insatiability収録「mendacity――嘘吐き」sample
深夜のオフィス・ナデシコは日中の騒々しさが嘘のように静かで、チェズレイが洗面所のドアを開ける音すらいやに大きく耳に届いた。いや、気が立っていて、己の感覚が鋭敏になっているからこそ余計にだろうか。気が立っているといっても、今チェズレイの心を波立たせるそれは苛立ちや怒りという以上に興奮や高揚、あるいは――自分のもっと奥底に眠るもの所以のそれか。
洗面所のドアを閉め、綺麗に磨かれた鏡の前に立つ。そこに映る自分の見慣れた顔、白い頬を汚す見慣れないほんの一筋の墨の黒。鏡の中の男が、その唇をつり上げ小さく歪に笑う。
「フ、……」
零れたその低い声は己以外の誰にも聞かれることなく、しんと夜の静けさに溶けて消えていく。
事の始まりは、数十分前に遡る。
深夜で皆が寝静まったオフィス・ナデシコのリビング。そこにあの男――モクマ・エンドウが一人でおり、何やら道具を広げ作業を始めようという様子だった。晩酌ではないことをしているとは珍しいと思って見れば、曰くナデシコ嬢から依頼され、書をしたためることになったのだという。
チェズレイが見学をしても良いかと聞けば、モクマは謙遜しながらも快くそれを了承してみせた。……私に標的にされ、隙あらば抉られ、それに何も感じていないわけがなかろうに。しかしチェズレイはこの好機を逃すつもりもなかった。観察し、じっくりと、その首を絞り上げるようにこの男を抉る。なかなかその善人の仮面の下に眠る下衆な素顔を晒そうとしないこの男を。
そうしていつものように言葉を重ね、この男を苛立たせ――。それでもまだ善人を貫こうとするのかと思った瞬間、刃のように向けられたのがこの一滴の墨だった。
わざとではないのだと、ギリギリで形ばかりの言い訳が立つようなさりげない仕草。しかしチェズレイにそんな言い訳が通用しないと分かっていての行動であることは疑いようもない。
軌道すらブレていない、細く短い一本の線。たったそれだけでチェズレイを牽制してみせたあの男の鋭さ。
――そして、あの一瞬にモクマから放たれたあの威圧と殺気は、もうきっと彼自身も言い逃れなどできないほどの。
(……Glare)
チェズレイは、取り出したコットンにクレンジングオイルをゆっくりと染みこませる。コットンを手にする自分の指先は震えてはいない。己の手袋に覆われたその指先を、チェズレイはじっと見つめる。
あの男に怒気と共にGlareを向けられた一瞬。体の内側からぞくりとしたものが湧き上がり、指先が痺れるような、そんな感覚を覚えた。実際に痺れたというよりも、催眠や錯覚に近いものだろうが。しかし確かにあの時、自分はあの男のGlareにほんのわずか当てられた。
(並のDomからのGlareなど、これまで全て撥ね除けてきた。抑制剤に自己催眠、……十分な耐性はあるはずだが)
それすらも貫き、私の喉元に届きかけたほどの刃。
思い出すにぞくりと血を沸き立たせるものは、チェズレイ・ニコルズ個人としての昂ぶりか、それとも。
――この身体の奥底に沈めたはずの、己のSub性の疼きか。
そう心の内で呟けば、腹の底でふっと昏い感情が渦巻く。そんな自分をチェズレイは嘲り笑った。
自分がSub性を持っていることは変えられぬ事実。それすらも呑み込んで、それが弱みになるのならばあらゆる手段を使って覆い隠し、それよりも強い刃を磨き、この世界で生きてきた。それが例え茨の道だと言われようと、無謀だと嗤われようと、血反吐を吐くような努力を伴おうともそれが私の生き抜く術だった。それが私にとっての当たり前だった。
自分の意思で変えられないことで、己を哀れむ時間すら無駄なこと。男であり、Subであるチェズレイ・ニコルズ。それが私だ。
(だというのに、今更)
私は何をこのように、今更揺さぶられてなどいるのか。
