all year round 2 収録「Abandonne」sample




 ほんのわずか、一秒にも満たない差だった。欠けた腕の先から伸ばしたスコーピオンの切っ先が太刀川のトリオン供給期間に届く寸前、太刀川の弧月が迅の半身を切り裂く。片腕を肩からもぎ取られて、元々トリオン漏出が限界ギリギリだった迅のトリオン体はそれに耐えることはできなかった。ぱき、とトリオン体にヒビが入る音がして、同時に伸ばしたスコーピオンも力を失ったようにぼろりと割れて崩れ落ちていく。
「~~っ、くっそ」
 分は悪いがワンチャンいけるかも、と思ったが、そう簡単に獲らせちゃくれないか。ここで獲れたら勝ちの目はもう無くとも引き分けに持ち込めたというのに。
 この人は昔も今も、そうだ。だからこそ。
 悔しくてたまらなくて、そして、久しぶりにこんなにも血が沸き立つ感覚。思わず表情を歪ませれば太刀川はにやりと笑う。
「惜しかったな、迅」
 そう言った太刀川の表情も昔と変わらない。嬉しそうで、凶悪で性質が悪くて、熱を纏って、そして。
(あんた、今でもそんな顔すんだな)
 S級でいた頃も、たまにこっそり個人・隊問わずランク戦を覗くこともないではなかった。隊員の現在の戦闘能力を確認するためにランク戦の記録ログを見ることもあったし、遠征の訓練で軽く隊員と戦うこともあった。だから太刀川が戦うさまも、たまに見ることもあったのだ。そのときの太刀川も楽しそうではあったが、こういう顔はしていなかった。だからこの人も、流石に少しは落ち着いたのかもなと思ったりしていたのだ。
 なのに。
 そこまで思った瞬間、胸に去来した衝動に似た感情に名前をつけるよりも早く、迅の頭の中に〝トリオン供給機関破損、緊急脱出〟というアナウンスが響いた。そして視界が白んで、意識が仮想空間から離れていく。

 固く黒いベッドの上に落とされる感覚も久しぶりだった。現実に意識が返って、白い天井を見つめながら懐かしさが訪れる。そして先ほどまで体に纏わり付いていた興奮がまだ体の内で熱を持ってひどく疼いているのも同時に感じられてしまった。
(……あー、これは、まずい)
 覚え知った感覚だった。それこそ、三年ちょっとぶりの。
 もう大丈夫だと思っていたのに。迅はベッドの上に寝転がったまま、己の内側の熱をいなそうとするように細く息を吐き出す。しかしそんな程度のことでは、この熱は消え去ってなんてくれるはずもない。
 今日はA級に復帰して初めての、太刀川との個人ランク戦だった。
 なにかとバタバタとしている中ではあったが自分だって太刀川と戦いたい気持ちに間違いは無く、戦いたいから来るなら連絡しろよとせがむ太刀川とちゃんと事前に約束をしたランク戦の日取りが今日だった。迅がランク戦に復帰するきっかけとなった黒トリガー争奪のあれこれでも太刀川と刃を合わせはしたが、あれはこちらにも譲れない事情というものがあったし純粋な太刀川との一対一というわけでもなかった。だから本当にただ個人的に、互いと本気で戦うためだけの場というのは、風刃を手にする前以来の本当に久しぶりのことだ。
 楽しかった。心の底から。
 あの頃の自分はこの遊びがなにより大好きで、楽しくて、熱くなっていた。その頃に抱いていた気持ちと今日太刀川と相対して抱いた気持ちにはなにひとつ違いなんて無くて、その変わらなさに笑えてしまう。それすらも最高に楽しくて、愛しいとすら思える時間だった。そして太刀川だってあの頃と変わらない表情と熱で迅を迎え撃ってきた。刃を合わせている瞬間だけはただただ純粋に互いだけを見て、互いのことを誰より知れたようなあの時間と同じものを今なお味わえるなんて思わなくて、それが心底、嬉しくてあの頃みたいに夢中になった。
 そこまではよかったのだ。
(……これに関しては流石に、変わっといてくれよ、おれ)
 あれから三年ちょっと、もう自分だって十九歳だ。ランク戦を離れて以降自分がこんな衝動を抱くことはただの一度もなくて、だからもう、あの過ぎた熱は思春期特有の一過性のものだったのだと自分の中で片付けていた。自分の欲も衝動も、コントロールできる歳になったと思っていた。
 ずっと忘れていたのだ。――忘れられたと、そう思っていたのに。
 動揺と、まだ体中に残っている興奮。久しぶりだからこそ、それは余計に強烈な気さえしてしまった。
 寝転がったまましばしそんなことを考えてぼうっとしていたら、外から「迅」という声に呼ばれる。太刀川の声だ。それにはっと現実に引き戻される。きっとなかなかブースから出てこない迅を呼びに来たのだろう、と気付いて慌てて体を起こす。この後ご飯に行く約束だってしていたのだから、尚更だ。
「おーい。入っていいか?」
「ああごめん、いいよ」
 仮想空間に転送したりされたり、という瞬間はどうしても無防備になることもあり、一応個室は他者が断りなしに入ってこられないようにロックがかけられるようになっているのだ。個室のロックを解除すると、すぐに太刀川が入ってくる。迅はまだトリオン体だが、太刀川はもう生身になっていた。いつもと変わらぬ、シャツにジャケットというそこそこきちんとした太刀川らしい装いである。
「このあと飯だったよね。どこで――」
 本当はこの後あの頃と同じようにトイレにこっそり駆け込んでしまいたい気持ちもある、が、そんなことをしてしまえば己の熱を白状したも同然だ。まあトリオン体で貫いてなんとか誤魔化そうか、と思いながらいつも通りの何気ない口調を装って言う。と、入ってきた太刀川の顔を見てはっとした。シュン、と個室のドアが閉まってランク戦ロビーの喧噪が遠ざかり、部屋の中は二人きりになる。迅が言葉を止めると、互いの間には不意に沈黙が落ちた。
 他のやつらだったら気付かないかもしれない。だけど、そういう触れ合いを、かつて重ねていたせいで分かってしまった。
 太刀川も自分と同じ種類の興奮を纏っていることに。


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