◇ 三月――卒業式前日



 思えば、ひとつのことをこんなにも考え続けたのは自分の人生の中で初めてかもしれない。そう気がつくと、まったく光栄に思えよキツネ、だなんて軽口を言いたいようにも花道は思う。自分の中での結論が出てからは不思議と気持ちはすっきりとした部分は大きかった。いや、これは少しだけ嘘だ。
 戸惑っているし、緊張をしてもいる。言ってしまえば変わることになるであろう関係と、自分の心の奥の方、ヤワなところにあるものを伝えることに怖さもある。
(だけど、それでも)
 約束なんて当然していない。部活の連絡網は貰っていたから自宅の電話番号を知ってはいたが、流川に電話なんて一度もかけたことがない。だから、今日もそこにあいつがいるという保証などなかった。
 だけど確信に近い直感があった。明日の卒業式の準備のために今日は高校の体育館は使えないから、というところもある。だったらきっと、バスケバカのあいつは別の場所で練習をしているんじゃないか。
 花道は先日走った道を今度は明確な意思を持って辿っていく。鉄橋が見える開けた通りに辿り着くと、あの日と同じようにドリブルの音が聞こえた。心の準備はしていたのに、条件反射みたいに心臓が鳴った。
 花道が公園の方に視線を向けると、見間違えるはずもない。流川の姿がそこにあった。
 花道の横を、自転車に乗った中学生らしき二人組が通り過ぎていく。学校帰りなのだろう。時刻は夕方。もうそんな時間かと公園に備え付けられた時計を花道はちらりと見上げた後に、もう一度流川へと視線を戻した。流川は今日もまだ、花道の存在に気付かない。
 花道は小さく息を吐く。そして、その息を吐ききってから、今日は花道は公園の中へと一歩を踏み出した。
 公園の敷地に入って、自分の靴が地面を踏みしめ小さく音を立てる。そうしたら急に、緊張がじわりとぶり返してしまいそうになった。もう覚悟は決めたはずだというのに。だけどそれを悟らせないように、いつものように自信満々の顔をして、花道は流川の方へと歩いて行く。流川の前では、そんな自分で居たかったのだ。
 流川がシュートを放つ。そしてその次の瞬間、視界に入った花道に気付いたようだった。流川の無愛想なあの目が、花道を見つける。それだけで、花道の肌の表面を高揚が駆けた。
 ボールはリングをするりと通り抜けて落ちる。落ちたボールを花道は流川よりも先に拾い上げて、そして頭を起こして流川を見た。
「よお、キツネ」
 花道はそう言ってから、手で一度ボールを回して弄んだ後、勢いをつけてボールを流川に向かって投げた。合図も声かけもなかった花道からのパスを、流川は自然な手つきで両手で受け止める。再びボールを手に持った流川をまっすぐに花道は見据えて、すうと深く息を吸った。
「ワンオンやろーぜ」
 目の前の流川の黒い目がわずかに光ったのを、花道は確かに見る。この男は我儘で生意気なことばかり言うその口よりも、視線の方がずっと素直なのだということを、長い付き合いで花道は知ったのだ。

 本音を言えば、流川と何度も戦った学校の体育館の方が良かったと思う気持ちも無いではない。しかし今日は体育館は使えないし、それに、この男と戦えるのであれば場所なんて関係ない。
 相対して、視線を絡めた時に、花道は改めてそう気付かされるのだった。
 最初は花道のオフェンスからだ。流川からパスされたボールをそのままドリブルで一気に運び、ゴールを目指す。が、当然流川も同じ速度で張り付いてくる。振り切ろうにも、ディフェンスに隙はない。流川は元々、オールラウンドに何でもこなす中でも特にオフェンス面に長けている男だったが、ディフェンスだってこの三年で更に堅いものになっていた。
 角度が少々キツいと自覚はしていたが、可能性に賭けて花道はシュートを打つ。しかしそれは難なく流川にブロックされてしまった。
「あめー」
「ふんっ、天才はこんなもんじゃねー。今のはわざとブロックさせてやったんだ」
「言ってろ」
 そう流川が一蹴する。今度は流川のオフェンスに交代だ。流川は先日この公園でやっていたような鋭いドリブルをみせ、花道を突き放しにかかる。
