Addicted sample




 今夜雨が降り出すのが、視えてなかったわけじゃなかった。
 本当であれば、雨が降り出す前に帰るつもりだったのだ。今日は本部でのちょっとした会議の後は特に予定も無かったから。出歩く時はできるだけ身軽でいたいという気持ちから、迅は傘を極力持ち歩きたくはない方だった。だから今日も傘を持って来てはいない。
 帰りしなに本部の廊下で、大学帰りの太刀川と会う可能性は五分五分だった。そうして廊下の角を曲がった時にばったりと太刀川に会って、迅の姿を認めた太刀川の口角が嬉しそうに上がってランク戦に誘われたなら迅だって断ろうという気なんてどうにも起きやしなかった。少しだけなら――と言いながら連れ立ってランク戦ブースに向かう途中、未来視があまり良くない方に傾いたのが何となく分かったけれど、そんなことよりも太刀川と刃を合わせられるという目の前の高揚が勝って意識の隅に適当に追いやってしまったのだった。

「……あー」
 ランク戦ブースを出て時計を見た時点で、思っていた以上に長居してしまったことは分かっていた。最初は十本だけという話だったのが、っているうちに自分もむきになってしまって、もっとやろうと言う太刀川にどんどんと乗っかってうっかり時間を忘れてランク戦に明け暮れてしまったのだ。
 ランク戦ロビーをはじめ本部にはもう人もまばらだった。人気の少なくなった本部の廊下を歩きながら窓の外を見れば、すっかり厚い雨雲が空を覆って、小さな雨粒がぽつりぽつりと窓を伝い始めていた。しまったな、もう降り出す時間になってしまったか。そう思って溜息混じりの声が零れる。
「ああ、雨降ってるな」
 迅の声に、隣を歩いていた太刀川も窓の外を見て言う。
「降り出しちゃったね。太刀川さん、念の為聞くけど傘は」
「持ってないな」
「だよね」
 予想通りの返答に、小さく息を吐いてさてこれからどうしようかと考える。
 この後向かう予定なのは、玉狛ではなく太刀川の自宅だ。ランク戦ブースを出た時点で太刀川に誘われて、迅も二つ返事で了承した。というか、そうなるだろうということはサイドエフェクトがなくてももう分かっていた。ランク戦に復帰してから、お互いに後の予定がなければそれはもうお決まりのコースのようになっていたからだ。
 だからもう、ランク戦を始める直前に今日の夕食当番の京介には夕飯はいらないという旨は連絡済みだった。既に材料は買ってしまっていたかもしれないが、玉狛には食べ盛りの遊真たちもいるし一人分の材料は誤差の範囲内だろう。もしそれでも余ったらきっとタッパーに詰めて冷蔵庫に入れてくれているだろうから、翌日にでも食べれば良いだけの話だ。
 なのであとの心配は、この雨をどう乗り切るか――。本部から多少距離のある玉狛と比べれば警戒区域スレスレのところにある太刀川のアパートはだいぶ移動距離としては短くはなったものの、どちらにしろ雨が降り出してしまっている以上濡れて帰ることは必至だ。
 しばらく本部で雨宿りというのは、これから朝まで雨は止みそうにないどころかどんどん強くなるだろうことは視えていたので却下だ。ここは警戒区域のど真ん中なので、勿論近くにコンビニもない。そんなことを考えているうちに、気付けば本部の正面玄関に辿り着いていた。目の前で降っている雨は、先程廊下で窓越しに見たものよりも徐々に勢いが強まってきているように思えた。
(うーん、事務室に行けば傘の貸出は多少ならあるだろうからそこで傘を借りていくか、それともここからだと多少遠回りになるけど連絡通路で太刀川さんちに一番近い出口から出るか、あるいはもう太刀川さんの家の近くまで換装して帰るか……)
「ねえ、太刀川さん――」
 今思いついた選択肢をとりあえず太刀川に提示してみようと迅が話しかけたのと、太刀川が雨の中へ一歩踏み出したのは奇しくも同時だった。
「は!?」
「うちも近いし、走って帰ればどうにかなるだろ」
 ばしゃん、と太刀川の靴が小さな水たまりを踏んで水が跳ねるのを見た。急な太刀川の行動に迅が呆気に取られているうちにも、太刀川はぐんぐんと雨の中を駆けていく。
 いや、近いって言っても、隣近所なわけじゃないんだから。警戒区域がそれなりの広さがあることなんて、他でもない太刀川はよくよく知っているはずだ。生身で駆けていくならば余計に距離を感じるだろう。だというのに。
(……本当、変なとこ思い切りのいい人だよね!)
 迅がこのまま躊躇っていればあっという間にその背中は見えなくなってしまうだろうが、太刀川はこちらを振り返りもしないし、スピードを緩めもしない。まるで迅がついてこないなんてわけがないとでも思っているかのようだった。
「あーあ、もう」
 悔しいけれどその通りだ。こうなってしまえば結局、迅は太刀川を追いかけずにはいられない。だってそんなに、変なところで信頼されてしまったら、応えたくもなってしまう――自分でもばかみたいだけれど、太刀川とのことになるとどうにもこんな馬鹿馬鹿しいことでも厭わなくなってしまう己がいることを自覚していた。
 本部の玄関から一歩出て行けば、すぐに迅にも容赦なく雨粒が降り注ぐ。先程太刀川が踏んだ水たまりを同じように迅も踏んだ。水が跳ねる軽い音を聞きながら、目線は正面の太刀川を捉えたまま、ぐんとスピードを上げて雨が彼の輪郭を烟らせる前にとその背中を追いかける。
 降り続ける雨が、あっという間に迅の服をじっとりとくまなく濡らした。ポケットに入れているボーダー支給の携帯端末はトリオンで動くから水に濡れたとしても関係はないし、私用のスマホも防水仕様になっている。こんなことで防水に感謝することになるなんて、購入した時には予想もしていなかったけれど。この歳になって、傘も何もなしに雨の中に飛び出していくことになるなんて思ってもみなかった。
 けれど全身びしょ濡れになっていくにつれて、それに反比例するみたいに何だか一周回って楽しくすらなってきてしまうのだから。
 そこかしこにできている大小の水たまりなんて気にもせず、太刀川まで最短距離で雨の中を駆けていく。太刀川の背中がすぐ間近まで迫ったところで、足音に気付いたらしい太刀川がこちらをちらりと振り返る。そうしていやに楽しそうに、悪戯をした子どもみたいに楽しそうににやりと笑って。
 その格子の目とばちんと目が合った瞬間、そこに未来視が重なる。
(――、っ)
 ぱちり、とひとつ瞬きをする。そこに映ったのは、まだ確定はしていないけれど、きっとこの先に待ち受けているだろう気恥ずかしいような、なんというかそういうあれこれで――。
 まあ家に行くっていうことはお互いにそういう下心は込みだというのは、暗黙の了解ではあるけれど。
「迅」
 太刀川が楽しそうに呼ぶ声に咄嗟にうまく返事が出来なかったのは、向かい風に乗って降ってくる雨粒が邪魔だったから、ということにさせて欲しかった。



