一月の下旬にもなると湘北高校でも三年生は全ての授業が終わり、自由登校期間となる。一般受験組はここからが受験前の最後の追い込みだ。花道と流川以外の三年生部員は全員一般受験組だから、今頃は勉強に邁進していることだろう。
既に進路が決まっている花道は、部活を引退し自由登校期間に入っても不定期に部活には顔を出していた。春からより本格的な環境でバスケを続けるわけなのだから、自由登校期間になったからといって練習を怠るわけにはいかないしそのつもりも毛頭なかった。勿論、新しいチームの邪魔をしたり気を遣わせたりしてしまうのもよくないだろうというところもあり、流石に毎日顔を出すわけではない。それに花道自身、春以降の新生活の準備も進めなければならなかった。
入学手続きに必要な書類や大学側から出された課題の消化、そして春からは海南の寮に入るために引っ越しの準備もあって、なんだかんだと入学までにやることは多い。ぼんやりとしていたら、日々は飛ぶように過ぎていく。
今朝のテレビの天気予報では、この一週間の寒さがピークで、その後は段々と寒さが緩み始めるでしょう、と言っていた。
世界は段々と、春を迎える準備を始めている。
ピィー、とホイッスルが鳴ったら休憩の合図だ。先程のシャトルランのおかげで冬だというのに汗だくの部員たちが各々適当な場所に座って休憩に入るのを見ながら、花道も体育館の入口近くの壁際に座った。この三年間でいつしか花道の定位置のようになった場所だ。置いていたタオルで花道は首筋を伝う汗を適当に拭っていく。
一週間ぶりに来る体育館は、たった一週間離れていただけなのにどこか懐かしいような新鮮なような気持ちになるから不思議だ。それほどこの三年間、ずっとこの場所にいたのだと実感させられる。
ホイッスルを鳴らしたのは二年の女子マネージャーだ。一年のインターハイ以降マネージャーを務めた三年の赤木晴子は受験に備え夏で部を引退したため、今はその後に入った二年生と一年生数名が湘北高校バスケット部のマネージャーを務めてくれている。晴子も一般受験組なので、今頃頑張っているところだろう。そう彼女の顔を思い返すと、それだけで花道はほっとあたたかい気持ちが胸に広がっていくのが分かった。
と、花道の前にふっと影が落ちる。そして一人分くらい空けた隣に、もう一人の男が座った。流川だ。
勿論今日は、示し合わせて来たわけじゃない。引退してからも花道同様に流川もたまに来ている、という話自体は後輩たちから聞いてはいたのだが、実際に鉢合わせたのは今日が初めてだった。
流川の方もこのところ留学の準備で引っ越しやあらゆる手続き、そして向こうの生活やバスケのプレーの時に困らないために英語の勉強と、あちらもバタバタと日々を過ごしているらしい――というのも花道が直接聞いたわけではなく、少し前に流川とたまたま道で鉢合わせたらしい彩子がOGとして先週部活に久しぶりに顔を出した際に話していたことであった。
花道の少し空けて隣。それは互いに現役部員だった時からいつしか染みついた距離感だった。いや、一年の頃はそうじゃなかった。二年……いや、宮城たちが引退して流川がキャプテン、花道が副キャプテンとして湘北高校バスケット部を引っ張っていく立場になった頃からかもしれない。そんな、今まで思い出しもしなかったことを、花道は急に思い出す。
ちらりと横目で見た流川は、薄くかいた汗をタオルで拭っている。油断しているのか、花道の視線には気付いていない様子だった。花道はほんの数秒にも満たない間だけ流川の横顔を見つめた後、バレないうちにと視線を正面に戻した。少し向こうで、後輩たちが何やらわいわいと賑やかに喋っているさまをぼうっと花道は眺める。
『好き』って何だ、と、花道はずっと考えていた。あの日流川に言われてからずっと。
