部分だけ分かりやすく白くて、今日一日でこんなに焼けたのかと思うと驚きだ。確かに日差しを遮るもののない海で半日ほど遊んでいればこうなるかと思って、女子がやたらと日焼けを気にして日焼け止めを塗っていることに納得がいく。
 焼けていない白い部分――陰部の近く、太腿の付け根のあたりを迅がゆっくりと撫でる。その手つきがやたらといやらしい。視線を少し上げれば迅と目が合って、迅がその目を細めて笑った。
「こーいう、他の人に見せないところにおれは触れて良いって許可貰ってるんだなって思ったら、興奮した」
 言いながら、迅は太腿を撫でるのをやめない。大事なところに触れそうで触れない、その手つきが焦れったくて迅らしかった。
「今更」
「うん、今更」
 オウム返しのように言う迅が妙におかしくて、思わずふは、と笑ってしまった。
「つーか俺がこんだけ日焼けしてるってことはおまえもだろ? 見せろよ」
「えー、おれのは後で」
 くっきり水着の形の日焼け跡をつけた迅というのはさぞ間抜けで面白いだろう、と思って太刀川が体を起こしかける。迅のズボンもさっさと下ろしてやろうと思ったのだが、太刀川の手が迅のズボンにかかる前に迅が体を屈めて太刀川の性器を口に含んだ。急に温かくて柔らかいものに包まれて、そしてすぐに太刀川の気持ちいいところを的確に舐めてくるものだから、起こしかけた上半身がまたベッドに沈む。
「……っん」
 鼻にかかった声が零れる。弱いところなんて迅にはとうに全部知られていた。迅のズボンを剥けなかったのは残念だが仕方ない。まあどうせそのうち見られるものだと思って、一旦は退いてやることにした。
 施される口淫に、半勃ちくらいだった性器はすぐに固く勃ち上がる。上を向いた性器が迅の上顎を擦って、その感覚にぞわりと内腿が震えた。舌でなぞられて、吸われて、与えられる快楽に自然と腰が軽く浮いてしまう。
「ぁ、あ……っあ」
 快楽を与えられるたび、声が自然と零れてしまうのは迅がいつも聞きたがるからだ。だからあえて声を抑えないようにしていたらそれが癖になってしまった。恥ずかしいという気持ちが全く無いわけではない。けれどそれ以上に、その声を聞いた迅の目が欲の色を濃くすることのほうが自分にとっては重要なことだった。
「迅、……じん、気持ちいい」
 そう伝えると、迅が視線だけで太刀川の方を見る。性器を愛撫する口の動きは止めずこちらを見やった迅の目は欲に濡れていて、俺が欲しいって雄くさくぎらついている。視線だけで食われてしまいそうに思った。そのことに、ひどく興奮した。
 限界が近付いてきているのが分かる。迅の口の中にいる自身が固く張り詰めて、ぐるぐると溜まった熱を吐き出したいと訴えていた。先走りが零れて、しかしそれは溢れる前にすぐに迅に舐めとられていく。その舌先の刺激に、体はびくりと反応した。
 太刀川の限界が近いことを迅も察したのだろう。口の動きを激しくしてきて、部屋の中に淫猥な水音が響く。全体を強く吸われて、快楽の強さに止めようもなく体を震わせてしまう。
「ん、っ……ぁ、じん」
 も、イく、と呟いた声には、返事代わりに迅の愛撫が返る。亀頭を嬲られて、敏感な先端を舌先で押し込むように触れられれば、もうだめだった。
 熱が精路を駆け上がってくる感覚。迅の口の中で白濁が弾けて、快楽と共に体がぶるりと震えた。迅は躊躇うこともなく、口の中に出されたそれを飲み込んでいく。迅の口が太刀川のものを飲み込む口の動きにすら達したばかりで敏感なそこは快楽を拾って、太刀川は「ぁ……」と声とも吐息ともつかない音を口から吐き出した。
 快楽の余韻がゆっくりと引いていくのを、荒くなった呼吸を整えながら全身で感じていた。吐精をするのも久しぶりの感覚だった。迅とするのが久しぶりだからだ。その間、特に自慰などもしていなかった。
