アフター・ザ・レイン sample

 捜査を終えて、現場の集合住宅アパートメントを後にする。建物の外に出れば、ここに来るときに降っていた霧雨は止んでいて、薄い雲の隙間から太陽が顔を覗かせていた。少し前まではこの時間には外は薄暗くなり始めていたはずだが、街はまだ明るい。日が長くなってきたことを亜双義は実感した。
 長く厳しい英国の冬もようやく終わりを告げるようで、肌を撫でる空気は数週間前までとは打って変わって穏やかで優しい。雨の名残のようにわずかに湿気を伴った空気も、今日は不快ではなかった。建物の側の花壇では土の中から覗いた蕾が雨粒をきらめかせ、今にも花を咲かせようとしていた。
 亜双義が渡英してから、幾度目かの春だ。綺麗に舗装された石畳に靴音を響かせながら、亜双義は隣を歩く師――バロック・バンジークスに話しかける。
「随分と春めいてきましたね」
 亜双義の言葉に、バンジークスは「そうだな」と頷いた。何の含みも無い、他愛の無い雑談を彼とできるようになったのはいつからだろうか。そしてそれを自分が、心地良くすら感じるようになったのは。
 角を曲がり、細い小道を辿って検事局への帰路を辿る。その途中でふと視界に映ったものに亜双義はおやと少し驚いた。歩調を緩め、一点を見つめた亜双義の様子に気付いたバンジークスも同じようにそちらに視線を向ける。
 そこにあったのは小さな公園で、中でも亜双義の視線を捉えたのはその奥にひっそりと植えられた一本の若い木だった。
 春の訪れを知らせるように桃色の花をささやかに咲かせ始めているそれは、紛れもない桜の木であった。
 日本では馴染み深い花だが、まさか英国でお目にかかる機会があるとは思っていなかった。亜双義が数年英国で暮らしてきた中で見かけたのは初めてだったから、やはりこの国ではまだそこまでメジャーなものではないのだと思うけれど。
「こんなところで桜に出会うとは」
 淡い郷愁と共に亜双義が呟くと、バンジークスは「サクラ?」と鸚鵡おうむ返しをする。そうして亜双義の視線の先を辿り、「あの木か」と納得したように言った。
「ええ。日本では春になればよく見かける花ですが、この国で見たのは初めてですね」
「そうか。最近持ち込まれたのかもしれないな。――日本の木か」
 バンジークスも少し感慨深げに言って、その木をじっと眺める。どこか遠い目をしたバンジークスの横顔を亜双義は見上げた。
「美しいものだな」と、そんな呟きとともに目尻を柔く細めたバンジークスの表情に、亜双義は目を奪われる。
 柔い風が吹いて、二人の髪を静かに揺らした。桜の花弁がひらりと一片目の前を踊るように通り過ぎる。
「……一本だけでも勿論桜は美しいですが、日本の桜並木は見事なものですよ。道に沿って何本もの桜が咲き誇る風景の美しさは筆舌に尽くしがたい」
「ほう」
「オレが通う大学のそばにも有名な桜並木があるのです。その評判に違わぬ美しさで、満開の頃になれば遠くからも花見客が来るほどでした」
「成程。それは余程美しいのだろうな」
 バンジークスは亜双義の話に興味を持ったようだった。きっとその風景を想像しているのだろう。考えるような表情をしながら頷くバンジークスを見ながら、彼が亜双義の語る日本にこうして思いを馳せてくれていることに気持ちがいやに浮つく。何故自分がそんな風に思うのかもうまく言葉にできないまま、亜双義はすうと息を吸った。
「――いつか、貴君を案内する」
 そうして己の口から零れた言葉に、亜双義は自分でも驚いた。己の内側から溢れ出てしまったような、半ば無意識のような、そんな言葉だった。
 言った後にハッとして、亜双義はバンジークスをもう一度見る。バンジークスは予想通り驚いたような表情でぱちりと目を瞬かせていた。けれどその表情はすぐに、亜双義も見たことの無かったような穏やかな微笑みに変わる。
「そうだな。……いつか、楽しみにしていよう」
 その返答に、表情に、今度は亜双義が驚く番だった。驚いた亜双義の顔を見て気恥ずかしくなったのか、バンジークスはふいと顔を背ける。その反応を今日ばかりは指摘することもなく、バンジークスの「……日が暮れる前に検事局に戻ろう」という言葉に亜双義は素直に頷く。
 気持ちはまだ浮ついたまま。石畳に響く靴音が、亜双義には先程よりも少しだけ遠くに感じられていた。


