◇ 一月――上旬


(前略)

 やっぱり今日の――いや、この間からの自分はどこかおかしい。こんなの断って帰ってしまえばよかったと頭では思うのに、しかし花道は、律儀に流川を待ってしまった。
 この間のことを聞いてすっきりさせるためだ、と自分に言い聞かせる。聞いたってあの日からのこのモヤモヤとした気持ちが解決するかどうかなんて分からないけれど、少なくとも言い逃げされたままよりはマシだろうということにする。こんなふうにモヤモヤするのは、そのせいだ。
 流川と会うのはあの日以来だった。だからあの告白のことも、何も聞けちゃいないのだ。
 しかしいざ二人きりになると、何からどう聞けば良いのか分からなくなる。ちらりと見た流川の横顔もいつも通りで、あの時のことはいっそ幻だったのではとすら思えてしまう。いや、そんなはずはない、この耳で確かに聞いた。それは間違いないはずなのだ。
 花道は流川からふいと視線を外して、わいわいと賑やかな参拝客の様子を二人並んでぼうっと眺める。手に持った甘酒の温度がゆっくりと温くなっていくのを感じながら、花道はようやく口を開く。
 しかし、最初から核心を突くような気持ちにはなれず、結局花道の口から零れたのは至ってどうでもいいことであった。
「……ねーちゃん居たんだ」
 流川がちらりと横目でこちらに視線だけ寄越したのが分かる。花道はあえてそちらを見ない。流川の視線はまたふいと正面に戻り、「みっつ違い。いま大学生」といつもの素っ気ない口調で答える。それに「ふうん」と花道が返した声だって、我ながら素っ気ないものになってしまった自覚はあった。
 会話のラリーが終わって、再び沈黙が落ちる。
 流川と会話が盛り上がらないことなんて慣れている。だから普段は沈黙なんて気にもならないのに、やっぱり今日は何だかこの沈黙が妙に落ち着かなかった。
 花道は、長く息を吐く。仕方がないから、今度こそ花道から話を向けてやろうと思ったのだ。自分自身が沈黙に耐えられなかったというところもある。
 今度はちゃんと流川の方に顔を向けて、そして再び花道は口を開いた。
「こないだの話、しにきたんじゃねーのか」
 言えば、流川の視線が動く。最初は目だけでこちらを見た後、ゆっくりとした仕草で顔も花道の方に向けた。まっすぐに絡んだ視線。その目に見つめられると、いやに心がざわついた。花道が、これまでに誰に対しても感じたことのないざわめきだった。
 あの夜の流川の眼差しを思い出したのだ。
「……、本気かよ」
 躊躇いながらも静かに花道が言えば、流川はわずかに眉を動かした。
「疑ってたのかよ」
「疑うっつーか……」
 確かにアレは幻か何かだったのではと思わないではなかった。しかし疑うというよりは、なんというか、花道の中で花道の知る流川という男とその言葉がうまく噛み合わなくて、現実感が無かったのだ。
 だってあの流川だ。
 バスケと寝ること以外はとんと頭にないようなヤツだ。
 そんな男が、好き、なんて。本当にその言葉の意味を分かって言っているのかという気持ちにもなるだろう、と花道は思う。
(あのルカワが、『好き』? しかもオレに向かって?)
 思い出すと頬が熱くなりそうになって、そのことに動揺する。これは自分が告白することは経験はあれど、告白されることの経験はほとんどなかったから慣れていないせいだ――とそう思って、いやそれもそれでという気持ちになってしまう。
 バスケで活躍をするごとに試合の時の声援は大きくなったし、校内でも応援してくれる人は男女問わず随分と増えたものだが、ついぞ三年生のこの季節になるまで花道はかわいい女の子とか、誰かに告白をされることはなかったのだ。
 ただ一人目の前の、花道とそうガタイの変わらない不愛想な男を除いては。
「オレのことが好きって言うのは、つまり、なんだ。手を繋いだり、その……キスをしたり、とか」
 そうもごもごと花道が言うと、流川はなんとも言えない表情になった。なんだその表情は。花道が納得のいかない気持ちになっていると、流川は少し考えるような間の後に言う。
「……まあそーだな、多分」
「多分ってなんだよ!」
 流川の返事に思わずそう返してしまったのも仕方がないだろうと思う。てめーが言い出したことだろうが。
 やっぱり何かこの男は勘違いをしているのではないか。そんな気持ちになって、花道はぽつりと呟く。
「……なんで」
 口に出した意識もなかった言葉に、流川が小さく反応する。その野暮ったい前髪の奧の瞳の暗い色が、ほんのわずか深くなったように見えた。
「理由なんて必要か?」
「っ、」
「じゃあおめーは何でバスケが好きかって聞かれて答えられるか? そういうことだろ」
 そう言い切った流川に対し、花道は再び言葉に詰まってしまった。
 それはそのことに同意したからじゃなく、流川がこの感情をバスケットボールに例えたことに、花道は軽く衝撃を受けてしまったからだ。
 流川がどのくらいバスケが好きか、というか――いかにバスケのことしか考えていないバスケバカかを、三年間同じ部活で毎日のように顔を合わせ、時を過ごしてきた花道は知っている。
 流川は無意識かもしれない。それに、ただの例え話だからと言ってしまえばそれまでだ。
 だが、あの時流川が花道に言った『好き』は、流川のそういう引き出しの中に少なからずある感情なのだ、ということ。