 迅とこういう関係になる前は、自分は性欲が薄いのだと思っていた。自慰だってどうしても生理現象で勝手に勃った時の処理をするくらいで積極的にしたいとは大して思わなかったし、セックスをしたいともそれほど思ったこともなかった。迅とするようになっても、別に一人の時はやっぱり大して自慰とかをしたいとも思わない。
 だけど、一度触れてしまえば欲しくなる。自分の中に眠っていたものを叩き起こされるような。太刀川をこんな気持ちにさせるのは間違いなく、迅ただひとりだった。
 気持ちいい。もっと欲しい。まだ足りない。体はもう、この先の快楽を知っていた。
 太刀川の精液をしっかり最後まで飲み込んだ迅は、ようやく太刀川の性器から口を離す。口の端にこぼれていた自分の唾液を手の甲で雑に拭った後、迅の手は再び太刀川の下半身に伸びる。指先で会陰の部分に触れられて、体が大袈裟に震えてしまった。わざとらしくつつ、と指でそこをなぞっていった後に、迅はその奥にあるまだ固く閉ざされた場所に触れる。覚え知った、しかし久しぶりの感覚に太刀川は短く息を吐く。
 迅がヘッドボードに置いていたローションに手を伸ばして、中身をもう片方の手の中に出す。適当に体温で馴染ませてから、迅が滑りを纏わせた指を太刀川の後孔に宛がった。
 爪先がゆっくりと太刀川の中に侵入してくると、思わず息を詰めそうになってしまう。何度重ねても、毎日みたいな頻度でやっていない限り体はどうしても最初だけは違和感を拾ってしまう。
 当然だ。元々何かを挿入することを想定されている器官では恐らく無いから、人間の本能的なものだろう。
 だけど、この指は太刀川を傷つけることはしないと知っている。だから力を抜いて、この感覚に慣れることに意識を集中させた。
(久しぶりだと、やっぱキツめだな……)
 そんな感想を抱くが、中に入ってきている迅だって同じ事を感じているだろう。指は普段より心持ち丁寧に動いて、入口をゆっくりと拡げようとしてくる。その途中で太刀川の性感を引き出す為に内壁を優しくなぞられると、すぐにまた呼吸が乱れた。そして、それを見逃すような迅ではない。太刀川の弱いところを狙ってゆるゆると撫でられると、先程吐き出したばかりの体がまたすぐに熱を持ち始める。
「ぁ、……っあ」
 指先が入口近くのしこりの部分、前立腺を掠めると、大袈裟に体が震えてしまった。
「~~、ッ……!」
 ここは男の体でも特に敏感な場所だ。少し触れられるだけでも強い性感が跳ねるように体の中を駆けていく。迅の指が何度もそのあたりをくるくると遊ぶように撫でて、その度に太刀川は荒い息を吐き出すことしかできない。
「ゆび、増やすね」
 最初は意識して抜こうとしていた体の力が、与えられる性感によって自然と緩んでいた。というよりも力が入らなくなってきた、が正しい。二本目の指が挿入されて、自分のそれが入ってこられるように入口を重点的にほぐしながらも迅は太刀川の気持ちいいところを中から愛撫してやることも忘れない。体の内側でばらばらに動く指が太刀川を翻弄していく。
「あ……ぅあ、迅……」
 名前を呼ぶと、その返事のように中をゆっくりと擦られて膝が震えた。いつの間にか三本に増やされた指が、届く一番奥のところを撫でてきて「ぁ……」と甘ったれた声を零す。太刀川の先端がじわりと先走りを滲ませる。気持ちいい。もっと欲しい。でも、指じゃもう足りないのだと、熱を持って焦れた体が訴えてきている。迅によって解された入口はもうすっかり柔らかくなって、物欲しげに疼き始めていた。
 指じゃ届かないもっと奥まで、もっと熱くて固いそれで貫いてほしい。もっと迅の核心めいたそれが欲しかった。
「迅、……っもう、こい、って」
 迅の方を見て言えば、顔を上げた迅と視線が絡む。自分だってきっと大概な表情をしているだろうという自覚はあったが迅の表情だって大概で、自分にそれだけ興奮しているのだという嬉しさと、そんな顔するならもっと早く挿れればいいだろなんて呆れのような感情が同時にあった。