 ◇


――西暦二○××年、東京


 朝陽と共にぱちりと目が覚める。見慣れた白い天井を見て、あれは夢であったということを亜双義は知る。そのことに、特段の驚きは無い。
 ベッドのヘッドボードで充電していたスマートフォンのスリープモードを解除すると、ぱっと表示された時刻は朝の六時過ぎ。特に新しい通知は入っていないことを確認した亜双義はもう一度スマホを置いて起き上がった。亜双義はアラームに頼らずとも、毎朝大体この時間に目を覚ますことができる。アラームで無理矢理起きることは好かない。前世、、から朝は得意な方だ。
 カーテンを開ければ、一人暮らしの1Kの部屋が生まれたての朝の光に一気に満たされる。少し冷えていた部屋の空気が少し暖かくなった気がした。絵に描いたような爽やかな朝、いい秋晴れだ。東向きのこの部屋は、朝陽がたっぷり当たることが亜双義のお気に入りだった。
 今日は大学の授業は一限から入れているが、時間には十分に余裕がある。亜双義は良い気分で伸びをして、寝間着から着替えを始めた。

 亜双義一真には、前世の記憶がある。
 江戸時代の名残とそれを急速に塗り替える新たな時代の空気が混ざり合う、所謂いわゆる文明開化真っ只中の明治時代の日本に生まれ、父の死を切っ掛けに弁護士として英国を目指し、壮絶な裁判と明かされた《真実》の果てにその後の人生を検事として生き抜いた、前世の亜双義一真の記憶だ。
 それは物心ついた頃から持っていたものではなく、小学生から中学生の頃にかけて少しずつ取り戻していったものだった。ふとした拍子に過去の思い出を手繰るように思い出すこともあれば、今朝のように夢に見ることもある。まるでパズルのピースを少しずつ嵌めていくかのようにかつての記憶を集め、二十歳を迎えた今では前世の一生分の記憶が現代を生きる亜双義一真の中にあった。それは今となっては遠い時代の思い出ではあったが、今の自分自身のものとほとんど同じように地続きの記憶として感じられていた。
 あの時代のことを夢に見るのは、今も亜双義にとって珍しいことではなかった。その中でも一番夢に見るのは、英国で検事見習いとして過ごしていた時期の記憶だ。
 とりわけ今朝も見た、師との埒もない〝約束〟の話を、亜双義は幼い頃から繰り返し夢に見ていたのだった。
 今から遡ること百余年前の英国、倫敦ロンドン。あの静かな春の夕方にオレたちは――正確には、前世のオレたちは――ある小さな〝約束〟をした。いや、あれを約束と呼んで良いかすらも分からない。何故ならばそれはちょっとした雑談の延長、まるで子どもが語る夢物語のようなものだと、互いにきっと自覚していたからだ。
 だが亜双義は自分の口から零れたあの言葉を、ただの軽口とは片づけられなかった。内心で、本当にいつか叶えたいという気持ちも確かにあった。それが帰国後の亜双義にとって密かな目標でもあった。けれど同時に、〝いつか〟を心から信じられる時代でもなかったのだ。
 日本から英国まで、船旅で片道約五十日。科学技術が飛躍的に進歩した現代となっては信じられない長旅だが、それでも当時海を渡るための最短日数であった。ちょっと隣町に行くような気軽さで行ける距離ではとてもない。
 そしてバンジークスは失墜した英国の司法の信頼を立て直すこと、亜双義は未だ世界から後れを取っていた日本の司法を変えるということを自らの大きな使命として定めていた。互いに、その為に英国の法曹界あの場所で日々闘っていたのだ。それは簡単な道ではないことは自明、ゆえに生涯を賭けて身を投じる覚悟を持っていた。
 そんな互いが、互いとの再会という個人的な理由のためだけに、それだけの時間を使って海を渡る機会など果たして来るのだろうか。その上世界情勢は不安定に日々変化し、日本も英国も様々な国を相手取って戦争をしていたような時代である。
 下手をすれば、亜双義が留学を終えて帰国をしたらそれが今生の別れになるかもしれない。――そしてその懸念は実際に、現実のものとなってしまったのだが。
 きっとそれは師であるバンジークスも分かっていた。彼の弟子となって数年が経つ頃にはすっかり他愛ない雑談を交わせるようになっていたが、いつか必ず来る亜双義の帰国以降の未来の話は、互いにどこか避けていたように思う。
 だからこそ亜双義はあの時自分にも驚いたし、バンジークスの返事にも驚いたのだったが。
 なぜあの日のことを未だ夢に見るのか、亜双義なりに結論は出ていた。あのやりとりが亜双義にとって印象深かったということも大きいが、あの時交わした言葉がずっと亜双義の胸の内に残り続けていた所為だ。
 叶えることのできなかった〝約束〟。――それが前世の亜双義一真の、きっと唯一にして最大の後悔であったからだった。