己の下らない思考などかき消そうとするように、チェズレイはクレンジングオイルをたっぷりと染みこませたコットンを頬に当てた。肌に触れるわずかにひやりとした感触。冬の空気の冷たさも手伝っているのだろう。オフィス・ナデシコ内の各部屋は常に空調が効いて快適な温度に保たれているが、洗面所は常に人が居る場所ではないためか他の部屋より少し空気が冷えているように感じた。
コットンを持った手を少し動かせば、真っ黒だった墨が幾分薄くなる。もう数度軽く拭ってやれば、墨はほとんど見えなくなった。
あっけないものだ、とチェズレイは思う。墨という異分子のない、元通り見慣れた自分の顔が鏡に映っている。
整っている、美しい、と称賛されることの多いこの顔。切れ長の目元はいつものように左目側だけ鮮やかなメイクで彩られている。クレンジングオイルをチェズレイが常備しているのは、このメイクを常に自らの顔に施しているからという部分も大きい。
今ではすっかりチェズレイの一部となったこのメイクは、まだ落とさない。――この下の顔は、誰に見せるつもりもない。鏡の中の己の顔、鮮やかなメイクを見るたび思い出すのは長年追いかけてきた仇の姿だ。
あの日からチェズレイはずっと、そうやって生きてきた。
Subを征服したいDom、Domに従属することを望むSub。そして、そのどちらの性質も持っていない者を指すNatural。それがこの世界の人口のほとんどを占めている。しかし、ごくわずかな人間だけが持っているもう一つの性がある。Domの性質もSubの性質もどちらも持つSwitch。
ファントムは、そのSwitchの性を持っている男だった。
チェズレイの側に居た頃のファントムからは、Dom性もSub性も一切感じ取れなかった。この世で最も多く存在する、第二性の影響を受けないNatural――ファントムはチェズレイに対してそう己を偽装していたのだ。Switchにも様々なタイプがおり、周囲の環境やパートナーの性によって自分の意思とは関係なく性が変化するタイプもいれば、自分の意思で性を変えられるタイプもいるらしい。ファントムは後者で、第二性すらもファントムは仮面として用いていた。第二性を毛嫌いしていたチェズレイに取り入るためだ。
ファントムが本当はNaturalなどではない、とチェズレイが知っていることを知っていてなお、ファントムは変わらずNaturalを偽装し振る舞った。それがチェズレイが側近に対して望むものであると、ファントムはよく分かっていたからだ。
裏社会にはDomやSubなどの第二性を持っている人間が多い。それがチェズレイの体感だった。第二性は基本的に遺伝するものではないから、生まれてくる確率の問題ではない。表社会では様々な研究が進んで安全な抑制剤が多く出回るようになり、社会秩序や人々の倫理観が育つにつれ第二性を要因とした差別や不平等は表向きには徐々に解消されつつある。
しかし下衆な人間の欲望というものは、そんな綺麗事で簡単に抑えることなどできようもない。
自分には他者を従属させ屈服させる力があるというのに、相手の合意がなければ使ってはいけません――なんて道徳を聞くこともせず、その欲望と自尊心を撒き散らしたがる人間は自然と裏社会に流れ着くものだった。そして、威張り散らすDomは、決まって己の権力の証のようにSubを侍らせたがる。見た目の美しいSubであれば余計に、だ。
チェズレイの父と母もそんな歪な性で繋がれていた。
いや、もしかしたら母は第二性によるものだけではない感情も確かに父に抱いていたのかもしれない。その複雑に澱み、濁っていった感情の奥底にあるものの全てを他者であるチェズレイが知る術はない。
だが、少なくともチェズレイが見る父は、もはや母のことを「顔が綺麗な他者」としか思っていなかったように思う。
年々母のことをひどく疎むようになっていった父は彼女を顧みることはなく、当然彼女に対するCareをすることもなかった。晩年の母が精神のバランスを崩したのも、DomからのCareが一切無くなったというところも影響していたのだろう。
そんな父と母を、そして第二性を悪用して相手の意思も関係なく力尽くで従えることが当たり前といった顔をする下衆がそこら中に蔓延る裏社会を、幼少期から間近で見てきたチェズレイが第二性を憎むのは当然の流れのようなものだった。
