◇ 三月――卒業式



 一夜が明けて、カーテンの隙間から覗く朝日は眩しかった。ひとりきりのいつもの部屋、薄い布団の上で花道は騒々しい目覚まし時計の音で目覚める。目覚ましを止めて起き上がると、普段と何も変わらない部屋の中だったから、昨夜あったことは全部自分の幻だったんじゃないかと一瞬思う。
 だけど確かにあったはずだった。あの夜の、生々しいほどの流川の肌の温度も、触れてくる手のひらの感触も、唇の柔さも、密着したせいでどちらのものか分からないくらいの心臓の音も。
 花道は全部鮮明すぎるほどに覚えていた。そして思い出してしまえばまたかっと顔が熱くなってしまって、自分が墓穴を掘ったことに気付く。
「あ~……、顔洗お!」
 昨夜の余韻を振り切ろうと花道は勢いをつけて立ち上がる。冷たい水で顔を洗えば、この顔の熱も少しは引くかもしれない。
 今日は高校の卒業式なのだ。赤い顔のまま登校するわけにはいかなかった。
 あの後流川はここに泊まらずに自分の家に帰っていった。それはそうだ。流川には家で待っている家族がいるし、それに翌日は卒業式だからうちに泊まっていたら制服を取りにもう一回家に戻らなければいけない。そんなことをしていたら、寝汚いあの男のことだ、うっかり寝坊して遅刻しかねない。
 だからひとしきりのことを終えたあと、流川を玄関先で見送って花道はいつものように一人で眠った。その時に敷いていた布団のシーツは互いの汗やらなにやらで汚れてしまったから、寝る前に一人で予備のシーツに替えるという作業が発生してしまって、その時の居たたまれなさといったらなかったのだが。
 昨日の自分はどうかしていた。
 そう思うのに、なにひとつ後悔なんてしていないことがそれ以上にどうかしている。

 久しぶりの学ランに袖を通して家を出た。朝はまだ少しだけ肌寒いが、日差しは春めいてあたたかい。今日も見事なまでの快晴で、卒業式日和だなと花道は思った。
 そしてアパートの門の方に視線を向ける、と――門の外側から黒髪の男の頭が飛び出しているのを見つけて、花道は思わず「は?」と声を上げてしまった。それは見覚えのありすぎる、なんなら昨夜もここにいたはずの男の姿だったからだ。
 花道の声に、男が振り向く。花道は大股で歩いて、その男の方へ急いで向かった。
「流川、……っ、てめーなんで」
 勿論、昨日約束なんてしていない。来るなんて話も聞いていない。だから一瞬幻覚でも見えたのかとすら思ってしまった。しかし目の前にいる流川はどうやら現実のものらしい。いけ好かない顔はすっかりいつも通りだ。昨夜の可愛げはどうした。
 もしかしたら昨日家に忘れ物でもしたのだろうか、とまず思った。しかし、昨日の流川はカバンひとつしか持っていなかったはずだし中身を家で広げたわけでもない。自分の家に見慣れないものがあれば花道だって気付くはずだ。
 だから疑問に思って花道が聞くと、流川は凭れていた門から背中を浮かせる。そして花道の方をまっすぐ見て、流川は口を開いた。
「……最後だろ」
 あんまり言葉が足りないから、花道は一瞬流川の言葉の意味をうまく掴みかねた。そして少し遅れて、『高校最後の登校だろ』という意味であろうこと、だから『一緒に登校しようと思った』という理由で朝から花道の家に来たのだろうということに思い至る。そこまで思って、花道は流川が今日は自転車に乗っていないことにようやく気が付いた。流川はいつも、学校まで自転車で登校していたはずだ。
 だから、本当に花道と登校するためにわざわざ徒歩で、家まで来たのだろう。
(こいつ、……)
 来るなら言えよ、とか。オレがいつ家出るとか時間知らねーだろ入れ違いになったらどうするつもりだったんだ、とか、どのくらいここで待ってたんだとか、そもそも言葉が全然足りねえそれで分かると思うなとか。そういうことが色々と花道の頭の中を巡っていったのだが、それ以上に流川の中にもそういう情緒みたいなものがあったのかということにものすごく、驚かされてしまった。
