ブルー・モーメント sample
※漢字変換ミスなどがありますが、サンプルは元原稿通りに記載しています。1
刃同士がぶつかり合う高い音が耳を劈いた。ぎり、と一瞬拮抗した後、力押しでは勝ち目は薄いと判断した迅が距離を取る。太刀川の間合いをよく理解している迅は、旋空孤月がギリギリ届かない位置で止まって太刀川の方に向き直った。その両の手に握ったスコーピオン――つい最近迅の発案で開発された、新しい攻撃手用トリガーだ――が先程の太刀川の孤月との押し合いで僅かに刃こぼれしているのを視認して太刀川は小さく口角を上げた。
迅の目が僅かに細められる。知らない人間からしたら気にも留めないような何気ない仕草だが、太刀川はそれは迅が意識的に未来を視ようとする時の癖だと知っていた。迅が次の一手を決めるよりも前に、こちらから動き出す。太刀川がまっすぐ迅に向かって駆け出したことに気付いた迅が、寸でのところで太刀川の刃を躱す。しかし一瞬間に合わず、迅の肩口が割けた。切り落とすとまではいかなかったが、そこからじわりと迅のトリオンが漏れ始める。と思った瞬間、割けたのとは反対の迅の手が動きスコーピオンが太刀川に向かって目にも留まらぬ速さで振られる。僅かに残してある痛覚が、今の一閃で腹を斬られたことを太刀川に教えた。
――瞬間生まれるのは、避けきれなかった悔しさと、それ以上に大きな楽しさだ。
無意識に口角を上げていたのだろう、太刀川を見た迅は面食らったような表情をした後、苦笑する。
「……太刀川さん、斬られて笑ってるのってなんかちょっとこわいよ」
迅がそんなことを言うので、太刀川は返す。
「楽しいんだから仕方ないだろ」
その言葉が届いた瞬間、迅の顔に確かな喜色が宿るのをみた。
(ほら、お互い様だろ)
迅は太刀川のことをランク戦が好きすぎるとか戦いながら笑ってるのはこわいとか散々戦闘狂のように扱うけれど、そんなこと迅だって同じようなものだろうと思う。他の人と戦っている時はどうだか知らないが、少なくとも太刀川と戦っている時の迅は楽しそうで仕方がないように見える。まるでお気に入りのおもちゃで遊んでいる時の子どものようだ。
その手に握られたスコーピオンこそがその迅の熱の何よりの証明だった。太刀川に勝ち越す為につくったのだ、と少し前に迅が宣誓のように、予告のように、そう言った。その青に閃光のような光が宿って、絶対にこちらを倒してやるという熱が揺らめく。太刀川の不意を突けたと思った時には口角だって上がっているのだから、本当に人のことなんて言えないだろう。しかし太刀川はそれを茶化すつもりはなかった。
嬉しいのだ。同じ熱量で向かい合って、互いの一瞬の隙も見逃さないよう全神経を集中させて、相手の首を獲りに行く。ほんの僅かでも油断したならすぐに食い潰されてしまうであろうという緊張感と高揚感。太刀川はランク戦で戦うことやランク戦で勝つこと自体が大好きだったが、しかしこんなにも強い衝動のような大きな感情は、不思議なほどに迅と戦う時にだけ感じるものだった。
お互いのトリオン体から、じわり、静かにトリオンが漏れ出していくのが見える。しかしまだお互いにトリオン漏出過多で緊急脱出するほどでもない。太刀川は孤月の柄を握る手に改めて力を込める。
「もうちょっと楽しもうぜ、迅」
そう言えば、「悪いけど、楽しむ暇もなく仕留めさせてもらうよ」なんて言いながらも迅の目の炎は嬉しそうに揺れる。
ほらやっぱりお互い様だろう――なんて、笑い飛ばしてやりたい気分になった。
「あーー、楽しかった」
そう伸びをしながら言うと、隣を歩く迅がちらりと太刀川を見てわざとらしく肩をすくめる。先程までの隊服同士とは違い、今はお互いに同じ高校の学ラン姿だ。自分だってさっきまであんなに生き生きと楽しそうにしていたくせに、すかしたような態度が何だか気に入らなくて、太刀川は迅を肘で小突いてやる。
「なんだよ、お前も楽しそうだっただろ?」
「そりゃまあ、楽しかったけど」
