パーフェクトマイラバー sample




 初めての後の朝というのはもっときらきらとしていて、気恥ずかしくて、でも嬉しくて、幸せな気持ちでいっぱいになるものなのだと。別に初夜に幻想を抱いていたつもりなんてないけれどそういうものなんだろうって、ずっとぼんやりとでも思っていたんだ。

 瞼の裏に眩しさを感じて小さく眉根を寄せた。じわりと浮上してきた意識に、まだ眠りと現実の境界を漂うような心地のまま迅はゆっくりと目を開ける。いつもの、なんてことのない朝と同じ仕草。そうしてまず視界に飛び込んできたのはいつもの朝とは全く違う景色――太刀川のドアップの寝顔だったものだから驚いて思わず声を上げそうになってしまった。
 直後、昨夜の出来事が頭の中に蘇って、先程まで心地よく頭の中を覆っていた眠気が一気に吹き飛んでしまう。このよく晴れた爽やかな朝の風景には似つかわしくない素っ頓狂な声は喉元でどうにか堪えたものの、色々な居たたまれなさについ身じろぎをしてしまったせいで、その振動がすぐ目の前にいる太刀川にも伝わってしまったらしい。太刀川が「んー……」と小さく寝ぼけたような声を零して、まだ動揺の残る心では、その無防備な声にすらやけに心臓を揺らされてしまった。
 この状況と、思い出してしまった昨夜の己の失態、そして目の前にいる太刀川の姿。朝からぐしゃりとかき乱された感情をどうすればいいのか分からない。
(いやあ、だって、だってさ――。何やってんだ、昨日のおれ)
 いっそ夢だったらよかったのに、いや夢だったかもしれない、と一瞬現実逃避をしようとするも、状況証拠が揃いすぎている。太刀川の家での朝、ひとつのベッドの上、半裸の二人。思い出させられるあらゆる感触や温度は、夢の中の出来事だと言うにはあまりに生々しかった。まだ確認していないけれど、ベッドサイドには脱ぎ散らかされた衣服が、ヘッドボードには出しっ放しのローションやゴムの袋が置いてあることだろう。
 多分、昨日のことは夢じゃない。それが本来であればすごく嬉しいことのはずなのに、昨夜のことを思い出すごとに自分自身への情けなさやら反省やらのほうがどうしたって大きく膨らんでいくばかりだった。
 どうすればいい、と思いながらもなにひとつどうにもできないままに、目の前の太刀川の瞼がゆっくりと上がっていくのをいやにじっくりと見つめてしまった。朝日に照らされた太刀川の睫毛の隙間から茫洋な瞳が姿を現して、迅の姿を認めるとゆっくりとした仕草で細められた。これまでにないくらいの至近距離で目線が合って、この人と一線を超えてしまったということをまざまざと思い知らされるような心地になる。
「はよ、迅」
 太刀川は事も無げに、迅にそう朝の挨拶をする。それに返事をしようとして、しかしぐるぐるとお腹の辺りで色々な思いが燻っているような心地のままだったから、言葉が音にする途中で喉奥で変に突っかかってしまった。
「……おはよ」
 いやにぎこちない返答になってしまったことがまた情けない。迅は思わず小さく唇を噛みしめてしまう。いつもなら得意分野のはずの、余裕ぶった表情を取り繕うことすらもできていない。太刀川はそんな迅を見て、くっと笑った。しょうがないやつだな、とでも言いたげなその表情は、しかしいやに優しくもある。昨日眠る前にも言われていたけれど、朝起きてもやはり太刀川は昨夜のことを悪い意味では全然気にしてはいないようで、むしろこの朝の光みたいにすっきりとしたくらいの顔で迅を見つめる。
「あのなあ、……」
 太刀川は言いかけてから少し考えるような素振りをみせた後、言葉の代わりにぽんと迅の頭に手を置いた。そのまま迅のセットしていない寝癖のままの髪の毛をくしゃりと軽くかき混ぜるみたいに撫でられる。