 アパートを出ると、暖かい日差しとともに少しだけ冷たい空気が肌を撫でる。このちぐはぐさが季節の変わり目といった様相だ。大学生の特権とも言える長い夏休みが終わり、後期の授業も始まってしばらく。あっという間に冬の気配も近づきつつあるようだ。
 駅へと向かういつもの道は、亜双義と同じように通勤や通学途中とおぼしき人々が多く歩いている。駅前の広い交差点に出た亜双義は、彼らの中に混じり赤信号が変わるのを待った。交差点の向こうでも、駅から出てきた人々が立ち止まり信号待ちをしている。この辺りは住宅も多いが、企業のテナントが入っているビルもそれなりに多い。
 今日の一限は成歩堂と一緒だ。〝成歩堂〟とは当然、成歩堂龍ノ介――前世を共に過ごした大親友である。成歩堂の方は残念ながら前世の記憶は持ち合わせてはいなかったが、高校で再会を果たして以来今世でも大のつく親友となっている。法学部の亜双義とは学部こそ違うものの、今世でも同じ勇盟大学生だ。一般教養をはじめ、学部の垣根の薄い講義は今期も被っているものは多い。
(ヤツはレポートは間に合ったのだろうか)
 今日の一限で提出予定のレポートについて、先週会ったときには難航していると成歩堂は頭を抱えていたことを思い出す。まあ、亜双義に助けを求めるLINEも入ってはいなかったから、きっとどうにかなったのだろう。ヤツは存外、やる時はやる男なのだ。
 そんな他愛の無いことを考えているうち、信号が青に変わる。人々が歩き出すのに合わせて亜双義も歩き出した。何人もとすれ違いながら亜双義は横断歩道を渡っていく。いつもと同じ、今の亜双義の日常だ。
 ふ、と。交差点の向こうから歩いてくる人々の中に、その姿を見た。
 最初はただの風景のひとつのように映ったその人物を、認識した瞬間に亜双義は自分の目を疑った。すれ違い、自分とは逆方向に向かっていく背中をばっと振り返る。心臓が一瞬にして早鐘を打つ。
 まさか。けれど間違いない。間違えるはずがない。
 ――だって、オレは、ずっと。
「バロック・バンジークス!」
 思わず、大きな声で叫ぶように呼び止めた。その声に何事かと亜双義を振り返った周囲の人々から一瞬遅れて、その背中が振り返る。
 こちらの姿を認めて、スーツ姿の彼がその色素の薄い目をはっと見開く。――目を見開いたのだ!
「…………、アソーギ?」
 そして彼はオレの名を違わず呼んだ。それが、何よりの証明だった。
 久しぶりに聞く、彼がオレの名を呼ぶ声。亜双義の中に一気にあの頃の感覚が蘇る。
 この身の内側に込み上げた感情を何と形容すべきか、自分の持っている語彙では到底表現しきれない感情だった。二人して、立ち止まってただ見つめ合う。時が止まったようとはこのことを言うのだろう。周囲の人々が何事もなかったかのようにまた動き始めても、互いに身動みじろぎひとつできなかった。
 亜双義がハッとした時には、信号がちかちかと点滅していた。このまま横断歩道のど真ん中にいるわけにはいかない。亜双義はバンジークスに駆け寄って、相変わらず生白いその手首をぐっと掴む。バンジークスはまた驚いた顔をしていたが、亜双義は構わずバンジークスの手を引いて近い方の歩道まで小走りで渡った。
 掴んだ手から彼の体温が伝わってきて、目の前の彼が夢でも幻でもないと、これは現実の出来事なのだと告げてくる。そのことに亜双義はまた胸が詰まる思いになった。