迅の言葉に満足して、太刀川はふっと笑う。最初から素直にそう言やいいのに。しかしまあそれも迅らしさではあるのだけれど。
すっかり冬の名残も消え去って、夜のこの時間でも風はあたたかさを残して太刀川の生身の頬を撫でる。街路に植えられた木は僅かに桃色を残してすっかり葉桜になっていた。人が手入れをしなくなっても植物はしっかりと生きていて、すごいな、なんて自分にしては珍しいような感慨を覚える。
今から一年ほど前、突如現れた近界民という異界の者たちによる侵攻以来この辺りは警戒区域として指定された。住宅街の形は残ってはいるものの今は明かりはひとつも灯っておらず、不気味なほどにしんと静かだ。じゃり、と迅の靴が小石を踏んだ音が静かな住宅街に響く。
今日は門もあまり開いていないようで、警報も鳴らない。もう少し行けばこれまでと変わらない賑やかな街に出るが、今の三門市の中でもここだけは世界から切り取られたゴーストタウンのようだった。
しかしこれが、今の自分たちの日常だ。
「それにしても面白いな、あのスコーピオンってやつ。体からも生やせるなんて知らなかったぞ」
太刀川がそう言えば、迅は「びっくりした?」と得意げに鼻を鳴らす。その澄んだような青い瞳が太刀川を捉える。自分が発案した武器が褒められた迅はとても嬉しそうだった。
ボーダーでランク戦システムが始まって、すぐに太刀川と迅はランクのトップ一・二を争うようになった。最初こそボーダー歴が長くトリガーの扱いに慣れている迅の方が強かったものの、太刀川もすぐにそれに追いつき実力は拮抗、そして最近では太刀川が勝ち越すことの方が多くなってきていた。
結果は太刀川の勝利とはいっても、いつだってほんの一瞬でも気を抜いたらすぐに食らわれてしまいそうな勝負だ。太刀川と同時期に入隊した隊員もそれ以降に入隊した隊員も日々めきめきと力をつけていて、強い相手ならば沢山いる。しかし迅と戦う以上にわくわくしてヒリヒリとしてたまらない相手は他にいなかった。
何よりも、迅がこちらに向かってくる時のその目が好きだった。絶対に太刀川の首を落としてやるというその気迫と熱。プライドと強い負けん気を纏って、鋭くこちらを射抜くその青と対峙する度にたまらない気持ちになった。だから、太刀川がどんどん勝ち越していこうと、迅と戦うことが楽しいことには変わりはなかったのだ。
しかし少し前のある日のランク戦、突然迅が新しいトリガーを手に太刀川の前に立った。孤月よりも短く軽そうで、日本刀のような形をした孤月に対し短剣のような形をしたそのトリガーを迅は「スコーピオン」と呼んだ。
「太刀川さんに勝ち越すためにつくったんだ」――太刀川の知る迅の攻撃スピードを遙かに凌駕した速さで間合いを詰めた迅は、太刀川のトリオン供給機関をその短剣で正確に割いた。太刀川のトリオン体にヒビが入り緊急脱出する直前、そういやらしいと言った方がいいくらいに、楽しそうに満足げに笑いながらそんなことを言う迅に太刀川は本当にこいつはいい性格をしてるよなと笑い出したくなった。
悔しくて、楽しくて、嬉しくて、感情が身体を飛び出して暴れ出してしまいそうだとすら思った。
攻撃手用トリガーはそれまで孤月一種類しかなかったが、今にして思えば瞬発力とスピード、相手の裏をかくことに長けている迅が使うには確かに少々重い。もっと軽く小回りや工夫の効く武器の方が迅の強みをより活かせるように思う。そのことは迅自身が一番よく分かっていただろう。そんな迅に、スコーピオンという武器はぴったりとよく合っていた。
それまで太刀川が着実に勝ち星を積み上げていたところ、スコーピオンを使い出してから迅の勝率もぐっと上がった。いつでも出したり仕舞ったりできる、体のどこからでも生やすことができるスコーピオンは戦う度に意表を突かれた。体から生やせるのは今日のランク戦、しかも最後の十本目で初めて知ったことだった。まだ隠していた手があったのかと驚かされる。