 普段であれば、髪がぐちゃぐちゃになるからやめてくんない、なんて生意気ぶって言いたくもなる仕草のはずなのに、その大きな手のひらとあたたかな温度の心地よさとくすぐったさが心地良くて何も言えなくなってしまった自分がいた。どこまでもいつも通りになれない自分に、余計に動揺させられてしまう。
「俺は楽しかったし、嬉しかったぞ、昨日」
 そうまっすぐに迅を見て言う太刀川の声が、ちょっと驚いてしまうくらいに柔らかくて、この人こんな風な声出せたんだ、と驚いてしまう。それが気恥ずかしくもくすぐったくもあるのに、少なからず気を遣わせてしまっているのだということに対する情けなさも同時に襲ってきてしまうのだからどうしようもなかった。
「……ん」
 返事はひどく曖昧なものになってしまった。しかし太刀川はそれを咎めることもせず、元々近かった距離をもっと詰められたと思ったら唇にキスを貰った。見た目に反してひどく柔らかなその唇は触れるだけで離れて、迅の頭に触れていた手も、もう一度小さくくしゃりと迅の髪を撫でた後にするりと離れていく。
「とりあえず腹減ったから朝飯にするか」
「……そうだね」
 迅の返事を受けて太刀川は、先程までの甘くなりかけた空気などどこ吹く風といった様子で軽やかに体をベッドから起こす。それを目線で追いながら、迅も緩慢な仕草で上半身を起こした。
 ベッドから降りた太刀川は、パンツ一丁のまま部屋の隅に備え付けてあるクロゼットの前まで移動してその扉を開き、ハンガーにかかっていた適当なシャツを手に取った。太刀川のパブリックイメージとは少しばかり違うような落ち着いた色味の服が並んだクロゼットをぼんやりと眺めながら、いやおれも着替えないと、と慌てて床に放り投げられていた自分の衣服を手に取る。
 迅は着替えなど持ってきてはいないので、服は昨日着てきたものと同じものを着るしか選択肢がない。どうせ外に出る時にはトリオン体になればいいから他の人から見た時にはどちらだって関係がないのはよかった、だなんてこんなことでトリガーに感謝することになるとは思いもしなかったが、しかし昨日と同じ服を着て帰るというのはいかにも朝帰りという感じがしてどうにも気恥ずかしく座り悪いような心地にさせられる。
 いや、朝帰りで全く間違いはないんだけどさ。そう思ってしまうと、同時に昨夜のあれやこれやを――主に自分自身の情けない失態だ――思い出させられてしまって、また反省や気まずさや恥ずかしさで叫びたいような今すぐここから逃げ出してしまいたいような気持ちに心がかき乱されてしまった。
 太刀川の一人暮らしの部屋の中、すうと息を吸えば男っぽいくせにどこか清潔感のあるにおいをふわりと感じて、この部屋には初めて来たわけじゃないのに心が小さくざわめくみたいに揺れ動く。そんな気持ちをかき消そうとするみたいに迅は手の中の自分の服を少々雑な仕草で身に纏っていった。昨日も着ていたものをこうしてまた身に纏う微妙な心地の悪さと気恥ずかしさには意識を向けないようにする。
「食パンならあるし、トーストでいいよな?」
「え? あぁ、うん」
 そんな風に気もそぞろだったせいで、急に投げかけられた太刀川の言葉に対する返答は生返事になってしまった。一瞬の後にハッとして、そんな己にまたじわりと自己嫌悪が広がっていく。迅が上下の衣服を身につけ終える頃には太刀川ももうしっかりと身支度を整えていた。白の襟のないシャツに紺のジャケット、シンプルなグレーのチノパンというよく見る太刀川の私服だ。太刀川は意外とこうしたきっちりとした格好を好む。
 太刀川は迅の生返事を気にした風もなく、迅の言葉を受け取った後「了解」と言って寝室を出て行く。迅も慌てて太刀川を追いかけようとして、セットしていない前髪がはらりと落ちてきて視界を僅かに邪魔してきた。ああしまった、整髪料は持ってきてなかったな、と思い出す。太刀川の家には……きっとないだろう、と太刀川に聞く前に諦める。先程太刀川に乱された前髪を応急処置的に手で適当に整えてから、太刀川の後について迅も寝室を後にした。

