◇ 三月――上旬



 び、と音を立ててガムテープを引っ張り、雑誌や雑貨を詰めた段ボールに蓋をする。それを部屋の隅に積み上げて、花道はぽんと段ボールを軽く叩いた。
「っし。まあとりあえずこんなとこか」
 広い部屋でもないからそんなに物も無いだろうと思っていたが、こうして積み上げてみると意外とこの部屋にも物があったらしい。部屋の隅にいくつか積み上がった段ボールの山を見て花道は思った。引っ越しまではまだ少し時間があるから日用品類はまだ残してあるが、余っている段ボールがあるからと先日大家のおばちゃんから段ボールを貰ったこともあって、頻繁に使わないようなものは既に段ボールに詰める作業を始めていた。花道の住むアパートの大家は優しくて、少しだけせっかちなところがある。
 雑貨類の多くは昔洋平たちと行ったゲームセンターで獲得したおもちゃとか、そういうどうでもいいものがほとんどだったが、花道はどうにも捨てる気にはなれなくてそれらもほとんどは段ボールに詰めることにした。雑誌は漫画雑誌やグラビア誌もあるが、その多くはバスケット関連の雑誌だ。それらは古いものやもうあまり見返さないと思われるものは流石に処分することにしたが、いくつかは手元に残しておくことにした。その中には高校バスケ特集として、湘北高校が載っているものもある。先日の冬の選抜の記事が載っている号も、勿論手元に残すリスト入りだ。
 今日は特に決まった予定はない。窓の外を見やれば今日はよく晴れて天気が良かったから、その快晴に誘われるように花道は少し走りに行くことにした。花道は家の鍵など必要最低限の荷物だけ持って家を出る。少しだけ肌寒さはあるが、もうすっかりコートもいらない季節だ。
 門を出て、なんとなく花道はアパートの方を振り返る。
 花道が住むアパートは見るからに古い。築何十年だったか、前に聞いたことがある気がするけど忘れてしまった。ぼろアパートだと住んでいる自分でも思うが、しかしもうすぐここも去ることになるのだと思えば寂しい気持ちにもなるものだ。それにここは、まだ花道の両親が生きていた頃から家族でずっと住んでいた家だから。
 花道が海南の寮に入ることになったから、この家ももう引き払う予定だった。本当はここから通えないかと思ったが、毎日通うには海南大は少し遠い。バスケの練習も朝昼晩とみっちり入ると思えば尚更だ。
 残念だが、住む人間がいなくなるのであれば引き払うしかあるまい。花道のことをかわいがってくれた大家のおばちゃんはとても寂しがってくれたが、休みになったらまた遊びに来るからと花道は約束していた。

 花道は軽い準備運動をしてから、流すように走り始める。慣れたランニングコースを回ろうかと思ったが、今日はなんとなく少し遠くまで行ってみたくなった。いつもは右折する道を、まっすぐに走ってみる。そんな気分になったのはこの天気の良さと、そして、もうすぐ離れるこの街の景色を目に焼き付けておきたかったからなのかもしれない。
 しばらく走っているうち、小学校が見えてきた。花道が通っていた小学校とは反対方向、隣の学区の小学校だ。校庭を囲むように植えられた桜の木が、枝の先に蕾をつけ始めているのを花道は見つける。あと数週間もすればここは満開の桜並木になるのだろう。
 そのさまを想像して、花道はなんだかあたたかい気持ちになる。それと同時に、もうすぐ春が来るのだと胸が詰まるような心地にもなってしまった。自分の生まれた季節ということもあって、春は好きだ。だというのに、今年はどうにも嬉しい気持ちにはなりきれない自分がいた。
 空気が、景色が、段々と春の気配を纏い始めている。カレンダーはもう三月になっていた。
 自分の中の絡まりそうな気持ちを振り切るように、花道は少しだけペースを上げた。短距離走ばりに走りすぎてバテないように気をつけながら。
 そうやって無心で走っていたら、気付けばあまり来たことのない通りに出ていた。そう思って、少し遅れてから花道はハッとする。どこからどう走ってきたかを覚えていないから、帰り道が曖昧だったのだ。
(たぶん、あっちの方から来ただろ……あ、鉄橋)
 遠くに電車の音が聞こえて花道がそちらを向くと、川にかかった鉄橋が見えた。あの鉄橋ならば、花道の自宅の最寄り駅と隣の駅との間にあるものだ。あれを目印にすれば帰れるだろう。そう結論づけて少しほっとして、もう少しだけ走ろうか、どうしようかと花道が考え始めた瞬間。この三年間何よりも聴き慣れた音が耳を掠めて、花道は反射のようにばっと顔を上げ振り向いた。
