◇ 二月



 恋をするというのはもっとふわふわとして、うれしくて、心が暖かくなって、幸せなものだと思っていた。
 それだけが『好き』ということだと、この十八年弱の人生の中でずっと思っていたんだ。

 晴子が無事に第一志望の大学に合格したという一報を受けたのは、二月の中旬のことだった。学校や部活に行けば会えるわけではないからと、晴子はわざわざ花道の自宅に電話をかけてきてくれた。早く伝えたかったからと電話越しにも分かる弾んだ声で晴子は言っていて、花道は晴子が志望校に合格したことも、そうやって花道にいち早く伝えようとしてくれたことも、どちらも飛び上がりそうなくらいに嬉しかった。
 今となってはすっかり晴子とも仲良くなった桜木軍団の面々にも花道はすぐに連絡を取り、全員の予定の合う数日後には集まって晴子の大学合格祝いの会を開くことになった。とはいってもそんなに豪勢なことができるお金の余裕があるわけでもないので、ファミレスでわいわいしながら晴子の好きなものを食べるくらいのことしかできなかったのだったが、それでも晴子はとても嬉しそうで終始ニコニコと花が咲くような笑顔で笑っていた。
 日が暮れ始めた頃に解散となり、洋平たち四人と別れて花道は晴子を家まで送って行くことにした。本当は花道の家は洋平たちと同じ方向で、晴子の家は逆方向になる。
 だから気を遣ってか、まだ暗くないし一人で帰れるよと笑う晴子に、オレがそうしたいんですと花道は返した。「もうすぐ最後だから」と花道が言うと、晴子も少しだけさみしそうに笑った。
 晴子が合格した第一志望校は東京の大学だ。当初は実家から通えないか、と考えていたそうだが、都心のキャンパスになる三年・四年次はともかく一年・二年次に通う東京郊外のキャンパスは流石に家から遠く、家族とも相談した結果同じように都内の大学に進学する友人と東京でルームシェアをするという話で落ち着いたそうだ。だから同じ関東圏とはいえど、花道と同様に晴子ももうすぐこの街を出る。
 夕暮れの見慣れた街を、晴子と二人並んで歩いていく。最近のバスケ部のことや、花道の練習のこと、大学でもバスケを続けているゴリこと赤木兄のこと、みんなのそれぞれの進路の話など、ここ最近は流石に会えていなかったので積もる話が沢山あった。喋って、時折笑い合って、そんなふうにしながらのんびりとした歩調で晴子と歩いた。
 夕方になるとまだ風は冷たい。しかし昼間のあたたかい日差しの名残で、今日は芯から冷え込むような寒さは感じなかった。冬は少しずつ、終わりに近付いている。
 昔の自分であれば心底羨ましがる状況だろう、と花道は頭の隅で思う。その頃の自分だったら多少の下心というか、好きだからハルコさんと一緒に帰れて嬉しい、という気持ちで心がいっぱいになっていただろう。きっとそれだけ抱えて、浮かれながら歩いたはずだ。
 今は嬉しくて、少し寂しくて、そして緊張もしていた。
 今日、彼女に伝えようと決めていたことがあった。先日洋平に自分の心情を吐露した時から、ずっと考えていた。
 自分の晴子への思いと、そしてこれまでの感謝のこと。
 そう遠い距離じゃない。きっとこれで会うのが最後なんてことにはならないと信じているし、そうしたくはないと花道は思っている。
 しかし、自分も彼女ももうこの街を離れてしまうから。最後に後悔はしたくなかった。
「――ハルコさん」
 今まで何百回も口にしたその名前を呼ぶ声は、自分でも分かるくらいに固いものになってしまった。前を向いて歩いていた晴子が、呼ばれて花道の方を振り向く。花道が足を止めると、晴子も止まった。晴子の家まではあと歩いて数分、閑静な住宅街だ。遠くの塀の上を猫が通り過ぎていった以外、周りに人もいない。言うなら今だ、と花道は自分を鼓舞する。
「今日は、言いたいことがあって」
 晴子はいつもどこかふわふわとしている部分もあるのだが、花道の緊張した様子が伝染したのかもしれない。花道が見つめると、晴子も珍しく少しだけ緊張した様子になって花道を見つめ返した。
 言うことは考えてきたはずだった。だけどいざとなると緊張して、用意してきた言葉が散り散りになりそうになる。だけど今、伝えなければ。そう思って、汗が滲みそうになる手のひらをぎゅっと握り直して、花道は口を開いた。