花道がこれまでの人生の中で抱いてきた恋愛的な『好き』は、もっとふわふわとして幸せなものだった。一緒に登下校をしたいとか、手を繋ぎたいとか、顔を見られるだけでぱっと気持ちが弾んで嬉しくなるような。
しかし流川が花道に言った『好き』は、花道が抱いてきたそれとは全く違うものだった。
もっとわがままで、自分勝手で、欲を隠しもしない、ひりつくような感情。まず言えるのは、花道は今まで自分が多くの女の子に抱いてきたような『好き』を、流川に対して抱いているわけではない。それは断言できる。
そう思ったときに、花道の頭の中に再び過ったのは晴子のことだった。思い出すだけであたたかい気持ちになるような自分が彼女に向ける感情と、流川に向ける感情は、当然似ても似つかない。まったく違う感情である。
だけど流川が自分に向ける『好き』というやつは。
一ヶ月近くが経とうとする今でも、あの時流川が言った言葉も、その声色も、表情も、鮮明に思い出せる。
――自分のものにしたい。その視線が自分以外に向けられていると嫌だ。
それを『好き』なのだと、流川は言った。
マネージャーがもう一度ホイッスルを鳴らして、休憩の終わりを知らせる。その音ではっと思考が現実に戻り、集合に遅れないよう花道は慌てて立ち上がった。隣にいた流川は花道より早く立ち上がって、花道の数歩先を早足で歩いていく。なんだかそれが気に食わなくて、花道は小走りで流川をさっと追い越していった。
部活の後半は試合形式の練習だ。今回は学年混合でのチーム分けで、花道と流川は別のチームに割り振られた。コートの中に入ると、キュ、とバッシュが綺麗にモップがけされた体育館の床を擦る音がする。少し距離を置いた正面、歩いてくる流川と視線が絡んだ。いつものように淡々としているように見えて、練習だろうがぜってー負けねえという好戦的な色がその瞳の奧に宿っていることに花道は気付いて、そのことに条件反射みたいにぐんとこちらの気持ちも高められた。
試合が始まって、最初にボールを獲ったのは流川のいるチームの方だった。後輩が素早いドリブルでゴール下までボールを運び、そして走って絶妙な位置に陣取っていた流川にパスを回す。流川のマークは花道だ。流川と同時にゴール下まで走っていた花道は、パスこそ防げなかったものの流川の前にぴったりと張り付くことができた。
さあ、ここからドリブルで抜いてくるか。それともこのままシュートを打つか、あるいはパスか。流川の一挙手一投足に神経を集中させる。視線が絡む。それだけで花道は全身が熱くなったように思えるほど高揚する。
至近距離で投げつけられる、流川の挑戦的な視線。こちらだって同じだけのものをくれてやるつもりで流川をまっすぐに見つめた。流川がわずかに視線を動かして、味方の位置を確認するのが分かった。パスでくる――と見せかけて。
「ッ!」
流川が走り出す一瞬前に、ドリブルだ、と直感で分かる。しかしそう思った花道がブロックに入ろうとするも、流川のドリブルの速度と鋭さが上回った。それに気付いた瞬間、花道の体はさらに速度を上げる。花道をかわした流川が踏み切って跳んだのとほとんど同時に、花道もギリギリで追いついて跳ぶ。軌道を描いてリングへまっすぐ飛んでいったボールを花道の指がどうにか掠めて、ボールの軌道がブレる。
「にゃろうっ!」
そのままぐんと手に力を込めて全力で弾き返してやればボールはリングとは反対方向に飛んでいった。落ちたボールは花道のチームの一年が取りそのまま今度はこっちの攻撃体勢に入る。花道と流川もすぐに切り替えて再びボールを追い始めた。床を蹴るバッシュの音が体育館に響き渡る。
「ちっ」
「そんなカンタンに入れさせるかよ!」
軽く舌打ちをする流川にそう言いながら、花道は自然と口角を上げていた。流川の動きのクセは、他の誰より知っているつもりだ。
