「エンドロールにはまだ早い」 sample



 ◇ 十二月



 電光掲示板の数字が動いて、残り時間をカウントする。
 体育館の床に叩きつけるようなドリブルの音が響く。ボールは白のユニフォーム、相手チームの手に渡っている。そのままゴールに走って行く相手を花道は「にゃろう!」と叫びながら全速力で追いかけた。
 この広い会場を埋め尽くす観衆の声援も、確かに聞こえているのにどこか遠い。フル出場でもうほとんど四十分間動き続け、そして最初からしつこいディフェンスにあったせいで体力には自信がある花道でも流石に息は切れ始めていた。しかしこれ以上ないんじゃないかというくらいに強く響く心臓の鼓動が、花道を最後まで突き動かす。コートの上に立つ高揚と、勝利への執着。残り一分! とベンチからマネージャーや後輩たちが叫ぶ声がした。
 絶対に勝ちたかった。点差は四点。まだ十分に追いつける。ボールをくれ、とずっと心の中で――そして口にも出して――唱えながら花道はボールを追う。
 花道よりも相手のゴールの近くにいたおかげで先に追いついた流川が相手のシュートをブロックし、そしてそのまま奪ったボールを一気にこちらのゴールまで運んでいく。汗だくですっかり肩で息をしているくせに、どこにそんな体力を残してやがったんだと思うくらいのスピードで相手のディフェンスを全てかわし、二メートル級のブロックすらも軽やかに越えて流川の手から放たれたボールは美しいフォームでリングを通った。会場が大きく揺れるように沸き立つ。
 そして再びすぐにボールを手にした流川が今度こそ囲まれた。自分より大きい相手に張り付くようにされて、流石の流川でもここからのシュートコースは無いだろう。花道は再び床を踏みしめて駆け出していた。こっちだってマークされていたが、速度で無理矢理振り切る。白ユニフォームの巨体たちの隙間から、流川の目が確かに花道をとらえた。瞬間、その視線が自分に向けられたことに、条件反射のように花道の体中の血液が燃えるように熱くなった気がした。
 力強く放たれたボールが、イメージ通りの角度でまっすぐに花道の手に渡る。手のひらがじんと痛いほどだったが、そんなことにはまったく構うこともなく、花道はゴールポストへ向かった。ドリブル、そしてシュート。思い描いた最高のフォームでボールが軌道を描く。入る、と瞬間的に思った。
 流川の鋭い視線がずっと、花道とボールを見ているのが分かる。ボールはリングの淵にぶつかって、そしてネットを通って落ちた。ボールがバウンドした音と、会場がまた地鳴りのように沸くのを、花道は聞いていた。残り三十秒。これで同点。相手の監督が、あの三年コンビにボールを持たすなと叫ぶ声がする。
 花道は短く息を吐いて、そして再びコートにボールが放られた瞬間全速力で走り出す。それは反対側に居た流川も同じだ。残り二十秒。相手ボール。花道は目の前のボールに全ての神経を集中させる。
 これで最後だ、なんて。
 そんな感傷に浸っている暇など、自分たちにはない。

 今回の冬の選抜――全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会、通称ウインターカップは、湘北高校バスケット部のうち夏で引退しなかった三年生の流川楓、そして桜木花道の高校最後の試合となることもあって、高校バスケット界でも大きな注目を集めることとなった。一年生の時のインターハイでは初出場三回戦敗退という結果となったが、それでも全国大会初出場での大健闘、何よりあの山王工業を破ったというネームバリューは大きく、双方一躍全国でも名の知られる選手となったのであった。以降も湘北高校は三年連続でインターハイの切符を勝ち取ったが、最高でベスト四。かつての主将であった赤木が掲げた『全国制覇』の夢は未だ成し遂げられてはいなかった。
 流川と花道以外の三年生はマネージャーも含めて夏のインターハイを機に引退し受験に備えていたが、流川は卒業後のアメリカ留学がその時点でほぼ決まっていたし、花道もこのインターハイでの活躍が認められ複数の大学から声がかかり、最終的には大学バスケでも有数の名門である海南大へのスポーツ推薦での進学が決定していた。
 早々に進路が決まった二人は引退せず、高校三年生にとって本当に最後の大会である選抜まで出場することにした。それに、夏のインターハイで優勝を逃した悔しさもずっと心の内にあった。
 一昨年、赤木が為し得なかったこと。去年、宮城も惜しいところで逃したもの。引退していった彼らのことも思わずにはいられなかったし、何よりそんな悔いを残したまま終われるか、と花道自身が思ったのである。
 そしてそれはきっと流川も同じようなものだろうと、言葉で確かめずともその表情や練習に込める熱で花道は感じていた。
 絶対に本人には口に出しては言わないが、ヤツの実力は花道は内心で今は認めていた。ものすごく悔しいけれど。そして同時に、心の底では、花道は流川自身のことをやたらに嫌うようなことはなくなっていた――まあ、都度ムカつくことは山ほどあるのは変わらないのだが。
 二年になる頃には、ごくまれにではあるが試合中に誰よりも近く流川の存在を感じる瞬間さえあった。ハルコさんやアヤコさんの指示も、洋平たちの声援も、会場中の熱気も、全部遠くなる瞬間。コートの中でボールが弾むさまと、バッシュが床を蹴る音と、そして流川の存在だけを不思議なほど鮮明に感じた。流川の考えていることが分かって、あいつがパスを出しやすい場所に先回りしてやる。
 そうしたらパスが通る。ゴールを決める。会場が、建物ごと揺れているんじゃないかってくらいに大きく沸く、あの瞬間。そこに至るまでのすべてが花道を強く高揚させ、またバスケに執着させたのだ。
 まさかこんなにもバスケに夢中になって、バスケで進学まで決めるなんて、この高校に入学したときには花道はまったく想像もしていなかった。ずっと脇目も振らず、今だけを見て走り続けていた。そんな三年間だった。
 それが今日で終わりだなんて不思議な感じだった。いや、終わりじゃない。バスケは続けるし、流川がアメリカに行くのであれば花道だって当然のこととしてアメリカを目指すつもりであった。だが推薦の話があったことと、監督である安西と何度も話した結果、まず国内でもっと力をつけてからでもまったく遅くはないと花道はまず日本の大学でバスケを続けるという選択をしたのだった。
 だけど。
 花道がこのチーム、湘北高校バスケット部として――そして流川楓と、チームメイトとして公式戦を戦うのは、これが最後だった。