「うん」
 その言葉と共にゆっくりと指が引き抜かれて、その刺激にすら体をわずかに震わせてしまう。迅は先程太刀川が脱がし損ねたズボンにようやく手をかけて、ズボンとパンツを雑に脱いでいった。
 露わになった迅の下半身はやっぱり太刀川と同じように水着の形で日焼けしていて、思わずくっと笑ってしまった。ゴムの袋に手を伸ばそうとしていた迅が何事かとこちらを見た後に視線の向く先をたどって、自分の下半身を見下ろして「あぁ~……」と気の抜けたような声を零す。
「……日焼け?」
「ああ。やっぱおもしれーな、それ」
 太刀川がけらけら笑うと、迅は反比例するみたいに肩を落とす。
「ほんと、ムードとかないよね、太刀川さんといると……」
「おまえだって笑ったくせに、おあいこだろ。それに、別にムードなんてなくたっていーだろ?」
 ムードなんてそもそも俺たちに求めることは難しいだろうし、なくたってそれ以上に一緒にいることが楽しいから一緒にいるんだろう、と思う。迅は肩をすくめた後、「ま、そーだね。太刀川さんとだもんね」と小さく笑った。
 迅がヘッドボードに置いていたゴムの袋を今度こそ手に取って、手早く自身に付ける。触ってもいないのにすっかり臨戦態勢のそれにローションをまぶして、迅が再び太刀川の上に覆い被さった。
 足を抱え上げられ先端を入口に宛がわれると、否応なく体は期待する。は、と太刀川が熱の籠もった息を吐いて、その息を吐き出しきったのと同時に迅が腰を押し進めてきた。
「っ……、あ、あ……ッ」
 指よりもずっと熱くて質量のあるそれが内側に入ってきて、止めようもなく声が零れた。迅の挿入の速度はゆっくりでじりじりと焦れったくも感じるけれど、しかし時折太刀川の好きなところを掠めていってその度に体がびくりと震えてしまう。
 迅の先端が先程指では届かなかった一番奥に触れて、軽く擦られただけでも「ぅ、あ」と声を零してしまった。欲しかった快楽が与えられた喜びと、この先への期待。内側にみっちりと埋められた迅の存在を感じながら荒くなった呼吸を整えていると、迅の視線を感じた。こちらからも目を合わせると、それを合図にしたみたいに唇が重ねられる。迅が動いた拍子に内側が擦れて、上げかけた嬌声も迅の口の中に吸われていく。
「ん、……っ」
 深くなったキス、口の中をなぞってくる迅の舌の感触が気持ちが良い。熱に浮かされる頭が、気持ちいい、もっと、とただただ思ってその欲求のまま迅の頭に手を添えた。一瞬離れかけた迅がそれでもう一度唇を触れ合わせてくる。舌を絡ませ合えば整えかけていた呼吸がまた乱されて、少しだけ自分でも呆れるくせにそれ以上にこの感触が、熱が、この時間が気持ちが良くてすぐにどうでもよくなった。先程霧散しかけた濃密な空気が再び部屋の中に満ちていくのがわかる。体が熱に浸って、それが心地良かった。
 唇が離されると、互いの間を唾液の糸が伝う。口の端に垂れたそれを指で拭った迅の瞳の青が深い色をして太刀川を見つめた。それに条件反射のようにぞくりとしたのは、その色がランク戦で本気になった時の迅の目に似ていたからだ。迅本人に言えば納得していない顔をされてしまうけれど、迅はランク戦の時もセックスの時も、よく似た目をする時がある。
 この遊びが好きだって、俺のことが欲しいって、自分のことだけを見てほしいって――そんな顔。
 この恋情を自覚するよりもずっと前から俺はこの顔が好きだった。この顔をした迅に、ほかのなにより興奮させられた。
 そんな気持ちで迅の頭に添えていた手を離して、両腕を迅の首に絡ませる。太刀川のその仕草に迅はひとつ瞬きをした後、ゆるりと目を細めた。
「……うごくね」