同じチームで三年間コートに立ってきた。監督である安西に言われて以来、流川のプレーをずっと見てきた。そしていつからか、部活後の居残り個人練習の最後に流川と1on1をするのが恒例のようになっていた。
部活後の流川との1on1の時に感じるものは、一年のインターハイ本戦の前に初めて1on1をした時のような打ちひしがれるほどの悔しさと屈辱感とは少し違う。流川に勝てたことは実際、未だ一度もない。だから毎回、花道は自分の身体が爆発するのではないかと思うくらいに悔しくなる。だけど、それだけじゃないのだ。
ゴール近くまでボールを運んだものの堅いディフェンスを敷かれたせいでシュートをうまく打つことができなくなった後輩が、外側にいる花道にパスを投げた。そのパスを受け取った時には、流川が花道のマークについていた。再び至近距離で視線が絡む。流川も花道の一挙手一投足に神経を張り巡らせているのをぴりぴりと肌で感じていた。絶対に勝つ、という燃えるような負けん気の下、自分の奥底にあるものが疼いて顔を出しそうになる。
それは純粋な楽しさだった。
バスケが好きだ。大好きだ。その中でも流川とするバスケは――本当は悔しいから認めたくはない、けれど。
そうやって気持ちがわくわくと疼くのと同時に、頭の隅で『あと何度こんなふうにできるのだろう』という気持ちが不意に過ってしまって、花道は慌ててそんな思考を振り切ろうとする。悔しいことに、余計なことを考えている暇はないのだ。コイツ相手には。
三井直伝のスリーポイントを狙うという手も無いではないが、しかしここからではやはり少し遠い。それにここでそのまま打てば流川がブロックに来るだろうことも明白だ。だからもう少しゴールに近付こうと思ってドリブルをする。花道が走り出すと流川も同時に走り出した。流川の方を見ていなくても分かる。流川の強い視線が痛いほどに桜木を追いかけてきている。その突き刺さるような熱の塊に、花道はたまらない気持ちになる。
そうだ、あの日の流川は花道に、自分以外を見ているのが嫌だと言った。つまりは、自分だけを見ろ、ということだろう。言われたときには分からなかったその気持ちが、今この瞬間は、本能に近い感覚で花道にも分かるような気がしたのだ。
それは、バスケの時だけ? 不意に、花道はそう自問する。
――それ以外の時はどうでもいい?
そう思った瞬間、ほんの一瞬気を散らした。その油断をこの男が見逃すはずもない。わずかに緩んだドリブルの隙を突いて流川にあっという間にボールを奪われる。そして再び反対側のゴールへと走り出した流川を、一拍遅れて花道も追いかける。しかし今度は、間に合わない。
花道が追いつく前に流川は踏み切ってボールを放る。それは吸い込まれるようにして、まっすぐにネットを通って落ちていった。ボールが床を叩く音がする。視界の端でスコアボードが捲られるのが見える。この試合の先制点は流川のチームに入ることとなった。流川が振り返って、花道を見て呆れたような眼差しを向ける。
「ボーッとしてんじゃねー、どあほう。隙だらけだ」
コイツ本当にオレのことが好きなのか、と疑ってしまうほど可愛げの欠片も無い――流川に可愛げなんてあった試しもないが――そんな言い草に、花道もカッとなって思わず言い返す。
「してねーよキツネ! この天才桜木に向かって――」
言いながら大股で流川の方に歩いて行きわあわあと言い募ると、もう慣れてしまった後輩部員たちはまた始まったというように苦笑する。当の流川は、花道が何を言っても相変わらずどこ吹く風といった様子だ。
仮にオレがボーッとしてたんだとしたら、それはてめーのせいだろうが。そう花道は言ってやりたくなる。その言葉は喉まで出かかったけれど、しかし後輩たちの前だと気付いて、それを飲み込むことには花道は辛うじて成功したのだった。