 花道が言葉を探しきれず黙り込んでしまうと、また二人の間には沈黙が落ちる。流川はまた、考えるような表情をして小さく顔を上げ空を見た。その輪郭が、よく晴れた空から降り注ぐ太陽の光に照らされる。時刻はもうじき昼になる。
 流川は基本的に口数は多くないが、思ったことや言いたくなったことは花道同様基本的に躊躇わず言う性質だ。だから流川がこんな風に度々考え込んで、言葉を探すように喋るのは花道にとってもあまり見慣れないものであると不意に気付く。
 流川自身も、自分に馴染みの無い感情をどう伝えたものかと困っているのだろうか。あの流川が。自分勝手で我儘で、他人のことなんて基本的に関心のない流川が?
 流川が再び口を開く。その横顔を、その唇がゆっくりと動くさまを、花道は無意識に見つめてしまった。
「――おめーのことをオレのものにしたいと思った」
 流川のいつもの低い声が、いやに鮮明に花道の鼓膜を揺らす。
 いつの間にか賑やかなはずの周囲のざわめきも遠くなって、まるで見えない透明な壁ができて自分たち二人だけが別の世界にいるみたいな錯覚を覚えた。
 流川の口から、そんな言葉が零れるなんて、想像もできるはずがない。だけど聞き間違いじゃない。何かのスイッチが入ったのか、普段は必要最低限しか話さないくせに、今日の流川は花道のリアクションも待たずに言葉を重ねていく。
「おめーの視線の先にいるのはオレがいい。他のやつと楽しそうに喋ってんのもムカつく。桜木花道をオレのもんにしたいと思った」
 流川の顔が、視線が再びこちらへ向く。迷いの無い瞳。欲しいものはもう決まっている、そういう目だ。流川はバスケットボールに向き合うとき、いつだってそんな目をしていた。その瞳が今、確かに、花道の姿を映している。
「それは好きってことだろ」
 はっきりとそう言った流川に対して花道は、いや、と言いかける。しかしその後をどう言葉にしたものか分からない。
 それは、違う――のか? 本当に?
 花道がこの十八年近くの人生の中で幾度となく抱いてきた、これこそが『恋』だと信じてきた恋愛感情の在り方。それと流川が今言った『好き』は、到底似ても似つかないように思えた。
 だから咄嗟に、違うと言いかけた。
 だけどそれを勘違いだと、それは恋じゃないだろうと、どうやって花道は否定できるだろう。
 そう思ってしまったのは、あの夜花道を見つめた流川の瞳が、そして今花道を見つめる流川の表情が、どうしようもなく真剣だったからだ。だから喉まで出かかった言葉を花道は口にすることができなかった。
 あの流川とこんな話をしているからだろうか。妙に今に現実感がない。手の中の甘酒から伝わるぬるい温度だけはリアルで、それが今は現実であると花道の思考を引き戻す。
 少しの間黙った後に流川は、ぽつりと独り言のように言った。
「インターハイは獲れなかったけど、選抜は獲った。希望の進路も通った」
 流川はそこで一度言葉を切る。
「……アメリカに行く前に後悔を残したくなかった」
 その言葉を聞いた時、一瞬、花道は息が詰まるような心地になった。
 こいつは春からアメリカに行く。
 そんなこととっくに知っていた。そのはずなのに、思い知らされた。突きつけられたような思いになってしまったのだ。流川は四月にはもうこの街からいなくなる、遠く海の向こうへと行くのだということを。
 流川の言い草には、てめーの自己満足でこっちを振り回してんじゃねーよ、と以前までの自分であればすぐにそう言い返していただろう。しかし今は自分らしくもなく、そう言い返す気分にはどうにもなれなかった。
 柔い風が流川の長い前髪をちいさく揺らす。その瞳を縁取る真っ黒な睫毛がわずかに伏せられるのを、花道はぼんやりと見つめていた。
 アメリカは、遠い。
 こんなふうに近所で偶然顔を合わせることなんてまずありえない。海外に行った日本人選手の活躍は週刊バスケットボールのような専門誌であれば取り上げられることもあるかもしれないが、流川はすぐにプロ入りするわけではなく、あくまで大学進学という形式でのバスケ留学だ。テレビで取り上げられることなんてもっと無いだろう。
 流川が今どんなプレーをしているかを逐一見て、知ることなんてきっとできなくなる。個人的に連絡を取り合う手段だって――本当に取り合うかどうかは置いておいて――何日も日数のかかるエアメールか、数秒ですら高い料金のかかる国際電話くらいしか思いつかない。
 そういう場所に、春になれば、三年間ずっと近すぎるほどに花道の近くに居たこの男は一人で行くのだ。
「すぐにとは言わねーよ」
 短く吐き出された流川の息が、空気を薄く白く染めた。こいつも人間なんだなあ、という当たり前のことを花道は不意に思う。
「……卒業式の日までに返事くれ」
 流川はそう言うと、腰掛けていた囲いからするりと立ち上がった。コートのポケットに手を突っ込んで、小さく一歩踏み出す。敷き詰められた砂利が、流川の靴に擦れて音を立てた。
 流川は花道を振り返る。流川の方が立っているせいで、少しだけ見下ろされるような形になる。
「卒業式の翌週にはアメリカに発つ予定」
 逆光のせいで、流川の顔には薄く影が落ちる。
 そのせいだろうか。
 その時の流川が、花道の知らない顔をしているように思えて、そのたった一歩の距離が急にものすごく遠いもののように錯覚してしまったのは。



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