 そう言ってから、迅が腰を引く。迅のそれにぴったりとくっついた内壁が擦られて性感にぶるりと震える。そのままぐっと奥を突かれて、「~~っあ!」と上擦った声が零れた。
「っ、あ、あ……迅、っ」
 与えられる快楽に、迅の首元に回した腕にぐっと力が入ってしまう。それに抗わず引っ張られるようにして、迅が何度か太刀川の首筋や鎖骨のあたりにキスを落としてきた。痕が残らない程度に軽く吸い付かれて、その弱い刺激も敏感になった体は快楽として拾う。
 迅のそれが届く一番奥まで押しつけてきたかと思えば浅いところを探ってきたり、あるいは長いストロークでゆっくりと擦ってきたり、あらゆる手管で迅は太刀川にじっくりと性感を与えてくる。そのどれもが太刀川の弱いところをしっかり外さずに責めてくるのが迅らしかった。
 もうすっかり完全に勃起した太刀川の自身が、迅に突かれる度にふるりと揺れる。触られないまま先端から溢れた先走りがとろりと零れて落ちて、自分の腹筋から臍のあたりをすっかり濡らしているのがいやに淫猥な光景に見えた。
 律動はそこまで激しいものじゃない。だけどその動きの中でも的確に太刀川の気持ちいいところをとらえてくる迅のおかげで、ずくずくとした熱が体の中に溜まっていく。「じん、もっと、」と強請れば前立腺を優しい仕草で押し上げられて、「……~~ッ!」と言葉にならない声と共に太刀川はびくんと体を反らせた。体中が熱くて、迅と触れ合っている箇所を全部気持ちよく思って、たまらない。
 快楽の強さに目に薄く水の膜が張る。目の前の迅の輪郭がぼやけるのをいやだなと思って、でももう絡めたままの腕を動かすのも億劫で、どうにか目を瞬かせて生理的な涙を逃がそうとする。一粒ころりと零れたところで気付いたらしい迅が、唇でその雫を吸ってくる。目元に溜まった分も迅の指に拭われて、ようやくクリアになった視界で再び迅を見ればいやに煽られたような表情をしているのになんだか愉快な気持ちになる。そして同じくらい、興奮させられた。
「じ、ん……イく」
 言うと、迅が眉根を寄せて、目を細めて笑う。
「うん。……おれももー限界」
 一緒にイこ、と言った声は欲に濡れていて、それに充足を感じた。迅が腰を揺らして、その動きのひとつひとつに熟れた体は反応してしまう。弱いところを何度も擦られれば、口から声が溢れて止められなくなる。
「ぁ、あ――ん、あ……っ」
 触れた迅の首元もすっかり汗だくで、吐き出す息も荒くて、迅も同じように余裕なんてないのだと思えば気持ちがふっと上向く。目の前の男への愛しさのようなものが指先まで痺れさせるような心地だった。熱い、気持ちいい、楽しい、すきだ――と、絶頂が近付いた頭は白くちかちか瞬いてそんなことばかりしか考えられなくなる。
 迅、じん、と無意識のうちに名前を呼んでいた。その音を拾った迅の口角がやわらかく緩む。
 ぐっと体重をかけてきた迅が再び奥まで入り込んでくる。一番奥、迅だけが知っている場所、敏感なそこを何度も擦って暴かれれば、止めようもなく体がぶるりと大きく震えた。
「っ……あ、あ、……~~ッ!」
 熱が弾ける。明滅する視界、全身を駆けるような快楽と共に足の指がきゅうと丸まって、先端から零れた白濁が太刀川自身の腹筋をどろりと汚した。反射的に制御も効かず中を強く締めつけてしまって、迅も「っ、あ……!」と声を短く零して太刀川の中で達した。迅の熱がどくりと内側に注がれる感触も気持ちが良くて、しかし達したばかり――それも後ろだけで達したばかりの体はまだ快楽に浸った余韻のままだ。少し動くのすら億劫で、太刀川は小さく眉根を寄せて短く息を吐いてその快楽をどうにか飼い慣らそうとする。
 力が抜けたみたいに迅が覆い被さってきて、太刀川と同じように荒い息を吐き出した。肩口に迅の熱い息がかかって、まだ敏感なままの体はそれだけで熱を上げそうになってしまう。しばらくそうしていた後、抜かないまま迅が少し顔を動かして首筋に軽いキスをしてきた。その感触がなんだかくすぐったくて太刀川の口角は自然と緩む。