 しかしスピードでは負けちゃいない。花道もすぐに追いつき、流川のシュートコースを意識して塞ぎに行く。ここまでは自分でも悪くないディフェンスだったと思う。が、次に動いたのは流川の方がほんの一瞬速かった。急に方向を転換した流川が、花道のディフェンスの隙間から飛び出す。その可能性を考えていないわけでは当然無かった。だが、その角度の鋭さと速度、そしてそのままノータイムで安定したシュートフォームに入れる流川の技術の方が花道の対応力をわずかに上回った。
 花道のブロックがギリギリで間に合わず、流川のシュートが決まる。流川がこれ見よがしに花道の方に視線を向けたので、無言で煽られているのが分かった。
「今のは入れさせてやったんだ!」と言ってみせれば、流川はわざとらしく呆れてみせてからボールを拾った。イヤミなやつだ。そう思うのに、こうやって流川と1on1をしている時には、不思議なほど流川に心底からムカつくことはほとんどないのだった。
 再び流川のオフェンスから始まる。ぼーっとしている暇などない。再び花道のディフェンスを振り切ろうとする流川に今度こそ張り付いて、追いかけて、そして隙あらばボールを狙おうとする。しかしこの男のドリブルからボールを奪うのは実際のところ至難の業だった。
 ゴール前で向かい合う。一瞬の膠着。流川がシュートコースを探るように視線をわずかに動かす。これはフェイクだろうか。そして次の瞬間反対方向に動き出した流川の、その動きを読んで花道も同時に動く。
 今度は遅れを取っていない。
 そして放たれたシュートの高さは、花道の射程圏内だ。今度こそ流川のシュートを思い切りブロックしてやり、弾いたボールが地面に落ちる音が二人きりの公園に強く響いた。着地して、流川を見て、花道は今度こそ言ってやる。にまりと口角を上げて、煽るように流川の目をまっすぐに見て。
「天才はこんなもんじゃねーって言ったろ」
 流川の暗い色の瞳が、燃えるような熱のひかりを灯す。
 それからは、どのくらいの時間やっていただろうか。呆れるほどに楽しかった。流川とボールだけに全ての神経を集中させる時間。流川との1on1に、そう感じるようになったのはいつからだったろう。高揚して、そして同じくらいにこの男にまだ自分は届いていないということに気付かされる。それが悔しくてたまらなかった。その感情がバネみたいに、また花道を遠くまで走らせてくれる。
 そうして桜木花道は今、ここにいるのだ。

 最後の一本が決まったのはもう辺りが薄暗くなって、リングの輪郭も見えづらくなった頃だった。
 流川が放ったボールはリングの淵に軽く当たる音を残して、ネットを通って落ちる。これで流川の勝ちが確定だ。花道は思わず「あーっ!」と叫ぶ。悔しさが自分の内側でぱんぱんに膨れ上がって、たまらなくなって花道はコートの上に倒れるように寝転がった。
 花道も何度か流川のシュートを止めることはできたものの、花道が止められた方が圧倒的に多かった。一度ついた点差は一度も流川を追い越すことはできないまま、今日も終了だ。多分、これが流川がアメリカに発つ前の最後の1on1だった。結局この三年間、一度だって流川に勝利することはできなかった。
 ボールを拾った流川が、こちらに近付いてくる足音がする。花道が足音の方に視線を動かすと、流川は片手にボールを持ったまま花道を見下ろしていた。薄暗くて、高低差の距離があるために流川の表情は鮮明には見て取ることができない。ただ、流川が花道をじっと見ていることはよく分かった。視線が突き刺さるように熱いのだ。
 花道はそんな流川を見つめ返して、すう、と息を吸う。そしていつもと変わらぬ台詞を流川に向かって投げつけてやる。
「次はぜってー勝つ」
 いつもは花道のその言葉を意にも介さず無反応ばかりの流川だったが、今日はその言葉にわずかに気配を変えた。だから花道は、そんな流川に向けて言う。
「……らしくもなく不安になってたなんて言わねーよな? キツネ」
 流川は花道の言葉に、何も言わない。二人の間に静かな沈黙が落ちる。どうやら、図星らしかった。やっぱりこいつはアホだと花道は思う。
 あの時、アメリカに発つ前に後悔を残したくないのだと流川は言った。
 まるで『最後』みたいに。
 返事の期限を勝手に決めてきたくせに、すぐには聞き出そうとせず、あれ以来何も言わない。それがどこか流川らしいくせに、流川らしくなくないようにも感じて、花道は内心でずっと妙に思っていた。