◇
下半身でぐっと踏み込んで跳び上がる。そして花道が手の中から放ったボールは、きれいな弧を描いてリングを通って落ちていった。ダン、とボールが落ちる音。花道が短く息を吐いてボールを拾いに行こうとしたところで、耳に聞き慣れた声が飛び込んできた。
「おー、ナイッシュ」
花道はその声に顔を上げる。薄く開いたままだった体育館の入口に視線を向けると、そこから覗いていたのは他でもない花道の親友の顔だった。
「洋平!」
花道が駆け寄ると、洋平は「よお」と言ってへらりと笑った。洋平はドアを開けて、靴を脱いで体育館に上がる。部活が終わって既に数時間、花道の他にも何人か個人練習で残っていたが、しばらく前に最後の一人が帰ってしまったから今は体育館に残っているのは花道一人だけだった。
洋平と共に入ってきた外の空気の冷たさに、今が真冬であることを思い出す。ずっと体を動かしていたからまだ花道の体は熱く、Tシャツでも寒さを感じないくらいだったのだ。
「バイト終わりに通りかかったら、まだ体育館の電気点いてるのが見えたからさ。花道かなと思って」
そう言って洋平はころころと転がってきたボールを拾い、花道に向かって放る。花道は両手でその軽いパスを受け取った。
洋平は春から地元で就職する予定で、受験勉強などもないので自由登校期間になった今はバイトで忙しくしているようだった。この三年間度々バスケ部の練習を冷やかしに来ていた洋平たちはすっかり後輩を含めた他のバスケ部員とも顔見知りになっていたが、花道が部活を引退して部に来るのが不定期になったこともあって洋平も以前までのような頻度では体育館に来なくなってしまった。だから、この体育館で洋平と顔を合わせるのも久しぶりだ。
花道はなんだか少しだけ懐かしいような気持ちになりながら、そーかそーか、と体育館の隅に置いていた自分のタオルを拾い上げる。今は何時だろうかと思って体育館の時計を見上げれば、既に結構遅い時間だ。今日の個人的なノルマは終わっているから、そろそろ帰ろうかと思い始める。
と、洋平から軽い口調で「流川は今日いないんだ?」と聞かれて、花道は突然飛び出したその名前にドキリとしてしまった。
「む、……」
一瞬言葉に詰まった。洋平がそう聞いたのは、部活現役時代に花道が居残りの個人練習をしていた時は流川も同じように残って練習していることが多かったからだろう。だいたい同じくらいの時間居残っている時は、それぞれ個人で勝手に練習して、最後にワンオンという流れになることが多かった。
洋平は軽い気持ちで聞いたんだろうと思う。だから軽く返してやりたかったのに、その名前だけでこんな風に動揺してしまうのはなぜだろう。
花道はふー、と息を吐き出す。拾い上げたタオルを首にかけて、練習でかいた汗を雑に拭いながら花道は返した。
「……あのキツネなら今日は来てたけど、個人練しないで先帰った。留学の準備? のカンケーで明日はえーんだと」
言ってから、じわじわと面白くないような気持ちが頭をもたげてくる。流川も今日来たということは後でワンオンできるかも、ということは部活中も本当は心の底で、自分は少し期待していた。だというのに流川は部活が終わるなりあっさり花道を置いて帰っていってしまったから、それがたぶん自分は、面白くない。
「ふうん」と洋平は納得したように頷いたが、花道のモヤモヤはおさまらなかった。
(あいつ本当に、オレのこと好きなのか)
もう何度目かになるそんな疑問が生まれてくる。あれ以降だって会えばいつも通りの、可愛げなどない流川なのだ。しかしそう疑いそうになる度に、思い出すのはあの時の流川の眼差しと声色、そしてあの初詣の時に聞いた言葉だった。
あれを嘘だとも、勘違いだとも、花道はどうしても思うことができずにいる。