 迅と太刀川は恋人同士である。
 付き合い始めてからは一ヶ月ほど。キスまでは何度かしていた。深いやつも含めて。このところはボーダー内外で色々とバタバタしていたこともあり、互いにそれなりに忙しい日々を過ごしていた。そんな中でもどうにか時間を見つけて、ランク戦をしたり、一緒にご飯を食べたり、少しずつではあるが恋人としての付き合いも――たまにじゃれるようにキスをする以外は、友人の延長線上といったような雰囲気は拭いきれなかったが――重ねてきたつもりだ。
 昨日は昼過ぎまでの防衛任務の後、珍しく迅には何の予定も無かった。暗躍と称して適当に市内をぶらついて不穏な未来がないかひととおり視て回った後は本部に行って、適当な顔見知りに声をかけてランク戦をした。少し前に復帰したばかりのランク戦をするのが楽しいということもあるが、早くこの三年ちょっとで差を随分とつけられてしまったポイントを埋めて、かつて届きたくて届かなかった攻撃手アタッカー一位の名を今度こそ塗り替えてやりたかったから。そして何より、ここにいれば夜になる頃にはあの人がランク戦ブースに現れることを既に視ていたからだ。
 未来視は違わず、丁度弓場との十本勝負を終えたタイミングで太刀川がランク戦ブースにやってきた。そこからはもう、時間が許す限り太刀川との連戦だ。まったくしょうがないな、なんて表情を繕おうとしながらも、内心は楽しくてしょうがなかった。太刀川と戦うと、昔からずっとこうだ。太刀川の前に立てば感情の身ぐるみなんてあっという間に剥がされて、残るのは楽しいという心の底からの感情と、この男にどうしたって勝ちたいと希求する欲望。
 しかしそれは迅だけじゃなく太刀川だって同じようだった。普段は感情の機微の読み取りづらい茫洋としたあの瞳が、迅を見て爛々と楽しそうに輝くのが、ここにないはずの心臓が疼くような心地になるほど嬉しくてたまらなかった。
 斬って斬られて、捻じ伏せて捻じ伏せられて。呆れるほどに飽かず繰り返した最後の一試合は相打ちだった。ランク戦ブースがもうすぐ閉まるという機械からのアナウンスの音を聞きながら、たまらなくなって太刀川の個人ブースに入って、唇を押し付けるみたいにキスをした。ランク戦の後に高揚のままこうしてこっそりキスをすることは初めてではなかった。それは今回みたいに迅からのこともあったし、太刀川からのこともあった。後者の方が多いかもしれない。
 重ねた唇に太刀川もすぐに応えてくる。迅の頬に手を添えて、触れ合った唇の隙間をなぞるように舌を伸ばしてきた。ぞわり、と先程までとは少し似ていて違う種類の興奮が背中を駆けていく。互いの唾液が混ざり合って、飲み込みきれなかったそれが口の端から零れていった。小さく響く淫猥な水音が、この見慣れきった個人ブースにはひどく不釣り合いで、また背徳的な興奮を連れてくる。
「……うち来るか?」
 唇を離した後、唾液でべとついた唇を親指で適当に拭いながらそう言った太刀川の声はいつも通りのようで、しかしその奥に僅かに乗っている色をみた。迅は、未来視が教えてくれるよりも早くその言葉の意味を受け取る。「……うん」と頷いた自分の表情がどんなふうだったかは、そこにまではとても気を回すことができなかったせいで覚えていない。
 警戒区域からほど近い、太刀川が一人暮らしをするアパートに二人で帰って、そのまま雪崩れ込むみたいに寝室に向かった。普段は二人でぐだぐだと埒もない話をするのが結構好きなはずなのに、玄関に入ってから寝室に向かうまで互いに妙に言葉が少なかったのがおかしい。二人とも、今は言葉を交わしあうよりも相手に触れたいという気持ちが勝っているようだった。