 通行の邪魔にならないよう歩道の端に寄って、ようやく手を離す。亜双義は目の前の彼の姿を改めて見上げた。今世でも彼は亜双義より長身だ。
「キサマ、どうしてこんなところに……、本当にバンジークス卿だな?」
 亜双義は滑らかな英語で目の前の男に問う。この国の日常生活では使うことの少ない英語が、まるであの頃のように考えるよりも早く口をついて出てきた。
 今更の確認だ。自分でも動揺していることが分かっていた。彼は当時着ていた仰々しい検事服ではなく現代の機能的なスーツ姿で、かつての彼にとって特徴的だったあの額の傷も無い。しかし、間違いなく彼はバロック・バンジークスその人だった。
「それはこちらの台詞で……いや、すまない。これから仕事だから長くは話せない」
 言いながらバンジークスはちらりと腕時計を見る。それもそうだ。朝にスーツ姿で歩いているということは、仕事に向かうところだったのだろう。彼は現代では会社員をしているのだろうか? 日本で? この国に住んでいるのか? 聞きたいことは山ほどあったが、彼の仕事を邪魔するわけにはいかないと亜双義は気を取り直す。それでも、今ここではいさようならとただ別れるわけにはいかなかった。
 亜双義はズボンのポケットから自分のスマートフォンを取り出し、バンジークスを見る。自分でも必死だと自覚していたが、こんな時になりふり構ってなどいられるかと思う。
「スマートフォンを出してください。私物のほうです。LINE……いやWhatsAppか? とにかく電話番号でもメールアドレスでも何でもいい、連絡先を教えろ」
 早口で捲し立てる亜双義に気圧されるように、バンジークスは自身のカバンからスマホを取り出す。あのバンジークスが現代の機器を当たり前に持っていることにどこか不思議な感覚を抱きつつ、亜双義は自分のスマホに入っているメッセージアプリを起動する。ついでに友達追加の手順に手間取っているらしいバンジークスのスマホも「貸してください」と半ば奪い取るように手早く操作をしてやった。されるがままといった様子のバンジークスは「そなたは今世でも相変わらずだな……」と苦笑していたが、亜双義は「キサマこそな」と画面から目を離さぬまま返してやった。第一印象とは異なり、内面はいやにおっとりとした人物であるのは今世でもどうやら変わらないらしい。
 バンジークスのメッセージアプリで表示させたQRコードを自分のスマホのメッセージアプリから読み取る。あっという間に友達登録が完了し、亜双義はバンジークスにスマホを返してやった。
「後で、連絡させてもらいます」
 彼と話したいことも、聞きたいことも幾らでもあって、けれどこれ以上引き留めるわけにはいかなかった。自分だって大学に行かなければならない。バンジークスは亜双義の言葉にその目を一度瞬かせて、そしてゆっくりと「ああ。……待っている」と頷いた。
 そんな短い言葉を交わせることが、亜双義にとってどれだけ嬉しかったか。記憶を取り戻して以来、どれだけ夢想してきたことか。
 亜双義はぐっと唇を引き結んで、一度頷いて「それでは、また」とその場を後にする。胸の内で暴れ回る感情と比例するように自分の足取りは速くなる。そうしていないと、この感情をどう宥めすかせば良いか亜双義にはまるで分からなかったからだ。


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