 だけどそれに気付いてしまえば、花道も弱かった。
「……しょーがねーな」
 息を吐きながら、花道は流川に向かってそう言ってやる。花道が歩き始めると、流川も当たり前みたいに隣を歩く。近すぎず、でも遠すぎない距離を保って、春の気配をたっぷり纏った穏やかな朝日に照らされながら二人で同じ歩幅で歩き始める。
 昨日の今日、というところもあった。やっぱり自分は昨日の余韻をまだ引き摺ってしまっているのかもしれない。
 可愛げなんてまったくないと思っていたこの男のことが、どうしようもなく、かわいい男のように思えてしまうなんて。

 歩き始めてから少しの間、特に流川との間に会話らしい会話はなかった。まだ昨日自分たちの間に起きたことに対する今更の照れも、正直ある。そもそも流川と喧嘩をしたことは数え切れないほどあれど、雑談なんてした記憶は随分と薄かった。いや、したことがないわけではないと思うのだが、どうせその場限りのくだらないことばかりだったのだろう。だから、今更に流川と何を話せばいいのか花道はすぐに思いつくことができないでいた。
 それでも、この沈黙は嫌ではなかった。
 道の脇、通り過ぎた古そうな家の庭の木に桃色の花が咲いているのを見つける。まだ桜には少しだけ早いから、梅の花だろうか。そんなことを頭の隅で思いながら花道は歩く。晴れ渡った青い空に伸びた枝の先、ささやかな桃色のコントラストをきれいだなと思った。
 そういえば、と花道は不意に思い出す。聞いていたようで、まだちゃんとは聞いていなかった。
「おい、キツネ」
 花道が呼ぶと、流川は「ん」と返事をして花道の方に視線だけ向ける。
「飛行機、何日の何時だよ」
 そう聞けば、流川は少し考えるような表情をした。どうやら頑張って思い出しているらしい。
「来週、水曜の……朝十時とか。成田」
 流川の答えに、花道は一瞬考える。成田空港って、ここからどのくらいかかるんだっけ。行ったことがないから花道に正確なことは分からなかったが、ここから千葉となるとそれなりに時間がかかるはずだ。それに飛行機に乗るにはいろいろ手続きに時間がかかるから随分早く行かないといけないと聞いたことがある、気がする。それで十時発の飛行機となると、何時に家を出る計算になるのだろうか。
「成田って……遠いよな? けっこー朝早いんじゃねーの、てめー起きれんのかよ」
 花道が言うと、流川は不服そうに唇を尖らせた。
「流石にそれは起きる」
「へいへい、頑張れよ。寝坊して飛行機逃したとかシャレになんねーかんな」
 一年の頃、部活に入部した時に趣味は寝ることだと言ってのけた男だ。一度寝るとなかなか起きやしないということは花道も知っていた。まあ、バスケに関することであればちゃんと起きて、花道に負けず劣らず早い時間から練習をしていることも知っている。だからなんだかんだ言っても大丈夫、……だろう。多分。
 視線を流川から正面に戻して、そしてゆっくりと息を吸う。少しつめたくて、でもあたたかい、そんな春の空気が花道の肺を満たしていく。
「……起きれたら、見送り行くわ」
 正面を向いたまま花道が言うと、隣から再び流川の視線が向くのが分かった。あえて花道はそちらを見ない。こんなことを言う自分が、少しだけ気恥ずかしかったからだ。
 ここから成田って、どう乗り継げば行けるのだろう。朝は何時に出ればいいんだ。今の時点で花道には分からないばかりだけれど、そうしたいと思ってしまったから花道は言った。少しの間流川は花道を見ていた後、花道と同じように視線を正面に戻してから返す。
「……おう」
 その返事が流川とは思えないくらいに素直な声だったから、こちらもどうもふざけたり茶化したりすることもできない。そのまま二人、また話題がなくなって会話もなく歩く。