ファントムはそんなチェズレイのことをよく研究していた。流石は元スパイといったところだ。
ファントムはチェズレイが話を振らない限り、一度だってチェズレイと第二性の話をしようとしなかった。ファントムがSwitchであるということも、本人の口から聞いたわけではない。ではなぜチェズレイが知っていたかといえば、なんてことはない。ファントムがチェズレイの前に姿を表す以前に、チェズレイがファントムの調査をしていた際に得た情報を集め導き出した結論だ。
ファントムは、相手が求める姿になる。演じるだけではなく第二性すらも駆使し、相手がDomを求めるSubであれば支配を与えるDomになり、Subを求めるDomであれば従順なSubへと変わった。そしてそのどちらをも嫌悪するチェズレイのような人間に対しては、どちらの性も綺麗に隠してNaturalを演じる。本当に、幻影のような男だった。
(……どう足掻こうが、私はSubだ。あの男が本気でDom性を出せば、私などその力で支配できたかもしれなかったというのに)
チェズレイがファントムのことをSwitchであると知っていたのと同様に、ファントムだってチェズレイがSubであるということなどとっくに知っていたはずだ。
チェズレイが裏社会で見てきたDomというのは大抵、SubとみればすぐにGlareやCommandを使って相手を屈服させたがるような輩ばかりだった。下劣で悪趣味な下衆。しかし現実として、未だそれがこの世界の〝普通〟だ。チェズレイもそんなもの山ほど見てきたし、自分自身も身をもって経験してきた。
だというのに、あの男はそうしなかった。
勿論、あの時点でチェズレイは既に抑制剤を用いて――それも、表では認可されず裏社会でしか流通していないような強いものを――大抵のDomのGlareやCommandに対しての耐性はあった。
だからこれまでチェズレイは一度たりと、どのようなDom相手であれ完全に屈したことはなかったし、実際ファントムのDom性がチェズレイを屈服させることができるほどのものだったのか、今となっては分からない。あの時ファントムがそうしなかったのは、結果としてチェズレイにとって僥倖であったと言えるかもしれない。だが、……だからこそチェズレイの矜持をひどく傷つけた。
彼が幻影であると心の底では気付きながらも、一人の人間として信じてしまったから裏切りの痛み。そして――Domにもなれる男に、Subである自分に情けをかけられたような、甘く見られたような、そんな心地になったのだ。歪な性を使って相手をコントロールしようとするのが当たり前のこの闇の世界で、そんなことをせずとも私をコントロールできると。
ぎり、と小さく奥歯が鳴る音がして、自分が奥歯を噛みしめていたことに気付く。あの日からずっと、あの男を思い出すたびこの心は何度でも屈辱に強く煮えたぎる。だからこそ、じっくりと追い詰めて私が受けた痛みと屈辱をこれでもかと味わわせてやりたいと、そう思ってきた。
それだけを思ってきたはずだった。どこまでも一途に、あの男のことだけを思って――
そこまで考えて、ふ、とチェズレイの脳裏に過ったのは長年追いかけた仇の姿ではない。
ずぼらな性格ゆえ、袖口がやたらに薄汚れた黄色い羽織、その下に胸元が大きく開いただらしのない着方のシャツ。無精髭にへらへらとした表情。誰彼構わず親しげに声をかける軟派な態度。私が追い求めた仇とは似ても似つかない、そのはずだったのだが。
――己の第二性をひた隠しにしようとする姿にも、ファントムとあの男が重なる。もっとも、その理由は異なるが。
モクマは自分の第二性から逃げているだけだ。その理由もチェズレイは知っている。彼の過去や周囲の人間のことを軽く調べれば、彼の心を縛っているあの過去にも第二性が、あの強いDom性が呪いのように絡みついていることは明白だった。
(……一時の浮気のようで、怖気がしていた。そのはずだったのに)