 また何度か唇を重ねた後に、ベッドの上で向かい合う。この先は、まだ二人で足を踏み入れたことのない場所だった。そう意識をしてしまうと、急に口の中が乾くような心地になる。今度はちゃんと体の中にある本物の心臓がどくどくと脈打つ音を耳の奥で聞きながら、できるだけ冷静な声色を心がけて太刀川に伝えた。
「太刀川さん。……おれ、太刀川さんのこと、抱きたいんだよね」
 そう言えば、太刀川はその言葉を咀嚼するようなほんの一瞬の間の後に「わかった」と頷いた。あんまりに考えるような仕草が短かったものだから、本当にちゃんと伝わっているのか不安になってもう一度確認したけれど、「おまえとするならどっちだってよかったから、いいぞ、迅のしたい方でやろうぜ」なんて言って太刀川は薄暗い部屋の中でにまりと口角を上げた。そんなことをそんな顔で言われてしまったら、もう、感情を抑えることなんて無理な話だった。
 正直に言って初めてだった。自分が、そういうことを誰かとするのが、だ。勿論人並みの知識はあったし、一人で処理をすることもある。チャンスらしいものが全くなかったというわけでもない。
 だけど、自分はずっと太刀川が好きだった。
 今のボーダーができて太刀川と知り合って、ランク戦制度が始まって、太刀川とランク戦でバチバチに競い合うようになって。その頃からずっと太刀川とやり合うことが楽しくてわくわくしてしょうがなくて、いつしか太刀川といる時間があの頃の自分にとって一等楽しい時間になっていた。その感情は、気付いたら恋というやつになっていた。
 それからずっと太刀川が好きだった。自分でも呆れるほど、こんなに自分の感情をかき乱してくるのはいつだって太刀川だけで、恋愛感情として好きなのは太刀川のことだけだったから、他の誰かの肌に触れようとは今日に至るまでついぞ思えなかったのだ。
 ……だから、しょうがない。初めてのことだったのだから、うまくいかなくたってしょうがない――いや、しょうがなくない。なんなんだ昨日のおれは。
(いやだって本当に、ひどすぎるだろ)

 朝食として太刀川が用意してくれた、こんがりと焼かれたシンプルなバタートーストはちゃんと美味しかったはずなのに味をあまり覚えていない。オーブンの前でトーストが焼き上がるのを待っている間、太刀川が大口を開けて欠伸をしながら腰に手を当てただけでもつい気にしてしまう自分がいて、そんな自分に気付いた瞬間小さく眉根を寄せてしまった。
 もやもやと、心の中に巣くってしまった感情は晴れないままに朝食を終えて、大学は春休みになったものの単位のためだとかなんだかでトリガーの研究室に行かなければいけないのだという太刀川に合わせて迅も太刀川のアパートを出る。家を出る直前にトリガーで換装をすると、太刀川には「おまえほんとにずっとトリオン体なのなー」と妙に感心したような声で言われてしまった。
 太刀川の通う三門市立大学と玉狛支部は、ここからだと反対方向だ。アパートを出て大通りに向かい、最初の十字路で太刀川と別れる。「じゃーな」と迅にひらりと手を振る太刀川は、やっぱり驚いてしまうほどに、いつも通りの太刀川だった。
 通勤や通学のラッシュの時間から少しずれたからか――加えて、ここが警戒区域にほど近い場所というのもあるだろう――平日午前中の街は人もまばらで、時々車が通る音が鼓膜を大きく揺らすほかはゆったりと静かな空気が流れている。日差しはあたたかいのに、時折吹く風はひやりと冷たく迅のトリオンでできた頬を撫でた。その冷たさがほんの少し前までの冬の名残を感じさせる。街路に植えられた桜の木が、そんな風に膨らみ始めたつぼみをちらちらと揺らしていた。
 いつもの隊服のジャージに身を包んで、今朝のどこか座りの悪いような心地は若干は落ち着いた。見た目には、すっかりいつも通りの実力派エリート迅悠一になれているだろう。