(……今日、やたら丁寧だったな)
 ゆっくりと深く息を吐きながら、太刀川はそんなことを思う。
 じゃれるみたいな無邪気さを見せたかと思えば、丁寧――言い方を変えるなら、ねちっこくてしつこくもあった。太刀川の体に、くまなく快感を与えようとするような。久しぶりだということもあるのだろうが、今日は迅がそういう気分なのだろう。
 こんな風にじっくりと教え込まれるような快楽は深くて気持ちが良いけれど、太刀川としては本来はもっと直接的で分かりやすい方が正直好みだ。だけどこれも迅らしいと思って、好きにさせてやろうと思った。そうやって迅を許容できる自分に、妙な優越感のようなものを感じる。
(今日、楽しかったもんな)
 だからきっと浮かれているのだろう。迅も。ついでに俺も。
 戯れのように首筋を辿っていた唇が、徐々に上がっていって耳を甘く噛んでくる。そのまま舌でねろりと舐められて、ねじ込まれた舌が耳の中でわざとらしい水音を立てた。その感触と音は、達したばかりの体にはそれすらも刺激として受け取って体がぶるりと小さく震える。それを当然見逃すわけもなかった迅が耳元で笑う気配がした。
「これも気持ちい? ……太刀川さん、かわいい」
 そう甘ったるい声で言う迅こそかわいいやつだと思ったけれど、深い快感の余韻を引きずった体は喋るのも面倒に思ってしまって、だから返事の代わりに迅の髪をくしゃりと撫でてやることにした。普段だったら子ども扱いみたいだとか雑だとか言って顔を顰める迅は、何も言わず太刀川にされるがまま、その手を拒むことはしなかった。
 迅が顔を上げて、再び太刀川を見下ろす。薄暗い部屋、淡いオレンジの照明に照らされた迅の青い目は今なお光ったまま、太刀川を見ていた。
「ね、……もっかい、したい」
「ん。……いーぞ」
 好きにしろよ、と言えば迅が嬉しそうな表情になる。その色はひどくいやらしいくせに、おどろくほど無邪気なようでもあった。ほらやっぱり、かわいいやつだと思う。
 ふと、海岸で撮った写真のことを思い出す。
 フィルムの最後の一枚。夕方の太陽に照らされた柔らかい、透明な色をした。
 あの表情も、そしてこの表情も多分きっと――俺だけの。
 そう思えば充足するこの感情が、自分でも面白く思えた。多分独占欲だとか、そういう類のもの。自分にはすっかり縁が無いものと思って生きてきたはずの感情を、こうやって迅によって掘り起こされることがある。
 その度俺ってこいつのことが好きなんだなあと気付かされて、そしてそれはきっと迅も同じことで。
 これは自惚れじゃない。なぜって、答えは簡単だ。迅の青いまなざしに俺を見る時だけに灯る強い色が、触れてくる手のスマートぶる指先に滲むいっそ不器用なほどの優しさが、内側に受け止めた迅の熱さが、迅が与えてくるすべてがそれを痛いくらいに太刀川に伝えてくるから。
「っ、ん、……じん」
 迅が再び腰を動かし始めたおかげで弾む息の合間に名前を呼べば、視線が絡む。それだけで要求を正しく受け取った迅が唇を重ねてきた。迅の唇が熱い。気持ちがいい。今日何回したのかもう分からないけれど、何度したってこれは飽きるなんて思えなかった。
 見ているだけじゃ足りない。写真に残して思い出に浸るだけでも勿体ない。
 名前を呼んで、見つめ合って、触れて、その温度を知って――それを俺たちはもう味わってしまったから。
 唇が離れて、至近距離で見た迅の輪郭を汗が伝う。それを手を伸ばして拭ってやると、迅がくすぐったそうな表情になる。
「……太刀川さん、すきだよ」
 そう潜めた声で、まるで内緒話みたいに迅が言う。それがなんだかおかしくて、太刀川は小さく笑って「知ってる」と返すのだった。






「はよー。あ、出水」