 もしかしたら流川も、花道のように『最後』なのだと、何か思うところがあったのかもしれない。
 流川も流川で、どこかで怖いと思う感情があったんだろうか。自分たちが立つ場所がそれぞれに変わってしまうことに。だから繋ぎ止めたいくせに、まるで繋ぎ止めていないと消えてしまうんじゃないかと思っては我儘を言いたいくせに、答えをすぐに聞くのを躊躇う。
 あの流川がそんなわけがない、と何度も思ったが、今花道に対して何も言い返せずにいる流川を見て、花道はその仮説にうっすらと確信を抱き始める。
 まったくこの無愛想で自分勝手なばかりでムカつくヤツだとばかり思っていた男も、存外人間関係に対しては――とりわけ恋愛に関しては、ひどく不器用なところもあるらしい。
 そんなところは、表出の仕方こそ違えど花道にどこか似ているようにも気付かされた。三年間、これまで花道が知ることの無かった流川の一面だった。
「最後じゃねーぞ。させるわけがねー。てめーがアメリカに行こうが、オレが日本にいようが関係あるか。それにこの天才を世界が放っておくわけがねーからな! ……変わらねーよ。てめーがアメリカに行こうが何だろうが、オレは」
 花道は流川に構わず言葉を続ける。
 本当に悔しいのだが、自分はまだ流川を追い越したと言える位置にはいないことは流石に自分でも内心分かっている。流川のプレーヤーとして優れている点は、流川のプレーを見る度、一緒にプレーする度、花道は強く思い知らされた。
 だけど。
「勝ち逃げのまま逃がすわけねーだろ」
 始めた時期が遅かった。だから流川の練習量には追いつけていない。
 それならばもっと練習するまでだ。流川が何百万本もシュートを打ってあの技術を身につけたのならば、自分は何千万本でも打てばいい。
「オレはもっと強くなるぜ。日本一になって、そんでアメリカに行く。あっという間にてめーなんか追い越してやる。せいぜいびびって待ってろ」
 流川の姿の向こうには、夜に変わり始めた空。太陽が傾き暗くなった空のてっぺんから、うっすらと星が煌めき始めている。それを寝転がったまま花道はじっと見上げていた。
 星は夜を迎えて初めて目に見える。だけど、見えなくてもその星は昼間だってずっとそこにあったはずだ。
 すぐそばに見えなくなっても変わりやしない。
 それはたとえ、――地球の反対側だって、十何時間離れた時計を刻んでいたって。

 中学三年の時に、花道は父親を亡くした。元々仕事で忙しく家に居る時間の少ない父親だったが、働き過ぎて気付かないうちに体を悪くしていたらしい。母親も花道が幼い頃に他界していたから、母親ももう居なかった。
 まだギリギリ中学生だったということもあって、遠くに住む親戚の世話になるか、高校を出るまでは児童養護施設で暮らすのがいいんじゃないかと葬式で大人たちに言われたが、花道は必死に抵抗した。どうせどっちに行ったって厄介者扱いされるのだろうということは大人たちの会話や雰囲気から花道自身嫌というほど感じていて、そんなところに行くのは御免だった。それにどちらを選ぶにせよ、ここからは遠い場所になってしまうのは確実だった。洋平たちと学校が離れるのだけは絶対に嫌だった。残りの中学生活も、一緒に行こうと約束した高校も。
 最終的にはアパートの大家さんや洋平たちの親御さんも巻き込んで、親戚からは多少の金銭的な援助と名ばかりの保護者としての名前だけを借りるというところに落ち着き、花道自身は高校卒業までは幼少期から住んできたこのぼろアパートでひとりで暮らすということを許された。
 そうして無事に中学を卒業し、通い始めたのが湘北高校だった。
 高校を出たら、工場なのかドカタなのか、まあ適当なところに就職するのだろうと漠然と思っていた。大学に行くという選択肢なんて、まして海外を目指すなんて、まったく想像もできなかったのだ。
 あの日体育館でバスケットボールを手にするまでは。そして――流川楓という男に会うまでは。

 花道は「よ」と勢いをつけて、跳ねるように立ち上がる。地面を踏みしめてまっすぐに立てば、流川とほぼ同じ目線の高さになる。距離が近付いた分、薄暗い中でも流川の顔がよく見えるようになった。