「うーわ、びちょびちょだな」
 太刀川の家にようやく辿り着いた頃には、お互いにもう全身びっちょりと濡れそぼっていた。水を吸うと服って重くなるんだな、なんて至極当たり前のことを体感として改めて知る。玄関に入って鍵も閉めて一息ついたところで、広くはない玄関に二人で立ったまま太刀川が平坦な声でそんなことを言う。そのシャツの裾からはぽたぽたと水滴が落ちて、足下にじわりと小さな水たまりを作り始めていた。
 濡れながら走ったせいで多少乱れてしまった前髪を適当に後ろになでつけ直しながら、迅は溜息交じりに返す。
「いやー、だいたい雨の中飛び出していった太刀川さんのせいだよ」
 そうあえてチクリと刺すように言ってやれば、そんなことを気にした風もなく太刀川は言う。
「でも最初は小雨だったろ、今飛び出していったらもっと濡れてたろ」
 確かに、本部を出た時と比べ現在はもっと雨の勢いは強まっていた。ざあざあと音を立てて降りしきる雨はあっという間に土砂降りといった様相になり、扉一枚隔てた玄関でも僅かに雨音が耳に届いてくる。そう言う点で言えば太刀川の言うことも論理としては間違っちゃいないかもしれない、が。
「どっちにしろ変わらないんじゃないかな、っていうかもっといいやり方あったと思うよ。事務室で傘借りるとか、もっと近い出口から出るとか、せめて警戒区域の中は換装して帰るとかさあ……」
 そうぶつぶつと言っていると、太刀川はやっぱり楽しそうになっはっはと笑っていた。全身すっかり濡れているというのに不思議なほど楽しげな太刀川を見ながら、太刀川さんらしいなあと思ってそれをどうにも好ましく思ってしまう気持ちと、疑問や呆れの気持ちが混ざり合う。
「びしょ濡れでも何でそんなご機嫌なの太刀川さん」
 聞けば、太刀川は事も無げに答える。
「いやーなんか、こんだけずぶ濡れだと逆にくだらなくて笑える」
 太刀川はそう言って、雨のせいで変な角度で額に貼り付いてしまった前髪を適当に指で避けてからおかしそうに目を細めた。
 そんな太刀川の言葉に、迅はぐっと咄嗟の返答に困って口ごもってしまう。雨の中を太刀川を追いかけて駆けていた時に、同じようなことを自分でも思ってしまっていたことがフラッシュバックしたからだ。そんなところでも感情がシンクロしていたことに、内心でじわりと動揺する。
 恥ずかしい、と、嬉しい、と。そう思ってしまう自分がまた居たたまれなくなってしまっていけない。だから、悔し紛れに本心でもない言葉を返してやる。
「それに付き合わされたおれの気持ちも考えてくれない?」
 結局こんな悪態じみた返答をするのも、太刀川への甘えだということは本当は分かっている。太刀川はこんなことで気分を害したりなどしないだろうという。そして、本心だってどうせある程度はバレてしまっているのだろうなんてことも含めて。迅の言葉に、太刀川はやっぱり何ら気にした風もなくにまりと口角を上げる。
「こーいうくだらないこと、お前とやるから楽しいんだろ」
 そう言われて一番に浮かぶ感情が、嬉しい、なのだから自分も大概どうしようもなかった。