太刀川がひとつ攻略したならば、また新たな手を迅が考えてくる。追いかけっこのようなそれが楽しくて仕方がなかったし、トリッキーな戦法でなく真っ向からの剣のぶつかり合いでも、もはや体の一部のように迅の動きにしっかり追いついてくるスコーピオンはなかなかに手強い。現在の迅と太刀川のランク戦の勝率はちょうど互角といったところまできていた。
とどのつまり、迅がスコーピオンを開発してからというもの、元から楽しかった迅とのランク戦がさらに楽しくて仕方がなくなった。迅だってそのようで、迅は開発したばかりのスコーピオンを試したい、太刀川はスコーピオンと戦いたいという思いも拍車をかけて毎日のように時間を忘れてランク戦ブースに入り浸るようになっていた。そんな風に過ごしていたら夜遅くなることもしばしばで、防衛任務の日ならともかくただのランク戦なら高校生はいい加減帰れと大人達に締め出される始末だった。今日もそうで、まだランク戦がしたいという熱を燻らせたままこうして渋々帰路についている。太刀川は自宅へ、迅は住み込んでいるという玉狛へ。
ここは警戒区域なので一般人は立ち入りが出来ないし、もうこの時間ではほとんどの隊員は既に帰路についている。まるで世界に二人だけみたいな静かな空間を、迅と二人並んで歩く。
「まさかまだ隠し玉があるんじゃないだろうな?」
太刀川が聞くと、迅は楽しげに口角を上げる。
「ふふ、ひみつ。あったとしてこんなところでバラすわけないじゃん」
「まあそうだろうな、先にバラされても面白くない」
そう言う太刀川に、迅は「太刀川さんらしいなぁ」と笑った。
「そういえば、もうじきスコーピオンが正式にボーダーのトリガーとして使われるようになるらしいよ」
迅がふと思い出したように言う。
「これは予知じゃなくて本部の決定。おれが使ってだいぶデータも集まったし、使いたいって人も多いみたい。太刀川さんも知っての通り孤月より色々自由度も高いし、使う人によって大分使い方も変わりそうだから、これからまた色々面白くなると思うよ」
「そうなのか」
太刀川の言葉に、迅は頷く。「例えば風間さんとかも気になってるみたい。風間さんのあのスピードでスコーピオン使われたらさらに手強くなるだろうな~」と迅は遠くを見つめるようにしながら言う。
孤月は確かに攻守に優れた万能型のトリガーだが、それが個人の強みを一番いい形で引き出してくれるとは限らない。スコーピオンという選択肢が増えれば、より手強い相手は増えていくだろう。太刀川も想像を巡らせる。それはとても楽しそうな未来だった。
しかし、同時にこうも思う。
「でも俺は、そうなったとしても迅と戦うのが一番楽しいだろうけどな」
素直な感情としてそう言えば、迅がその瞳をゆっくりと動かして太刀川の方を見る。
「そっか」
そう返した声音は、そっけない響きに反して何かを噛みしめるかのようだった。
二人並んで、静かな警戒区域を足音を鳴らしながら歩く。太刀川より少しだけ背の低い迅の長い前髪が歩調に合わせて揺れるのを、太刀川は横目でぼんやりと見ていた。
――熱を持て余している。
もっとおまえと戦いたい。会話が途切れてぽっと思考が空いてしまえば、今日のランク戦を思い返さずにはいられなかった。相対した時の視線だけで貫かれてしまいそうな熱い色も、策がハマったときのあのにやりと得意げな顔も、こちらが不意を突いた時のあの悔しそうな顔も、ひとつひとつ思い出す度全部太刀川の興奮を煽る。
思い出せば思い出すほど、いてもたってもいられないような気持ちになってしまう。このわだかまった熱を発散するにはランク戦をするしかないという気持ちになるが、しかし今日はもう本部に戻ってもランク戦ブースになど入れて貰えないだろう。
迅と視線が重なり合う。まるでばちんと閃光が弾けるようだった。その瞳の奥にまだ揺らめいてやまない熱を見つけてしまって、共鳴するみたいにまたぶわりと太刀川の体の中の温度が上がる。