 二人の間に風が吹く。花道の頬を撫で、流川の前髪を揺らすその風は、もう冷たくない。
 もう季節は春になるのだ。
 流川が花道を見つめている。花道も見つめ返した。今は、すぐ目の前に流川がいる。当たり前だったそのことが、今はそれだけで不思議なほどに花道を嬉しい気持ちにさせた。
 息を吸って、言うぞ、と思ってしまえば急に緊張がぶり返してしまいそうになった。それをどうにか押さえ込んで、顔にも声にも出さないようにする。気丈でいたかった。今はまだ、流川の前でずっと見せてきた、桜木花道のままで。
「――告白の返事だ」
 長い睫毛に縁取られた流川の目が、僅かに見開かれる。
「てめーの視線の先にいるのはオレがいい。他のやつと楽しそうに喋ってんのは……そもそも想像できねえーな。ああ、でももしかわいい女の子と喋ってたらムカつくかも」
 言ってから、これはどっちとも取れるかもしれないと思って「どういう意味かは、こう、ブンミャクで分かれよ」と花道はそっと付け足す。
「で。……てめーがオレのもんになるなら、それは気分がいいなと思った」
 流川は珍しく、驚いたような、呆けたような顔をしていた。普段はすかした顔で表情の変化をあまり見せないこの男のそんな表情を笑ってやりたくなったが、花道にもそんな余裕は正直に言ってなかった。ここで止まったら、考えてきたこと、準備してきたこと、全部言い切る勇気がなくなってしまいそうだったからだ。
 あの告白に、すぐに返事ができなかったこと。嫌じゃなかったこと。拒もうとはどうにも思えなかったこと。いやむしろ、あの時オレが感じたのは。
 考えて考えて、最後に残った自分の直感。予防線も言い訳も全部無視して、感情の鍵を外して、その一番奥で見つけた結論。
流川ルカワ。それが『好き』なら、オレも同じだ」
 ここに来る前に用意してきた言葉を、花道は流川に向けて渡す。言い切って、花道はようやく息を吐いた。流川は驚いたような顔のままじっと花道を見つめていたが、何も言いやしない。しんと静寂が落ちるとじわじわと花道がいたたまれなくなってくる。押し込めた心臓の鼓動が段々と戻ってくる。
 てめーが明日までに返事しろって言ったんだろ、何か言え、と花道が思い始めたところに、流川が動いた。
 そう思った次の瞬間には、花道は流川の腕の中にいた。想像もしていなかった流川の突然の行動に、初めて感じる流川の体温に、その腕の力の強さに花道は一瞬油断した。そのせいだ。
 力加減もなくぶつかるように流川に抱きすくめられ、花道はぐらりとバランスを崩す。危ない、と思った時にはもう遅く、二人してコートに倒れこむように尻もちをついてしまった。
「な、っ、おま……あぶねー!」
 言いたいことは山ほどあるのだが、まず口から飛び出したのはそんな言葉だった。花道の文句を、流川は「うるせー」と一蹴する。しかしそんなやりとりをしている間も、流川の腕の力は緩むことがなかった。
 急になんなんだ、力加減くらいしろあぶねーだろ、っつーかここ外だし、誰か人に見られたら。そういくらでも文句を言ってやりたいのに、薄暗がりの中で見た流川の耳が赤く染まっていることに気が付いてしまい、何も言えなくなってしまう。
 こんな突然の行動も、耳を赤くしているさまも、普段の流川からは全く想像もできなくて花道は動揺していた。
 だけど流川自身も、自分の行動に動揺しているのかもしれない。そう気付いたのは、こちらを抱きすくめる流川が、力加減は下手くそなくせに花道のシャツを掴むその手がいやに不器用で必死だったから。
 この男は、一週間後には遠い海の向こうだ。別にもう二度と会えないなんてわけじゃない。だけど、今はこんなに近くに居るのに。今すぐに触れられる距離に居るのに。
 そう思ったら、こちらからもこの男に触れたくなった。
 花道は地面についていた自分の手をゆっくりと持ち上げて、流川のシャツに触れた。練習用の薄いシャツは、手で触れればその下にある体温も、体のかたちもよく分かる。
 流川がそれに何を思ったのかは分からない。だが流川は何かを言うではなく、花道の肩に頭を埋めるように擦りつけた。その仕草はまるで、随分と大きな猫みたいだった。腕の中の流川の体温は、花道のものより少し低いように思って、しかし確かに血の通ったひとりの人間の、ただの同い年の男の体温だった。そんなことも、自分はずっと知らなかった。