 三年とちょっと。太刀川と本気で刃を合わせることがなかった期間だ。その間も顔を合わせれば普通に立ち話くらいはすることはあったが、ランク戦でバチバチに競っていた頃のようなお互いの心の深いところまで暴き合うみたいな鮮烈さはすっかり薄らいでいて、このまま太刀川とはこんな気楽で気安い関係のままやっていくんだと思っていた。太刀川と再び対峙して、風刃を手放す未来が可能性の一つとしてはっきりと視えるようになるまでは。
 再びA級に戻って、また太刀川とバチバチとり合うようになって。何も背負うものもなく、ただ純粋に互いの強さを競う為だけに刃を合わせるようになれば、今までどうしてそんな風に思えていたのか、今までどうして平気でいられたのか分からなかった。
 太刀川の方からだって、これまでの距離なんてまるでなかったみたいに、お前がいいお前とだから楽しいなんてあの時と変わらぬ――むしろ一層高くなった熱量で言われてしまうのだから、もう。
 そんな関係性に戻れば、まるでごく自然なことのように友人としての関係もすぐに昔のようにより深いものに変わっていった。そうしていつしか、友人の枠すら飛び越えてしまったのが今だ。
 太刀川に呆れたようなポーズを取りながらも、太刀川が駆けだしたのを素直に同じように雨の中追いかけた自分も結局同類なのだと、本当は知っている。

 太刀川の顔の輪郭を、小さな水滴がつつ、と伝っていくのが見える。それを何となく目で追っていた。顎のところまで到達した水滴がじわりと顎髭のあたりで滲んだ後、ぽつりと一滴床に落ちていった。
 なんだかそれが、どうも扇情的に見えてしまって。
 黙ってそれを眺めていた迅に気付いて、太刀川が不思議そうに「ん?」と迅に聞く。迅の心の奥で確かにちいさな炎のような欲が揺れた。何てことない問いかけのはずなのに、その声がひどく優しいように感じられて、迅はぐっと喉仏を上下させる。
 すう、と太刀川に気付かれない程度の大きさで、意識的に酸素を肺に取り込む。冷静に、普通の声音に聞こえるように心がけながら迅は口を開いた。
「……、このまま玄関で駄弁ってると流石に風邪引くよ、体が冷える」
 迅の言葉を聞いた太刀川は、拍子抜けするほど素直に「それもそうだな」と頷く。そうして二人して、ようやくずぶ濡れの靴を脱ぎ始めたのだった。



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