 試合終了のブザーが鳴り、そして控え室に戻ってからは、もうどんちゃん騒ぎだった。
 現役の部員以外にも試合を見に来ていた赤木や木暮、三井、彩子、受験のため花道たちよりも一足早くマネージャーを引退した晴子。そしてアメリカ留学から帰省も兼ねて一時帰国し駆けつけていた宮城も含め、かつての湘北高校バスケット部のメンバーが集まって湘北高校初の快挙――選抜での全国優勝を大いに祝った。
 とりわけギリギリまで拮抗した試合を決める最後のシュートを放った流川はもみくちゃにされ、いつからか顔見知りになった週刊バスケットボールの女性記者もこれは大々的に特集を組むと息巻いて、沢山写真を撮っていった後に「後日取材もさせてね」と選手たちに負けず劣らずのキラキラと嬉しそうな顔で笑っていた。
 まるで嵐のような一日だった。
 学校に帰るバスに揺られながら、不意にうたた寝から目を覚ました花道はぼんやりとそう思う。窓の外はもう暗い。冬は日が落ちるのが早いのだ。気付けば季節が真冬になっていて驚いてしまう。もう数日もすれば新しい年も来る。
 暗い窓には外の景色ではなく反射した自分の顔と、そして隣に座る流川のすっかり眠りこけた顔が映っている。他の部員たちも流石に疲労したらしく、普段は騒がしいあいつらもどうやら皆寝てしまったらしい。バスのエンジンの音がよく聞こえるくらいに、バスの中はすっかり静かであった。
 もう試合終了から何時間も経って、空調の効きが悪いバスの中の空気は冬らしく冷たい。試合中のあの滾るような体温はすっかり冷めたはずだった。
 だというのに、花道の身体の芯の部分はまだ強く、火傷しそうな熱を持ったままのように思えた。この季節にはすぐに冷えて仕方が無いはずの手も、今日はまだじんじんと熱い。
 試合の終盤、流川からのパスを受けてボールを掴んだときの感触がまだ手の中に残っている。あれは、一年の時のインターハイの山王戦のこともどこか彷彿とさせた。懐かしい――だけど昨日のことのように思い出せる。花道の中であまりに鮮烈な記憶だ。
 あそこからもう一度始まったのだ、とすら思えるような、花道にとってそんな記憶。
 隣で眠る流川の顔を、なんとなく窓の反射越しに見つめる。生意気でムカつくことばかり言う口は今は閉ざされ、意思の強い瞳も今は薄い瞼に隠されている。伏せられた睫毛の長さが、窓の反射で見ているせいで輪郭はぼんやりと薄いはずなのによく分かった。男の見た目の美醜にはとんと興味の無い花道でも、この男の見目が整っていることは今は流石に分かっていた。
 本当にムカつくヤツだ。そんなことを思いながらも花道はなんとなく、また眠くなるまでの間、その輪郭をずっと見つめ続けていたのだった。