 高校三年間。決して短くない。
 自分の人生にとっては随分と濃厚で長い時間を、ほとんど毎日一緒に居たはずなのに。バスケットボールプレーヤーではないただの流川楓という男をこんなに近くで見たのは、その輪郭に触れたのは、今夜が初めてだったように花道には思えた。

 そのままどのくらいの時間が経っただろうか。沈みかけていた太陽はもうほとんど落ちてしまって、辺りはさらに夜の気配を纏いはじめていた。
 いつまでこうしているつもりなのだろうか。そろそろ帰らないのか。そう花道は頭の隅で思うのに、どうにも帰り難くて言い出せない。もう少しこの男に触れていたい、なんてことを思ってしまう。もし今知り合いがこの近くを通ったとしたら絶対ヤバいのに、この回した腕を離したくない。離れたくない。あともう少しだけ――。流川がひどくらしくないことをするから、花道にもそれが伝染してしまったのかもしれない。
 花道が手のひらで流川の背中を軽く撫でる。そうしたら流川はぴくりと、密着しているからようやく分かる程度に小さく身じろぎをした。やっぱり流川は少し猫に似ている、気がする。キツネのくせに。おめー本当はキツネじゃなくて猫だったんか。そんなバカらしいことをちらりと思う。
 花道は流川の背中に回していた腕を解いて、流川の頬を掴んで顔だけ引き剥がした。久々に見たような気分になった流川の顔、その額に花道は自分の額をこつんと軽くぶつける。
 流川はもう少し情けない顔をしているかと思ったが、存外表情はあまり変わっていなくてそれが残念だった。だけど、纏う雰囲気はいつもとは少し違う。
 流川が至近距離で花道を見つめる。それに負けじと花道も流川を見つめ返した。そして花道は口を開く。
「なあ。……、うち来るか?」
 この男のヘタクソな言葉より、行動よりも、ずっと雄弁なその瞳の奧に花道は問いかける。その言葉を受け取った流川の瞳がわずかに揺れたさまを、花道は遮るものもなにもない、誰よりずっと近い距離から見つめていた。
 流川は花道の中に何かを刻みつけたかったのかもしれないと今更に思う。あの告白を、自分の中の感情を示してぶつけることで、花道の中に流川という男を刻みつけたかったのかもしれない。
 どうなるにせよ、その記憶は残る。苦かったとしても、なんにしても、ただのチームメイトだった以上の何かが。その気持ちが今、桜木にも少しだけ分かったような気がした。
 しかしコイツは甘い、と花道は同時に思うのだ。
 そんなもん、意味がない。だってもうとっくに花道の中に流川という男は、どうしたって不可分なものとして存在しているからだ。



 アパートに帰って部屋のドアを閉めるなり、ぐいと腕を引かれてすぐに流川が唇を重ねてきた。
「ッ、ん」
 不意打ちだったので、反応が遅れた。まだ部屋の電気すらつけていないのに。
 狭い玄関だ。流川がぐっと力を入れてくるとすぐに花道は壁の方に追いやられ、壁際に押しつけられるような体勢になってしまった。いや、するなら言えよ。今度は頭ぶつけそうになっただろ! っつーか、これ、オレにとっては一応ファーストキスだぞ? 頭の中でもう一人の自分がそんな文句をつけるのに、触れた唇の熱に、感触に、気持ちよさにそんな思考はすぐに押し流されてしまいそうになる。初めて人と――流川と重ねる唇は気持ちがよかった。
 息の仕方も分からない。悔しいことに心臓もバクバクで、流川には伝わるなと思う。しかしもうほとんど密着してしまっているから、絶対に伝わっているだろうとも思っていた。
 呼吸が苦しいのは、唇が塞がれているせいなのか、それとも気持ちにまったく余裕が無いせいなのか判断がつかない。いい加減呼吸の苦しさも限界に近付いて、花道は流川の肩を叩いて訴える。それが伝わったのか、それとも流川の方も限界だったのかは分からないが、そこでようやく唇が離れた。
 花道は足りなかった酸素を補うように勢いよく息を吸う。そしてすぐ目の前からも流川の乱れた呼吸の音が聞こえた。