「……あいつとなんかあった?」
花道は再び弾かれたように顔を上げる。そう言った洋平はからかうでもなく、好奇心に満ちた様子でもない。ただ親友として心配するような、静かな目で花道のことを見つめていた。
人に話すな、とは別に言われてないからいーだろと花道は内心で結論づけた。それに相手は洋平だ。花道だって、洋平にならと思ったから、洋平にだけはあの選抜の後から自分と流川との間に起きたことを話すことにした。
体育館の隅に二人で座って、なんとなく手持無沙汰な気持ちになった花道は先程洋平から戻して貰ったボールを手元で弄る。そうして花道は、ぽつりぽつりと水滴が落ちるみたいな速度で、その話を始めた。
流川に告白をされたこと。返事は保留にしていること。流川の言う『好き』は自分が思ってきた『好き』とは形が違うこと。
話しているうちに段々と自分の方が恥ずかしくなってきたのだが、しかし一度話し始めたら止められなかった。誰かに話を聞いてほしかったのかもしれない。花道が話している間、洋平は意外なほど茶々を入れることもなく、ただ花道の話を頷きながら聞いていた。
話しているうちに、なんであの時すぐに断らなかったのだろうと自分でも思う。
流川のことをそういう目で見たことはないはずだ。だからそんなのはありえないとあの時に一蹴してしまえばよかった。そうすればこんな風にずるずると思い悩むこともなかったはずだし、流川に返事を待たせることもなく、すっきりさっぱりだ。
そうすればよかった。そう思うのに、なぜなのか今もまだ、断るという選択肢を花道はどうしても選び取ることができないでいる。
「……オレは、ハルコさんが好きで」
「うん」
ぽつりと落としたような花道の呟きに、洋平は相槌をくれる。独白に近いような言葉にくれたその一言が心強くて、花道はゆっくりと、迷いながら、言葉を選びながら続きを口にする。
「ずっと好きだった――はずなんだけど」
まだ体に薄く張り付いた汗が、冬の気温に晒されて熱かった体の温度をじわりと下げていく。動くのを止めた体は熱が冷めるのも早い。それが何だか今は心許なさを花道に与えた。手元のボールを床につけたままくるくると回して手遊びで自分を誤魔化してみようとする。
オレは、ハルコさんが好きだ。ずっとそう思っていた。高校に入学してからずっと。
けれど正直な話、今は、これが本当に恋なのか――今もずっと恋のままなのか、分からなくなってしまっている自分もいた。それは流川に告白をされる少し前から、自分でも意識に上りきらないくらいにうっすらと感じ始めていたことだったように今になって思う。
最初は一目惚れだった。あの時は確かに、恋だった。
だけどバスケット部のマネージャーになった彼女と、部員とマネージャーとして長くより濃密な時間を過ごして、花道の中で彼女の存在がより大きく近くなったことで、自分の中の気持ちの形が少しずつ変化していったような気がしていた。特別で大切であることには変わりはない。だけど恋とか、好きとか、付き合いたいとか、……そういうこととは少しだけ違う性質のものになっていったような。
自分でも薄々感じ始めていたそれを、流川のあの言葉を聞いて、改めて引っ張り出されて突きつけられたような気持ちになったのだ。今まで自分が信じてきた『好き』の定義が揺らいで、だから、自分が信じてきた自分の感情が分からなくなり始めていた。
好きだった。彼女のことが今もずっと好きだった、はずだった。だけどその先の言葉が出てこない。
オレは、ハルコさんを。そして、オレはルカワを――
花道の言葉が止まって、体育館はしんと静かになる。考えている内に段々と視線が下がって、花道は手の中で回るボールをぼんやりと見つめていた。花道が黙って少ししたあと、洋平はどこかからっとした声で花道に言った。