 しかし胸中のざわめきは未だ消えてくれたわけではなく、太刀川と別れて一人になって、ただ支部まで帰路につくだけのぽっかりと空いたような時間になればどうしたってまたもやもやと考え始めてしまう。無意識のうちに、はあ、と小さく溜息を零してから、周りに知り合いはいないよなと慌てて周りを見回してしまった。
(……、情けな)
 そう、心の中でぽつりと呟く。音にしたわけでもないのに、その言葉が反響するように体の中を巡って、またくしゃりとした気持ちが増幅されていくような心地になる。

 昨日の夜は確かに幸せだった。幸せであったことには間違いはないのだ。けれど昨夜のことを思い出せば同時に、自分の失態まで一緒に思い出させられてしまう。
 結論から言えば、最後まではできた。一応はできた。しかし、できたことと、それを成功と言っていいかどうかはまた別の話である。
 元々受け入れるための器官ではないところにどうにかして入り込んでいるのだから当然と言えば当然かもしれないが、挿入まではできたものの太刀川はだいぶきつそうで、後ろで快感を拾うということはあまりできていないようだった。太刀川は大丈夫だと言ってへらりと笑みを浮かべて見せたが、それが迅を安心させるための表情であるということに気付かないほどさすがに自分は鈍感ではないつもりだ。
 しかしそんな中だというのに、何よりも情けなかったのは自分の方で。太刀川とどうにかでも体を繋げられたことへの高揚と、触れる度に知ったこれまで見たことのなかった表情や反応への興奮、繋がった部分の絡みつくようなきつさと熱さに、……入って早々に暴発してしまったのだ。
 ――あの瞬間の途方もない気持ちよさと、直後襲ってきた情けなさといったらない。太刀川はそんな迅を見て堪えきれないといった様子で声を出して笑っていたが、迅はといえばどんな顔をしていいか分からなかった。ベッドの上で、繋がっている状況などではなかったら、あまりの羞恥と居たたまれなさに本気であの場から逃げてしまいたくなっていただろう。
 自分がこんなに堪え性のない男だとは思わなかった。自分の感情も、下も、まったく制御できないなんて。
 別に今更、太刀川相手に完璧にリードする男でいたいなんて思わない。だけど自分だって男で、好きな相手の前でくらい、ベッドの上でくらい、少しはかっこつけていたいという矜持はあるのだ。
 結局その後は太刀川の自身を迅が手で愛撫してどうにか太刀川も達することができたのだけれど、色々とぐずぐずな結果になってしまったことは否めない。
 太刀川はと言えばその後はすっかりいつも通りの太刀川で、事を終えて軽い戯れのようなキスを交わした後はシャワーを浴びて体の汗やらなにやらを洗い流してから、ベッドに潜ってすやすやと気持ちよさそうに眠っていた。しかし迅の方は、シャワーを浴びても太刀川と一緒のベッドの中で目を瞑ってみても、ぐるぐると胸の中で燻る思いが止むことはなかった。
 太刀川は、行為の時のきつさも苦しさも、迅の失態も、終わってしまえばびっくりするくらいに全く気にしていないようだった。しかし、自分が納得ができない。自分ばかり気持ちよくなってしまって、太刀川のことを置いていくような形になってしまって、情けないといったらない。
 ――ずっと、夢想してきた瞬間のはずだったというのに。

(次、どんな顔して会えばいいんだろうなー……)
 いつの間にやら大通りを抜けて、川沿いの道に出る。ここまで来ればもう見慣れた景色だ。このまま道なりに行けば、しばらくすると川の真ん中に玉狛支部の建物が見えてくるだろう。
 歩き慣れた道を、普段よりも知らず遅くなっていた歩調で進む。太陽の光を浴びてきらきらと輝く水面、あたたかい日差しと程よく冷えた風。静かで穏やかな風景の中で、迅は心の中でそう呟いて途方に暮れたような気持ちになってしまった。






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