 最近では流川も体力がついて、全国の強豪相手ならともかく並の試合ではバテるということも少なくなっていたから、流川がこんな風に分かりやすく息を切らしているのを見るのは珍しいものになっていた。だからこそ、自分も言えたことではないのだがキスのひとつで流川もこれほど息を切らすのか、ということを酸欠で少しぼんやりとした頭で思った。
 流川が手を動かしたかと思えば、花道の横にあった電気のスイッチを入れる。ぱっと玄関に明かりがついて、その眩しさに花道は反射的に一瞬目を細めた。そして暗くてよく見えなかった流川の表情も、鮮明に見えるようになる。
 だから、いつもは無表情ばかりの流川の顔がはっきりと上気しているさまを至近距離で見てしまって、そのことに花道は強く動揺した。そして同時に、流川の顔が見えているということはこちらの顔だって見られているということだと気付く。鏡を見なくたってもう、分かってしまっているのだ。自分の頬が燃えるみたいに熱を持っていることくらい。
 顔を隠したかった。だけど今更隠れられる場所もない。せめて自分の腕で隠そうかと思って腕を上げかけたが、その手首を流川に捕らえられ壁に押しつけられる。そうしてまた流川の顔がぐっと近付いてくるのがまるでスローモーションのように見えた。花道は思わずぎゅっと目を瞑る。また柔らかいものが唇に触れるのを待って、そして――
 ゴチン、と音がしそうな衝撃が走る。いや、少ししたかもしれない。鈍い痛さの一瞬後に、歯がぶつかったのだと知れる。反射的に目を開けると、目の前の流川も驚いた表情をしながら口元を押さえていた。いや、オマエ、そんなベタなことを。
「ヘタクソ!」
 花道が思わずそう言うと、流川はむっと不機嫌そうな顔をした。
「……てめーも人のこと言えんのかよ」
 その表情はいつもの生意気なそれとほとんど同じなのに、どこかムキになった子どものような雰囲気もあった。もしかしたら、こいつも初めてなのかもしれないと花道は気付く。そうだ、考えてみればこいつは子どもの頃からずっとバスケだけをやってきたバスケバカだ。恋愛なんてしてきたことがないに違いない。
 そう思えば花道は何だか急に愉快な気分になってくる。自分だって片思いは何十回とあれど誰かと付き合ったことなどなくて、経験値はほとんどないのだが、そんな自分を花道はすぐに棚に上げた。花道はまだ熱を持った顔のままにまりと口角を上げて、流川に言ってやる。
「何だよてめー、この天才を掴まえてそんな、……~~ッ」
 しかし言葉の途中で再び流川に唇を奪われてしまったから、最後まで言うことは叶わなかった。さっきのリベンジのつもりなのだろう。ムキになってんじゃねーよと言いたくなったが、今度は歯も当たらず、そしてすぐにぬるりとしたものが唇の間をなぞってきたからそんな言葉は花道の頭の中から吹っ飛んでいってしまった。驚いて、よく理解しないまま条件反射のように花道が唇を薄く開けばその隙間から流川の舌がねじ込まれた。流川の舌が花道の舌に触れて、舐めるように絡ませられる。初めて知るその感触に、ぞくりとしたものが花道の背中を駆けていった。
 ディープキスだ、と理解が追いついたときにはもう流川の舌が花道の口の中を探るように動いていく。その動きのひとつひとつにぞくぞくして、興奮して、気持ちよくて、初めての感覚への混乱と共に気を抜けば溺れてしまいそうになる。
 このまま身を任せてしまいたいような思いがうっすらと芽生えそうになってそんな自分に驚く。しかし今は、この男にばかりされるがままになるのは悔しいという思いが勝った。それに花道だって、自分からも、流川にもっと触れたかった。
 どうすればいいのか分からずに彷徨ったままだった手のひらで流川の後頭部に触れる。そしてこちらから引き寄せるようにして口付けを深くしてやった。指先に流川の襟足の少しざらりとした感触がする。
 花道の行動に流川が驚いたような気配がして、それに花道は気分がよくなって、こちらからも舌を絡ませた。そうしたら負けじと流川の方も擦りつけるみたいに舌で花道の舌に触れてくる。口元から溢れてしまいそうな唾液は、もうどちらのものかなんて分からなくなる。
 貪欲に、互いを食らうようなキスだった。経験なんてないのだから、綺麗なやり方なんて知らなかった。だから自分の内側で強くうねる感情と衝動に身を任せた。