 ◇


 じゃあなと手を振りながら、吐き出した息は薄く白い。名残惜しそうにしていた後輩たちの背中が小さく見えなくなっていくのをしばらく眺めてから、花道はもう一度短く息を吐いた。
 足を小さく動かすと、小石が擦れる音がいやに大きく聞こえる。つい数時間前までの試合の音、そして先程までの後輩たちとの賑やかな時間との対比で、余計に今の静かさが鮮明に感じるようだった。
 学校に帰って、帰りがけに名残惜しむように後輩たちと軽く立ち話をして。しかし彼らは帰り道が花道とは反対方向だからこの校門でお別れだった。校門の前で一人になった花道は、暗い夜を眺めながら「あー、……帰るか」とぽつりと小さく呟く。今日は薄曇りらしく、星はあまり見えない夜だった。
 花道が歩き出そうとした瞬間、後ろからキィ、と自転車のブレーキ音がした。
 何だと思って反射的に振り返ると、すぐ後ろに通学用のママチャリを手で引いた流川が立っている。花道は少なからず驚く。確かにいつの間にかいなくなっていたと思ったが、まあそれもいつものことだ。
 もう一人でさっさと帰ったものだと思っていた。花道たちが立ち話をしていた時間もそう長いわけではなかったから、その間に自転車を取りに行っていたらしい。いや、それにしては少し遅い気もするけれど。
 校門前にオレたちがいたから通れなかった? いや、コイツはそんなことを気にするようなヤツじゃねえ、と花道はすぐに思い直す。
「なんだおめー、まだいたのか」
 花道が言うと、流川は自転車のハンドルを握ったまま花道にさらに一歩だけ近付いた。そのまま自転車に乗ってさっさと行ってしまうかと思ったので、おや、と思う。相対して、まっすぐな距離になって、そうして流川はようやく口を開いた。
「桜木」
 そう呼ばれて、驚いた。
 自分も大概だと言われればそうなのだが、流川だって花道のことをまともに名前で呼ぶことなどそうそうなかったからだ。いつも「おい」とか「てめー」とか「どあほう」とか、散々な呼びつけ方である。それはお互い様なので別にどうだっていいのだが、とにかく珍しいことだった。
 しかしその次に続いた言葉に、花道はもっと驚くことになる。流川の唇がゆっくりと動いて、次の言葉を口にする。
「好きだ」
 ――確かに、花道の鼓膜を流川の低い声がそう揺らした。
 二人の間に小さく風が吹く。それは花道の頬をきんと刺すように冷たい風だったが、そんなことは今の花道はまったく気にならなかった。
 いや、気にする余裕がなかった、という方が正しい。
 校門の脇に立っている古い街頭、弱くなった蛍光灯がちりちりと小さく点滅して目の前の流川の姿を照らす。
「…………、は?」
 たっぷり時間を使って花道の口から零れ落ちたのが、そんな返答だったことも致し方ないだろう。
 聞き間違いか、冗談か、嫌がらせか。まず思ったのはその三つだったが、しかし流川はその力強い目で、まっすぐに射貫くように花道を見つめていた。それに気付いた瞬間、花道の心臓はいやに大きく鳴った。
 それは試合中にボールを追うときのあの鋭い眼差しによく似ていて、そんな瞳が今ボールでもゴールでもなく、花道だけを映していることに戸惑ったのだ。
 だから聞き間違いだと流すことも、冗談だろうと笑い飛ばすことも、嫌がらせかテメーと怒ることも、花道は咄嗟になにひとつできなかった。
 しかしそんな花道の動揺をよそに、流川はその長い睫毛を軽く伏せた後、もう一度花道を見てあっさりとした口調で言う。
「それだけだ。じゃあな」
 何も言えずにいる花道を放って、流川は自転車に跨がる。そしてそのままペダルに足をかけ、ぐんと踏み出せば流川の姿はあっという間に遠くなっていった。今度こそしんと一人きりになった校門前で、花道はその背中が小さくなっていくのをただ見ていることしかできなかった。
(……いや、オイ、言い逃げかよ)
 流川の姿が見えなくなってから、花道はようやく金縛りが解けたような心地になる。そうしたらまず沸いてきたのはそんな思いだった。
 なんなんだよ。本当に自分勝手なヤローだな。告白って返事がセットじゃないんか。
 好きってなんだ。
 あのバスケしか頭にないキツネのことだ、勘違いじゃないのか。あいつはバカだから、さっきの試合での熱を何か間違えてしまったんじゃないか。
 心の中でそんな文句も悪口もいくらでも浮かんでくる。昔の自分であれば、間違いなくその言葉は流川にぶつけていただろう。今からでも追いかけて文句をつけてやったかもしれないし、返答次第では拳もぶつけていたかもしれない。
 だけど自分らしくもなく、それらは何も口から出てきやしなかった。殴るどころか、足すらまるで根っこが生えたように動かない。
 だってさっきの流川の目が、今もまだ、花道の脳裏に焼き付いてちっとも離れてはくれないせいだ。
「おまえ、……」
 本気かよ、と花道は小さく零す。誰にも聞かれないその呟きは、すぐに冬の風に浚われていった。
 まだ試合の余韻でじんとする手のひら。それと同じくらいに、自分の顔がじわりと熱くなるのを花道は自覚してしまう。
 家に帰ってからも、寝る前までも。花道はこの夜の流川の表情を、眼差しを、好きだと言ったとの声色を、頭の中からずっと追い出すことができないままだった。


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