day by day収録「青の名前は、」sample
屋上のドアが開く音がしたのは、迅の未来視で視たタイミングと違わなかった。
屋上の床を踏みしめる靴音はいつものようにすぐに階段室の方へ向かう。梯子を登るカンカンという金属音が響いた後、しかしその先に迅が居ないと気付いたらしく、一瞬止まったあと梯子を下りた靴音はくるりと翻ってこちらの方に向かってきた。
見つかるなあ、と思ったのと同時に顔を上げる。そしてすぐにこちらを見つけた彼女が、覗き込むように迅を見てにまりと得意気に笑った。
「お、いたいた。みーつけた」
そう言って太刀川が小さく傾げた顔の動きに合わせて、最近伸ばし始めたらしい少し癖のかかった髪が首元でさらりと揺れた。日向にいるせいで、半袖のセーラー服の白が夏を先取りしたような日差しに反射して眩しい。
迅は少しだけ目を細めて、そして次にすらりと伸びた腕の白さにも視線が行ってしまって、それにどきりと自分の心臓が音を立てたことにも内心で動揺させられてしまう。
(いや、どこ見てんだよ、おれ)
そんな迅の動揺をよそに、太刀川は迅の隣、一人分空いたスペースにいつものように腰を下ろす。階段室の裏側のこの場所は、ちょうど日差しを遮って影になるのだ。外は外だから暑くはあるのだが、日向よりは幾分涼しい。太刀川は購買で買ってきたらしい焼きそばパンと牛乳をがさがさと音を立てながらビニール袋から取り出して、空になったビニール袋を適当に床に置いてから迅に言う。
「今日は上じゃないんだな。暑いから?」
「あー、うん。あっち日陰ないからキツいなって」
そう返せば、太刀川は「なるほど」と頷きながら焼きそばパンを一口囓る。
屋上のそのまた上、階段室を上がった小さなスペースで二人で昼食をとるのは、迅が太刀川と同じ高校に入学して以来いつしか恒例のようになっていた。天気が良い日に屋上に来て昼食をとる生徒はたまに居るのだが、階段室の上まで来る人はあまりいないからのんびりできて良いというのと、学校で一番高い場所で見晴らしが良く気持ちが良いから、というのが理由だ。
しかしまあ、この暑さはいただけない。
今日は季節外れの暑さになるでしょう、という今朝の天気予報の通り、まだ六月だというのに今日はまるで一足飛ばしで夏が来たかのような暑さだ。この暑さだからか、今日は自分たちの他には屋上に人はいない。この空間を太刀川と二人だけで独占しているのだと思うと、少し浮き足立つような気持ちと同時に、わずかにそわそわとしたような感情も生まれる。その感情がどうも慣れなくて、迅はそれを吹き飛ばそうとするように付け足した。
「明日にはまた気温も戻るらしいけど」
太刀川に言ってから、迅も朝にコンビニで買っておいたクリームパンを袋から取り出してぱくりと囓った。ほんのりとした甘さが口の中に広がって美味しい。このパンは昔から迅のお気に入りなのだった。
「迅って暑がり?」
口元に笑いを浮かべた太刀川にそう聞かれて、迅はぱちりと目を瞬かせる。
「暑がりっていうか、今日はみんな暑いでしょ」
「まあ、それはそうか。今日、急に暑いよなー。今週から夏服選べてよかった」
言いながら太刀川はまた手元のパンを大きく口を開けて囓った。それを咀嚼して、飲み込んでから、「首暑いな。帰りに髪ゴム買おう」と呟く。首元の髪をぱさりと手で掻き上げたその仕草に、白い腕に、一瞬晒された細い首元に、不意に視線を絡め取られてしまう。
そんな自分に気が付いて、見ていたことを太刀川には気付かれないように迅は慌てて視線を逸らした。
今日は何だか調子が狂う。初めて夏服の半袖姿を見たからだろうか。出会ってから、彼女の生身の肌をこんなふうに間近で見ることなんて、今まできっとほとんど無かったから。
だから、その手足が意外と華奢であることに、今更に驚いてしまうのだ。
(……まあ、女子だからそりゃそうか)
そうひとりごちながら、迅も小さなパックに入っているコーヒー牛乳を飲む。昼休みに入った直後に自販機で買ったばかりのそれはまだほのかに冷たさを残していて、じわりと暑い今日の日にはちょうど心地が良かった。
自分より細い腕。柔らかそうな白い肌。出会った時には太刀川の方が高かった目線の高さも、今ではほとんど同じくらいになっている。
そのことに気付かされる度、迅は最近、密かに落ち着かない気持ちにさせられるのだった。