 また息が苦しくなった頃に、ようやく唇同士が離れる。互いの間を透明な唾液の糸が細く伝って、その先には普段より赤い色に染まって濡れた流川の唇があった。唇だけじゃなくて、顔だって赤い。その鋭い目は、明らかに欲を灯した色で花道をまっすぐ見つめていた。
 告白の時よりも、もっとずっと強く、明け透けな視線。そんな流川の姿を見て、心臓が強く音を立てた。指先まで痺れるみたいな、そんな感覚が花道の体の内側を駆ける。
 この男は自分のものなのだということを、今この瞬間、なにより強く実感させられたのだ。
 そう思った瞬間、高揚した。優越感を抱いた。嬉しい、という言葉ひとつでは言い表しきれない、もっと自分の深いところに絡みついている感情が、揺さぶられて騒ぎ出す。それは想像よりもずっと甘美で、そして想像よりもずっと自分はこの男にとっくに溺れていたのだということを知る。
 荒い呼吸の音が二人分。少しだけ落ち着いてきた頃に、ここはまだ玄関だったということを花道はようやく思い出す。まだ靴すらも脱いでいない。それだけ互いにがっついていたのだということに気付かされて、花道はさらに頬に熱が集まるのを自覚した。いや、頬だけじゃない。触れていたのは唇だったというのに、もう花道の全身はすっかり熱くなってしまっていた。
 だけど。
 ――だけど、まだ。
「……いつまで玄関にいるつもりだっての」
 花道はわざとらしく呆れたような声でそう言ってやる。呆れているのは流川にもそうだし、自分自身に対してもだ。そう言われた流川も多少の羞恥心は持ち合わせていたらしく、む、と少しだけ気まずそうに唇を尖らせた。だけど、互いにその場から動かない。次に動くきっかけを多分、互いに探している。
 さっきの流川の表情を、視線を見て、流川が何を望んでいるのかは花道はもう気付いていた。曲がりなりにも、自分も同じ男だ。というか、流川の視線が分かりやすすぎるような気もする。この男は隠すとか加減するとかいうことをどうやら知らないらしいから。
 だけどかくいう自分だって、同じものを望んでいた。
 体が熱を持っている。もっと、もっとこの男に触れてみたかった。知りたかった。
 まだ離れたくなかった。
 花道は流川の目を見る。それを言った先に何があるかなんて、想像できないほど自分はもう子どもではなかった。喉が急に乾いたように思ったのは、緊張からか、それとも飢えに似た気持ちからだったのか。どちらにせよ、ここで怖じ気づいて止まることは花道も選びたくはなかった。
 花道は、くん、と小さく流川のシャツの裾を引いた。ちらりと居室の方に視線を向けて、流川に示してみせてから花道は流川に言ってやった。
「中、……入れよ」

 言ってはみたものの、互いに準備も知識もない。だから最後までちゃんとできるはずもなかった。ただこの熱を離し難いと、互いにもっと触れたいという思いだけがあった。
 豆電球だけをつけた薄暗い部屋の中で、生まれたままの姿になってその肌に触れて、互いの体のかたちを知って。そして互いの熱を慰め合って。バカの一つ覚えみたいに手や唇で敏感なところもそうでないところもひたすらに触り合った。ただそれだけのことしかできなかった。
 だというのに、それでもこんなに満たされた思いになるなんて笑えてしまう。しかも、相手は流川だ。だけどもう止めようなんて、花道はひとつも思えやしなかった。
 セックスとは呼べないくらいの拙い触れ合いでも、確かにこの夜自分たちの間の何かは変わった。何もなかったなんてもう絶対言えないくらいに。
 それに花道は満足していた。いや、嘘だ。全部に満足したわけじゃない。だけど、それでも、心の内側がひたひたになって何かが零れそうに思うほど満たされたと思えるくらいには。
 最後の方はこちらにのし掛かって肌にしきりに触れてくる流川の表情には珍しいほど余裕がなくて、あーこいつも本当に、全然こーいうこと慣れてないんだろうなと花道は改めて気付かされる。そうしたらいやにこの男をかわいいように思ってしまって、しつこくまさぐる手を許したくなってしまった。
 流川という男をかわいいと思ったことなんて、花道にとって、正真正銘初めてのことだった。



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