「オマエはさ、難しく考えるの向いてないと思うぜ」
「んな、」
何だよそれ、と花道は思わず顔を上げて洋平に文句を言おうとする。しかし洋平は馬鹿にするような顔ではなくどこか優しささえ感じる表情で花道を見て笑っていたから、予想外のその洋平の顔に、花道は反射的に文句を言う気も薄れてしまった。
「オレが花道の気持ちに結論を出すことはできないけど、花道はもっとさ、本能ってか直感ってか……そういうのを信じる方がいい気がする」
洋平は茶化すときはとことん茶化しもする男だが、今夜ばかりは花道のことを本気で思って言ってくれていることが伝わってきてしまった。親友の言葉を受け取った花道はひとつ瞬きをする。そうして受け取った言葉をゆっくりと噛み砕きながら、「……おう」と言って頷いた。
「……よーし、そろそろ帰るか! 久々に一緒に帰ろーぜ、洋平」
花道は空気を切り替えるみたいに、ぱっと明るい声を出して立ち上がる。そうしたら洋平は今度は悪戯っぽい表情になって「お、いーね」と口角を上げたのだった。
荷物や着替えなどは全部部室に置いたままだ。だから洋平には先に昇降口の方に行ってもらって、花道は一旦部室に寄る。部活やその後の自主練習で汗をかいたTシャツも着替えたかった。
部室には当然花道以外は誰もいない。引退した部員の個人ロッカーは基本的に後輩に引き継がれていくのだが、まだ多少ロッカーに余裕がありたまに部活にも顔を出しているということで、なんだかんだ花道と流川の個人ロッカーは実質的にはまだ残してもらっている状態だった。
汗を吸った部活用のTシャツを脱いで、元々着てきたシャツに着替え直す。少し視線を動かすと、すぐ隣にある流川のロッカーが目に入った。今は当然きっちりと閉まっているそのロッカーを見ながら、花道は不意に思い出す。
――あれは冬の選抜に向けての練習が佳境に入ってきた頃だったと思う。
あいつがオレに向ける視線が、以前よりもより強くなっているような気がしたのだ。花道の入部当初は練習中でも試合中でも花道のことをバカにすることはあれど戦力としては歯牙にもかけなかった流川だが、花道がバスケに本気になり、そして二年三年と花道が経験を重ねるにつれそれは大きく変わってきたように思う。流川が花道を見る回数も、その時間も、昔よりずっと多くなっていた。
だけどその時期の流川の視線は、これまでよりも更に強いもののように思った。その変化には気付いていたけれど、選抜に向けて気合いが入っているのだろうと花道は結論付けてその理由を深く考えてはこなかった。
それに、流川がこちらを見たことへの優越感もあってどこかで浮かれるような気持ちもあったように思う。
嬉しかったのだ。流川にあの強い視線を向けられることが。流川の視線を感じる度に、もっと見ろ、と内心でずっと思っていた。
――それは、バスケの時のことだけ?
今日の部活中にもちらりと思ったことが、もう一度頭をもたげる。
花道に好きだと言ったあの日の流川がまた頭の中に蘇る。あの、花道を見つめる強い視線。いつもは花道をバカにすることばかり言う唇から零れたまっすぐな言葉。
だからだ、と花道は心の中で呟く。流川が、流川らしくもなくあんなふうに告白なんてするものだから。
(……あいつに好きって言われたとき、本当は、オレは)
そこまで思って、花道の思考は止まる。
まるで立ち入り禁止のテープが張られた場所の前に立っているかのような。
着替えを終えた花道は、自分のロッカーの扉を閉める。昔から使われているのであろう少し立て付けの悪いロッカーのドアは、軽い力でも大仰な音を立てて閉まった。花道はカバンを肩にかけ、洋平が待つ昇降口へ向かって歩き始める。
先程思いかけたことは、花道は再び頭の隅に追いやることにした。
その言葉の先を探すのが、心のどこかで、花道は怖かったのだ。