アフター/アフター・ザ・レイン収録「きみとならきっとなんだって」 sample

 顔を上げたバンジークスは、窓から射し込む西日の眩しさに目を細めた。大きめに設計された窓から取り込まれた太陽の光がたっぷりと部屋の中を満たしている。この部屋は日当たりがいいところが気に入ったのだ、とこの部屋を選んだ彼に言われたことをバンジークスは思い出していた。
 空になった段ボールをカッターを使って解体し、部屋の隅に寄せる。壁際にはまだ幾つか未開封の段ボールが置いてあり、引っ越しとは大変なものなのだなとバンジークスは思う。これまで――前世、、も含めて――ずっと実家で暮らしてきて、引っ越しとは縁のない人生を送ってきたから知らなかった。
 とはいえ、すぐに使うようなものはひとまず片付いたはずだ。バンジークスは部屋の中を見渡して小さく息を吐いた。この家に着いてからすぐにあれやこれやと片付けをしていたので、バンジークスの首筋には薄らと汗が滲んでいた。その汗はエアコンの冷たい空気ですぐに冷やされていく。
 新たに購入したシンプルなベッドに机と椅子、棚に並べられた仕事関係のノートや書類、クローゼットにかかった洋服、装飾のない真っ白な壁紙と天井。見慣れたものも見慣れないものも、真新しいこの部屋にあると全てが新鮮に思えた。新しい生活を始めるのだという実感がようやく半分くらい湧いてきて、しかしもう半分くらいは未だ不思議なふわふわとした気分だった。
 コンコン、と部屋のドアがノックされる。バンジークスが振り返ると、木目調の焦げ茶色のドアの向こうから聞き慣れた声が飛んできた。
「バロック。片付けは順調か?」
「カズマ」
 バンジークスはドアを開ける。すると目の前には、Tシャツにデニムのパンツというラフな格好の亜双義が立っていた。
「そろそろ買い出しに行こうと思うんだが」
「ああ、そうだな。こちらも最低限の片付けは終わったところだ」
「ならよかった。それでは出ましょうか」
 満足げに頷いた亜双義に言われて、バンジークスは財布やスマホなどの最低限のものをポケットに入れる。部屋を出て、玄関で靴を履きかけたところでハッと気付く。
「ああ、そうだ。鍵は」
 先程亜双義から渡されたばかりの部屋の鍵の存在を思い出しバンジークスは自室に戻ろうとするも、亜双義には「別にいいですよ。オレが持ってますから」ともっともな反論とともにけらけらと笑われてしまった。

 バロック・バンジークスには前世の記憶がある。
 その波瀾万丈なかつての人生の中でもどうしても忘れがたかった存在がいた。前世での弟子――亜双義一真と今世で再会をしてから、二年弱。そして、景色が煙るほどの強い雨の降るあの春の日に、彼とより深い仲になってから一年と少しが経つ。日本と英国の遠距離恋愛の期間を経て、バンジークスと亜双義は日本での二人暮らしを始めることとなった。心を決めたのはバンジークスの方からだった。
 意外と言うべきか、亜双義はあの日、『前世の自分は、貴方にともに日本に来てほしい、これからの人生に側に居てほしいと言いたかった』などという時を超えた盛大な告白をしておいて、いざ互いの思いを確認した後は「今は簡単にスマホで連絡が取れる時代なのだし、しばらくはこのままで平気だ。それぞれの生活もあるのだから、これからのことはじっくり考えよう」と気の長いことを言っていた。だから彼は、バンジークスからのこの決断にはたいそう驚いたようだった。
 日本への出張の機会に亜双義と直接会ってそれを伝えたのだが、あの時の亜双義のぽかんとした表情を思い出すと今でもつい笑いそうになってしまう。焚きつけたのはそちらだろう、とバンジークスは思いもしたが、亜双義の驚きようが可笑しくてそんなことはすぐにどうだってよくなってしまった。
 元々バンジークスの勤めていた企業には日本支社があったため――就職をする時、何か当てがあったわけでもないのに、前世からの記憶で日本に思い入れのあったバンジークスにとって『日本支社がある』ということがこの会社を選んだ要因のひとつだったということは誰にも言っていない。それがこんな形で役に立つとは――、自ら転勤願いを出した。そしてそれが無事に叶い、この夏からバンジークスは日本支社へ転勤することになった。
 一度転がってからはトントン拍子で、こうしてバンジークスは今、日本に居る。二人暮らしのために借りた、日当たりの良い2LDKのマンションの一室。今日からここで、自分たちの新しい生活が始まる。

 もう夕方だというのに、玄関から外に出た瞬間むわりと肌に纏わりつく蒸し暑い空気と夕日の眩しさに、バンジークスは思わずわずかに顔をしかめてしまった。先程まで冷房の効いた部屋の中にいたから尚更、外の暑さに改めて驚いてしまう。
「……暑いな」
 バンジークスが思わず小さく零すと、亜双義も小さく眉根を寄せる。
「うーん、夕方になれば多少は涼しくなっているかと思ったんですけどね」
 多少時間をずらしたところで焼け石に水か、などと亜双義は呟く。日本のことわざだ。
「まあ、どちらにしろ買い物には行かねばならないからな……」
 バンジークスは呟く。キッチンに鎮座する真新しい冷蔵庫は空っぽだ。最低限の食料品や日用品の買い出しは早急にしておかなければならない。
 できるだけ日陰に沿うようにしながら、バンジークスはずんずんと迷い無く進んでいく亜双義について歩く。越してきたこの場所は、亜双義が元々住んでいたアパートからほど近い。バンジークスも日本への出張の際に近くに来たことはあるし、何度か当時の亜双義の家に訪れたことはあるので、バンジークスにとっても全く知らない土地というわけではない。だがこの土地に数年間住んできた人間と、土地勘は比べるまでもないのだった。
「日本の夏はどうですか?」
 と、亜双義がバンジークスに話しかける。「英国よりも、ずっと蒸し暑いでしょう。貴方は昔から暑がりでしたし」と続けられ、バンジークスはなんとも言えない表情をしてしまった。亜双義は昔からバンジークスを暑がりだの寒がりだの気候の変化に関して軟弱者扱いしていたが、バンジークス自身は納得はしていなかったし、亜双義が気候の変化に強すぎるだけではないかとバンジークスは思っている。
「私が暑がりかどうかは知らないが、確かに暑いな。……ものすごく。こちらの夏は毎年こうなのか」
 英国にも四季は無いわけではないが、日本よりは曖昧だ。夏だからといって、こんなふうに肌が灼けそうだと思うほどの暑さになることはほとんどない。日が暮れてくる頃には涼しさを感じることも多いくらいだ。バンジークスが聞くと、亜双義は顎に手をやって頷く。亜双義の、考えるときの昔からの癖だ。


(後略)


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