 隊室に入ると既に出水と国近が居て、二人でゲームをしているところだった。太刀川が声をかけると出水は「っおあ、待っ……!」とコントローラーをがちゃがちゃ動かした後、テレビ画面の中のキャラクターが吹っ飛ばされる。国近がガッツポーズをして、出水が頭を押さえているあたり吹っ飛ばしたのが国近のキャラで吹っ飛ばされたのが出水のキャラだろう。
「うあー、話しかけられて一瞬油断した……」
「負けは負けだよ、出水く~ん?」
 悔しそうな出水の表情を、にまにまと笑いながらわざとらしい口調で言って国近が覗き込む。
「悪い、間が悪かったか?」
「や、大丈夫っす。おはようございます」
 ぱっと顔を上げて出水が返す。「何か用でした?」と言う出水に、「おー」と言ってソファに置いたカバンからごそごそと目的のものを取り出す。ちょうど対戦も終わってキリのいいところだったのだろう、出水がコントローラーを置いて太刀川の居る大部屋の方に来る。
「借り物、返そうと思ってな」
 そう言って取り出したのは先日借りたカメラだ。それを見て、出水は「ああ」と合点がいったような表情に変わる。
 カメラをひょいと出水に渡した後、もう一度カバンの中に手を突っ込んで太刀川は小さな白い封筒を取り出す。その中身を出して、テーブルの上にざっと並べてやった。
「写真。色々撮ってみたぞ」
 言うと、出水はぱちくりと目を瞬かせる。面白そうなにおいを嗅ぎつけたらしい国近も「なになに~?」とひょこりとこちらに顔を出してきた。
「えっ太刀川さんマジでカメラやったんですか」
 出水が本気で驚いたような顔をしているので、太刀川は「信用してなかったのかよしつれーだな」と言ってやる。出水は「いや、そういうわけじゃないっすけど」と頭を掻きながら、太刀川がテーブルに広げた写真を覗き込んだ。
 先日現像に出して、昨日の防衛任務帰りに受け取ってきた写真だ。この前海に行った時のものである。青い空、海、向日葵、蕎麦にかき氷。夏の風物詩が詰まった写真たちだ。
「わ、すげー夏って感じ! 海行ったんですか、いいなあ」
 出水の言葉に、太刀川は「いいだろ」とどや顔で笑ってみせる。
「でもカメラはもういいわ。楽しかったけど俺の性には合わないっぽい。他にもっと活用してくれるやついるだろ」
 太刀川がそう言うと、写真から顔を上げた出水が苦笑する。
「分かってましたよ。なんか蔵内先輩が写真好きみたいで興味持ってくれたっぽいんで、今度声かけようと思います」
「お、それはよかった」
 そう話がまとまりかけたところに、隊室のドアが開く。
「おはようございます。……お、何ですか? 写真?」
「おー唯我。おはよう。こないだ俺が撮った写真だぞ」
 ちょいちょいと手招きしてやると、素直に唯我がこっちに歩いてきた。唯我がテーブルの上の写真を出水や国近たちと同じように覗き込みながら「太刀川さん、写真の趣味あったんですか?」と不思議そうに聞いてくる。そういや先日のカメラの話の時に唯我はまだ来てなかったなと思い出して「いやあ、出水のひいじーちゃんのカメラがな~」とかいつまんで説明をしてやる。
 ソファに座って写真を手に取って眺めていた国近が、楽しそうに言う。
「かき氷美味しそう、いいな~。太刀川さん、これ誰かと遊びに行ったの?」
 太刀川は国近の方に顔を向ける。
 テーブルの上に広げた写真の中に、人が映っているものはない。どれも風景とか、食べもの単体とかばかりだ。
 本当はまだ他に何枚も写真はあったのだけれど、それは家に置いてきたので今日ここには持ってきていない。
 にまりと笑って、太刀川は返す。
「それはな~、秘密だ」
 あの迅の表情たちは、他の誰かに見せたいとは思えなかったので。



(2022年9月18日初出)





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