 ドリブルの音だ。
 振り向いた先にあったのは公園だった。道路の向こうにあったささやかなサイズの公園は、敷地の端にバスケットゴールがあるのが見える。こんなところにバスケできるところがあったのか、と花道は思う。それを囲うフェンスもいやに真新しい様子だから、もしかしたら最近できたばかりなのかもしれない。
 周囲を植え込みや木に囲まれているから、コートの中の様子は遠くからではあまり見えない。平日の昼間だ、他に人がいる様子もないから一人でやっているのだろう。花道は興味を惹かれて、道路の向こうに渡って公園に近付いた。それにしても、随分速く鋭いドリブルの音だなと花道は思った。こんなドリブルをするのは、湘北うちだと前キャプテンの宮城リョータか、あるいは――
 花道が植え込みの隙間から公園の中を覗いたのと同時に、ドリブルの音の主が地面を蹴り上げて跳ぶ。打点が高い。そしてその手の中のボールは、まっすぐにリングに向かう。
 その黒い髪が白昼の太陽に照らされて光る。
(あ、……)
 心臓が跳ねた。動けなかった。
 目を奪われてしまった。
 それはそのフォームの美しさにか、それともあいつの姿を偶然に見られたことに対してか。
 多分、その両方だった。
 ガン、と音がしてリングが揺れる。ダンクを決めた流川はわずかな間リングに掴まったままぶら下がり、そして手を離してすとんと降りた。先程のダンクと流川の体重を受け止めた余韻で、リングはまだ小さく揺れているように少し遠くの花道の目にも見えた。
 ボールを拾いに行くため流川がこちらの方向に振り返ったので、花道は慌てて植え込みの影に隠れる。隠れてから、いや、やましいことをしているわけでは無いのだからこちらが隠れる必要もないのではと思ったが、さっきの今で顔を合わせるのは花道としては妙に気まずい。
 まだ花道の心臓の鼓動は速くなったままだった。
 隠れながら、ちらりと横目で再び流川の方を見る。流川はボールを拾い上げて、またゴール近くへと戻りドリブルを始めた。どうやら花道の存在には気付いていないらしい。そのことに花道は安堵してほっと息を吐いた。こちらに背を向けてドリブルをする流川の姿を、花道は植え込みの隙間からぼんやりと眺める。
 流川の姿を見るのは久しぶりだった。花道も引き続き時々部活に顔を出してはいたし、流川も頻度は減りつつたまに来てはいたらしい。だから単純に、入れ違いになっていたから顔を合わせることがなかったようだった。
 流川に、まだあの日の告白の返事はしていない。卒業式はもう、来週に迫っていた。
 ゆっくりとドリブルをしていた流川が、不意に地面を蹴って走り出す。一気にゴールまでの距離を詰め、そして今度はジャンプシュートを打った。
 あの高速のドリブルからの、踏み切るタイミング、フォーム。どれを取っても完璧なシュートだった。今の花道にはそれが分かる。痛いほどに分かってしまう。だから、目を奪われる。
 それはあの時――一年のインターハイの豊玉戦の時以来ずっとそうだ。その前はこんなふうに気付けなかった。いや、節目節目で感じたことは無いではなかったが、悔しいからずっと認められずにいたのだ。
 流川は上手い。
 本当に悔しいことだが、流川のプレーがどれだけ優れたものであるかは自分がバスケのことを知り、そして上達していくごとに痛感させられるばかりだった。
 だからこそ花道は流川のプレーをずっと見てきた。
 だからこそ越えたかった。
 あの日安西に言われたとおり、流川のプレーを見て盗めるだけ盗む。そしてその三倍練習する。そう思ってあれ以来ずっとやってきた。
 流川の放ったボールは何の危なげもなく、まるで最初から決まっていたみたいに綺麗にリングを通って落ちていく。
 これからもあの男を追いかけるのを止めるつもりは毛頭ない。流川との決着はついていないと思っているからだ。高校では決定的に流川に勝つことはできなかったかもしれないが、それでもいつか。いつかは――と思って花道は一旦流川とは違う場所になるがバスケを続けることを選んだ。バスケを続けていればまた必ず道は交わると信じていた。信じることで自分を鼓舞した。
 だが、少なくとも数年間距離が離れるのは事実だ。