現在のボーダーができたのと同時に入隊してきた数十人の一人が、彼女――太刀川慶だった。元々忍田の古い知り合いの一人娘であり、幼少期から習っていたという剣道の才もある彼女は期待株だったということもあったのだろう。入隊式の日に忍田から直々に紹介されたのが、迅と太刀川の初対面だった。その頃の太刀川はまだショートカットで、本部ではパンツスタイルのボーダーの隊服姿で居ることのほうが多かったから、最初の頃は彼女を男子と間違える隊員もたまに居たほどだ。
迅と太刀川がすぐに仲良く、そして互いの性別のことを忘れてしまうくらいに気安い存在になったのは、勿論「彼女がボーイッシュだったから」というそれだけが理由ではない。最初こそそういう部分も無いでは無かったとは思うけれど。
迅が「未来視」というサイドエフェクトを持っていると知った彼女は、驚くでも恐れるでもなく、あるいは過剰に特別視するでもなく、にまりと嬉しそうに笑って「面白いな、それ」と言ってのけた。更に「私が覆してやるよ」とまで当たり前みたいに言われてしまった時には最初はぽかんとして、そしていやに悔しいような、くさくさとした気持ちにもなってしまったものだった。しかしそれは迅の能力を軽んじるものでもまして馬鹿にするものでもなく、そして実際にそれをやってのけるからっとした紛れもない強さと彼女の裏表の無い性格の前では、そんな自分の意固地さなんてすぐにくだらなくどうでもいいものだと思えるようになった。
ただ不思議なほどに彼女の隣に居るのは気楽で、楽しかった。そんな場所は、特にあの時の迅にとって貴重なものだったのだ。
まだ時々しつこく鈍い痛みを訴えるかさぶたのような迅の過去も、後悔も、苦しさも、太刀川は何も知らずに居てくれる。それはとりわけあの頃の迅にとってとてもありがたく、そして居心地の良いものだった。彼女の隣に居る時、自分は未来視のサイドエフェクトを持つ物としての責任も、旧ボーダー時代からのあらゆる思いも、全部肩から下ろしてただの迅悠一というひとりの人間で居られる。
だからこんなにも彼女の隣に居るのは心地が良いのだと、その理由を自分でもようやくこんな風に言語化できるようになったのはつい最近のことだ。
最初は無自覚だったけれど、だから自分はすぐに太刀川という人間に好感を抱くようになったのだろうし、太刀川の方もすぐに迅を気に入ったようだった。それはこちらが強いからという理由なのか、それとも迅と同じように相手への興味や居心地の良さを感じてくれたのか。そのきっかけははっきりとは分からないが、とにかく太刀川がボーダーに入隊しランク戦制度が始まってから間を置かず、自分たちは当たり前みたいに常につるむようになっていた。
それは迅が太刀川と同じ高校に入学してからは尚更で、昼休みになればこうして一緒に昼食をとったり、帰りはどうせ行く場所は同じなんだからと待ち合わせて一緒に本部に向かったりするのが習慣のようになっていた。一緒に居るのが楽しかったから、離れることを選ぶ理由がなかった。
そんなふうだったから、太刀川と付き合っているのかと聞かれたことがある。今年の春先のことだ。その時には違うと即答した。太刀川も聞かれたことがあるらしく、彼女も同じ答えで返したのだと笑いながら言っていた。自分たちはそういうんじゃないと、互いに思っていた。
性別とか、恋愛とか、そういうことは関係なくただ楽しいから一緒に居ることを選んだ。
太刀川と居るのは気楽で、楽しくて、好きだ。彼女の側に居る時が一番自由な自分で居られる気がした。だから心地が良かった。それは今でも、確かに変わっていない。
そのはずなのに、最近こんな風に、時々そわそわと落ち着かないような気持ちになるのはどうしてだろう。
太刀川の見た目が出会った頃に比べて、少しずつ女性らしくなってきたから? 自分とは違う存在であるという、その変化に今更に戸惑っている? ――理由がそれだけじゃないことに、薄々自分でも気が付いている。
ボーダーの仲間にも、小南をはじめ年上も年下も女の子は昔から居た。だけどそれは家族みたいなものだから、今更意識をするなんてことはない。クラスの女子を見ても、それこそ小中学校から持ち上がりで知っている子も何人か居るが、彼女たちが女の子らしくなっていくさまを見てもかわいいなとか華奢だなとかふとした瞬間に思うことはあっても、それ以上に心がざわつくようなことなんて一度もなかった。
人生で初めての感情に戸惑っている。
その感情に名前をつけるならと思ったときに、本当は、何も浮かばないほど自分は無知でも初心でもないのだ。
(後略)