「三年前、初めて会った時からずっと好きでした」
 胸の中にずっとあったものを吐き出すみたいにして、そう花道が言うと、晴子は驚いたように目を見開いた。じわりとその頬に夕日のせいだけじゃない紅がさすのが分かる。それをどこまでも、かわいいと思う。嬉しいと思う。だけど今感じている胸の高鳴りは、三年前に抱いた衝動のようなそれとはもう、少しだけ違うことを花道は自覚していた。
「あの、でも、付き合いたいとかそういうんじゃなくて、今は多分、ちょっと違って。……だけど、オレにとってすごく大切な存在であることには変わりなくて」
 言いながら、この三年間のことが頭の中で蘇って、花道は少しだけ胸が詰まりそうになる。いかん、しっかりしろ、と言い聞かせながら花道はどうにか言葉を続ける。
 告白をするのは三年ぶりだ、ということに言いながら気が付いた。
 ハルコさんを好きになって、バスケに出会って、気付いたらバスケのことが大好きになっていて。喧嘩に明け暮れ、学校に行けば元来の単純さというか、惚れっぽさゆえにすぐ誰かを好きになっては告白し――勿論それらも全て当時の自分にとっては本気だったのだが――そして玉砕するという日々を送っていた中学校の三年間とは全く違う三年間を、高校で過ごした。
 結局だらだらと組み立てきれない、拙い言葉になってしまったけれど、思いつくまま花道は晴子に思いを伝えた。
 晴子を好きになったからバスケに出会えたこと。バスケに出会わせてくれたことと、そして一年のインターハイで花道が背中に怪我をした後をはじめずっとマネージャーとしてサポートし、そして花道にとってはモチベーションであり心の支えであり続けてくれたことへの感謝。言葉にするごとに、この三年間自分にとって晴子の存在がいかに大きかったかを改めて知る。
 忘れもしない。きっと自分は一生忘れない。彼女に出会ったときのことを。
「とにかく……感謝を、伝えたくて。本当に、ありがとうございました」
 そう言って花道は晴子に向かって頭を下げた。握った手の中に汗が滲む。今までの告白も、全部緊張していた。だけどこれまでのどの告白よりも緊張している自分がいた。
 きっと、それほど大切だった。
「春から学校は違いますけど、これからも、友達でいられたら」
 花道がそう言うと、晴子がようやく口を開いた。
「ありがとう」
 その声に顔を上げると、晴子は泣き笑いのような表情になっていた。目はうっすらと潤んで、だけどうれしそうに頬を染めて笑っていた。今まで見た晴子の表情の中で、一番きれいだと花道は思った。
「多分、……好きになってくれた時の桜木くんの気持ちとは少し違うと思うけど、私も桜木くんのこと大好きよ。これからも大切な友達でいてくれたら、私も嬉しい」
 晴子は花道を見上げて、一歩踏み出して、そして花道の手を取って花のように笑う。
「試合、絶対に応援に行くからね!」
 自分よりずっと華奢な手が、ぎゅっと強く花道の手を握る。そのあたたかさと力強さに、花道は彼女のことを好きになってよかったと今改めて心から思った。
 これは確かに、恋だった。
 だけどこれが、恋じゃなくなっていたことに気が付いたのは。


 ◇


 晴子を自宅まで送り届けてから、花道は一人で自宅への帰路を辿る。先程までの胸がいっぱいで詰まるような思いが、するすると解けるように静かに凪いでいくのを感じながら、花道はゆっくりと息を吐き出した。夕暮れの空は、段々と夜に変わり始めている。
 自分の中にずっとあった晴子への思いを吐き出してどこかすっきりとした胸中で、花道が歩きながらぼんやりと思い出したのは、やっぱりなぜだか流川のことだった。
 アメリカに行くのに後悔を残したくないと、そう流川は言っていた。流川ももしかしたらこういう気持ちだったのか――そう一瞬だけ思ってから、いやあいつにこんな情緒は分かるまい、分かってたまるかという気持ちになる。
 だけど。
(……だけど)
 信号待ちの間に、手持ち無沙汰になった花道は空を見上げる。
 薄暗く夜の色を落とし始めた空には、一本の飛行機雲がまっすぐに軌道を描いていた。



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