 アメリカに行った流川のプレーを見る機会など、ほとんどなくなるだろう。流川をこんなふうに偶然見かけるのも、顔を合わせるのも、そして一緒のコートに入ることだって。
 流川が自分のすぐそばから居なくなる。花道の日常の世界から流川が消える。
 寂しい、なんて思うつもりはなかった。思わないようにしていたかった。だから冬の選抜が終わるまで、ずっと考えないよう押し込めていた。
 流川はバスケにすっかり集中しているのか、こちらに気付く様子はない。だから花道はそのまま、流川の姿をじっと見つめていた。そうしていると、花道の心の内から溢れ出しそうな感情がある。
 ――流川がアメリカに行けば、その視線が花道を追うこともなくなる。
 ボールを拾った流川が、着ていた自分のTシャツで軽く首元の汗を拭った。そして息を吐いて、再びドリブルを始める。
 花道がバスケを始めた理由は、晴子のためだった。晴子に振り向いて欲しい一心でバスケを始め、そして続けるうち本当に自分でもバスケのことが大好きになった。
 そして、最初はただ嫉妬で張り合っていただけだったが、本心から自分のために越えたい相手ができた。
 バスケの試合に出て勝ち進んでいったら、花道は日本国内の高校生だけでもとんでもなく強い相手が沢山いることを知った。悔しいことにその時の自分では歯が立たなかった相手も、だからこそリベンジを誓った相手も一人二人ではない。
 バスケを続けていくごとに、世界は広いことを知った。目の前にあったものだけが全部じゃないと気付いた。
 それでも、いつだって一番勝ちたい相手は花道にとって一人だけだった。
 どうしてあいつだったのか。あいつじゃなきゃダメなのか。今となっては花道自身もそれをうまく説明することができない。だけどあいつじゃなきゃ、とずっと思ってやってきた。
 その存在に、その感情に、自分はどんな名前をつけようとしているのだろうか。この三年間、花道の中で大きな存在であったのは晴子だけではないということに、いい加減自分でも気付いていた。
(あー、くっそ……)
 花道は心の中で、ぽつりとそう呟く。
 認めたくなかった。その感情を認めてしまったら、自分が自分ではいられなくなるような気がして。
 虚勢を張るのは得意だった。自信満々の、強く格好いい自分の仮面を被って。勿論、基本的には自分に自信がある方ではあるのだが、本当はちょっとしたことで揺らいでしまうようなヤワな部分だってあるくせに。だって、そうやってしか自分は生きていく術を知らなかった。
 そんな格好悪い部分を誰かに見せるなんて、とても。
「……、るかわ」
 小さく呼んだ声は、再び流川が放ったシュートの音にかき消される。流川はまだ花道には気付かない。公園の端に転がったボールを追いかけて、その背中は花道と反対方向へ歩いて行く。
 こっちを見ろ、と思った。だけど同じくらいに、こっちを見るな、とも思った。自分は今きっと、ひどく情けない顔をしている。
 どこか遠くで、踏切が鳴る音がした。
 花道に好きだと言ったときの目。卒業式の翌週にはアメリカに発つと言った声。花道の心の中で、そんな流川のことがちかちかとフラッシュバックする。
 流川に先を越されて悔しい。流川が居ないコートはどこか張り合いがない。流川がいない世界は、寂しい。流川がオレ以外をあんなふうに見るのは――
 花道はぎゅっと自分の拳を握りしめる。いつの間に、これほどの感情が自分の中で育っていたのだろう。
 ずっとずっと、見ないように押し込めていたものが、蓋を叩いていよいよ顔を出そうとする。溢れ出しそうになる。
 ぐちゃぐちゃで、まとまらなくて、薄暗さも纏った、自分勝手な感情。それは、これまで花道が抱いてきたあたたかな『恋』などとは全然違う。
 だけどそれだって確かに花道の中に存在しているのだと、一度気付いてしまえば無視ができないほどにその感情は育っていた。心のもっとずっと奥底、花道にとってそれは自分の柔い部分も格好悪い部分も見つめないと探せない感情だった。
 あの日からずっと考えていた、あの時の流川の言葉を思い出す。流川が言った『好き』の意味。
 ――流川がそれを恋だと呼ぶのなら。
 それならば、オレの中にあるものだって、きっと。



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