(ああ、同じだ)
そう思うと、どうにも嬉しくてたまらなかった。いつも飄々と笑うその青い瞳の奥に、もっとおまえと戦いたい、と熱く重く燻る熱を秘めていることに気付いた時、太刀川がもっているのと同じ熱をその瞳にみた時、体が動いたのはただの衝動だった。
「――太刀川さん?」
急に近付いてきた太刀川の顔に、迅が驚いて目を見開く。そんな迅に構わず、太刀川は迅の唇に自分のそれで触れた。
触れ合った唇同士が柔らかくてあたたかくて、自分でしたくせに驚いてしまった。風のように軽やかでありながらもいつだってまっすぐな芯をもって、負けん気が強くて、ランク戦となればその手に持った刃のように鋭い青でこちらを射抜く迅の唇がこんなにも柔らかいだなんて、なんだかちぐはぐのように思えて、しかし妙に興奮を覚えて、感慨のようなものすら湧き起こる。触れてみなければ知らなかったことだ。お互いの全てを知っているなんて傲慢なことは思いやしないが、しかし、何度も斬り合ってきた迅の身体に関してこんなにも知らなかったことがあったなんて驚いた。
数秒。戦闘の時には考えられないほどに時間をかけてから、迅はようやく状況を把握したようで、太刀川の肩を引きはがした。
「……っ、!?」
見れば、迅の顔は真っ赤になっていた。いつもは年齢以上に冷静でのらりくらりと余裕ぶるその顔が、年相応に朱に染まって、余裕のない表情で唇がわななく。何かを言おうとしているようだが、驚きすぎて言葉にならないらしい。
――そんな迅を見て、かわいいな、だなんてことを思ってしまった。心の奥から降って湧いたような素直な感慨だった。
「……太刀川さん、なんで」
「なんで、……だろうなぁ」
迅に問われて、太刀川は首をひねる。自分でもうまく言葉にできそうになかった。ただ、持て余した熱が渦巻いて、同じ熱を宿した目の前の迅を見て、嬉しくて何かに突き動かされるように唇を奪ってしまった。
「なんでだろうなぁ、ってひどくない?」
「分かんないんだから仕方ないだろ」
「いや、太刀川さんは分かんないで人にキスとかしちゃうの!?」
そうさらに怪訝そうになって言う迅に、太刀川は自分の唇をゆるりとなぞりながら返す。その唇にはまだ先程の迅の温度が残っているような気がした。
「って言っても、キス自体今までしたことないからなー」
「はぁ~!?」
いやそれで、分かんないでキスって……太刀川さん時々ほんとわけわかんない……とかぶつぶつと言いながら迅はへなへなと脱力したようにその場にしゃがみ込む。拗ねたような照れたようなその仕草がなんだか子どもっぽくておかしい。あの迅がキスひとつでこんなに動揺するなんて意外で、逆にこちらも少し驚いてしまった。
自分でも何でだか分からない。だけど、後悔はひとかけらもなかった。
合わせた唇が心地よくて、動揺し照れる迅をかわいいと思った。こんな迅を見たのは初めてのことだった。迅の新しい顔を見られたことがなんだか嬉しくて、もっと見てみたいだなんて新しい欲が太刀川の心の中に芽生える。それは戦いの場における迅への興味だけではなく、間違いなく、迅そのものへの興味の類だった。
ああ、でも、と今更に思って太刀川は口を開く。
「嫌だったなら悪い」
「……それを言うのは、ずるいでしょ」
迅は瞼を小さく伏せて、決まり悪そうにそう言って頭を掻く。赤く染まった頬と、意外と長い茶色の睫毛を月明かりが照らした。嫌そうな顔ではないように見えていたが、やはりどうやら嫌というわけではないようだった。それに太刀川は嬉しくなる。
全部を分かり合えているわけではない。全部を知り合っているわけではない。育った環境もこれまでの生き方も性格も違う。お互いがお互いについて知っている部分もきっとほんのわずかだし、これまでの人生の中で互いと知り合ってからの期間はほんのわずかだ。
けれど、なぜか、確信のような感情がそこにある。
――やはりきっと自分と迅の、その中にある互いへの熱は、きっと同じ色をしている。