 この通学路を歩くのも今日で最後か、と思うと不思議な感じだった。
 そう思ったときに、花道は今更に気付く。
(あ、これって、――好きなコと登校、ってやつなんじゃねーの)
 それは花道が昔からずっと抱いてきた、ささやかな夢だった。
 好きなコと一緒に登下校したい、という夢。中学の時には叶わず、高校に入学して赤木晴子に出会ってからは、花道がずっと夢想してきたのは彼女と一緒に登下校をする景色だった。
 まったく、最後の最後に叶うなんて。しかも相手がハルコさんでもなければ、花道の好みの淑やかで華奢で可愛い、守ってあげたくなるような子じゃない。そもそも女の子ですらない。隣を歩くのはデカくて、自分勝手で、愛想のひとつもない流川だ。叶った景色がこんなふうだなんて、花道は全く想像もできなかった。高校入学当初の自分が見れば、ありえないと鳥肌を立てて怒るだろう。
 だというのに、そんな今を悪くないと思ってしまう自分がおかしい。どうやら自分は、想像以上に、この男を好いてしまっているらしかった。
 赤信号で立ち止まる。二人並んで信号待ちをしていると、不意に手の甲に何かが触れた。そしてそれは次に、花道の指にそっと絡む。流川の指だった。驚いてその手の方を見下ろした後に流川の方へ顔を向ければ、流川は正面を見たままだった。しかし流川も視線だけ動かして、花道の方を見る。絡んだ指がぎこちなく動いて、花道の手をそっと握る。流川の体温が、繋いだ手からじわりと花道の手に伝わっていく。
 今はまだ、すぐそばにいるのだということを、その温度で実感する。
(やっぱり、ヘタクソかよ)
 花道はそう思って、つい笑いそうになってしまう。流川が手を繋いでくるなんて、という驚きと動揺と照れもあったが、それ以上になんだか、やっぱりこういうことになると急に不器用でヘタクソな流川の仕草へのおかしさが勝ってしまった。
 そして同時に、じわりと心の中にあたたかいものが広がる。それは多分、おそらく、愛おしさとかそういう類の感情だ。
 信号が青になる。繋いだ手は離されない。だから、花道からも離さなかった。離したいと思わなかったからだ。
 だけどもう少し歩けば大通りに出るから、そうしたら同じ学校の生徒も増えてくるだろう。知り合いにも会うだろうし、こっちが知らなくても向こうが知っているということもありうる。なんたって今や湘北バスケ部はすっかり校内でも有名となり、その中でも一年の頃から何かと目立ち三年ではバスケ部全国制覇を成し遂げた元キャプテンの流川、そして湘北バスケ部名物のようになった赤頭のリバウンド王・元副キャプテンの天才桜木――この二人のことを知らない生徒は少ないと言っていいほどであった。
 今日で最後とはいえ、流川と花道が仲良く手を繋いで登校していたなんて、誰かに見られたら速攻で校内中に広まるだろうと花道でも簡単に想像ができる。それはまだ、結構、だいぶ恥ずかしい。ちょっとまだ他のやつには知られたくない。自分でも見つけたばかりのこの感情を、流川以外の誰かに知られるのは、せめてもう少しだけ先でいたかった。
 今はまだ、周囲に同じ学校の制服は見かけない。だから。
「……、次の信号まで」
 花道は、流川にだけ聞こえるくらいの声で言う。主語も何もない言葉だったが、それで流川には伝わったようだった。
「ん」
 流川はやっぱり、こんな時ばかり馬鹿正直に頷いてみせた。シンプルな返事の後に、繋いだ手に少しだけ力が込められた。花道と同じくらい大きな手。バスケットボールばかりを掴んできたその手が、今は花道の手を握っている。
 そのことに花道は嬉しい気持ちになって、だから、花道の方からもぎゅっと力を込めて握り返してやることにしたのだった。



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