◇ ◇ ◇
3
その日は授業の後に二年生だけ参加する進路説明会があり、本部に行くのが少し遅くなってしまった。迅はもう本部にいるだろうか。進路なんて言われてもなぁ、と思いながら太刀川は進路説明会中はどうにか噛み殺していたあくびをする。
勉強なんてしたくないし、今はとにかくボーダーでのことが楽しくて仕方がないので、二年後の自分の進路なんてまだ考えられそうになかった。そんなことよりも今は、迅とランク戦がしたい。そう思えば通い慣れた本部へと向かう太刀川の歩調は自然と早くなった。
もう九月とはいえ、早足で歩けば多少の汗は滲む。喉の渇きを覚えて、太刀川はランク戦ブースに入る前にそのすぐ近くにある自販機に立ち寄ることにした。
自販機が見えてきたところで見慣れた青の隊服を見つける。その男は茶色の長い前髪を揺らして、丁度自販機から小さなサイズのペットボトルを取り出すところだった。
「よー、迅」
「太刀川さん」
声をかけると、迅がこちらの方を見る。太刀川がここに来ることをすでに視ていたような、流れるような反応だ。しかし太刀川を捉えたその青い瞳が何だか少しだけ元気が無いように見えて、おや、と思う。迅のことをよく知らない人間であれば気付かない程度の、しかし太刀川には確かに気付けてしまったその変化。なぜだろう、と思う。何かあったのだろうか。
「進路説明会だったんでしょ。おつかれ、思ったより早かったね」
「ああ。すげーねむかった」
ポケットから小銭を取り出しながら太刀川がそう素直に言うと、迅はけらけらと笑ってペットボトルの中のジュースを飲んでいた。
「将来のことなんて、まだ考えられねーよなぁ」
言いながら、点灯した自販機のボタンの中から好きなジュースを選んでボタンを押す。ガコン、と缶が取り出し口に落ちてくる音がした。と、すぐに同意が返ってくると思っていたので返答のない迅を不思議に思って太刀川は振り返る。
「そうだね~」
太刀川が振り返るのと同時にそう言う迅は、いつもののらりくらりとした涼しい表情を貼り付けていた。太刀川が缶ジュースのプルタブを開けるのを見ながら、しかし太刀川が何か言葉を紡ぐのを遮ろうとするように迅は続ける。
「それでさ、今日おれ夜の防衛任務担当なんだよね。だから今日は十本勝負一回だけ。早くしないと時間なくなっちゃうよ」
「マジか」
「マジ」
それなら早くやろう、と言って太刀川は急いで缶の中のジュースを飲む。冷たくて甘い味が、太刀川の渇いた喉を潤していく。まだ残暑の厳しいこの季節に、この冷たさは生き返るようだった。
慌ててジュースを飲み出す太刀川を見ておかしそうに笑みを浮かべる迅は、気付けばすっかりいつもの調子に戻っていた。結局あの表情は、あの目は何だったのだろうか。結局分からないままだ。
(まぁ、迅が言いたくないならいーけど)
太刀川はそう心の中で呟いて、一気に飲み干したジュースの缶を備え付けのゴミ箱に放る。ガコンと音を立ててゴミ箱にきれいに入った缶は、中の空き缶たちにぶつかって乾いた音を立てた。迅も飲み終えたペットボトルをゴミ箱に入れる。
「じゃー行くか」
そう言った太刀川に、迅は「了解」と返し、二人並んで個人ランク戦ブースへと足を向けたのだった。
――迅とそんなやりとりをした翌週の、土曜日の朝。本部から支給されたボーダー隊員用の携帯端末にメールが入った。太刀川はそれをいつものように本部に向かう前、自宅で受け取った。
B級以上の隊員に配信されているらしいその文章によると、現在本部が管理している黒トリガー・『風刃』の所有者を決める為、近々起動テストと起動者による風刃争奪の模擬戦が行われるのだという。メールには子細にその日程まで記載されていた。
(なるほど)
太刀川は心の中で呟く。太刀川の意識はメールに記載されている風刃についてではなく、記憶の隅に引っかかっていた迅の態度に向いていた。先週の、妙に元気が無いように見えたあの日の迅のことを思い返して、ようやく納得をしたのだ。
(迅は、知ってたのかもな)
知っていたというか、むしろもうそのサイドエフェクトでこの未来を視ていたのかもしれない。
黒トリガーとは、人の命と引き替えに作られる強大な力を持つトリガーだという。そして迅の師匠――最上さん、と言ったか――は、今のボーダーが設立される少し前の戦いで黒トリガーになったそうだ。その黒トリガーは今は本部が管理しているとのことだった。
迅と知り合って間もない頃、自分は忍田さんに剣術を教えてもらっているが迅にもそういう師匠のような人がいるのかと雑談の中でふと聞いてみたら、迅は太刀川が少し驚いてしまうくらいに変わらない温度で、なんてことない風に、そんな過去を教えてくれた。
本部に黒トリガーは他にもあると風の噂程度に聞いたことはあるが、恐らく今回所有者を決めるその『風刃』という黒トリガーこそがその最上さん、なのだろう。推測の域を出ないが、しかしそれで間違いない気がした。太刀川のただの勘、と言ってもいい。しかし太刀川は、こういうときの勘はだいぶ鋭い方だ。
師匠の黒トリガー。太刀川の師匠である忍田は今も存命だし、太刀川は幸いにして身内や友人など近しい存在を亡くした経験はまだない。昨年のあの侵攻でも、太刀川の住む地域は侵攻の中心部からは遠かったために、人的被害は幸いにしてかなり少ない地域であった。また、太刀川も黒トリガーという存在こそ知っていても直にそれを手にしたり相手取って戦ったりしたことがあるわけではない。黒トリガーがどういうものなのか、というのは話にしか聞いたことがない。
だから実感としては正直なところあまり分からない。けれど、もしも師匠である忍田が黒トリガーになったとしたら。それを自分以外が使うことを想像して、太刀川は眉根を寄せた。それはあまり、というかかなり、気分の良いものではない。
しかし自分が使うにしたって、かつての師匠を自分のトリガーとして、つまり武器として使うというのは――。想像してみようとしてもなかなか現実味が無くて、途方も無いような気持ちになった。
今その状況に現実のものとして立たされている迅は、きっと太刀川が軽く想像してみた以上に色々な感情を抱いているだろう。あいつは色々と、考えすぎるほどに考えるやつだから。それに、換装体のデータに師匠の遺品であるサングラスをつけているところからして、何でもない風に言いながらもあいつの師匠への思いはきっと今もなお薄いものではない。そう思えば、感情が揺らぐのもある種当然のことだろう。
しかし、黒トリガーはとても強いと聞く。そんな黒トリガーの力を仮にあいつが得たならば、きっともっと面白い戦いができるかもしれないと思うと、ライバルとしてわくわくするような気持ちも確かにあった。あいつとまた新たな、楽しい戦いが楽しめるかもしれない。
そんなことを考えながら本部からの通知をスクロールすると、本件の注意事項として何点か記載されているのを見つける。その中に気になる文言を見つけてしまった太刀川は、一語一語を咀嚼するみたいにゆっくりとその文字を目で追った。
『――黒トリガーはノーマルトリガーよりも圧倒的に強大なトリオン能力を持つものである。黒トリガーの所有者になった場合その者のランクは『S級』となり、ランク戦への参加権利は無くなるものとする』